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第一回 あえて和泉元彌を弁護する(完全版)J

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 観客は芸を見に行くわけではない

 一般の観客は、芸を見に行くのではなく、スターである御曹司たちを見に行く。

 観客として見ているときに、「人間国宝」や「宗家」という肩書きは関係ない。

 人間国宝であろうとまずい芸の時もあるし、若くて未熟な芸人の芸だけれどなぜか感動することがよくあり、芸の世界は技術さえあればという、そんな単純な世界ではない。

  

 教育テレビで、「京鹿子娘道成寺」を、人間国宝であった故・中村歌右衛門と、人間国宝になる前の中村芝翫が踊っているのを見たが、あの芝翫の方が瑞々しく美しいのを見て、たいへん感動した。

 故・中村勘三郎と勘九郎親子の「連獅子」をその昔見たが、芸が売りで踊りの名人と言われた勘三郎より、芸は未熟であったとしても、若くて力強く、色気と華のある勘九郎の方に、自然と目が行き、涙がにじむほど感動したし、おそらく観客のほとんどがそうであったろう。

 芸人は、技術としての芸を一生追い求めなければならないし、大変大事なものではあるが、観客の立場から言えば、芸があるけれども無名の弟子より、たとえ芸は未熟でも、華や色気があるスターである御曹司の方を見たいのであり、そう考えると、技術だけではなく、血筋や家系、カリスマ性、容姿、人気、華、色気など、それらすべてを含めて「芸」と呼ぶべきである。

 その意味において、「和泉元彌には芸がない」という批判はあてはまらないといえる。

  

   (文中敬称略)

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