「時速30kmの福祉」(2002.06.08.連載開始)




 富山総合福祉研究所の塚本が、ケアマネジャーとして原動機付自転車で地域を回ってい
る中で見聞した事などをまとめ、月1回のペースで配信しています。





※バックナンバー 時速30kmの福祉(1)〜(50)
※バックナンバー 時速30kmの福祉(51)〜(103)
※バックナンバー 時速30kmの福祉(104)〜(150)





2017.04.20.

時速30kmの福祉(第187回)

 「80点主義」という言葉があります。これは、1960年代に自動車メー
カーのトヨタが大衆向け小型乗用車カローラを設計した際の基本方針となった
言葉として有名です。

 当時の日本は東京オリンピック開催を挟む道路網の整備途上で、今まで車を
手にしたことのない大衆層が暮らしの中で当たり前に車を使う生活モデルへと
急速に変化していくモータリゼーションの時代でした。トヨタは、価格帯が大
衆でも大きな無理をせず手に届く範囲であることが必要条件であるけれども、
他方で性能面で使った人が大きな不満を抱かない水準でなければ売れないこと
も分かってました。そこで、この両者のバランスをとる分岐点として100点
満点中80点という合格水準を設定したというわけです。

 この設計方針は大いに成功し、カローラは今なお続くロングセラー商品とな
りました。もっとも、生活スタイルの変化や価値観の多様化で同じ物を大量に
生産しても大量には消費してもらえない時代に入ってからは、80点主義のま
までは販売が低迷します。そこで、トヨタではその変化にも対応するという意
味で、「80点+α」という言葉を新たに掲げて車づくりの方針としていると
の事です。

 なんだか「時速30kmの福祉」とは関係のない話題のように思われるかも
知れませんが、当方が本稿で触れたかったのは、実は現在第193回国会で審議さ
れている介護保険法等改正法案(正式名称は「将来にわたる質の高い介護サー
ビスの提供の確保等のための介護保険法等の一部を改正する法律案」)につい
てです。

 この法案では、いわゆる「自立支援型ケアマネジメント」を一層推進するこ
ととされています。しかし、これまで「時速30kmの福祉」で度々言及して
きたとおり、「自立支援型ケアマネジメント」という考え方自体にいくつかの
重大な問題があります。トヨタの「80点主義」になぞらえれば、要介護状態
の人の身体を「カローラ」、要介護状態の人と家族を「カローラ生産ラインの
現場責任者」のように扱う内容であり、「課題整理総括票」という名の基準で
80点合格ラインに品質管理(クオリティコントロールは「コントロール」で
あって「マネジメント」ではないのですが・・・)するよう求められます。そ
して、達成できなければマイナス評価を甘んじて受けなさいという内容なので
す。介護が必要な人というのは、カローラに手足と首が生えている生き物では
ありません。この法案が通ったら、今後自分が「カローラ人間」扱いされてい
ると感じるご本人ご家族が急速に増えていくと思います。

 しかも、本家本元のトヨタの80点主義とは異なり、制度の設計が利用者に
とって「経済的に無理をせず手に届く範囲」とは逆方向に向かっており、「利
用者が不満に思う点を少なくしていく」という方向とも真逆を向いています。
これは、使う人を主人公と位置づける発想が欠落しているために起きてしまう
過ちです。





2017.03.11.

時速30kmの福祉(第187回)

 国連の機関のひとつILOが提唱した言葉で「ディーセントワーク」という
言葉があります。これを日本語でどう表現するか、個人的に悩んだことがあり
ました。それは、2008年にケアマネジメントをみんなで考える会(その当時は
まだ「ケアマネジメントについて考える会」という名称でした)がケアマネジ
メントに関する提言書をとりまとめる際に、その提言書の中でディーセントワ
ークを日本語で表現しなければならなくなったからでした。

 原案作成者であった当方は、「尊厳ある労働」という言葉を選びました。考
える会の人の中にはこれに反対する意見の方もありました。反対の理由は、日
本国政府の公定訳とは異なること、そして意訳だとしても思い入れが強すぎて
誤訳と受け止められかねないことの二点でした。確かに、その当時インターネッ
トで検索しても、「尊厳ある労働」では該当するホームページが見当たりませ
んでした。そんな言葉自体が存在しなかったのです。それでも、当方はこの案
を捨てきれず、最終的には残すことに決まりました。

 その後は、今の今までディーセントワークの日本語訳の事など頭の隅にも無
かったのですが、最近読んだエヴァ・フェダー・キテイさんの「ケアの倫理か
らはじめる正義論 支え合う平等」(白澤社発行2011年)の訳者序文の中に
「ディーセントワーク(尊厳ある働き方)」という言葉を見つけました。この
本の内容自体、ケアマネジメントをみんなで考える会の提言の内容と非常に親
和性があるのですが、ディーセントワークの訳語でこのような一致があったと
いうことをとてもうれしく感じました。

 そんなわけで、なにげなくインターネットでディーセントワークをキーワー
ドにして検索してみたところ、なんと検索の筆頭に登場する訳語が「尊厳ある
労働」でした。9年近く経って、ディーセントワークは「尊厳ある労働」と訳す
方がむしろ常識になっているとは!

 いくらうぬぼれ屋の当方でも自分が言い出しっぺで言葉が普及したとは考え
ませんが、ディーセントワークという言葉を作った世界の人たちの情熱が日本
語の訳語を変えるほどの力を持っていたのだと思い至り、いささか感動しまし
た。

 末尾に宣伝めいた事を言いますが、2008年当時のわたしたちの提言は、2017
年の今日においても全く色あせない内容であると思います。興味をお持ちいた
だける方は是非ご一読ください。


「わたしたちが望むケアマネジメントについて〜『おもい』と『ねがい』〜」2008年
http://www2.nsknet.or.jp/~mcbr/kangaerukai-teigen-20080728.html


エヴァ・フェーダー・キティ「ケアの倫理からはじめる正義論 支え合う平等」2011年
http://d.hatena.ne.jp/hakutakusha/20110801/1312191968





2017.02.23.

時速30kmの福祉(第186回)

 ある方からの勧めで、「人生フルーツ」という映画を観に行きました。この
映画は、つばたさんという老夫婦の日常をただひたすら撮影し続けるドキュメ
ンタリーの映画です。

 つばたさんは、1959年の伊勢湾台風で低地に住んでいた人々が犠牲になった
際、高地移住の大都市計画の設計を任された技術者でした。そのとき、つばた
さんは、自然との共生を理想とするマスタープランを作成しました。しかし、
実際の計画では、より少ない土地により多くの住居を建設しようとする経済効
率優先のプランの方が採用され、南向きにマッチ箱を整然と並べたような無機
質な集合住宅群ができあがってしまいました。

 圧倒的な経済力と政治力を前に、つばたさんの理想はあっけなく潰えたかに
見えましたが、当のつばたさんはあきらめていませんでした。いったん徹底的
に破壊された里山も、それぞれの宅地にそれぞれが雑木林をほんの少しずつ育
むことによって、結果的に新たに里山の自然が再生できるのではないかとつば
たさんは考えました。そして、自らその団地内に土地を購入して小さな住居を
建て、ご夫妻で小さな雑木林をつくり、小さな畑を耕し、今日の言葉で言う
「スローライフ」を始められました。

 映画は、つばたさんご夫妻の「スローライフ」の日々を丁寧に記録し続けた
ものであり、100%「事実」の積み重ねではあるのですが、その「事実」がと
ても重いものなので、鑑賞する側は「家とは何か、家はいかにあるべきか」、
「人間とはなにか、人間はいかに生きるべきか」と自らに問わざるを得なくな
ります。当方自身、これまでの人生を振り返り、これからどう生きなければな
らないのかをあらためて考えさせられました。

 「人生フルーツ」というタイトルには、いくつかの解釈が成り立ちそうです。
つばたさんは、「自分でできそうなことは自分でやってみた方が良い。なぜな
らば、なにか分かることがあるかもしれないから」とおっしゃっておられたそ
うです。「普通」の人とは違う人生をあえて選んだ人々にとっては、深く胸に
響く言葉だと思います。

 映画は全国で上映され、大変な反響なのだそうです。富山では、「ほとり座」
という全席15席という超小型映画館で2月下旬まで上映されておりましたが、好
評につき3月18日から31日までのアンコール上映が決まったそうです。ご覧にな
りたい方は、前もって「ほとり座」に予約の連絡を入れることをお薦めします。
なにしろ、あっという間に満席になってしまいますので・・・。


映画「人生フルーツ」公式サイト
http://life-is-fruity.com/

ほとり座ホームページ
http://hotori.jp/






2017.01.01.

