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第一回 あえて和泉元彌を弁護する(完全版)

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はじめに

   一連の和泉元彌をめぐる騒動に関しては、和泉元彌家(以下「和泉家」)側に問題が全くないわけではないが、あまりに偏向したマスコミの報道を見ていると、生来のつむじ曲がりが顔を出し、本当にそうかなという気になり、反和泉元彌側である和泉流職分会(以下「職分会」)の言い分やマスコミの報道内容を検討してみた。

 結果、職分会の言い分には矛盾があることもわかったし、マスコミ側に大きな問題があることがわかった。

  

 今回の騒動の大きさは、和泉家が起こした騒動の大きさに比例せず、売上増を図ろうとする週刊誌サイドと、視聴率を上げようとするワイドショー・サイドの仕掛けた結果によるものであり、実体は報道するに値しない、家の相続をめぐるトラブルであった。

 家の相続をめぐるトラブルは和泉家にとどまらず、何十万人もの弟子を有する極真空手の大山家にもあったし、歌舞伎舞踊・藤間勘十郎宗家にもあった。

 こうした問題にほとんど触れなかったマスコミが、両家に比べて世間の影響がほとんどない、たかだか50人程度しかいない和泉流狂言師の宗家問題を、今回に限り、あれほどの熱意と執念を持って、報道しなければならなかったのか、全く理解に苦しむと言わざるを得ない。

 となると和泉家に問題があるというより、これまでのマスコミなら報道するに値しないと見送ってきた問題を、今回に限りなぜか大きく取り上げ報道しているマスコミの側にこそ、より大きな問題があると言わなければならない。

  

 今回の騒動には、和泉流派内で内々に、解決・処理すべき勢力争いがもつれ、完全勝利を目指す多数派が、少数派である和泉家側にとどめを指そうと、自派の言い分が正しく、相手側には正当性がないという主張を、マスコミを味方につけ、世間にアピールしようとしたという背景がある。

 距離をおいて報道すべき立場のマスコミが、本来とるべき姿勢をとっていれば、これほどの騒ぎになっていなかったであろう。

 しかし、「貧すれば貪する」の諺どおり、マスコミは社会正義より自分たちの利益を優先させた。

 長期継続して追うことの出来るネタがなくて困っていたマスコミは、今が旬の和泉元彌ネタならば、読者や視聴者が飛びつくと判断した。

 権力は常に肥大し腐敗する傾向にあるので、それを常に監視し、大衆に警鐘を鳴らすというマスコミ本来の務めを忘れ、全く弱い立場の和泉元彌という芸人を監視し、徹底的に追求するというわけのわからないことをしているのである。

 「弱きを助け、強きをくじく、正義の味方」というより「強きを助け、弱きをくじく、イジメっ子」になり下がっているのが、今のマスコミである。

 そうした結果の大騒動であって、問題そのものが大きかったわけではない。

  

 騒動には大きく分けて和泉家宗家襲名騒動と、Wブッキング・遅刻騒動という二つの問題がある。

 前者は、和泉元彌が大河ドラマ等で注目され、売れる気配を見せ始めたために、これまで、元彌の宗家襲名を認めていなかった職分会が、「あの若造(元彌)が、売れるなんてくやしい。このままでは、元彌が、和泉家宗家であると世間に認知されてしまう。そんなことは許せない」とばかりに、元彌が宗家を継ぐことを我々職分会は認めていないという話をリークし、それにマスコミが飛びつき、後者の騒動を大義名分にして、報道の体をなしてはいるが、反和泉家側からの、和泉家つぶしの片棒を担ぐマスコミによる元彌潰しであり、弱い者イジメが実体である。

 

 

 T.和泉流宗家襲名騒動について

 

 和泉流宗家襲名騒動については、内々の話であり、マスコミが、大々的に報道すべき事柄ではない。

 和泉元彌は、法を犯した犯罪者でもなければ、反社会的な行為をしたわけでもないのだ。

 能楽協会が自主退会か除名かを検討しているというが、全く狂気の沙汰である。

 弟子たちの反乱を認めることは古典芸能の世界を揺るがすことになるということに、どうして能楽協会や宗家会の人たちは気がつかないのだろうか。

 職分会やマスコミの問題点を一つ一つ明らかにしていきたい。

  

  

 マスコミは安易に結論を出してしまった

 今回の宗家襲名騒動は、和泉流流派内の、考え方を異にする二つのグループの勢力争いに過ぎない。

 この騒動の背景には元彌の父親である故・和泉元秀と彼に反発するもともとの本家である野村万蔵家グループの対立がもともとあり、和泉流の圧倒的多数派を形成しているから、職分会側の主張が正しく他に味方する人がいないから和泉家側が間違っているというような、そんな単純で簡単に答えが出せる問題ではない。

 であるにも関わらず、書類もよく見ずハンコを押す馬鹿社長のごとく、いとも簡単に答えを出し、少数派の和泉家側を糾弾するという形の最低の裁定を下してしまったのがマスコミであり、それにのったのが能楽協会である。

 あまりに一方的で、公正さを欠いたマスコミの報道には、大きな問題があると言わなければならない。

  

 元彌の父親・和泉元秀という人は日本初の女性狂言師を誕生させた強引な人で、伝統を重んずる人たちは、それに批判的ではあったけれども、人間国宝で弟子を破門する権利を有する宗家の威光に負けたのか、流派内の恥を世間には晒したくないという抑制が働いたのか、ただ逆らう勇気がなかっただけかは分からないが、とにかく争いが表沙汰になることはなかった。

 しかし和泉元秀が急死した時、反元秀派は職分会を結成して、その息子元彌の宗家襲名に反対するという形で、和泉家に対して、クーデターを企てたのである。

 今回の宗家問題は、職分会というより、野村万蔵家グループによる和泉流宗家乗っ取りのためのクーデターと見てとると実にわかりやすい。

  

 もともと野村万蔵家は、よく言えば向上心が強く、悪く言えばのしあがるためには手段を選ばぬ人たちのようで、自分たちの師匠筋にあたる三宅藤九郎家を継いだ。

 下世話な言葉でいえば乗っ取った。

 五世・野村万蔵の長男が、六世・野村万蔵を継ぎ、次男が九世・三宅藤九郎を継ぐことで話はついていて、兄弟の仲が良ければ、問題は出なかったのだろうが、弟であっても師匠筋の三宅家の家長になったことで、立場も変わり、兄であり、本家のいうことを聞かなくなってしまったのではないたろうか。

