第一回 あえて和泉元彌を弁護する(ダイジェスト版)
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 第一回 あえて和泉元彌を弁護する(ダイジェスト版)

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 はじめに

 一連の和泉元彌をめぐる騒動に関しては、和泉元彌側に問題がないわけではないが、そちらに関しては言い尽くされているので、ここで述べるつもりはない。

 むしろマスコミの側にこそ、より大きな問題があるという立場から書いていくことにする。

 そもそも今回の騒動は、距離をおいて報道すべき立場のマスコミが、マスコミが本来とるべき姿勢をとっていれば、これほどの騒ぎにはなっていなかった問題である。

  

 騒動には大きく分けて和泉家宗家襲名騒動と、Wブッキング・遅刻騒動という二つの問題がある。

 

 T.和泉流宗家襲名騒動について

 

 和泉流宗家襲名騒動については、内々の話であり、マスコミが、大々的に報道すべき事柄ではない。

  

  

 マスコミは安易に結論を出してしまった

 今回の宗家襲名騒動は、和泉流流派内の、考え方を異にする二つのグループの勢力争いに過ぎない。

 もっとはっきり言えば、野村万蔵家グループによる和泉流宗家乗っ取りのためのクーデターと私は見ている。。

 本家なのに、分家が師匠筋である三宅家を継ぎ、更に上の和泉流宗家を継いだ、そのことが気に入らないというだけの話なのだろうと思っている。

 その野村万蔵家の長男である七世万蔵改め初世・野村萬と、次男である万作も大変仲が悪いというから、仲が悪いのも伝統なのであろう。

 除名申請をして、和泉元彌の狂言者としての生命を奪おうとする職分会とマスコミの動きに、能楽協会と宗家会は惑わされてはならない。

  

  

 マスコミは冷静な報道をするべきであった

 職分会は、和泉家が職分会の同意なしに、勝手に襲名することは狂言の世界の伝統に反する行為と言っているようだが、その職分会が、元秀が亡くなってから結成されたということは、それまで宗家の相続に関して職分会の関与はなかったということの何よりの証明ではないのか。

 宗家の相続には、職分会の賛成が従来から必要であったという、いかにも尤もらしい職分会の言い分も、実は宗家が死んでから作成した泥縄式の極めて怪しいものと考えざるを得ない。

 このように、どちらが正しいか、そう簡単には決められる問題ではなかった筈なのに、和泉家側が悪いという結論を安易に出した根拠はどこにあるのだろうか。

  

  

 マスコミはどちらにも与しない冷静な報道をするべきであった。

 民主主義の原則は、多数決であるが、発明、発見など、新しい価値観は、常に少数派から生まれたが故に、少数派の意見を尊重する寛容さと余裕が、多数派に求められている。

 その原則を忘れ、少数派を叩き潰そうとする多数派の動きを、冷静に報道し、牽制することにこそ、言論マスコミとしての存在意義があるのに、多数派よりの判断を安易にしてしまったマスコミの責任は重い。

 検察庁でもなければ、裁判所でもなく、何の権限も与えられていないマスコミが、責任のもちようのない勝手な判断(判決)を下してしまうことは、とても危険であり、許されないことである。

  

  

 利害関係者の発言を安易に信じたマスコミ

 今回に限らず、家庭の中もしくは法廷で決着すべき事柄をリークして相手より有利な立場に立とうという意図を持つ人たちに、マスコミは利用されたり一方に与したりするべきではない。

 特に、利害関係のある反対派の発言には相手方を貶めるという隠された意図や裏がよくあるので、十分に注意し幾分差し引いて聞く必要があるのに、不用意に信じるケースが最近多すぎる。

 ただ売らんがため、視聴率を上げるために、興味本位の報道をしているとしか見えないマスコミには猛省を促したい。

  

  