時速30kmの福祉(第185回)

 毎年暮れ近くになると流行語大賞の話題でにぎやかになります。2016年度の
大賞は、「神ってる」という奇妙な言葉でした。ところで、同じような事を考
える人がいるもので、イギリスでも流行語大賞というのがあり、2016年度は
「ポスト・トゥルース(post-truth)」だったそうです。EU離脱問題の議論な
どで盛んに用いられたのが受賞理由との事でした。

 「ポスト・トゥルース」というのは、直訳すると「真実の後」となります。
要するに、真実ではない情報をばらまいて利益を得ようとしたり、与えられた
情報が真実かどうか疑わしいと知りながらも気づかないふりをして利益を得よ
うとする人々によって政治が間違った方向に進み、社会に悪い影響を及ぼす時
代が到来した、というような意味合いになります。昔から嘘で政治が歪められ
るということはありましたが、現代は急激な情報環境の変化が加わって、イン
ターネットで計画的かつ大量に嘘が拡散されます。また、いずれの国も保守化
・カリスマ崇拝化して、権力がメディアを支配下に置き情報をコントロールす
るようになってきています。その意味で「嘘のレベルが壊滅的だ」という危機
意識が受賞の背景にあるのだろうと思います。

 「ポスト・トゥルース」は、なにもイギリスだけに限ったことではありませ
ん。当方が直接関係する日本のケアマネジメントに限って見ても事情は同じで
す。今の日本は、財界が政治に強く介入しています。財界の考える「ケアマネ
ジメント」は、生産性向上のための道具、嫌な表現で言えば「介護サービス利
用者を家畜のように品質管理し、成績の悪い社員のようにリストラするための
道具」です。それは間違った理解だと官僚は分かっているけれど、決して口に
は出しません。学界は、財界から「生産性向上のために役立たないならケアマ
ネジメントは要らない」、「役立つというなら証拠(エビデンス)を見せろ」
と責め立てられます。それに反論すればよいものを、逆に生産性向上のために
ケアマネジメントの手順を全国一律で標準化すると約束し、へんてこな研修体
系を作ってしまいました。この標準化は、ケアマネジメントを100%人工知能で
処理できると証明するかのような内容であると言う意味で学界の自殺行為です。
また、近い将来形成されるであろう国際標準(エビデンス・ベーストからナラ
ティブ・ベーストへの転換)からも大きくかけ離れていく方向であり、日本国
内の「標準化」が国際的には「ガラパゴス化」になるという意味でも自殺行為
です。

 嘘が玉突きでふくれあがって利用者・家族を襲いますが、利用者・家族は自
分の人生に嘘などつけるわけがなく、自己品質管理の義務だけ負い、成果が出
なければリストラされる。これが今の日本のケアマネジメントの真実の姿です。

 いかにして「ポスト・トゥルース」を超克し、「ほんとうのケアマネジメン
ト」を回復するか? とても難しい問題ですが、日々の相談活動を通じて諦め
ずに考えていきたいと思っています。





2016.12.18.

時速30kmの福祉(第184回)

 時の経つのは早いもので、あっという間に年の暮れとなってしまいました。
1年ごとに加速度が大きくなっていくようで、今年ノーベル文学賞を受賞した
ボブ・ディランのローリングストーンではありませんが、坂道を転げ墜ちる石
はきっとこんな気持ちでいるのじゃないかと思ってしまいます。

 ものを覚えることも、ものを理解することもだんだんおぼつかなくなってき
て、このところ受講している主任介護支援専門員更新研修という研修の場でも、
なかなかスピードに追いつけなくて四苦八苦しています。ただ、何度かこの研
修を受講していくなかで、これはもしかしたら当方の能力が追いついていない
からだけではなくて、研修の内容や手順などの方に問題があって、それでなか
なかすんなりと腑に落ちないのではないかと思うようになりました。おそるお
そる他の受講者の方々にもお尋ねしたのですが、同様に感じておられる方が結
構おられるようで、内心ほっとしました。

 この研修の何が問題なのか、については、後日きちんと整理した上で文章に
しようと思います(逆にいうと、それだけいっぱい問題がありそうだというこ
とでもあるのですが・・・)。ここでは一番肝心なことを2つだけ述べます。

 一つは、教材として提供された事例に対する敬意が感じられないことです。
医学部の学生さんが解剖実習を受けるとき、献体された身体はすでに死亡して
いる物体です。それでも、実習に入る前に献体された方に対し敬意を払い、感
謝の念を持つよう教育されますし、そのような機会に「人としての尊厳」への
気づきを促します。これから医師として人と接するために、決して欠くことの
できない大切な学びのプロセスです。

 ところが、当方が受けた研修で提供された事例は、現時点でも生きている人
なのですが、その人に対して敬意を払うことが学びの中に入っておらず、比喩
的に言えば生きながらにして事例検討という名のメスで切り刻まれて血まみれ
になっていくのです。人としての尊厳に対する感覚が研ぎ澄まされた受講生の
人には聞こえてくる悲鳴が、どうも研修主催者側には聞こえていないようなの
です。研修の場で検討される事例がすでにそういう状態なのですが、さらに研
修前に事前に各自がメスで切り刻むように宿題を課せられ、しかも結果的にそ
の事例が全く研修の場で顧みられず、そのままうち捨てられることすらありま
す。事例が人間であることになぜ気づけないのか?

 もう一つの問題は、目的を間違えているということです。この研修で学ぶは
ずのことは、ご本人ご家族と直接接するケアマネジャーが壁にぶつかったとき
に、そのケアマネジャーが自分でうまく壁を乗り越えられるように助ける役割
(スーパーバイザーなどと言います)についてです。しかし、出発点である目
的をとり違えていることが原因で、その後の手順をいくら辿っても、本当に解
決しなければならない問題を最終的に解決できない、担当のケアマネジャーに
とってもご本人ご家族にとっても何の救いにもならない事態に陥る危険がある
のです。

 ケアマネジャーの仕事は、いたってシンプルです。ご本人ご家族が何に困っ
ていて、何を望んでいるのかをまず知る。そして、困っていることはどうすれ
ば解決するのか、望んでいることはどうすれば実現するのか、その手段や方法
をいっしょに考える。そして、解決策や実現策が見つかったら手伝ってくれる
なかま(ケアチームメンバー)といっしょにみんなで問題を解決し、望みを実
現していく。ただそれだけです。そして、スーパーバイザーの仕事もまた、い
たってシンプルです。担当のケアマネジャーが何に困っていて、何を望んでい
るのかをまず知る。そして、困っていることはどうすれば解決するのか、望ん
でいることはどうすれば実現するのか、その手段や方法をいっしょに考える。
そして、解決策や実現策がみつかったら担当のケアマネジャーがそれを実行で
きるようにサポートする。丁度、ロシアの人形玩具マトリョーシカのような入
れ子の構造となっていて、スーパーバイザーは担当のケアマネジャーをとおし
てご本人ご家族が何に困っていて何を望んでいるのかを知り、担当のケアマネ
ジャーをとおしてその解決策や実現策を実行していくのです。

 ところが、研修の場では、まず真っ先にやらなければならないこと、担当の
ケアマネジャーが何に困り、何を望んでいるのかを知るところから出発しない
のです。それは即ち、ご本人ご家族が何に困り、何を望んでいるのかを把握す
るところから出発しないということでもあります。アセスメントと称してやた
ら多くの項目を調査する書式が用意され、どれだけ文字で埋まっているかを評
価するような手順になっているのですが、それらの調査の目的が肝心の「何に
困り、何を望んでいるのか」を解明することではない。だから、その後のプロ
セスをいくら辿っても、担当のケアマネジャーにとっても、ご本人ご家族にと
っても、何の救いにもならない結論へとたどり着いてしまう危険があるのです。

 この研修を受ける人は、みなそれぞれに一定年数の経験を有していますので、
上に述べたようなことは呑み込んだ上で、それでもなにか得ることがないか、
研修の時間を有益な時間とすることができないか、それぞれに努力をなさって
いるように見えます。でも、研修の内容やプロセスさえ間違っていなければ、
それはやらなくても済む努力なのかもしれません。





2016.11.19.

時速30kmの福祉(第183回)

 11月18日付のインターネット内のあるコラムで、「ケアマネジャーを介
護事業所から分離させよ」と題する文章が掲載されました。執筆者は日沖博道
さんという方で、経営学の視点からこの問題に関心を持たれたご様子です。著
作権侵害になってはいけないので、以下にアドレスを引用するに止めます。


ITmediaビジネスオンライン
日沖博道「コラム:ケアマネジャーを介護事業所から分離させよ」
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1611/18/news045.html


 日沖さんは、囲い込みが横行している日本のケアマネジメントシステムの欠
陥を厳しく指摘し、早急に手を打たなければ財政破綻を招くことになると警告
しています。その問題意識はとても共感できるのですが、制度の理解に若干不
正確なところがある他、運用面の実態についても十分調査をされていないため
か、結論として述べておられる箇所にいくつかの問題があります。広く読まれ
ているコラムだと思いますので、誤解が拡がらないようにするためにも、以下
にいくつか述べておきたいと思います。


(1)「ケアマネジメントの独立」と「ケアマネジャーの独立開業」は同じで
    はない

 日沖さんは、囲い込みが生じる原因を「ケアマネジャーが介護サービス事業
所に所属する『雇われ人』であること」に求めています。しかし、介護保険法
上の介護支援専門員が所属しているのは居宅介護支援事業所であり、ダイレク
トケアサービスを提供する介護サービス事業所ではありません。おっしゃりた
いことは分かるのですが、厳密に言うと、ケアマネジャーが所属法人や関連法
人などの「事業者」の利益が最大となるように動いていることが問題なのです。
逆に言えば、たとえケアマネジャーがダイレクトケアサービスを提供する法人
等に雇用されている場合でも、所属法人や関連法人などのサービスをケアプラ
ンに組み込まないというルールを確立するだけで、囲い込みを防ぐことができ
ます。北米の高齢者ケアマネジメント専門職団体(NAPGCM)をはじめと
して、国際的にはケアマネジャーの独立開業の有無を問題にしているところは
どこにもないと思います。彼らが問題にしているのは、利用者の利益とケアマ
ネジャーが所属する法人や関連する法人などの利益が相反する立場に立たない
ルール(利益相反行為禁止ルール)の有無です。この違いが分からないと、
「ケアマネジャーの独立開業」の主張と「第三者機関主義ケアマネジメント」
の主張の区別が理解できなくなります。


(2)地域包括支援センターは必ずしも公正中立ではない

 日沖さんは、囲い込みを無くす方策の一つとして、ケアマネジメントの担い
手を居宅介護支援事業所所属のケアマネジャーから地域包括支援センター所属
の主任介護支援専門員に移管する案を提起しています。しかし、これは現場を
知る者であれば賛成できないことです。

