報道を見ていると、和泉元彌には宗家にふさわしい芸がないから資格がないのだという一見尤もらしい話が出ているが、それは芸を技術論的にしか見ていない、一つの見方に過ぎない。
和泉元彌には、宗家にふさわしい芸がないというのは、恐らく事実だろうが、それでは宗家にふさわしい芸を誰が持っていると言うのだろう。
宗家会の中に、宗家にふさわしい芸の持ち主がどれだけいると、職分会の人は思っているのだろうか。
狂言の世界には、和泉元彌と違って芸があるとされ、名が出ている野村萬斉や野村万之丞がいるが、彼らに芸があると職分会は自信をもって言えるのだろうか。
職分会の考える芸とは、その程度のものなのだろうか。
一生追い続けても到達できない、それが芸というものだと思うのに、職分会の代表幹事の言葉には、芸というものに対する真摯さがなく、ただ元彌を貶めるという意図しかなく、会見を見てとても悲しい気分になった。
万之丞や萬斎の二人が、観客を満足させているということについて、否定するつもりはないが、宗家にふさわしい芸があるかどうか、ということとは全く別な話であり、人気と芸が一致しないということでは、和泉元彌と同様である。
もし本当に職分会が、芸云々を言うのなら、家柄や血とは関係なく一般の人がオープンで公平なチャンスが与えられる実力本位の世界になることを覚悟すべきである。
そんな世界になったら一番困るのは、誰でもない、自分たちの方ではないのか。
彼らより、顔も容姿も美しく、声がよく通り、リズム感と音感があって、運動神経に富み、物覚えがいいなどの資質に恵まれた人間など、世の中には沢山いる。
たかだか数十人、百人にも満たない、小さな和泉流の中で芸があると鼻高々に自慢されても困るのである。
沢山の素質ある人間が入ってきても、今の地位を守れると本気で思っているのだろうか。
言い切れるとしたら、それは子供の頃から、狂言の世界の雰囲気で育ってきたという環境のお陰で、一般の人より早くスタートしたというアドバンテージから来る自信に過ぎず、錯覚である。
自分も、和泉元彌と同様、古典芸能という閉ざされた世界に守られ、家や血の恩恵を蒙りながら、宗家という自分より家の家格が高いと思われている和泉家を妬んだり、元彌より芸があるなどと嘯くのはナンセンスである。
和泉元彌は、間違いなくスターであり、スターは、芸など必要とされないのが芸能の世界である。
スターに芸を要求するより、自分がスターになればいいのである。
「僕は成績がいいのに、僕より成績が悪いあいつが、学級委員になるなんて、許せない。成績で勝負しろ」と言っているようなもので、みんなが望んでいる事は、そんなことではない。
宗家とは、看板であり、イメージであり、シンボルでもある、一番のスターのことを指しており、流派の中で最も技量のある人間を意味しない。
将軍家の剣術師範を勤めた柳生家の当主が、柳生流の中で、一番剣が強かったわけではないように、今も宗家や家元、師匠以上の技量を持った弟子は、能・狂言、歌舞伎、舞踊等の古典芸能の世界には、数多く存在する。
野村家にも、萬斎や万之丞より実力のある者はいる筈である。
いないとすれば、全くふがいない、情ない人たちと、言うしかないが、そんなことはない筈である、
しかし、いくら宗家や家元以上の実力持とうと、観客は、無名の彼らを認めはしないし、支持しない、それが現実である。
なぜなら、一般の観客は、芸を見に行くのではなく、古い家柄の御曹司であるところの人気者であり、スターを見に行くからであり、それが古典芸能の世界である。
観客は、彼らの芸や血の中に、先祖の芸の魂が生き続けていることを信じたいのだし、そのことを感じるために、伝統の力を確認するために出かけていくのである。
それゆえにこそ、職分会の人たちが、今も生きて行くことが出来るのである。
スターがいて、観客を集め、実力者が、舞台を引き締める。
どちらが、上とか、下とか、高いとか、低いとかではなく、役割の違いであり、どちらが欠けても成立しないのが、芸能の世界なのである。
成績が良くても学級委員に選ばれないように、実力があっても、それだけではスターにはなれない。
求められているものが違うのであり、それが人気商売である芸能の世界である。
しかし、その部分を否定することは自分が生きている世界をも否定することになるのに、職分会の人たちは、どうしてそのことに気がつかないのだろう。
(文中敬称略)