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第一回 あえて和泉元彌を弁護する(完全版)G

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 芸が未熟でも宗家や家元になれる

 今年、歌舞伎の世界で、辰之助が襲名して尾上松緑になったが、父親の先代・辰之助が亡くなった時、彼はまだ少年であったが、それでも舞踊・藤間流家元の座を継いだ。

 彼に、家元にふさわしい芸が備わっていたかといえば、当時も今も、備わってなどいないし、松緑の名にふさわしい芸が備わっていないことを、本人も誰もが知っているが、それでいいのである。

 彼の祖父・松緑、父・辰之助、そして本人のファンは、彼を通じて祖父や父の面影を見、やがて彼が、襲名したその名前にふさわしい芸が備わっていくことを信じているからである。

 歌舞伎舞踊の宗家藤間流でも、22歳の宗家・藤間勘十郎が誕生するとのことである。

 彼は子供の頃から天才とよく言われていたが、それでも彼よりうまい舞踊家は沢山いる。

 これを見てもわかる通り、宗家や家元を襲名した時点で、宗家や、家元の名にふさわしい芸など持っていないのがほとんどのケースである。

 和泉元彌とは違い芸がある代表として名が出ていた野村万之丞や野村萬斎にしても、襲名の際に反対する者は多かったし、今でもその問題が燻り続けている。

 今は報道するつもりがないマスコミも、手のひら返しはお手の物で、そのうち風向きがどうなるかは誰にもわからない。

  

 芸が未熟であることを理由に、和泉元彌が和泉流宗家を継ぐことを否定すれば、古典芸能の世界の根本を否定することになり、他の宗家にとっても困ったことになっていくことは間違いない。

 和泉元彌に群がるマスコミにとって古典芸能が今後滅びようが、どうなろうと知ったことではないし、その方が次の獲物が見つかって嬉しいというのが本音であろう。

 そうしたマスコミに利用されないように、能楽協会や宗家会は和泉流職分会の暴走を抑えるべきであったのに、マスコミの論調に乗せられ和泉家側に批判的な裁定をしてしまった。

 実に残念であり、もっと冷静に対処すべきであった。

  

 第一、先の宗家である和泉元秀自身が、6歳の時に山脇和泉家を継いだという事実は、和泉流の人々が、宗家にふさわしい芸などなくても宗家が継げることを認めていたか、もしくはそのことに口出しする権利すら与えられていなかったのどちらかであったことを示している。

 どちらにしても、今回の職分会の動きこそ、古典芸能の伝統を、踏みにじり、否定する行為といえる。

  

 徒弟制度の古典芸能の世界に身を置くものが、現代の民主主義の原則である、多数決の論理を持ち出したこと自体が伝統を踏みにじる行為であり、伝統芸能の世界を根本から否定するということになぜ気がつかないのだろうか。

 古典芸能の宗家や家元は少数であり、だからこそ有象無象の弟子たちが何万人いようとも彼らより権威があるのである。

 宗家や家元を、弟子たちが多数決で決めることになれば、宗家や家元の地位は弟子たち次第ということになり、宗家や家元の権威などなくなってしまうということに、能楽協会はどうして気がつかないのだろうか。

 彼らに同調し、和泉元彌を責める言葉は、やがて自分に跳ね返ってくることを、能楽協会、宗家会の人々は肝に銘じておかなければならない。

  

 和泉流の職分会の動きを認めることは、いずれ観世流、宝生流、金剛流、金春流、喜多流、大蔵流にも職分会が出来ることを意味する。

 職分会の投票で、宗家が決まることになれば、宗家の数よりも職分会の人間の数の方が多い以上、宗家は、職分会の傀儡でしかなくなる。

 宗家の権限や威厳などないに等しくなることに、能楽協会と宗家会の人々は、早く気づくべきである。

 宗家の襲名にあたって、職分会の関与は認めない、という決定をしない限り、古典芸能の世界に現代の労働組合の考え方が入り込み、古典芸能の世界は滅びの道をたどることは確実である。

  

   (文中敬称略)

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