 制度上の建て前では、介護支援専門員の所属する居宅介護支援事業所は公正
中立であるはずです。しかし、日沖さんがおっしゃるように実際はそうではあ
りません。これと同様に、地域包括支援センターも、制度上の建て前では公正
中立ということになっていますが、現実の運用を観ると必ずしもそうではない
ことが分かります。直営ではなく民間に委託している場合、委託先の法人が地
域包括支援センターを使ってさらに醜い囲い込みを行っている例はそこらじゅ
うにあります。また、行政サイドも、委託先の法人を天下りの腰かけとして押
さえているような了見のところでは、天下りした者の経済的な安定のために囲
い込みで収益を上げる動機付けが高まってしまうことすらあります。居宅介護
支援事業所が公正中立ではないということが地域包括支援センター創設の提案
理由の一つであったけれども、社会保障審議会の議論の過程で利益相反行為禁
止の1点を圧力に負けてはずされてしまい、今日のようななんの歯止めもない
仕組みになりました。当方に言わせれば、居宅介護支援事業所に利益相反行為
禁止ルールを厳格に適用するだけで、ほとんど費用をかけずに囲い込みの問題
を解決できたはずです。にもかかわらずそれを行わないばかりか、気の遠くな
るような多額の公費を投じて地域包括支援センターという新たな罪を作ってし
まった。愚かと言うほかありません。


(3)独立開業していれば公正中立とは限らない

 日沖さんは、囲い込みを無くす方策の一つとして、ケアマネジャーが独立開
業できるだけの報酬アップを図るという案も提起しておられます。また、それ
と同時に、もしも報酬をアップした場合にその財源をどうするかが課題である
とも述べておられます。

 しかし、いままで囲い込み三昧で公正中立の規範意識に欠けていた者が、独
立開業できる報酬をもらったからといって急に公正中立な倫理を身につけると
どうして言えるでしょうか? 盗人に追銭となってしまわないでしょうか?

 かつて独立・中立型介護支援専門員全国協議会の副代表として厚生労働省に
出向き、囲い込みの実態を伝え、第三者機関主義ケアマネジメントの段階的法
義務化を政策として採用するよう求めたことがあります。その当時の老健局長
は、「門前ケアマネジャー」では意味がないという趣旨のことをよく述べてお
られました。つまり、医薬分業下の門前薬局のように利害関係を強固に保って
いれば独立など形骸化してしまい、囲い込みを抑止できないという意味です。
これは全くそのとおりで、問題なのは利益相反行為禁止ルールの欠如であって、
独立開業しているかどうかは全く関係がないのです。

 ちなみに、第三者機関主義ケアマネジメントの段階的法義務化の場合、基準
日以降の新規受任ケースから時間をかけて要件を満たした場合に報酬を上げて
いき、逆に要件を満たさない場合に報酬を下げていきますので、相殺と激変緩
和の二重の意味で日沖さんが心配する財源の問題をクリアできます。また、囲
い込み完全抑止によりサービスの費用対効果が格段に向上しますので、その意
味でも無駄を省いて生み出された余裕を本当に必要なケアに振り向けることが
できるようになります。


(4)特定事業所集中減算では囲い込みを防げない

 ところで、当時の老健局長は、第三者機関主義の段階的法義務化を政策とし
ては採用せず、特定事業所集中減算の仕組みを創設してしまいました。理由は、
利害関係のあるなしにかかわらず一律にパーセンテージで規制を加えれば内密
で通じようとする者もすべて対象とすることができるので、その方が優れた仕
組みだというものでした。

 冷静によく考えれば分かることですが、特定事業所集中減算の論理では、パ
ーセンテージを下げれば下げるほど、たとえば90%を80%にし、さらに
70%、60%としていけばいくほど、減算に該当する確率が高くなっていき
ます。そして、最終的に0%にすることは絶対にできない。0%では、ケアプ
ランが作れないからです。このことは、特定事業所集中減算というしくみでは、
囲い込みをゼロにすることが論理構造上絶対にできないことを証明しています。

 ケアプランへの組み込みを禁止しなければならないのは、利益相反行為禁止
ルールに抵触するサービス、つまりケアマネジャーと利害関係のあるサービス
だけです。あらゆるサービスを射程に入れるということは、ガン細胞だけとれ
ばよいものを、まわりの正常な細胞まで巻き添えにして切り取っていくような
ものであり、不必要を通り越して有害でさえあります。

 ちなみに、第三者機関主義ケアマネジメントを段階的に法義務化すれば、時
間はかかりますが囲い込みを最終的にゼロにすることができますし、関係のな
いサービスを巻き添えにすることも一切ありません。

 日沖さんは特定事業所集中減算という仕組みにどちらかというと肯定的な印
象を持っておられるようにお見受けしますが、これはむしろ無くしてしまった
方がよい仕組みです。


(5)誰にとっての費用対効果か?

 最後になりますが、ケアマネジメントとの関わりで費用対効果を論じる場合、
日沖さんの場合に限らずですが、主語が国家であったり、納税者・保険料納付
者であったり、保険者であったりする言説をよく耳にします。それらに共通す
るのは、サービス利用者や介護家族にとっての費用対効果の視点がなぜかすっ
ぽりと欠落しているということです。サービス利用者や介護家族の集合と国家、
納税者・保険料納付者、保険者の集合がそれぞれ利害の対立する別存在である
かのように対抗軸を設定する立論には無理があります。ケアサービスもケアマ
ネジメントサービスもエンドユーザーである利用者・家族にとって最善である
ことを目指さなければならない。だからこそ、1円でも無駄にしてはいけない。
無駄を省いて、それを必要なケアに振り向けなければならない。ケアマネジメ
ントは、正にそのためにあります。ケアマネジメントが正しければ、個々のサ
ービス利用者や介護家族にとってもっとも費用対効果の高いシステムになりま
す。それはすなわち、国家にとっても、納税者・保険料納付者、保険者にとっ
ても好ましいシステムであるということです。利用者・家族が視界から消えた
財政論や経営学では、最終的に利用者・家族にとって最善のシステムにはなり
ません。無駄を削って必要を満たすシステムではなく、必要なものも奪って税
金や保険料だけ巻き上げていくシステムになりかねません。

 これは、「ケアマネジメントの主体は誰か?」という哲学的な問いとも密接
に関連するとても大切な視点なのであえて言及しました。


(参考情報)
・塚本聡「ケアマネジメントにおける『第三者』性について〜『第三者』概念
 の内容分析から政策効果を予測する〜」
http://www2.nsknet.or.jp/~mcbr/p-chuchotement20130605.pdf





2016.10.22.

時速30kmの福祉(第182回)

 先日、ある方が地元のかかりつけ医から大きな病院で手術を受けるよう勧め
られ、紹介先の病院に入院されました。当方は初診時に同行し、かかりつけ医
からの紹介状の封筒と当方自身の作成した相談員向けの情報提供書の封筒の二
通を病院の地域連携室に提出、入院期間中の連携協力を依頼しました。

 ところが、手術から数日経ってその地域連携室の相談員から連絡があり、退
院に向けて必要な情報を提供してほしいとの依頼を受けました。すでに提出済
みであることをお伝えしたところ、見あたらないから再度送ってほしいと、な
んともあっけらかんとした言葉が返ってきました。

 見あたらないから、とはどういうことか・・・。実は、同様のことが県内の
他の公立総合病院でも過去何度かありました。厳格に封緘された患者のプライ
バシー情報を受け取っていながら、その後どこかに紛失して内容が分からない
などということはあってよいはずがありません。もし紛失したのが当方からの
文書ではなくかかりつけ医からの紹介状の方であったならばどうなっていたで
しょう?

 インターネットで関連情報を検索すると分かるのですが、上のような地域連
携室における相談業務の劣化は、残念ながら全国のあちこちで観られる現象の
ようです。地域連携という言葉とは裏腹に、やっていることは診療報酬上病院
の利益となる書類の作成等に限られており、話すことと言えば因果を含めて退
院させる入院長期化抑止の誘導ばかりなので、患者や家族、在宅時の担当ケア
マネジャーと「人間として」向き合おうとする動機付けがないのです。地域連
携室の相談員は、採用条件がソーシャルワークの専門資格です。それにもかか
わらず、病院から期待されて行っていることはソーシャルワークの破壊そのも
の。しかも、驚くべきことに当の本人がそのことに気づいておらず、むしろい
ま自分が行っている破壊行為の方がソーシャルワーク専門職としての仕事だと
すら錯覚している恐ろしい事態となっています。

 地域連携室というしくみが制度化される前の時代の生き生きとした医療ソー
シャルワークを体験として知っている人は年々少なくなっています。多額の公
費を無駄に使って「地域連携」という言葉を侮辱しソーシャルワークを汚して
いる今の制度しか知らない人ばかりとなったときにこの国は一体どうなってし
まうのか・・・。当方を含め「古い者」たちは皆心配しています。





2016.09.27.

時速30kmの福祉(第181回)

 3ヶ月前の時速30kmの福祉で、富山市議会の議員報酬月額10万円アッ
プの議案のことや、その取材時の暴力事件のことなどを話題としました。その
後同議会の議員が政務活動費を不正に取得している事が五月雨式に判明し、故
意ではないなどと主張して議員を辞めない人を除いても市議会議長を含め本稿
執筆時点で9名の議員が辞職、補欠選挙を行う事態となっています。報道は全
国版の新聞やテレビ番組で連日続いている他、ジャパンタイムズや国内メディ
ア各社の英字報道でも取りあげられ、世界中に配信されています。また、富山
市の課長が議会事務局を通じ議員に対して情報公開請求の日時や対象範囲、請
求者名などの情報を漏洩していたことが新たに発覚したとも報じられています。

 これら一連の報道を見聞して、政治をよくは知らない者なりにいくつか思う
ことがあります。

(1)自主点検で3年前までという不思議

 不正取得発覚当初、自主点検として3年間分の内容を発覚した会派の議員自
身が調べ直すこととした旨の報道がありました。しかし、富山市の条例・規則
上は5年間分の会計帳簿と領収証の保管義務が定められています。本当に真相
を究明する意思があるのならば、なぜ5年ではなく3年としたのか? さらに
2年遡った先にどのような闇があるのか、そしてそれは現時点で本当に解明さ
れているのか、誰でも疑問に思うところだと思います。問題の拡がりと深さを
考慮すれば、こういうときに百条委員会を設けないでいったいいつ設けるのか
という惨事です。

(2)裏帳簿はなかったのか?