 そして、和泉流宗家の家を誰が継ぐかで、三宅藤九郎家の長男と野村万蔵家の四男が争い、その結果、本家の野村万蔵家が弟である三宅藤九郎家側に負けてしまった。

 本家なのに、分家が師匠筋である三宅家を継ぎ、更に上の和泉流宗家を継いだ、そのことが気に入らないというだけの話だと思っている。

 その六世・野村万蔵の長男である七世万蔵改め初世・野村萬と、次男である万作も大変仲が悪いというから、仲が悪いのも伝統なのであろう。

 そのことを言うマスコミがないこと自体、体制派からの懐柔に乗っかってしまっている何よりの証拠である。

 このまま進めば、野村万蔵家が宗家になり、野村万之丞が宗家になるであろう。

 野村万蔵(萬)家とは仲の悪い野村万作家も今のところ、息子・萬斎のライバルの一人である和泉元彌を潰すという共通の目的があり、共同歩調を取っているが、和泉元彌の能楽協会追放という念願がかなえば、野村万之丞と野村萬斎が戦いを繰り広げることは確実で、その時になって、そういうことだったのかと気づいても遅いのである。

 そう思って見ているせいか、近頃、万之丞と萬斎の二人が、狸と狐にしか見えず、困っている。

  

 和泉元秀の死後、職分会というより野村万蔵家グループはクーデターを図ったが、節子ママの「和泉流二十世宗家和泉元彌」を商標登録するという奇策により、身動きが取れなくなってしまった。

 しばらく静観していたが、元彌が売れ始め、マスコミに注目されたのを好機と捉え、「元彌の宗家襲名に疑義あり」とリークしたのである。

 このままでは、元彌が和泉流宗家であると世間が認知してしまうという焦りもあったであろうし、自分たちが全く認めていない元彌が売れてきたことに対する嫉妬や反発もあったであろう。

 和泉家に生まれただけで、あんな若造が宗家だなんて、という嫉妬の嵐が心の中で吹き荒れていたに違いない。

 しかし、和泉元秀は、もともと九世三宅藤九郎(五世・野村万蔵の次男、野村万助)の長男(保之)であり、彼が6歳の時に山脇和泉家(昭和21年から和泉家)を継ぐことを和泉流の人々は認めた筈であり、元彌に宗家にふさわしい芸がないという一見尤もらしい意見も、反対する決定的な理由にはならないことは歴史が証明している。

 もともとの出身である野村家側からすれば、新宅(分家筋)が、和泉流宗家という立場にいることが、クーデターを起こされたようで許せないのかもしれないが、彼らも元彌と同じように、弟子たちから御曹司に生まれただけで大きい顔をしていると思われていることに気がつかないのだろうか。

 他人の姿は見えても、自分の姿は見えないということなのだろう。

  

 どちらにしても宗家が生前中は大人しくしていて、亡くなった途端に騒ぎ出し、頭を押えつけられていた恨みを、その子の元彌を苛めることで、はらそうとしているとしか見えない職分会は、かつて田中真紀子議員の軽妙な悪口攻撃に辟易し、「(真紀子議員の長男が)、議員になった時には、イジメてやる、覚えていろ」と息巻いていた自民党の代議士先生方同様、大変情けない人たちである。

 同じ狂言の世界に生きる元彌を敵のように思っていることも含め、おかしいと言わざるを得ない。

 除名申請をして、和泉元彌の狂言者としての生命を奪おうとする職分会とマスコミの動きに、能楽協会と宗家会は惑わされてはならない。

  

  

 マスコミは冷静な報道をするべきであった

 このままではいけないという危機感から、新しいことを模索し、行動しようとする人たちと、伝統を重んずるグループとは、目指すところは、自分たちが住む世界の発展という、同じ目標を持った味方の筈なのに、その方法をどうするかの違いが、なぜこれほどの敵対関係に変ってしまうのだろう。

  

 落語や、講談の世界でも、女性の演者を認めるかどうかで、対立があったし、歌舞伎においても、市川猿之助が、「宙吊り」というケレン味たっぷりの歌舞伎を復活させたり、門閥以外の役者を起用して、門閥の御曹司たちに挑戦状をたたきつけるなどの対立があったことは事実である。

 落語協会から、三遊亭円生(円楽)の一門や、立川談志の一門が独立したのも、考え方の相違からであった。

 なかなか食べていけない芸人をどうするか、真打ちの肩書きを与えてなんとかしようという立場の協会側と、実力のある者だけを真打ちにすべきだと主張する側、それぞれに言い分があった。

 しかし、結局のところ、それは思想の対立であり、方法論の違いであり、業界内の主導権争いであり、どちらが、正しいとか間違っているとか、簡単に結論の出るような話でなかったし、芸のことは最終的には観客に任せるべきという立場から、マスコミが介入することはなかった。

  

 職分会は、和泉家が職分会の同意なしに、勝手に襲名することは狂言の世界の伝統に反する行為と言っているようだが、その職分会が、元秀が亡くなってから結成されたということは、それまで宗家の相続に関して職分会の関与はなかったということの何よりの証明ではないのか。

 宗家の相続には、職分会の賛成が従来から必要であったという、いかにも尤もらしい職分会の言い分も、実は宗家が死んでから作成した泥縄式の極めて怪しいものと考えざるを得ない。

 このように、どちらが正しいか、そう簡単には決められる問題ではなかった筈なのに、和泉家側が悪いという結論を安易に出した根拠はどこにあるのだろうか。

  

 マスコミはどちらにも与しない冷静な報道をするべきであった。

 民主主義の原則は、多数決であるが、発明、発見など、新しい価値観は、常に少数派から生まれたが故に、少数派の意見を尊重する寛容さと余裕が、多数派に求められている。

 その原則を忘れ、少数派を叩き潰そうとする多数派の動きを、冷静に報道し、牽制することにこそ、言論マスコミとしての存在意義があるのに、多数派よりの判断を安易にしてしまったマスコミの責任は重い。

  

 立場が違えば考え方も違い、どちらが正しく間違っているかを当事者だけでは、冷静な判断が出来ないし、いつもでたっても答えが出ないのが、人間社会の常である。

 どちらも自分の方が正しいと信じており、相手から、間違っていると言われたところで、素直にそうですかと聞く筈がないのである。

 だからこそ、予め法を定めておき、それをもとにして冷静に判断する裁判所という第三者機関が生まれ、便宜的にどちらが正しいか判断を下し、それに従うというルールが出来上がった。

 その判決ですら、当の本人たちにとっては、納得できるものである筈がなく、その権限を与えられた裁判所の判断だからと、納得している(ふりをしている?)に過ぎない。

 しかし、検察庁でもなければ、裁判所でもなく、何の権限も与えられていないマスコミが、責任のもちようのない勝手な判断(判決)を下してしまうことは、とても危険であり、許されないことである。