 宗家にふさわしい芸の持ち主などいない

 報道を見ていると、和泉元彌には宗家にふさわしい芸がないから資格がないのだという一見尤もらしい話が出ているが、それは芸を技術論的にしか見ていない、一つの見方に過ぎない。

 もし本当に職分会が、芸云々を言うのなら、家柄や血とは関係なく一般の人がオープンで公平なチャンスが与えられる実力本位の世界になることを覚悟すべきである。

 自分も、和泉元彌と同様、古典芸能という閉ざされた世界に守られ、家や血の恩恵を蒙りながら、宗家という自分より家の家格が高いと思われている和泉家を妬んだり、元彌より芸があるなどと嘯くのはナンセンスである。

  

  

 芸はなくともスターになれる

 和泉元彌は、間違いなくスターであり、スターは、芸など必要とされないのが芸能の世界である。

 スターに芸を要求するより、自分がスターになればいいのである。

 宗家とは、看板であり、イメージであり、シンボルでもある、一番のスターのことを指しており、流派の中で最も技量のある人間を意味しない。

 しかし、いくら宗家や家元以上の実力持とうと、観客は、無名の彼らを認めはしないし、支持しない、それが現実である。

 成績が良くても学級委員に選ばれないように、実力があっても、それだけではスターにはなれない。

 求められているものが違うのであり、それが人気商売である芸能の世界である。

 しかし、その部分を否定することは自分が生きている世界をも否定することになるのに、職分会の人たちは、どうしてそのことに気がつかないのだろう。

  

  

 芸が未熟でも宗家や家元になれる

 芸が未熟であることを理由に、和泉元彌が和泉流宗家を継ぐことを否定すれば、古典芸能の世界の根本を否定することになり、他の宗家にとっても困ったことになっていくことは間違いない。

 第一、先の宗家である和泉元秀自身が、6歳の時に山脇和泉家を継いだという事実は、和泉流の人々が、宗家にふさわしい芸などなくても宗家が継げることを認めていたか、もしくはそのことに口出しする権利すら与えられていなかったのどちらかであったことを示している。

 どちらにしても、今回の職分会の動きこそ、古典芸能の伝統を、踏みにじり、否定する行為といえる。

 和泉流の職分会の動きを認めることは、いずれ観世流、宝生流、金剛流、金春流、喜多流、大蔵流にも同じことが起きることを意味する。

 宗家の襲名にあたって、職分会の関与は認めない、という決定をしない限り、古典芸能の世界に現代の労働組合の考え方が入り込み、古典芸能の世界は滅びの道をたどることは確実である。

  

  

 血筋や人気が芸よりも優先するのが古典芸能

 古典芸能の世界の宗家に必要なのは、観客に幻想を抱かせるカリスマ性であり、血筋であり、家系であり、それらを土台にして芸を磨くのであって、芸が初めにあるわけではない。

 芸は、努力をすれば、後からついてくるものである。

 しかし、カリスマ性は生まれながらに持っているものであり、それはギフト、即ち神からの贈り物であるので、努力して手に入るものではないのである。

 古典芸能の世界で、血筋に関係なくカリスマ性を持ちえたのは、現代において、坂東玉三郎唯一人である。

 しかし、こんなことは我々が存命中には、もう二度とない奇蹟であろうことがわからない人間には、坂東玉三郎の偉大さも永遠にわからないのである。

 そんなマスコミに乗せられ、元彌批判をすることは、自分で自分の首を締めるようなものだということに、能楽協会、宗家界の人たちは、早く気がついて欲しいものである。

  

  

 芸は襲名の後についてくるもの

 芸がないから名や家を継げないとするなら、誰も継げないし、襲名など出来なくなる。

 むしろ逆で、襲名してから力がついてくるものであり、それを期待しての襲名である。

 観客に幻想を抱かせる、血筋、家系、カリスマ性をもった御曹司が、それらを土台にして努力し、人気をばねに、芸を磨いていくのが古典芸能の世界であって、芸が初めにあるわけではない。