 不正発覚当初、不正議員は、取得したお金を個人的な遊興費に使ったとか、
飲食代、酒代に使ったなどと説明していました。これが、全国版のメディアで
「次元が低すぎる」と徹底的に叩かれていますが、そもそもこの説明が本当な
のかどうかを調べて報道している様子がありません。報道機関がこれまで調査
した情報だけを拾っても、あきらかに個人の突発的な思いつきではなく集団的
組織的かつ継続的な詐取行為であると言えます。それならば、当然「裏帳簿」
が存在し、表には出せない使途に充てられたと考えるのが自然でしょう。いつ
何に使ったか、誰にお金が渡ったのか。本当に解明しなければならないのはそ
こだと思います。最近になって選挙資金に充てたという供述が出てきた模様で
すが、それは具体的に選挙の何に使ったのか、誰にいくら渡したのか、そこま
で明らかにしなければならないことだと思います。

(3)善良な支援者を悪い議員が裏切ったのか?

 国内の報道はおしなべて「善良な支援者を悪い議員が裏切った」という一種
紋切り型の片付け方をしています。しかし、本当にそうでしょうか? そうい
う議員を選び、育て上げたのは当の「支援者」であり、「支援者」側の意識が
変わらなければ、議員の顔がいくら変わっても同じ事の繰り返しになるのでは
ないでしょうか? 市政報告会や懇談会で接待を受けたそのお金はどこから出
ていたのか、選挙対策と称して何をしたのか、その費用はどこから出たのか、
「悪かったのは議員だけ」としらばくれず、これを機に「支援者」組織の意思
決定手続が一部の者だけで牛耳られてこなかったか、運営や財務の透明性にど
の程度意をくだいてきたのか、あるいはこなかったのかを顧みるべきではない
かと思います。

(4)議員から圧力があったから漏洩したのか?

 情報漏洩というさらなる汚点が発覚し、識者のコメントとして「議員からの
圧力に抗しきれない」行政職員を守るようなしくみが必要という趣旨の意見が
観られます。しかし、今回の課長の行動は、本当に圧力があったからなのかど
うかは当方の知る限り報じられていません。今回の事件とは別ですが、当方が
介護支援専門員として独立開業して後だけでも、市町村合併後に二度、当方か
ら市の担当課に提供した要介護者情報が、その日のうちに全く関係のない別の
介護事業所に漏らされていたという事がありました。その都度調査の実施と再
発防止策を求めましたが、何の対応もなされませんでした。行政のピラミッド
構造の中で、利益を同じくする仲間うちだけが引き上げられ、本当に市民と向
き合う無私善良の士が冷や飯を食わされる環境では、組織が腐るのは当たり前
です。漏洩は、議会に関係する部署だけの単発的な問題ではなく、もっと構造
的で深刻な問題であると経験上思います。





2016.08.25.

時速30kmの福祉(第180回)

 この「時速30kmの福祉」では、毎年8月は戦争の話題になります。仕事
がら訪問した先々でご自身やご自身の親の世代の戦時中の体験を聞かせていた
だけることが多いので、決して話題に事欠くということはありません。しかし、
今号は月末近くになったいまこの時点でもまとまりのある言葉を綴ることがで
きないままでいます。その理由は、日々報じられる国内外の情勢があまりにも
悲惨だからです。

 人は、簡単に死にます。あまりにもあっけなく傷つけられて、そして簡単に
死にます。「なぜ?」と問うても、答えすら不確かなまま、ただ暴走する車に
跳ね飛ばされ、爆弾に吹き飛ばされ、銃弾に打ち抜かれて、どの肉片がだれか
も不確かなまま、あっけなく死にます。

 日常と戦場の境はどこにあるのか? 今は、何か?ここは、何か? 戦場で
はない、と果たして言い切れるのか?

 メディアは連日国威発揚のオリンピック報道。沖縄の高江でいま何が起きて
いるのか、誰も、どこも、一秒も報じない。次の高江は、どこか?

 躍らされない。躍らされているふりをしない。報道されていないことは何か
を考える。そして、全身の神経を集中して丁寧に日常を生きる。戦争に入る隙
間を与えないほど丁寧に。





2016.07.24.

時速30kmの福祉(第179回)

 先月(6月)の18日、ケアマネジメントをみんなで考える会第39回富山
のつどいを開催いたしました。このつどいに参加する方々には、毎回以下の3
つのルールを守っていただいております。

(3つのルール)
・自分のことを語りましょう。他人のことではなく。
・同じ立場で共感しましょう。教えたり裁くのではなく。
・プライバシーを守りましょう。外で語ることなく。

 ところで、今回のつどいでは、とても大きな間違いをふたつも犯してしまい
ました。

 ひとつは、制度解説を行ってしまったこと。解説をする側と聞く側に分断さ
れるということは、「同じ立場で共感する」という二つめのルールに反します。
ケアマネジャーなどの相談を業とする専門職は、説明を求められると平素の癖
でうっかり解説してしまう。これは、ピアグループワークを成立させようとす
るときには絶対やってはいけないことです。日頃つどいに参加される方々に対
してそう言っていながら、今回は自分が見事にやってしまいました。

 もうひとつの間違いは、その制度解説の内容を間違えたこと。これには伏線
があって、つどい開始直後に「障害年金が課税年金になったのか?」と問われ、
あまりにも大きな制度変更にかかる質問であったため当方自身虚を突かれて
「あれ、どうだったかな?」と混乱してしまいました。そんなはずないよな、
と一方で思いつつ、でも確かに水面下では動きがあったな、もしかしてそこま
で進んでいたかな? などと・・・。そこで、数年前に「国民健康保険料の算
定時に障害者控除分を差し引かない取扱いに変わった結果保険料が上がって困っ
た」という相談を受けた記憶が中途半端によみがえり、「障害年金が課税年金
になったのではなく、市町村民税の障害者控除がなくなって保険料率が上がっ
たという趣旨のお話でしょうか?」などと応じてしまいました。毎年ひとり暮
らしの方の市町村民税申告の支援をしており、今年も障害者控除の計算をしっ
かりやっていたのですが、それを思い出したのはつどいが終わった後でした。
また、つどいの途中から、「あぁ、これは介護保険の負担限度額認定の計算方
法が変わって非課税年金の額も考慮するようになったので、そっちの方の質問
だったのかな」と気がつき、新たな計算方法のあらましとその不合理性につい
てずるずると解説してしまったのですが、その解説の内容が障害年金が非課税
年金であるという前提がなければ成り立たない内容であったにもかかわらず、
そこに気づかずにしゃべり続け、「でも、やっぱり課税年金に変わっていたっ
けなぁ?」などと頭の片隅で考え続けてしまいました。つどいが終わってから
そのことに気がつき、なんでしゃべっているときにすぐに気がつかなかったの
だろうと我ながら落ち込んでしまいました。

 ひとつだけ言い訳めいたことを言わせていただければ、人間の思考には大ま
かに「目的的思考」と「体系的思考」があります。制度解説などは既存の制度
体系を踏まえた体系的思考であるのに対し、ピアグループワークの思考は参加
される方々の言葉から出発して展開していく目的的思考です。ピアグループワ
ーク開始前の心の構えとしてある程度時間をかけて目的的思考モードにセッティ
ングしてつどいに臨んでいるのに、突然体系的思考に引き戻されると拍子が狂っ
てしまうということがあります。また、体系的思考からは批判的、分析的な言
葉遣いが生じやすく、それも結果的に共感を分断したり一般論のふりかざしに
なったりしてピアグループワークを失敗させるもととなってしまいます。

 いろいろな意味で今回のつどいは惨憺たるものとなりました。しかし、落ち
着いて考えてみると、先人たちもこのような失敗を繰り返しながら、苦労しな
がら時間をかけて先の3つのルールを結晶化させていったのに違いありません。
通らなければいけない道を通っただけなのかなと思い直すと同時に、3つのルー
ルの簡潔明瞭な表現の奥にある深い含蓄にあらためて気づかされました。





2016.06.11.