  

  

 利害関係者の発言を安易に信じてしまった

 今回に限らず、家庭の中もしくは法廷で決着すべき事柄をリークして相手より有利な立場に立とうという意図を持つ人たちに、マスコミは利用されたり一方に与したりするべきではない。

 特に、利害関係のある反対派の発言には相手方を貶めるという隠された意図や裏がよくあるので、十分に注意し幾分差し引いて聞く必要があるのに、不用意に信じるケースが最近多すぎる。

  

 以前の松坂慶子と父親の確執の問題、野村サッチーと弟の問題、北大路欣也と兄弟たちの喧嘩など、マスコミを使っての暴露戦略は、実に見苦しかっただけでなく、本当に報道すべき事柄だったのか、疑わしい騒動であった。

 家族なら直接相手にすればいい話をマスコミにする場合、何らかの魂胆があると疑うべきである。

 本来は内々にすべき話であり、騒動は家族の恥と思って隠そうとするのが家族であるにも関わらず、マスコミにリークするのは、有名人の弱みに付け込もうとする計算が見え隠れした行為である。

 有名人にとっては、実の親や兄弟などの家族から批判されている、そのことが伝えられるだけでイメージダウンにつながる。

 その弱みに付け込もうと、マスコミを利用し、有利な立場に立とうとする家族、それはある意味、とても卑怯なやり方であるが、そのことに触れ、批判しようとしたマスコミを見たことがない。

 むしろマスコミは、リークを喜んで聞き、それだけではさすがに一方的過ぎるので、尤もらしい顔をして、「公平に話を聞くから、さああなたも話しなさい」と有名人に迫るのである。

 有名人の側からすれば、自分の正しさを主張すれば身内の恥を晒すことになる。

 かといって、しなければ、自分の非を認める形になる。

 痛し痒しの究極の決断を迫られ、結局、芸能人は、「ノーコメント」の姿勢をとらざるを得なくなる。

 するとマスコミは、「話せないのは、どんな理由があるのでしょうか」と常套文句を使い、いかにも有名人側に非があるようなイメージで終わらせるのである。

 素人を傷つけるより、有名人を傷つける方が後味がいいし、最終的には、同じ世界だからわかってくれるだろうという甘えがあるのだろうが、甘えられる側の気持ちを考えたことがあるのだろうか。

  

 マイケル・ジャクソンに関わった人間は、なんらかの形で裁判を起こす。

 相手はイメージダウンを避けて裁判になる前に、少しはお金を出してくれるに違いないという下種な魂胆からであるが、哀しいことにどこの国にも同様の輩がいる。

 それと知っていて、それに乗っかろうとするマスコミには、いい加減うんざりしている。

 それが報道すべき内容であったのか、過去にあった騒動について、マスコミは検証してみる必要があるし、これからは利用されないよう記者たちに指導・徹底させておく必要がある。

 今回も、何が報道したかったのか、法律の問題なのか、モラルの問題なのか、社会に何を訴えたいのか、和泉元彌や狂言の世界に対して深い愛情があるようにも見えないし、週刊誌やワイドショーにとっての大義名分が全く見えない。

 ただ売らんがため、視聴率を上げるために、興味本位の報道をしているとしか見えないマスコミには猛省を促したい。

  

  

 宗家にふさわしい芸の持ち主などいない

 報道を見ていると、和泉元彌には宗家にふさわしい芸がないから資格がないのだという一見尤もらしい話が出ているが、それは芸を技術論的にしか見ていない、一つの見方に過ぎない。

 和泉元彌には、宗家にふさわしい芸がないというのは、恐らく事実だろうが、それでは宗家にふさわしい芸を誰が持っていると言うのだろう。

 宗家会の中に、宗家にふさわしい芸の持ち主がどれだけいると、職分会の人は思っているのだろうか。

 狂言の世界には、和泉元彌と違って芸があるとされ、名が出ている野村萬斉や野村万之丞がいるが、彼らに芸があると職分会は自信をもって言えるのだろうか。

 職分会の考える芸とは、その程度のものなのだろうか。

 一生追い続けても到達できない、それが芸というものだと思うのに、職分会の代表幹事の言葉には、芸というものに対する真摯さがなく、ただ元彌を貶めるという意図しかなく、会見を見てとても悲しい気分になった。

 万之丞や萬斎の二人が、観客を満足させているということについて、否定するつもりはないが、宗家にふさわしい芸があるかどうか、ということとは全く別な話であり、人気と芸が一致しないということでは、和泉元彌と同様である。

  

 もし本当に職分会が、芸云々を言うのなら、家柄や血とは関係なく一般の人がオープンで公平なチャンスが与えられる実力本位の世界になることを覚悟すべきである。

 そんな世界になったら一番困るのは、誰でもない、自分たちの方ではないのか。

 彼らより、顔も容姿も美しく、声がよく通り、リズム感と音感があって、運動神経に富み、物覚えがいいなどの資質に恵まれた人間など、世の中には沢山いる。

 たかだか数十人、百人にも満たない、小さな和泉流の中で芸があると鼻高々に自慢されても困るのである。

 沢山の素質ある人間が入ってきても、今の地位を守れると本気で思っているのだろうか。

 言い切れるとしたら、それは子供の頃から、狂言の世界の雰囲気で育ってきたという環境のお陰で、一般の人より早くスタートしたというアドバンテージから来る自信に過ぎず、錯覚である。

 自分も、和泉元彌と同様、古典芸能という閉ざされた世界に守られ、家や血の恩恵を蒙りながら、宗家という自分より家の家格が高いと思われている和泉家を妬んだり、元彌より芸があるなどと嘯くのはナンセンスである。

  

 和泉元彌は、間違いなくスターであり、スターは、芸など必要とされないのが芸能の世界である。

 スターに芸を要求するより、自分がスターになればいいのである。

 「僕は成績がいいのに、僕より成績が悪いあいつが、学習委員になるなんて、許せない。成績で勝負しろ」と言っているようなもので、観客が望んでいる事は、そんなことではない。

 宗家とは、看板であり、イメージであり、シンボルでもある、一番のスターのことを指しており、流派の中で最も技量のある人間を意味しない。

 将軍家の剣術師範を勤めた柳生家の当主が、柳生流の中で、一番剣が強かったわけではないように、今も宗家や家元、師匠以上の技量を持った弟子は、能・狂言、歌舞伎、舞踊等の古典芸能の世界には、数多く存在する。