 観客にとって、芸人に求める一番大事な要件は芸ではない。

 今からでも遅くない、和泉元彌に手を差し伸べることが、自分たちの身を守ることだと、早く気がついて欲しいものである。

 明日は我が身なのである。

  

  

 観客は芸を見に行くわけではない

 一般の観客は、芸を見に行くのではなく、スターである御曹司たちを見に行く。

 芸人は、技術としての芸を一生追い求めなければならないし、大変大事なものではあるが、観客の立場から言えば、芸があるけれども無名の弟子より、たとえ芸は未熟でも、華や色気があるスターである御曹司の方を見たいのであり、そう考えると、技術だけではなく、血筋や家系、カリスマ性、容姿、人気、華、色気など、それらすべてを含めて「芸」と呼ぶべきである。

 その意味において、「和泉元彌には芸がない」という批判はあてはまらないといえる。

  

  

 主流派が正しいとは限らない

 宗教革命が起き、プロテスタント(反主流派)がカトリック(主流派)を批判して出て行ったときに、残ったカトリックは、プロテスタントの批判に負けないよう、自分たちの手で大きく変わろうとしたことによって、今日まで、存続することができたように、どんな世界も、批判勢力があってこそ、改革が進む。

 そして、批判勢力であった反主流派も本物なら、プロテスタントが残ったように残る。

 主流派、反主流派、どちらも批判されるべき誤った部分を含みつつ、どちらも正しいことがあり、簡単に答えを出すとマスコミは恥をかくことになる。

 マスコミが、主流派の走狗となって、反主流派の弾圧に、手を貸さないように祈っている。

  

  

 芸人が芸人の批判をしたのは問題

 「私は芸がある」と言う芸人も信用できないが、「和泉元彌には芸がない」と言った和泉流職分会の代表幹事は、反和泉家派としてのプロバガンダであったとしても、してはならない禁を犯してまった。

 芸人の風上にも置けないとはまさしくこのことで、真に残念な発言である。

 芸人が同じ芸に生きる人の批評を、ましてや悪口を人前でするなど甚だ不見識である。

 「人間国宝といってもたいしたことないね」、「あれが宗家の芸かい」と悪口を言えるのが、観客の特権であり醍醐味で、それを言いたければ芸人を辞め、こちら側の人間になってからするべきである。

 また、「元秀氏は人望がなかった」という代表幹事の発言は、故人を冒涜しただけでなく、相手が反論できないことを見越した卑怯なやり方であり、故人だけでなく、和泉流や狂言界全体の名誉を毀損した発言で、破門されて当然の行為であり、それを擁護していた野村万之丞は常軌を逸している。

  

  

 マスコミは大本営発表を今も続けている

 30数年前、市川猿之助は歌舞伎の世界にあまたいる御曹司の一人ではあったが主流の名家でなく、大きな役がつかなかった。

 彼が今日あるのは、影のプロデューサー藤間紫の力もあったが、やはり観客のおかげであった。

 世界は違うが、アントニオ猪木もそうであった。

 マスコミは、歴史によって、時間によって、負けを宣告されたのだった。

 戦争中の大本営発表が事実とは程遠かったように、今も、主流派からの誤った情報を鵜呑みにして流し続けているマスコミは多い。

 主流派がいつまでも主流派であり続けるとは限らないし、反主流派が主流派になるかもわからないことを、アントニオ猪木のことで学び、従来の芸と新しい芸、どちらが大きく育つのか、正しいのか、時を経なければ出ない答があることを、市川猿之助のことで学んだ筈なのに、マスコミは今また、折角生まれた和泉元彌という新しい芽を摘もうとしている。

 和泉元彌が勝つのか、職分会が勝つのか、芸があるのか、ないのか、どちらの言い分が正しいのか、或いはどちらも正しいのか、最終的には観客が決めるのであり、マスコミが決めるべき話ではない。

  

  