時速30kmの福祉(第178回)

 前回に引き続き「政治がらみ」の内容となってしまいますが、富山市議会議
員報酬を月額60万円から70万円に引き上げる議案に関して今月9日複数の
新聞記者が各議員に個別取材していたところ、そのうちの女性の記者1名が見
とがめた市議から押し倒されて取材メモを奪われるという事件が発生、新聞社
側は暴行と窃盗の容疑で直ちに富山県警へ被害届を提出したと複数のメディア
が報じました。

 10万円大幅引き上げというのも驚くことですが、それにも増してメディア
の取材を明らかな暴力によって阻止するなど通常あり得ないことがごく身近な
地方議会で起きてしまった衝撃は図り知れません。

 もっとも、この報に接することで、当方自身、議員の資質にかかる驚くべき
経験を何度かしてきたことを思い出しました。

 ひとつは、首から下が自由に動かない重度の障害のある方といっしょに富山
市の障害者介護サービスの制度改善をお願いしに議会の各会派を回ったときの
ことです。制度の何が問題なのか解説した手製のチラシを受け取った一人の議
員が、介護保険法上の介護支援専門員である当方に対して、「こんなことをし
ていたらそのうち事業所の指定を取り消されるぞ」と、顔の表情こそ穏やかで
したが、明らかに脅しの意味を込めて言い放ったのです。この議員は後の選挙
で落選し、その後他界していますが、落選するにはそれなりの理由があったの
だろうと思います。このときにわれわれの側に立って富山市の施策の問題に向
き合ってくれたのは、今は故人となられた志麻愛子議員ひとりだけでした。わ
れわれが指摘した問題は、その後厚生労働省から新たな通知が発出され、運用
の改善という形で解決しました。

 もうひとつは、生活保護基準を下回っている高齢者親子とともに申請手続き
のために担当課を訪れた折、なぜか議員が話の中にはいり、保護ではない手段
で解決するよう市の職員に促すということがありました。当方が受給要件を満
たしていると考える旨説明すると、その議員は当方に向かって「おまえの顔を
見ていたら吐き気がする!」と怒鳴りつけました。およそ初対面の相手に言え
る言葉ではないですし、ましてそう言われるような心当たりもなかったもので
すから、大変驚いたことを覚えています。この親子は、少し時間を置いてそれ
ぞれ別々に保護受給に至りましたが、この議員の介入がなければもっと早く不
安定な生活から抜け出せたはずです。当方の感覚では、議員というより人間と
してどうかと思うところですが、この方はなぜか選挙を勝ち続け、現在も議員
を続けています。

 今回の事件について報じた新聞のひとつに、議員のなり手がいないのは報酬
の安さが問題なのではなく、一般社会では通用しない常識、議会の中でしか通
用しない常識に蝕まれる不条理が嫌われているからではないかという鋭い指摘
がありました。選ぶ側も、選ばれる側も、今回のことを他人ごとだと思ってい
てはいけません。





2016.05.25.

時速30kmの福祉(第177回)

 もう随分と前のことになりますが、ケアマネジメントの制度改善を求める目
的で、国会に議席を有するすべての政党の議員の方々に手製の提言書を届けに
行ったことがあります。舛添要一さんのところには二度、一度は自民党に所属
しておられたとき、次は離党されて後に参りました。いずれもご本人には会え
ませんでしたが、秘書の方々がとても礼儀正しく、丁寧な対応をしていただい
た記憶があります。もしかしたら、とある議員の秘書の方があまりにも横柄で
あったため、その反動で印象が極端にぶれたのかもしれません。また、以前ご
自身のお身内の認知症ケアの体験を語られたことがあって、体験した人の身に
なってものを考えてくれる人に違いないと当方が勝手に思いこんでいたという
ことがあるかもしれません。あるいは、世界を二分する冷戦体制が崩壊する前
から、当時メディアに露出している知識人の中では極めて早い段階で冷戦体制
崩壊後の民族対立に注意を喚起しておられた姿を見て、とても先見性の高い人
なのだろうという印象を当方なりに持っていたことが影響したかもしれません。

 その舛添さんが、いま東京都知事としての資質を問われています。連日報道
で暴露される内容は目を覆うばかりの次元の低さで、これまでどちらかという
と悪い印象を持ってこなかった当方としては、報道に接するたびにこれは本当
のことなのかと日々驚き、気持ちが沈み込んでしまいました。

 なぜ、非凡な高い知性を有し、経済的にも恵まれ、社会的に確固とした地位
を確立した人が、誰の目から見てもおかしいと責められるようなことをなんの
ためらいもなく行ってしまったのか・・・。当方のような者には推し量るすべ
もありませんが、ただ1点、もしかしたらと思うことがあります。それは、
「知的エリートのおごり」です。自分は他者よりも優れていると自己認識して
いる人は、自覚すると否とを問わず他者を劣った者と見下してしまい、社会全
体の規範や徳義であっても自身の判断に比べれば下位であるかのように考え、
振る舞ってしまう。知的な能力の高い人には多かれ少なかれ起こり得ることで
すが、ほとんどの場合はその危険を自ら自覚し、行動を修正するので問題は起
きない。それがたまたま修正の機会を得られぬまま膨脹してしまったらどうな
るか・・・。

 政治とは何か、については所説ありますが、もし「虐げられる人が一人もい
ない社会を作ることが政治」であるならば、それを志す人は、虐げられる側、
差別を受ける側、見下される側に立たなければならないはずです。自分がその
虐げられる側の最後の一人となるまで闘争する覚悟を持たなければならない。

 他者を見下す者が政治を行えば、他者が見下される社会になります。正しい
か間違っているかの判断よりも損か得かの判断を優先する者が政治を行えば、
権力者とその身内だけが得をする間違った社会になります。

 選挙とは、「誰に政治を委ねるか」を決めることではありません。「誰とと
もに政治を行うか」を決めることです。試されているのは立候補した人物では
なく、有権者ひとりひとりの見識であり、社会的責任を最後まで背負う覚悟が
あるかどうかです。





2016.04.16.

時速30kmの福祉(第176回)

 報道によれば、本年3月25日、会計検査院が、独自の実態調査の結果ケア
マネジャーによる利用者の「囲い込み」行為の横行が明らかになったとして、
これを抑止する実効性のある対策を講じるよう厚生労働省に対し求めたとの事
です。厚生労働省は、これまで特定事業所集中減算というしくみで「囲い込み」
を抑止できると説明してきましたが、会計検査院はこれを「機能していない」
とばっさり切り捨てました。そればかりか、減算逃れのための工作を行う事業
所が続出してしまい、特定事業所集中減算というしくみ自体が現場の倫理を荒
廃させていることまで指摘しました。

 ケアマネジャーによる「囲い込み」行為を抑止するためには、ケアマネジャー
がサービス事業者と利害関係を持たない第三者機関となる必要があります。北
米の高齢者ケアマネジメントの専門職能団体であるNAPGCMでは、第三者
性の担保のために厳しい実践倫理基準を設けています。これを範として、日本
よりも後から高齢者ケアシステムを整備するようになった諸外国の専門職能団
体も、自国内のシステム下で第三者性を担保する努力を行っています。

 翻って日本国内の状況はどうか? 過去20年間のケアマネジメント関連の
文献や研究者の発言などを詳細に調査すれば客観的に明らかになることですが、
第三者性の担保の必要性についての認識が著しく欠如しています。

 かつて「独立・中立型介護支援専門員全国協議会」の設立に携わり、副代表
として厚生労働省に赴いて囲い込みの実態を訴え、「第三者機関主義の段階的
法義務化」を政策として採用するよう強く求めたことがあります。しかし、厚
生労働省が示した答えは「特定事業所集中減算」の創設でした。当時の老健局
長は、「特定事業所集中減算というしくみは、利害関係のあるなしに関わらず
すべての事業所をパーセントで縛るので第三者機関主義よりも優れている」と
発言しました。これに対しわれわれは、「囲い込みの免罪符となってしまいか
えって倫理を荒廃させる恐れがある」と反論しました。あれから10年以上経
過し、会計検査院はいずれの主張が正しかったかを悲しいまでに証明しました。

 厚生労働省は、確かに間違えた。そして改めなかった。それは、責められる
べきことです。しかし、責任はひとり厚生労働省にあるのではありません。む
しろ、もっと重い責任を自覚しなければならない人々がいます。「囲い込み」
が社会実態として存在すると知りながらつい最近まで「気づかなかった」ふり
をし続けてきた人々、政策が間違っている場合はそれを厳しく批判し、ではど
うすれば正しくなるのかを理論的に明らかにする義務を有しているのにそれを
怠った人々、倫理に違背することを知りながら己の利益を求め続けた人々です。
彼らは、この期におよんでまだ抵抗を続けています。油断すれば今よりももっ
と悪質なしくみが生み出される恐れすらあります。





2016.03.13.

時速30kmの福祉(第175回)

 今回は海外の話になりますが、イギリスの公的医療保障制度(ナショナル・
ヘルス・サービス、略してNHSといいます)が危機に瀕しています。そこで、
医療関係者が音楽関係者とともに、「このままだと危ないぞ!」と国民に注意
を喚起し、「いっしょにNHSを守ろう!」と歌で呼びかける運動が拡がって
います。インターネット上では、カタカナで検索してもまだ出てこないようで
すが、「national health singers」で検索すると、ユーチューブやツイッター
などでその様子をかいま見ることができます。英語がよく分からなくても、雰
囲気で感じ取れるものがあります。

 歌の内容は簡潔明瞭です。
・何十年も国民を守ってきたNHSという医療システムが危機に瀕している。
・NHSを救ってほしい。
・NHSは国民ひとりひとりのもの。医療従事者は国民ひとりひとりのために
 働くもの。
・われわれ医療従事者と国民は同じなかま。
 メッセージは反復するメロディーにのって広まり、人々の耳にとまり、人々
に考えさせ、行動を起こさせます。

 NHSの機能不全は、イギリス国内の政治的・経済的な問題に根ざしていま
す。それは医療従事者が真に国民のために働くことを妨げています。そのこと
に国民が気づいて、医療従事者とともにNHSを守ってほしいと訴えてきます。
「だまっていてはダメなんだよ」と歌声で呼びかけてきます。

 視聴すればただちに分かることですが、音楽性、芸術性という観点から鑑賞
に耐え得る高い水準です。また、メッセージ性という観点からも「かんどころ」
をよく押さえていて、ケアの双方向性やナラティブベースト・アプローチに対
するイギリスの医療従事者の深い理解を証明しています。彼らはほんとうに国
民「とともに」歩んでいます。

 このような動きを見るにつけ、日本との違いを感じずにはおれません。日本
では、政府からの上意下達の末端にいるかのような振る舞いをする医療・介護
従事者、ソーシャルワーカーのなんと多いことか! 政策サイドが現場と国民
を「分断統治」する政策をとっているからとはいえ、専門職の学びが本当に確
かであればここまでの体たらくにはならないはずです。歌の力を用いるという
道具立てや芸術的な洗練度といった「形の部分」はむしろ些末なことで、精神
的な意味においてもっとはるかに大事なものの欠落を知らされているように思
えてなりません。

   To care for you,
   Is what we do,
   So hear us now we need you too
   We stand as one
   Together we're strong

(参考情報)
・ナショナル・ヘルス・シンガーズ
 http://www.nationalhealthsingers.co.uk/
 https://www.youtube.com/watch?v=ZCERT7v95f8





2016.02.22.