 野村家にも、萬斎や万之丞より実力のある者はいる筈である。

 いないとすれば、全くふがいない、情ない人たちと、言うしかないが、そんなことはない筈である、

 しかし、いくら宗家や家元以上の実力持とうと、観客は、無名の彼らを認めはしないし、支持しない、それが現実である。

 なぜなら、一般の観客は、芸を見に行くのではなく、古い家柄の御曹司であるところの人気者であり、スターを見に行くからであり、それが古典芸能の世界である。

  

 観客は、彼らの芸や血の中に、先祖の芸の魂が生き続けていることを信じたいのだし、そのことを感じるために、伝統の力を確認するために出かけていくのである。

 それゆえにこそ、職分会の人たちが、今も生きて行くことが出来るのである。

 スターがいて、観客を集め、実力者が、舞台を引き締める。

 どちらが、上とか、下とか、高いとか、低いとかではなく、役割の違いであり、どちらが欠けても成立しないのが、芸能の世界なのである。

 成績が良くても学級委員に選ばれないように、実力があっても、それだけではスターにはなれない。

 求められているものが違うのであり、それが人気商売である芸能の世界である。

 しかし、その部分を否定することは自分が生きている世界をも否定することになるのに、職分会の人たちは、どうしてそのことに気がつかないのだろう。

  

  

 芸が未熟でも宗家や家元になれる

 今年、歌舞伎の世界で、辰之助が襲名して尾上松緑になったが、父親の先代・辰之助が亡くなった時、彼はまだ少年であったが、それでも舞踊・藤間流家元の座を継いだ。

 彼に、家元にふさわしい芸が備わっていたかといえば、当時も今も、備わってなどいないし、松緑の名にふさわしい芸が備わっていないことを、本人も誰もが知っているが、それでいいのである。

 彼の祖父・松緑、父・辰之助、そして本人のファンは、彼を通じて祖父や父の面影を見、やがて彼が、襲名したその名前にふさわしい芸が備わっていくことを信じているからである。

 歌舞伎舞踊の宗家藤間流でも、22歳の宗家・藤間勘十郎が誕生するとのことである。

 彼は子供の頃から天才とよく言われていたが、それでも彼よりうまい舞踊家は沢山いる。

 これを見てもわかる通り、宗家や家元を襲名した時点で、宗家や、家元の名にふさわしい芸など持っていないのがほとんどのケースである。

 和泉元彌とは違い芸がある代表として名が出ていた野村万之丞や野村萬斎にしても、襲名の際に反対する者は多かったし、今でもその問題が燻り続けている。

 今は報道するつもりがないマスコミも、手のひら返しはお手の物で、そのうち風向きがどうなるかは誰にもわからない。

  

 芸が未熟であることを理由に、和泉元彌が和泉流宗家を継ぐことを否定すれば、古典芸能の世界の根本を否定することになり、他の宗家にとっても困ったことになっていくことは間違いない。

 和泉元彌に群がるマスコミにとって古典芸能が今後滅びようが、どうなろうと知ったことではないし、その方が次の獲物が見つかって嬉しいというのが本音であろう。

 そうしたマスコミに利用されないように、能楽協会や宗家会は和泉流職分会の暴走を抑えるべきであったのに、マスコミの論調に乗せられ和泉家側に批判的な裁定をしてしまった。

 実に残念であり、もっと冷静に対処すべきであった。

  

 第一、先の宗家である和泉元秀自身が、6歳の時に山脇和泉家を継いだという事実は、和泉流の人々が、宗家にふさわしい芸などなくても宗家が継げることを認めていたか、もしくはそのことに口出しする権利すら与えられていなかったのどちらかであったことを示している。

 どちらにしても、今回の職分会の動きこそ、古典芸能の伝統を、踏みにじり、否定する行為といえる。

  

 徒弟制度の古典芸能の世界に身を置くものが、現代の民主主義の原則である、多数決の論理を持ち出したこと自体が伝統を踏みにじる行為であり、伝統芸能の世界を根本から否定するということになぜ気がつかないのだろうか。

 古典芸能の宗家や家元は少数であり、だからこそ有象無象の弟子たちが何万人いようとも彼らより権威があるのである。

 宗家や家元を、弟子たちが多数決で決めることになれば、宗家や家元の地位は弟子たち次第ということになり、宗家や家元の権威などなくなってしまうということに、能楽協会はどうして気がつかないのだろうか。

 彼らに同調し、和泉元彌を責める言葉は、やがて自分に跳ね返ってくることを、能楽協会、宗家会の人々は肝に銘じておかなければならない。

  

 和泉流の職分会の動きを認めることは、いずれ観世流、宝生流、金剛流、金春流、喜多流、大蔵流にも職分会が出来ることを意味する。

 職分会の投票で、宗家が決まることになれば、宗家の数よりも職分会の人間の数の方が多い以上、宗家は、職分会の傀儡でしかなくなる。

 宗家の権限や威厳などないに等しくなることに、能楽協会と宗家会の人々は、早く気づくべきである。

 宗家の襲名にあたって、職分会の関与は認めない、という決定をしない限り、古典芸能の世界に現代の労働組合の考え方が入り込み、古典芸能の世界は滅びの道をたどることは確実である。

  

  

 血筋や人気が芸よりも優先するのが古典芸能

 古典芸能の世界の宗家に必要なのは、観客に幻想を抱かせるカリスマ性であり、血筋であり、家系であり、それらを土台にして芸を磨くのであって、芸が初めにあるわけではない。

 芸は、努力をすれば、後からついてくるものである。

 しかし、カリスマ性は生まれながらに持っているものであり、それはギフト、即ち神からの贈り物であるので、努力して手に入るものではないのである。

 御曹司ではない人間には、土台がなく、それを求めることなど、それこそ土台無理な話なのである。

 御曹司が努力によって芸を獲得することはあったとしても、御曹司でない者が、カリスマ性を獲得するまでには信じられない才能と努力を要し、事実上、奇跡に近い世界なのである。

  

 和泉家が古いしきたりに縛られ現代人の目から信じられないような理不尽で不条理な考え方をしている、と批判したレポーターがいたが、古典芸能の世界においては、そこに価値があるのである。

 相撲にしたところで、太った大男たちが裸にまわしをつけ丁髷を結い、奇妙な装束の行司がいて、女が入ることが許されない丸い土俵で相撲を取る非日常的な世界であり、異常な世界である。

 いくら非常識で異常に見えようとも、そうなるにはそうなるだけの理由があり、長い歴史がある。

 それを否定し、現代にマッチした相撲に変えてしまったら、それはもはや相撲ではなくなる。

 歌舞伎には歌舞伎の歴史があり、その世界特有の不条理があるように、狂言も同様である。

 何も和泉家だけが特殊ではないのに現代の常識で判断してしまい、「和泉家がおかしい」という結論を安易に出しただけでなく、「すぐ止めろ」とか、「改めるべき」と発言することに何ら躊躇を感じない杜撰な頭と粗い神経のレポーターがいたが、特殊な部分で成り立っている古典芸能というものを全く理解していないことがよくわかる。