 U.Wブッキングや遅刻騒動について

 続いてWブッキング・遅刻騒動だが、これもあのように大々的に報道するほどの価値などはとてもなかった。

  

  

 Wブッキングや遅刻は大問題ではない

 マスコミは、Wブッキングや遅刻が、芸人として許されない大問題であるかのように、大騒ぎして報道しているが、昔も今もよくある、ありふれた話であってあのように大々的に報道する価値があるとは思えない。

  

 Wブッキングや遅刻をした芸能人は数多い

 和泉元彌と同じく、遅刻やWブッキングしてきたタレントを、マスコミは追求どころか、報道さえもしなかったことは実はたいしたことではないと思っていた何よりの証拠ではないのか。

 たいしたことと思っていたけれども、報道できない理由があったというなら、それを明らかにするべきである。

 和泉元彌と同様のことをしてきたタレントを、マスコミが見逃した理由としては、彼らの多くが売れっ子で大手プロダクションに属しており、数多くの番組やCMに出ているため、あちこちから圧力がかかることを恐れたのであろう。

 が、それらの要件を満たさないから、安心して和泉元彌を叩くというのでは、弱い者イジメとしか言い様がなく、あまりに情けない話である。

  

  

 TVマスコミは統一基準で公平に報道せよ

 Wブッキングや遅刻は、いいことか、悪いことかといえば、当然悪いことなのだろうが、事務所の規模や、タレントのランクによって、その件を報道するか、しないか、マスコミはこれまで決めてきたわけである。

 TVを初めとするマスコミは、メディア規制法案に対して、公権力の恣意的な判断によって罰を与えられることに、抗議しているのではなかったのか。

 そのマスコミ自身が、恣意的な基準で、誰が悪いとか正しいとか判断していたとしたら、説得力がないにも程があるというものである。

  

 マスコミは検察官や裁判官ではない

 マスコミは、取材に基づいた事実のみを報道し、判決のような感想や、意見をつけるべきではない。

  長野のサリン事件で、被害者である河野義行さんを犯人扱いした、苦い経験を生かして、マスコミは、警察のスピーカーでもなければ、検察官でもなく、裁判官でもないことを忘れるべきではない。

  

  

 マスコミに自浄能力はあるのか

 マスコミの中に、「恐縮ですが」と言いながら、関係ない話にまで和泉元彌の名をわざわざ出して、私怨でもあるかのごとく、感情丸出しの、Nリポーターがいるが、まことに見苦しい限りである。

 以前のターゲットは、中村江里子であった。

 かのマスメディア法案が出された背景には、彼のようなジャーナリストと呼べない輩の横行があり、権力者に付け込まれないようにするためにも、マスコミの自浄能力が今ほど問われている時代はない。

 こんな時代だからこそ、政府につけこまれないよう、マスコミは自浄能力を高めていく必要があり、わけのわからないレポーターや、人権意識のかけらもない記者たちを指導教育、時には排除していく必要がある。

  

  

 結論

 今回の一連の騒動は、一般の新聞に取り上げられたこともなければ、NHKで報道されることもない、全く取るに足らない他愛のない話の筈であった。

 それを、一部の週刊誌が大きく取り上げ、テレビのワイドショーが後追い報道して、騒動を大きくしてしまった。

 自分たちで火をつけ、煽って大きくしておいて、和泉元彌がいかにも大騒動をしでかした人物であるかのごとく追い掛け回し、会見を要求しては、言葉の揚げ足を取って批判するという、これまでに見られた手法を飽きもせず踏襲している。

 そこには、事実を報道して社会正義を実現するという、マスコミ本来の使命感など存在しない。

 世の中には報道すべき、もっと重要なことがあるはずである。

 マスコミは、今回の騒動を教訓に、きちんと事実を調べ報道し、その問題点を明らかにし、我々に警鐘を与え、そして信頼される存在となっていって欲しいと祈ってやまない。(文中敬称略)

 なお、メールは、ここまで。