時速30kmの福祉(第174回)

 当方は、介護などに関する相談員です。ご相談をお受けする相手は、介護を
必要とするご本人やご家族であることが専らです。しかし、それとは別に、介
護の現場で働く方々などから個人的なご相談をお受けすることもよくあります。

 相談の内容は、その方その方で様々です。大学で専門教育を受けて現場に入っ
たけれども、現場の実態が教わったこととかけ離れていて自分の力ではどうす
ることもできないという悩みを語られる方。逆に、全く専門教育を受けず、た
だ家計を助けるためにたまたまこの業界に入ったけれども、実際に働いてみて
どうも違うんじゃないかという違和感を持ったという方(その違和感は外の世
界の常識に照らしたものであり、閉鎖的になりがちな業界の問題を的確に捉え
ていることが珍しくありません)。仕事の内容ではなく、職場の人間関係や経
営サイドとの軋轢に悩んで消耗しているという方。またその逆に、経営の側か
ら見て制度のおかしさや行政の対応に憤っている方もあります。

 それぞれお立場が違い、また悩みの内容も違うのですが、一つだけ共通して
いることがあります。それは、「本当はこのままではダメだ」という思いです。
「本当はこうでなければならないはずだ」という理想の形がイメージできてい
るのに、現実をその方向に変えていくことができないという悩みです。

 つい先日も、「闘うべきか、それとも辞めるべきか」という深刻なご相談を
受けまし た。闘う相手というのは、経営者でも同僚でもサービス利用者でも
なく、「荒廃したケアの文化」なのだそうです。純粋な心の持ち主でなければ
悩まないことです。

 当方は、「それは他人に聞いて決めることではありません。自分で決めてく
ださい」と突き放しました。が、その後で「参考になると思いますので・・・」
と、リンダ・クライアット・ウェイマンさんのプレゼンテーションを日本語字
幕付きのユーチューブで視聴するようお勧めしました。

 リンダさんは、幼少期を貧しい地区で過ごし、荒廃した学校で子どもたちの
心がどのように傷つくのかを身をもって体験され、長じて教員となって後は進
んで貧しい地区の学校へ校長として赴き、教員の意識改革と子どもたちの心を
支える活動に取り組まれました。リンダさんと子どもたちとの関係は、教える
側と教わる側のギブアンドテイクの関係ではなく、自分も同じ体験をした者、
同じ立場だと言います。そして、愛されること、尊厳が守られることで人は人
として大きく成長できるのだと力強く説きます。リンダさんの言う「学校」を
「介護現場」に置き換えて考えてみたらどうだろうか、という当方なりの提案
でした。

 午前中にプレゼンテーションの視聴をお勧めして、その日の深夜には「観ま
した」とメールが入りました。その文面から推して、どうやら、闘わない理由
はない、ということが分かられたご様子でした。

※リンダさんのプレゼンテーションは、TEDの公式サイトでも視聴できます
 が日本語字幕はありません。





2016.01.01.

時速30kmの福祉(第173回)

 昨年末、夫婦別姓を認めない現行法は憲法違反だとして争われた裁判で、最
高裁判所は「現行法は憲法に違反しない」との判決を出しました。これに関連
して、個人的に以下の3点について「ズレ」を感じました。

(1)人権感覚のズレ

 ひとつは、判決が出た後の街頭インタビューで、「私は結婚したら夫の姓に
したいと思うので今のままでいい」と答えている女性がいたことです。「自分
の身に置き換えて考える」という言葉の意味が、とてもズレている。もしも、
白人と黒人が別々のバス席に乗らなければならない法制度について意見を求め
られたときに「私は白人だが今のままで何の不都合も感じないから制度を変え
なくて良いと思う」と発言する人がいたら、その人は人権感覚をひどく疑われ
るでしょう。差別される苦しみへの共感(コンパッション)力を培う教育(人
権教育)が疎かになっているように思えてなりません。また、このような街頭
インタビューを流して何も違和感を感じないメディアの感覚はどうなっている
のか? 受け手に伝えなければならない肝心なことをすっかり抜け落としてい
るように思えてなりません。

(2)憲法観のズレ

 憲法は国家に先立ちます。国家の定める法律は、憲法で保障された基本的人
権を原則として制約してはならず、例外的に制約する場合も、こと精神的自由
については「より制約が少ない他の選び得る手段(less restrictive alternative)」
がある場合は、そちらを選ばなければならないとされています。選択的夫婦別
姓というアイディアは、同姓を望むならば今までどおりにすればよいだけであっ
て、同姓を望む人の権利を新たに制約するわけではありません。別姓を望む人
が正当な理由なく制約を受ける今の制度と比べてより制約が少ない事はあきら
かです。現行制度により侵害されている人格権や営業上の利益が、より負荷の
少ない制度に変える事によって侵害を免れるのであれば、国家は制度を変えな
ければならない。それが憲法というものです。しかし、最高裁判所は、説得力
に優る反対意見を数で葬り去ってしまいました。判旨には「立法が考えること」
と言い訳が付されていたようですが、その立法がおかしいかどうかを判断する
ことが求められての裁判であったわけで、司法の役割を果たしていないと批判
されても仕方のない判決であったと思います。

(3)日本的価値観のズレ

 また、立法側の姿勢として、夫婦同姓が日本固有の歴史的伝統であるかのよ
うな主張をする人がいるようですが、それは明治以降にでっち上げられた観念
です。西欧列強から侵略を受けないためのでっち上げは、当時は必要であった
かもしれません。しかし、現在そんな嘘をぶりかえしては、かえって国家の信
用にかかわります。いま政策サイドが熱狂している国家主義的な言動は、明治
より前の本当の日本人の心とズレている。あのような傲慢な振る舞いは、日本
人の心を出発点として説明をすることができない。やっていることがアメリカ
ンプラグマティズムそのもので、日本人の着ぐるみを着たアメリカ人の振る舞
いのように思えてならないのです。





2015.12.14.

時速30kmの福祉(第172回)

 冬の交通安全週間に入り、このところ毎朝信号交差点で黄色い旗を持って立っ
ています。視界を遮るような大きな建物のない田舎のこと、剣岳を真正面に遠
くの立山連峰と向き合う形になります。この時期は日の出の時刻が遅く、丁度
交差点に立っている時間帯に山際が白み始めます。雲のない空に光が貫き通る
瞬間の美しさは、うっかり信号が切り替わるのを見落としそうになるほどです。

 ところが、やっかいなことに、日の出からしばらくの間は陽光が低い角度で
差し込むため、車を運転される方々にとっては赤・青・黄色のすべての信号が
反射光で点灯しているように見えてしまいます。信号の変わり目が分からず、
間違って赤で進みそうになったり、逆に青に切り替わっても気づかない方がと
きどきあり、そのたびにこちらから合図を送って知らせるようになりました。

 このような合図は、コミュニケーションの一種ですが、そうこうしているう
ちに運転している方の中にお辞儀をされる方が現れました。それにこちらもお
辞儀で返していると、今度は後ろから来た人がそれを見て「毎朝ごくろうさん
です」という表情でお辞儀をされるようになりました。その人にもお辞儀をし
ているとまたその後ろの方がお辞儀をする。車はどんどん通りすぎますので、
運転される方は1回だけですが、交差点に立っているこちらは車が通るたびに
お辞儀をしているような格好になり、事情を知らない人がはた目でみるとなん
だか変な動きをしている人間が交差点に立っていることになります。

 そういう妙な目立ち方をしているうちに、今度は当方が仕事であちこち回っ
ているときに、たまたま当方の顔を見つけた人が、はっとしてシートベルトを
慌てて締めるという光景を度々見かけるようになりました。警察官のように取
り締まり権限を持っているわけでもない当方の顔を見て、シートベルトを締め
ないことが一人の人間を裏切っていることになるという後ろめたさにご自身が
耐えられないご様子。その生真面目な行動を見て、逆にこちらが「自分はそん
なに品行方正な人間ではないのに」と後ろめたさを感じてしまいます。

 コミュニケーションというと、もう一つ気になるのが登校する小学生たちの
挨拶。大人たちは、あるときには元気よく挨拶をしなさいと言い、別のときに
は知らない大人との会話には気をつけなさいと言うものだから、大人とどう接
すればよいのか混乱します。横断歩道を渡る子どもたちは、気づかないふりを
してだまって通り過ぎようとしたり、それではなんだか後ろめたいという中途
半端な迷いをにじませて通り過ぎます。中には目が合ってしまって、どうしよ
うと一瞬考え、あるときはだまってお辞儀をしたり、あるときは「おはようご
ざいます」と声を出して、でもこれで良かったかなとちょっと思いながら通り
過ぎていきます。

 交差点は、車や人間の身体だけではなく、心が行き交う場所です。





2015.11.23.