 父親が一般のサラリーマンで、我々と変わらぬ、普通の育ち方をした人間に対して、観客が幻想を抱き、夢を見ることなど出来ないはしない。

 普通とは違う生活をしている和泉家だからこそ、観客は憧れ夢見ることが出来、それがカリスマ性となり、ブランドとなりうるのである。

  

 古典芸能の世界で、血筋に関係なくカリスマ性を持ちえたのは、現代において、坂東玉三郎唯一人である。

 しかし、こんなことは我々が存命中には、もう二度とない奇蹟であろうことがわからない人間には、坂東玉三郎の偉大さも永遠にわからないのである。

 そんなマスコミに乗せられ、元彌批判をすることは、自分で自分の首を締めるようなものだということに、能楽協会、宗家界の人たちは、早く気がついて欲しいものである。

  

  

 芸は襲名の後についてくるもの

 芸がないから名や家を継げないとするなら、誰も継げないし、襲名など出来なくなる。

 むしろ逆で、襲名してから力がついてくるものであり、それを期待しての襲名である。

  

 観客に幻想を抱かせる、血筋、家系、カリスマ性をもった御曹司が、それらを土台にして努力し、人気をばねに、芸を磨いていくのが古典芸能の世界であって、芸が初めにあるわけではない。

 観客にとって、芸人に求める一番大事な要件は芸ではない。

  観客あっての芸であり、人に見られない芸など存在しない。

 日本の芸能の世界において、芸が人気を育てていく場合より人気が芸を育てていく場合の方がはるかに多い。

  

 現・市川猿之助は、団子時代から、評論家に評価されずとも人気だけはあった。

 現・松本幸四郎も、染五郎時代から、弟の吉右衛門に比べて、専門家の評価は低かったが、世間では、ミュージカルもシェークスピアも映画もドラマも出来る歌舞伎役者として、喝采を浴びていた。

  それでも彼らは、今や文句なく当代一流の芸の持ち主であり、大役者となった。

 姿が良くて人気はあるが、口跡が悪く、声も悪ければ、演技も下手という三拍子揃った大根役者で、どうしようもないと陰口をきかれた現・市川団十郎でさえ、今や立派な役者となり貫禄もついており、芸は努力次第で何とかなるという良い見本であり、この変貌を観るのがファンの醍醐味なのである。

  

 宗家会会長の宝生英照が、自分の子供に能を教えているテレビ番組を、かつて見たことがあるが、これが宗家かとがっかりした記憶がある。

 それほど教え方も下手で、一流の演者には到底見えなかった。

 しかし、その親以上に彼の子供には才能がなく、かつてテレビで見た父親から狂言を教わる和泉元彌の子供時代、勘九郎の子の勘太郎や七之助の幼少時代とは比べるまでもなく、才能のかけらも感じられないほどの下手さ加減だった。

 私の考え方からすれば、あんな親でも宗家になったのだから、あんな子でも、いつかは宗家を継ぐだろうし、長年やっていれば、宗家としての芸は身につくという立場で、全く問題ないと思っている。

 とはいえ大変立派なことを言っておられた宗家会会長さんは、「あの芸のない息子さんに、宗家の家督を継がせないで下さい」と弟子たちに責められたら一体どうするのだろうかと、ついつい余計な心配をしてしまうのである。

  

 今からでも遅くない、和泉元彌に手を差し伸べることが、自分たちの身を守ることだと、早く気がついて欲しいものである。

 明日は我が身なのである。

  

  

 観客は芸を見に行くわけではない

 一般の観客は、芸を見に行くのではなく、スターである御曹司たちを見に行く。

 観客として見ているときに、「人間国宝」や「宗家」という肩書きは関係ない。

 人間国宝であろうとまずい芸の時もあるし、若くて未熟な芸人の芸だけれどなぜか感動することがよくあり、芸の世界は技術さえあればという、そんな単純な世界ではない。

  

 教育テレビで、「京鹿子娘道成寺」を、人間国宝であった故・中村歌右衛門と、人間国宝になる前の中村芝翫が踊っているのを見たが、あの芝翫の方が瑞々しく美しいのを見て、たいへん感動した。

 故・中村勘三郎と勘九郎親子の「連獅子」をその昔見たが、芸が売りで踊りの名人と言われた勘三郎より、芸は未熟であったとしても、若くて力強く、色気と華のある勘九郎の方に、自然と目が行き、涙がにじむほど感動したし、おそらく観客のほとんどがそうであったろう。

 芸人は、技術としての芸を一生追い求めなければならないし、大変大事なものではあるが、観客の立場から言えば、芸があるけれども無名の弟子より、たとえ芸は未熟でも、華や色気があるスターである御曹司の方を見たいのであり、そう考えると、技術だけではなく、血筋や家系、カリスマ性、容姿、人気、華、色気など、それらすべてを含めて「芸」と呼ぶべきである。

 その意味において、「和泉元彌には芸がない」という批判はあてはまらないといえる。

  

  

 主流派が正しいとは限らない

 歌舞伎に、「21世紀歌舞伎組」という門閥出身ではないグループが存在し、その公演が人気を集めているが、彼らの師匠であり、名プロデューサーでもある市川猿之助の後押しがなくなれば、ブランドではなくなり、そうなった時には、純粋な歌舞伎の世界から、弾き出される運命にあると予想している。

 可哀想な話だが、歌舞伎とは、御曹司の世界であり、門閥の世界だからである。

 私は、悲観しているわけではない。

 歌舞伎から「前進座」が生まれたように、市川猿之助の芸の全部は恐らく引き継げないだろうが、少なくとも、その心と気を受け継いだ市川右近や市川笑也ら愛弟子たちが、「NEO KABUKI」ともいうべき新たな舞台のジャンルを誕生させることを期待している。

 それがいつかは花開き、「これこそ本物の歌舞伎」と呼ばれるようにならないとも限らないし、それが歌舞伎の御曹司たちの意識改革にもつながり、歌舞伎を発展させることにつながると信じているからである。

  

 宗教革命が起き、プロテスタント(反主流派)がカトリック(主流派)を批判して出て行ったときに、残ったカトリックは、プロテスタントの批判に負けないよう、自分たちの手で大きく変わろうとしたことによって、今日まで、存続することができたように、どんな世界も、批判勢力があってこそ、改革が進む。

 そして、批判勢力であった反主流派も本物なら、プロテスタントや「前進座」が残ったように残る。

  

