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第一回 あえて和泉元彌を弁護する(完全版)H

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 血筋や人気が芸よりも優先するのが古典芸能

 古典芸能の世界の宗家に必要なのは、観客に幻想を抱かせるカリスマ性であり、血筋であり、家系であり、それらを土台にして芸を磨くのであって、芸が初めにあるわけではない。

 芸は、努力をすれば、後からついてくるものである。

 しかし、カリスマ性は生まれながらに持っているものであり、それはギフト、即ち神からの贈り物であるので、努力して手に入るものではないのである。

 御曹司ではない人間には、土台がなく、それを求めることなど、それこそ土台無理な話なのである。

 御曹司が努力によって芸を獲得することはあったとしても、御曹司でない者が、カリスマ性を獲得するまでには信じられない才能と努力を要し、事実上、奇跡に近い世界なのである。

  

 和泉家が古いしきたりに縛られ現代人の目から信じられないような理不尽で不条理な考え方をしている、と批判したレポーターがいたが、古典芸能の世界においては、そこに価値があるのである。

 相撲にしたところで、太った大男たちが裸にまわしをつけ丁髷を結い、奇妙な装束の行司がいて、女が入ることが許されない丸い土俵で相撲を取る非日常的な世界であり、異常な世界である。

 いくら非常識で異常に見えようとも、そうなるにはそうなるだけの理由があり、長い歴史がある。

 それを否定し、現代にマッチした相撲に変えてしまったら、それはもはや相撲ではなくなる。

 歌舞伎には歌舞伎の歴史があり、その世界特有の不条理があるように、狂言も同様である。

 何も和泉家だけが特殊ではないのに現代の常識で判断してしまい、「和泉家がおかしい」という結論を安易に出しただけでなく、「すぐ止めろ」とか、「改めるべき」と発言することに何ら躊躇を感じない杜撰な頭と粗い神経のレポーターがいたが、特殊な部分で成り立っている古典芸能というものを全く理解していないことがよくわかる。

 父親が一般のサラリーマンで、我々と変わらぬ、普通の育ち方をした人間に対して、観客が幻想を抱き、夢を見ることなど出来ないはしない。

 普通とは違う生活をしている和泉家だからこそ、観客は憧れ夢見ることが出来、それがカリスマ性となり、ブランドとなりうるのである。

  

 古典芸能の世界で、血筋に関係なくカリスマ性を持ちえたのは、現代において、坂東玉三郎唯一人である。

 しかし、こんなことは我々が存命中には、もう二度とない奇蹟であろうことがわからない人間には、坂東玉三郎の偉大さも永遠にわからないのである。

 そんなマスコミに乗せられ、元彌批判をすることは、自分で自分の首を締めるようなものだということに、能楽協会、宗家界の人たちは、早く気がついて欲しいものである。

  

   (文中敬称略)

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