時速30kmの福祉(第171回)

 11月半ば、深夜から早朝にかけて、日本のメディアが全く反応しないのと
は対照的に、イギリスBBC放送はフランスパリで発生した同時多発テロの臨
時ニュースを流し続けました。犯人の一部が未だ逃走中で混乱するなか、パリ
市民たちは死傷者の多かった事件現場を次々に訪れて献花を捧げていました。
一般市民と見える若い女性が、「なぜここへ来たのか?」とのメディアの取材
に、「わたしが普段通りに生活していることを示すため、そしてコンパッショ
ンを明らかにするため」と答えていました。こんなに若い人が、やわらかな普
段どおりの言葉で、しかも簡潔明瞭な表現で即座に応じていたことに「これぞ
フランス!」とうれしくなりました。

 コンパッションというのは、日本語では「共苦」と訳されることがあります。
その意味は、「人間の力ではどうしようもない悲しみや苦しみを、みんなで分
かち合って背負うということ。そして、人間の力でなんとかなる悲しみや苦し
みは、放っておかずに無くしてしまうということ」です。コンパッションはケ
アの根幹であり、ケアそのものと言っても過言ではありません。

 世界経済は富を求める強者同士の争いにまみれています。そして、それぞれ
の国内では他人を貧困化して富を得る構造によって、多くの国民が疎外され悲
しみと苦しみの淵に追いやられています。しかし、その状況を変えるためと宣
して自分が新たな強者になろうとするならば、結局誰かが誰かを手段化する構
造自体を追認することとなり、仮にその企てに成功したとしても、次にまた疎
外され怒りを蓄積する人々が現れては闘いを挑まれてしまうでしょう。それで
は際限がありません。

 状況は変えなければならない。しかし、それは、強者が入れ替わる変化では
なく、「誰も手段化されない構造」へと転換する変化でなければならない。わ
れわれは強者になろうとするのではなく、強者の席を譲られても着かず、ただ
他者を己の手段としないように気をつけて生きること、ひとり一人がそのよう
に生きることがコンパッションを明らかにし、ケアで満たされた世界を創造す
ることです。状況とはその人自身であり、一人の生きる姿が変化そのものです。

 ひるがえって日本の国内状況を観ると、大阪では変化を求める人々が府と市
の長を選びました。この変化が、強者が入れ替わるだけの変化か、それともそ
うではないのか。結果は時を経れば分かることですが、もし前者であったなら
ば、票を投じた人たちはもう一度本当はどのような変化が必要であったのかを
考え直さなければいけません。

 また、国家全体のありようとの関係で言えば、主要な閣僚のひとりが「赤字
国債で社会保障費を賄うことは不道徳である」旨の発言をしたと報じられてい
ます。社会保障を消費税で賄うと言って導入し税率を引き上げ、その税収は社
会保障以外に振り向け、あげくの果てに赤字国債と結びつけて不道徳と断罪す
るとは! その言葉遣いにとても驚かされました。復興予算と言いオリンピッ
ク関連予算と言いながら無関係に垂れ流されるのは、原子力産業や兵器産業の
もうけ口にするためだけに投じられるのは、いったいどこから来た金なのか?
本当に不道徳なのは誰なのか?

 社会保障を削減するということは、他人を貧困化して富を得る構造を強化す
るということです。政策の優先順位をただし、無駄を厳しく削って本当に必要
なことへと振り向けなければいけません。これは、「人間の力でなんとかなる」
ほうの問題です。

 フランスの件の若い女性は、「コンパッションを胸に日々の暮らしを丁寧に
生き続けることが大切」ということと、「目指すべき変化の源泉はコンパッショ
ンにこそある」ことを明晰な言葉で語りました。当方自身も、その同じ道を歩
いていきたいと思います。





2015.10.20.

時速30kmの福祉(第170回)

 清少納言の鋭利な言葉が枕草子第七十段で切り取った束の間の夕映えの美し
さ。現代の詩人長田(おさだ)弘さん(故人)は、色あせぬまま手渡されたそ
の心象風景を、「一千年よりも長い束の間」と表現されました。長田さんは、
言葉、とくに日本語という言葉には、一千年の時を超えても人から人へ「言葉
にならない大切ななにか」を伝える力があると断言されます。長田さんの言葉
は、嘘にまみれたこの世界に生きて、だまされてもだまされても、それでも
「もう一度だけ」言葉の可能性を信じてみようかな、という気持ちにさせてく
れます。

 ある方が、国の政策で生活保護支給額が下がったため生活が大変になり、少
しでも補いをと考えて通院に要する交通費の支給を新たに申請しました。とこ
ろが、いくら待っても支給決定の声が聞こえてこない。不思議に思って当方か
らどうなっていますかと問い合わせたところ、なんとご本人から申請の辞退が
あったので支給はしていないとの回答がありました。びっくりしてご本人に尋
ねたら、辞退すると言った覚えはないとのお返事。なにがどうなっているのか?
福祉事務所にあらためて問い合わせたところ、通院交通費の額が高額の場合は
認められるが今回のような低額(往復600円)の場合は支給されないとか、生活
費としてすでに支給している範囲でやりくりするものだという趣旨の話があり
ました。これに対し当方からは、制度上は金額の多寡は支給条件とは関係ない
ことや、通院移送費は医療扶助から支給されるもので既に支給を受けておられ
る生活扶助に含まれない事を書面と口頭で繰り返し説明しました。しかし、全
く聞き入れてもらえない。そこでやむを得ず心ある弁護士さんに対応を依頼し
てみたら、今度は四の五の言わずすんなりと支給が認められました。同じこと
を言っているのに、なぜご本人やケアマネジャーならダメで弁護士だったらO
Kということになるのか・・・。当方にはとうとう最後までその行動の論理が
理解できませんでした。

 制度に精通していないご高齢の方の場合、福祉事務所で制度上認められない
かのような説明を受けたら、そうなのかなと思ってしまう。そう思ったことを
もって申請を辞退したという扱いにする。これはほとんど詐欺と同じ言葉遣い
ではないでしょうか? たまたま巡り会った窓口担当者や福祉事務所長の人生
観や価値観の違いで支給の可否が左右されてしまうのでは、法的安定性も法的
権利もあったものではありません。支給の可否は法令で定められた基準のみに
基づき、誰が担当であっても同じ条件の人には同じように判断しなければなら
ないものです。

 今回のような場面に巡り会うたび、言葉が意味から切り離され、他人をだま
す道具に成り下がっている社会のあり方に危惧の念を抱きます。その反面で、
瞬きほどの権力の栄枯盛衰をすり抜けて一千年よりも長く光を放ち続ける夕映
えがある。そこにこそ真の言葉の姿があると思えば、目の前の泡沫(うたかた)
に惑わされず、本当の思いを本当の言葉にのせて次の人に手渡せるような気が
してきます。

(参考情報)
・長田弘「本に語らせよ」幻戯書房2015年





2015.09.06.

時速30kmの福祉(第169回)

 お盆の墓参りの道すがら、高山市国府町にある安国寺を訪れました。日本屈
指の古刹で、元々は少林寺というお寺でしたが、室町時代になって安国寺に作
り替えられました。盛時には七堂伽藍を擁する大寺院でしたが、現在では日本
最古の八角輪蔵を蔽う経蔵などがこぢんまりと山中に佇んでいます。山門の手
前の掲示板には、「死んじゃったらもうもどれんよ。たった一度の人生だよ」
と禅寺らしく飾り気のない墨書が貼られてありました。その奥には、「大原騒
動義民之碑」と刻まれた石碑がありました。大原騒動というのは、丁度フラン
ス革命と同時代に起きた飛騨全域(白川郷を除く)に及ぶ農民を中心とした一
揆です。明和、安永、天明と三期のピークがあり、最終的には親子二代にわた
る飛騨代官(後の郡代)の悪行が断罪されるのですが、農民の側も松平定信に
駕籠訴をした者は死罪となりました。もっとも悲惨だったのは安永騒動で、史
料によれば蜂起したのは数千から一万におよぶ農民。近隣四藩(富山藩を含む)
に鎮圧要請があり、うち郡上青山藩勢が夜半に高山から国府へ進軍、明け方か
ら急襲捕縛を始め、神域は安全と教えられてなんの用意もせず飛騨一宮水無神
社に集まった農民たちの頭を十手で打ち割り、刀で袈裟がけに斬りつけ、服や
膝を突き通し、逃げる者には鉄砲組が火ぶたをきるという徹底した弾圧を行っ
たそうです。

 その飛騨一宮水無神社や当方の訪れた安国寺の他、この地方のあちこちに大
原騒動義民顕彰のための碑が建立されています。大原というのは地名ではなく、
件の代官の名前です。正義がどちらにあったかを顕して多くの犠牲民の魂を鎮
めるとともに、悪行を犯した者の名を永久に晒すという「恨み晴らし」の意味
があるのかもしれません。

 お盆で人の姿も珍しい山里の境内を巡りながら往事の様に思いを馳せました。
山門を出て、掲示板にもう一度目をやり寺を後にしました。





2015.08.13.