 主流派、反主流派、どちらも批判されるべき誤った部分を含みつつ、どちらも正しいことがあり、簡単に答えを出すとマスコミは恥をかくことになる。

 マスコミが、主流派の走狗となって、反主流派の弾圧に、手を貸さないように祈っている。

  

 とはいえ歌舞伎に限らず古典芸能の世界では、血筋や家柄、名前がブランドであり、カリスマ性となり、御曹司たちの存在、そのものが芸であり、後からきた一般の人間には、最初からチャンスのない世界なのである。

  

  

 芸人が芸人の批判をしたのは問題

 「私は芸がある」と言う芸人も信用できないが、「和泉元彌には芸がない」と言った和泉流職分会の代表幹事は、反和泉家派としてのプロバガンダであったとしても、してはならない禁を犯してまった。

 芸人の風上にも置けないとはまさしくこのことで、真に残念な発言である。

 私は芸談が好きで過去30数年、歌舞伎、新劇、映画などあらゆるジャンルの雑誌のインタビュー記事に目を通してきたが、一流の芸の持ち主はストレートな悪口を決して言わないものである。

 芸人が同じ芸に生きる人の批評を、ましてや悪口を人前でするなど甚だ不見識である。

 「人間国宝といってもたいしたことないね」、「あれが宗家の芸かい」と悪口を言えるのが、観客の特権であり醍醐味である。

 それを言いたければ芸人を辞め、こちら側の人間になってからするべきである。

 また、「元秀氏は人望がなかった」という代表幹事の発言は、故人を冒涜しただけでなく、相手が反論できないことを見越した卑怯なやり方であり、故人だけでなく、和泉流や狂言界全体の名誉を毀損した発言で、破門されて当然の行為であり、それを擁護していた野村万之丞は常軌を逸している。

  

 そして和泉元彌と利害関係のある職分会側の人間の発言には、何か裏があると疑問を持ち、用心して聞くのが記者の務めなのに、なんら疑問をはさむことなく、有難く拝聴しただけでなく、それが正当な意見であるかの如く報道してしまった記者たちの見識のなさに呆れるばかりである。

  

  

 マスコミは大本営発表を今も続けている

 古典芸能はそのままでは滅びていく絶滅寸前の朱鷺のようなもので、国も保護しようとしている。

 和泉元彌という、国の保護がなくても生きていけそうな生命力に満ちあふれた朱鷺が折角生まれたのに、こんな朱鷺は見たことないと言って、みんなで寄って集って殺そうとしているように私には見える。

  

 30数年前、市川猿之助は歌舞伎の世界にあまたいる御曹司の一人ではあったが主流の名家でなく、大きな役がつかなかった。

 彼は、テレビドラマや映画に出て、自分をアピールし、自分が出演する舞台を自分でプロデュースしていくしかなかった。

 しかし、その舞台に付き合ってくれた大物の名題役者は、同じく映画に出て、主流派から外れていた関西歌舞伎の一方の旗頭、先代・中村雁治郎だけであった。

 生き残る手段として、市川猿之助が「宙づり」をするなど歌舞伎従来の手法と作品を、現代にあわせて蘇らせようとしたとき、あれはケレンだとか、歌舞伎の伝統から逸脱しているとか、言って批判されたが、観客は支持した。

 その後、中村芝翫親子など大物も付き合ってくれるようになり、人気が本物とわかると、歌舞伎座でも大きな役がつくようになった。

 今や、梨園最高の大名題・尾上菊五郎ですら、恥ずかしげもなく宙づりをする時代となった。

 彼が育てた弟子たちだけの公演も出来るようになった今、昔を思うと、隔世の感がある。

 彼が今日あるのは、影のプロデューサー藤間紫の力もあったが、やはり観客のおかげであった。

  

 世界は違うが、アントニオ猪木もそうであった。

 力道山が作った日本プロレスに属していた彼だったが、力道山の死後、会社の幹部たちが腐敗していったのを正そうとして、逆に公金横領の汚名を着せられ、追放された。

 その真相を知っていたはずのマスコミだが、体制側につき猪木を糾弾する側に回った。

 彼は仕方なく、新日本プロレス(以下「新日本」)という自分の会社を作ったが、日本人レスラーは勿論、有名な外国人レスラーのほとんどが、ジャイアント馬場率いる全日本プロレス(以下「全日本」)に握られていたので、従来のショープロレスではない、ストロングスタイルのプロレスを打ち出し、誰とでも戦うという姿勢を見せることによって、差別化を図らざるを得なかった。

 プロボクシングの現役・世界チャンピオンであったモハメド・アリや、柔道の世界チャンピオンであったウィルエム・ルスカ、マーシャル・アーツの現役世界チャンピオンであったモンスターマンなどと戦い、格闘技色の強い試合を続けていった結果、いつしか彼の作った新日本プロレスは、業界一大きな団体となり、現在の格闘技ブームの先駆けとなった。

 栄華を誇った馬場の作った全日本は馬場の死後分裂し、今の全日本のエースは新日本出身である。

 その他、各プロレス団体の主催者のほとんどが新日本出身者であり、プロレスだけでなく、K1やプライドなど他の格闘技系団体にまで影響を及ぼすカリスマ的な存在に猪木はなった。

 「世紀の凡戦」とマスコミに散々叩かれたモハメド・アリとの戦いだったが、ショーとしてではなく、勝負が至上主義の総合格闘技が受け入れられた現代から見たら、それは緊張感にあふれた凄い試合であり、ショーではなかったことが、事実として受け入れられている。

 もしショーであったら、アリ側は猪木をがんじがらめにするルールを要求する必要などなかったし、試合直前まであんなにルールでもめることもなかったし、もっと面白い見世物にしていた筈であったし、アリが負傷しあんなに早く引退に追い込まれることもなかったが、当時のマスコミのほとんどは、そのことに触れようとしなかった。

 あの試合以後アリは猪木を尊敬し、ことあるごとに彼をいろいろな式に招いて、交際が続いている。

 マスコミは、歴史によって、時間によって、負けを宣告されたのだった。

  

 戦争中の大本営発表が事実とは程遠かったように、今も、主流派からの誤った情報を鵜呑みにして流し続けているマスコミは多い。

 「毒は毒をもって制す」目的で外相に任命された田中真紀子を追い出すために、外務省や与党の抵抗派議員たちは、田中真紀子にとって不利な情報をマスコミにリークした。

 各新聞社外務省担当記者たちは、自分たちのところに情報が来なくなることを恐れ、リーク記事をそのまま流し続けた。

 自分たちの都合を優先させ、悪魔に魂を売った記者は多い。

 主流派がいつまでも主流派であり続けるとは限らないし、反主流派が主流派になるかもわからないことを、アントニオ猪木のことで学び、従来の芸と新しい芸、どちらが大きく育つのか、正しいのか、時を経なければ出ない答があることを、市川猿之助のことで学んだ筈なのに、マスコミは今また、折角生まれた和泉元彌という新しい芽を摘もうとしている。

  

 東儀秀樹が、雅楽の世界から出て新しいジャンルで活躍しているように、和泉元彌もまた和泉流や宗家会、能楽協会から除名されたとしても彼はやっていけるだろう。

 むしろ心配なのは、和泉元彌が抜けた後の狂言の世界である。

 折角、狂言の世界を引っ張っていけるだけの馬力を持った、大スターであり、カリスマにもなれる素質を持った逸材を、つまらない勢力争いで追放して、どうする気なのだろう。

 失ってから、失ったものの大きさに気がついても遅いのである。

  

 和泉元彌が勝つのか、職分会が勝つのか、芸があるのか、ないのか、どちらの言い分が正しいのか、或いはどちらも正しいのか、最終的には観客が決めるのであり、マスコミが決めるべき話ではない。

 十年後、二十年後、三十年後はどうなっているのか、という長い視点で考え、歴史の審判を仰いでも恥ずかしくない取材をし、公正な報道をする記者が育って欲しいものである。

 マスコミのそのつど変わる身勝手な論理によって、芸人を弄んだり芸人としての生命を奪う権利などどこにもないことをどうか肝に銘じて欲しい。

  

  

 U.Wブッキングや遅刻騒動について

 続いてWブッキング・遅刻騒動だが、これもあのように大々的に報道するほどの価値などはとてもなかった。

  

  

 Wブッキングや遅刻は大問題ではない

 マスコミは、Wブッキングや遅刻が、芸人として許されない大問題であるかのように、大騒ぎして報道しているが、昔も今もよくある、ありふれた話であってあのように大々的に報道する価値があるとは思えない。

  

 Wブッキングや遅刻をした芸能人は数多い

 かつて山口百恵が他の仕事でほとんどリハーサルに出られず、そのために母親役で共演していた八千草薫が困惑(激怒?)して下りた話は有名である。

 ピンクレディが全盛時代、番組を掛け持ちし、リハーサルに出られず、百恵と桜田淳子が代役を務めた場面などは、リアルタイムで見ていきた。

 今でも、他の番組に出演して欠席しているタレントのパネルが座席に置かれてあり、やがて遅れてスタジオにやってくるシーンなど日常茶飯事である。

 さんまやたけしなどは、遅刻を、さほど悪いと思っていない様子で、反省するどころか番組中で笑い話にしてしまっている。

 吉本興行では、Wブッキングなど日常茶飯事と所属タレント自身が笑いながら証言している。

  

 萬屋錦之助が、「子連れ狼」の早朝ロケがあったのに、好天気だからといって、ゴルフに出かけ、朝早くから、柳生烈堂のメークをし、衣装を着けて待っていた佐藤慶を始めとする俳優陣やスタッフを何時間も待たせたという出来事があったそうだが、これなどは単なる遅刻とは呼べず、よほど悪質だと思うが、私の知る限りテレビで報道されたことはない。

  

 ステージが出演者の都合で何時間も遅れることはよくある話である。

 それがただ単に出演者のわがままであったり、気まぐれであったりする場合もあるし、それ以外の理由もあるだろうけれども、それらを徹底的に取材して報道した記事など読んだことがない。

 急な病気を理由に公演が中止になり、別な日に繰り延べされたりしたけれど、実はWブッキングだったなどという話は、今までもあった筈である。

 大学の先生が、テレビの番組に出演するために、休講することも含め、一般の生活でWブッキング、掛け持ち、遅刻は、スピード違反同様誰もが経験してきたことである。

 みんなが表沙汰にならないように、必死に調整してきたことを、マスコミは、知っていても知らぬふりをして、報道してこなかった。

 であるにも関わらず、どうして他のタレントは見逃し、和泉元彌だけこんなに執拗に大騒ぎをするのだろうか。

  

 元彌だけ大騒ぎするのは弱い者イジメである

 和泉元彌と同じく、遅刻やWブッキングしてきたタレントを、マスコミは追求どころか、報道さえもしなかったことは実はたいしたことではないと思っていた何よりの証拠ではないのか。

 たいしたことと思っていたけれども、報道できない理由があったというなら、それを明らかにするべきである。

  

 和泉元彌と同様のことをしてきたタレントを、マスコミが見逃した理由としては、彼らの多くが売れっ子で大手プロダクションに属しており、数多くの番組やCMに出ているため、あちこちから圧力がかかることを恐れたのであろう。

 自社のCMや、提供番組に出ているタレントを追及するなと、スポンサーは、TV局に圧力をかけるであろうし、TV局も自社人気番組に出ているタレントのイメージダウンにつながる報道は視聴率低下を招くからと系列のワイドショースタッフに圧力をかけるであろうし、出版社側は、写真集やタレント本を出して、利益を出しているタレントを潰して貰っては困ると、系列の週刊誌セクションに圧力をかけるであろうし、そうした圧力やクレームがくることを恐れて、大手のプロダクション所属のタレントと、売れっ子、大物タレントたちには追求の手が及ばなかったのであろう。

  

 その点、和泉元彌は、大河ドラマに主演したとはいえ、民放にはまだほとんど実績がない新人同様のタレントであり、大手スポンサーのCMにも出ていないし、事務所も家族だけの弱小プロダクションであり同じ事務所に売れっ子のスターがいるわけでもない。

 クレームが来る不安のない、いわば安心して追求する(苛める)ことが出来る相手と、週刊誌もワイドショースタッフも値踏みし、報道しているに違いない。

 が、それらの要件を満たさないから、安心して和泉元彌を叩くというのでは、弱い者イジメとしか言い様がなく、あまりに情けない話である。

  

  

 TVマスコミは統一基準で公平に報道せよ

 Wブッキングや遅刻は、いいことか、悪いことかといえば、当然悪いことなのだろうが、事務所の規模や、タレントのランクによって、その件を報道するか、しないか、マスコミはこれまで決めてきたわけである。

 たとえその件について、報道しなかったことが、後でばれたとしても大問題とはならない事件性のない話であり、大騒ぎするほどの話ではない、という認識がマスコミにはあったということである。

 しかし今は大きな事件もないし、大したネタでもないけれど、当分は視聴率が稼げる和泉元彌問題でいこうと考え、ワイドショーのスタッフたちが喜び勇んで、報道していることは想像に難くない。

 しかし、もっと報道すべき事件は世の中にあった、

 パレスチナ問題、外務省問題、高速道路の問題、郵政省の民営化問題等々。

  

 芸能問題にしても、ワイドショーが目をつぶって来た事件やスキャンダルが、これまで沢山あった。

  ある大手のプロダクションの社長で、かつての映画界の大スターが愛人の家で倒れたことを伝えたテレビ局がないのはなぜなのだろう。

  毎年、その事務所が開く忘年会に、ワイドショーのレポーターや、スタッフが呼ばれ、泊りがけで、飲み食いしているからなのか。

  三人組の若手お笑いグループNのリーダーNが若い女の子からレイプされたと正式に訴えられたにも関わらず、テレビ局は全く報道しなかった。

  美少年ばかりのJ事務所の重役さんには、少年虐待の噂があるし、そのことを元所属していたKが、自分の著書の中で触れていたのに、それを追求したテレビ局はなかった。

  J事務所の6人組の中の若手3人組の一人Mが女性タレントからレイプされたと訴えられたのに、全く報道されなかった。

  某宗教団体のトップがレイプで訴えられたが、これも全く無視された。

  某政党のトップに、ある党員をリンチして死に至らしめたという噂があったが、これも全く報道されなかった。

  これまで、たとえ事実関係が不明でも大々的に報道してきたのは一体何だったのかと思わせる、その慎重ぶりは一体どこから来たのだろうか。

 タレントの不祥事を報道したり、しなかったり、相手によって、その所属するプロダクションによって、態度を変える、身勝手で、不公平なWスタンダードを持っていることを、まずTVマスコミは反省すべきである。

  

 TVを初めとするマスコミは、メディア規制法案に対して、公権力の恣意的な判断によって罰を与えられることに、抗議しているのではなかったのか。

 そのマスコミ自身が、恣意的な基準で、誰が悪いとか正しいとか判断していたとしたら、説得力がないにも程があるというものである。

 もしそれが本当に悪いことであると思っているのなら、過去に見て見ぬフリをしてきた理由を明らかにし、反省と共に、それらを白日の下に晒すべきである。

 それもせず、弱い立場の和泉元彌側だけを責めるのは不公平であり、まさしく弱い者イジメである。

  

  

 マスコミは検察官や裁判官ではない

 タレントが、Wブッキングをしたり、遅刻をして、誰かに被害を与え、迷惑をかけたことが、事実であったとしても、その結果として、関係者の信用を失い、ファンを失い、ステージを見に来る人や、CDやグッズを買う人が減る、という報いを受けるであろう。

 もしかしたら、批判されるどころか、「それでこそ大物」と称えられる場合があるかもしれないが、どちらにしても、マスコミが勝手に裁いたり、罰を与える必要はないし、そんな権利などない。

  

 マスコミは、取材に基づいた事実のみを報道し、判決のような感想や、意見をつけるべきではない。

  長野のサリン事件で、被害者である河野義行さんを犯人扱いした、苦い経験を生かして、マスコミは、警察のスピーカーでもなければ、検察官でもなく、裁判官でもないことを忘れるべきではない。

  

  

 マスコミに自浄能力はあるのか

 マスコミの中に、「恐縮ですが」と言いながら、関係ない話にまで和泉元彌の名をわざわざ出して、私怨でもあるかのごとく、感情丸出しの、Nリポーターがいるが、まことに見苦しい限りである。

 以前のターゲットは、中村江里子であった。

 自分の好き嫌いで判断し、嫌いとなったら、自分の手で叩き潰すという執念が感じられる。

 彼はジャーナリストではないし、他のリポーターたちは、彼を一体どう思っているのだろう。

 彼をジャーナリストとして認める輩も、ジャーナリストと呼ばれる資格はない。

 かのマスメディア法案が出された背景には、彼のようなジャーナリストと呼べない輩の横行があり、権力者に付け込まれないようにするためにも、マスコミの自浄能力が今ほど問われている時代はない。

 今こそ、良貨を駆逐する可能性のある悪貨は駆逐しなければならない。

 テレビ局のキャスターやアナウンサーたちは、自分たちの仕事仲間に対して、もっと厳しい姿勢で臨むべきであり、能力に達していない者を、テレビ局は現場から外すべきである。

 自分で取材することなく、「週刊誌にある記事を私も読みましたが」と言ってから自分の意見を言うレポーターなど全く不要である。

  

 こんな時代だからこそ、政府につけこまれないよう、マスコミは自浄能力を高めていく必要があり、わけのわからないレポーターや、人権意識のかけらもない記者たちを指導教育、時には排除していく必要がある。

  

  

 結論

 今回の一連の騒動は、一般の新聞に取り上げられたこともなければ、NHKで報道されることもない、全く取るに足らない他愛のない話の筈であった。

 それを、一部の週刊誌が大きく取り上げ、テレビのワイドショーが後追い報道して、騒動を大きくしてしまった。

 自分たちで火をつけ、煽って大きくしておいて、和泉元彌がいかにも大騒動をしでかした人物であるかのごとく追い掛け回し、会見を要求しては、言葉の揚げ足を取って批判するという、これまでに見られた手法を飽きもせず踏襲している。

  

 そこには、事実を報道して社会正義を実現するという、マスコミ本来の使命感など存在しない。

 あるのは、売上を増やし視聴率を上げるという目的のためには大衆の嫉妬心を刺激して煽れば、「他人の不幸は蜜の味」とばかりに喜ぶに違いないと読者や視聴者は愚かで馬鹿ばかりと決め付けた恐ろしいばかりの人間不信と、自分の利益のためには、スケープゴートとして、いつも一致団結して行動している幸福そうな旧家を差し出すことを厭わない、目的のためには手段を選ばない、実に身勝手なマスコミのエゴだけである。

 強い権力を持つ体制派、多数派を監視し、弱い立場の少数派を守るためにある筈のマスコミが、弱い立場の芸能人を監視し、つまらないことに目くじらを立て、揚げ足を取るような追求をする。

 そんなことに何の意味があり、それでマスコミの役目を果たしていると言えるのだろうか。

  

 世の中には報道すべき、もっと重要なことがあるはずである。

 そうでないジャーナリストもいると信じたいが、そうでない報道の方が目立つ現状では、そうした仲間を放置している「同じ穴のムジナ」ばかりと思わざるを得なくなってしまう。

 そうならないように、自分たちで何とかしようという行動を見せて欲しい、と思う。

  

 マスコミは、今回の騒動を教訓に、きちんと事実を調べ報道し、その問題点を明らかにし、我々に警鐘を与え、そして信頼される存在となっていって欲しいと祈ってやまない。(文中敬称略)