時速30kmの福祉(第168回)

 この「時速30kmの福祉」では、毎年8月は戦争の話題になります。しか
し、今年の8月は例年とは異なる意味で戦争について触れなければいけません。

 白井聡さんという研究者の方が、「永続敗戦論」という考え方を提示されて
話題になっています。御著書の言葉に即して忠実に述べなければならないとこ
ろですが、紙幅の都合により当方の言葉で勝手に言い換えて要約(もしかして
「誤訳」していたらすみません)すると、

・戦後の日本は、「アメリカに従属していればこんな良いことがある」と世界
 に宣伝するための「逆見せしめ」の効果をアメリカから期待され、その期待
 に応え続けてきたこと
・戦後日本の保守政治にタカとハトがいたのではなく、そのときどきのアメリ
 カの都合でタカとハトの着ぐるみを交代で着せられたニワトリしかいなかっ
 たこと
・それらの事実を心理的に直視できなかった戦後の日本国民は、分かってはい
 たけれどもみんなで気づかないふりを通してきたこと
・その結果、戦後の日本政府は「アメリカからのお仕着せ」だとアメリカ自体
 には面とむかって絶対に言わず自国民に対してのみ威勢のよい宣伝をするよ
 うになっていったこと
・しかし、その宣伝は、自国民の表面的なプライドを保つことやアメリカへの
 従属という本当の姿を隠すことには役立った半面、アジアの戦争被害国の国
 民感情を著しく傷つける結果となったこと
・とは言うものの、これを収拾したくてもいまさら「嘘でした」とは言えず、
 解決方法が見つからなくなっていること
・冷戦構造の終結や中国の台頭、イスラム世界の変容などと連動してアメリカ
 の日本に対する態度がこれまでとは変わってきており、アメリカから見て
 「日本の利用価値」は相対的に減少していること
・日本人が今般の安全保障関連法案を成立させ、あいも変わらず属国の奴隷扱
 いであることに「とんと気づいていないふり」をして己をごまかし続けよう
 とすれば、自分とは関係のない戦争に巻き込まれ、二度目の「敗戦」を経験
 する歴史上稀代のピエロ民族となること

 などがわかりやすく書かれていました。

 ところで、そんな日本人でも、「気づいていないふりを続けることが止める
ことよりも自分にとって不利益になる」と考えたか、あるいは「正義に悖(も
と)る」と考えたか、その動機は人それぞれかもしれませんが、結果的に「気
づいていないふり」を止めた人たちもいます。

 人権保障の領域では、まず、日本の弁護士が、組織として法案に反対の意思
を表明しました(参考情報1)。

 日本国内の憲法学者も、個々人の意思で集い、その多くが憲法違反であると
する判断を明らかにしました。

 また、中東研究者105名が「私たちも憲法学者に続く」として法案に反対
の意思を表明しました(参考情報2)。

 社会保障の領域では、医療や介護、福祉の関係者個々人が反対署名に集い、
その意思を明確に示しています(参考情報3)。

 もっとも、個々人の粒立った動きとは裏腹に「ケア」や「福祉」を専門とし
ている学会や専門職能団体は、先頭を切らなければいけないのに後にすら続い
ていないように思います。7月の時点で参議院での慎重審議を求める声明は出
していますが、反対の意思表示はなされていません(関連情報4)。8月には
社会福祉系学会会長共同声明が出されましたが、これも学会としての「危惧の
表明」と「内省の表白」に留まり、反対の意思表示はなされていません(参考
情報5)。憲法学者の人たちとは違って、まだまだ「半分気づかないふり」を
しています。

 もっと問題なのは、ケアマネジメントを専門に研究している人や当事者の団
体が、本稿を書いている8月13日の時点でも全く発言していないことです。

       ケアマネジメントは誰のためにあるのか?

 もし、彼らがケアマネジメントはケアが必要な人びとのためにではなく、国
家のためにあると考えているならば、国家が行おうとすることに異議を差し挟
むことはないと思います。しかし、もしケアマネジメントはケアが必要な人び
とのためにあると考えているのであれば、憲法学者や社会福祉系学会の人びと
が危惧するのと同程度の危惧を持たなければならないはずです。「平和なくし
てケアマネジメントなし」と何故言えないのか。「気づいていないふり」は後
の世に見苦しさだけを残します(参考情報6・7)。


参考情報
(1)日本弁護士連合会「安全保障法制等の法案に反対し、平和と人権及び立
   憲主義を守るための宣言」
   http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/assembly_resolution/year/2015/2015_1.html

(2)「安保法案」に反対する中東研究者のアピール
   https://www.facebook.com/ccisjapan?fref=nf#!/ccisjapan/photos/pcb.968289116561154/968287836561282/?type=1&theater
   https://www.facebook.com/ccisjapan?fref=nf#!/ccisjapan/photos/pcb.968289116561154/968288013227931/?type=1&theater

(3)安全保障関連法案に反対する医療・介護・福祉関係者の会
   http://heiwa-inochi.sakuraweb.com/

(4)安全保障関連法案衆議院採決に関する声明
   http://www.jacsw.or.jp/05_seisakuteigen/files/015/0150806.pdf

(5)戦後70年目の8月15日によせて
   http://www.jssw.jp/whatsnew/doc/20150810_ww2.pdf

(6)日本ケアマネジメント学会
   http://www.jscm.jp/

(7)一般社団法人日本介護支援専門員協会
   http://www.jcma.or.jp/





2015.07.16.

時速30kmの福祉(第167回)

 今月14日のこと、NASAの無人探査機「ニュー・ホライズンズ」が冥王星にお
よそ12,500kmまで最接近したと報じられました。軌道計算をはじめ、自然科学
の高度な知識と技術の蓄積があってはじめて実現したことですが、その蓄積を
一番下で支える土台となったのが「地動説」です。

 地動説は、既に紀元前の古代ギリシャに萌芽を見ることができますが、コペ
ルニクスにより再発見されるまでは天動説が「あたりまえ」でした。その後ガ
リレオ・ガリレイが自分で開発した新型望遠鏡を駆使し、「もし地球がまわっ
ていたら月が遠くへ離れていくはずだ」という当時の「あたりまえ」を、木星
のまわりを衛星が付き従ってまわっている観察事実をもって覆しました。その
後ローマ教皇庁の異端審問で有罪判決を受けましたが、当然地球が回転を止め
ることも、科学が歩みを止めることもありませんでした。有罪判決はガリレオ
の死後350年目の1992年に誤りと認められ撤回されました。

 自然科学の発展と比較して、大変恥ずかしいことになっているのが社会科学。
人間社会をどのように理解すべきか、どうやって人びとが幸せに暮らしていけ
る社会を作るか、肝心な問題に対する答えを見いだせないままです。もっとも、
「戦争を永久になくすにはどうすればよいか」という一番重要な問題について
は、ドイツ観念論哲学の祖イマヌエル・カントが1795年に「永遠平和のために」
と題して答えを提示しています。

 たとえば、国家間で別々の意味に解されるような表現の合意文書を作成しな
いこと、軍隊の存在は他国が脅威と感じてお互いに軍拡競争になるしお金がか
かって財政を危うくするし軍隊が行うことはどう正当化しても破壊と殺戮であ
るから軍隊は段階的に廃止すること、国家の運営を一部の人びとだけに委ねず、
情報はすべて国民に公開されるようにし、国民がその情報を元に政治を主導す
ること、そういったいくつかの約束事をすべての国の人が守れば、戦争を永久
になくすことができると解明しました。しかし、「戦争は未来永劫なくならな
い」が為政者にとっての「あたりまえ」であり続ける限り、カントの処方箋は
思考実験にとどまり、現実社会を大きく変える実験には転換しません。逆に、
カントの説に反する平和実現の手法は、現実の社会に適用する大実験(戦争!)
で惨憺たる失敗を繰り返しています。

 自分たちの信じている神が一番エライとか、自分たちの民族が一番優れてい
るとか、世界の中心をきどって人びとは争いますが、その人たちも、300万年前
はみんなサルでした。いい加減なところで頭の中も進化した方がよい。「あた
りまえ」を正反対に転回し、武器を買わずに本を買い、正しい道をみなで歩き
出すときです。


(参考資料)
・カント著 宇都宮芳明訳 「永遠平和のために」 岩波文庫 1985年





2015.07.12.

 いろいろな意味で必要だと感じたので、以下再掲です。2年半前のものです。


(以下再掲)

時速30kmの福祉(2013.01.01.)再掲

 当研究所は、2002年3月に法人登記して事業を開始いたしましたが、実
は、それに先立ち、1998年3月に「社会保障と人権連絡会議inとやま」
を開設、ボランタリーな相談・支援を行ってきた経緯があります。その意味で
は、「連絡会議」は当研究所の母体なのですが、研究所設立後も、「連絡会議」
としての活動はそのまま続けています。

 さて、なぜ、冒頭にこのようなお話をしたかというと、2013年以降、ま
さに「社会保障」と「人権」について、とても大きな変化、しかもはなはだ良
くない変化の予兆を感じるからなのです。

 まず、社会保障については、生活保護基準の引き下げが取りざたされていま
す。政府は、デフレ脱却のためインフレターゲットを設定、物価上昇を誘導す
るとしています。また、消費税率を引き上げるとしています。通常、物価が上
昇し、かつ消費税が上がるという場合は、それに合わせて生活保護基準を引き
上げるものです。しかし、政府は、逆に下げると言っている。現状の水準を維
持するだけでも実質引き下げとなるのに、基準まで引き下げてしまったら、名
目以上の引き下げの効果が生じてしまいます。政府は、引き下げの理由を、最
低賃金や老齢年金との逆転に求めていますが、それは逆で、生活保護基準を引
き下げれば、それに連動して最低賃金も年金の給付水準も引き下げ圧力が強ま
りますし、所得に応じた各種の福祉的な手当や減免などの基準も連動して下が
ります。つまり、これは生活保護が必要な人だけの問題ではなく、所得格差の
一層の拡大で影響を受ける人全体の問題、社会保障の問題だということです。

 次に、人権に関わることですが、昨年暮れに、政府与党の国会議員の憲法改
正草案発言が物議を醸しました。いわく、「国民が権利は天から付与される、
義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、
というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、では
なくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしま
した」との事。一見すると、「権利」と「基本的人権」の違いや、「立法府」
と「憲法制定会議」の違い、「法律」と「憲法」の違いなど、極めて初歩的な
ところで理解を間違えている発言のように見えます。しかし、発言した人の履
歴を見れば、こういった法律論に精通した人であることが分かります。つまり、
理解を間違えているのではなく、言葉の意味を意図的にすり替えていると考え
た方が自然です。理解の浅い人が個人的に間違ったことを言うのとは異なり、
政府与党の憲法改正草案に関わっている人が、党の見解として、確信犯で言葉
をすり替えているわけで、これはかなり危険な事態であると言わざるを得ませ
ん。

 社会保障と人権がこれからどうなるのか、最前線から注視していきたいと思
います。


(再掲おわり)





2015.06.24.

時速30kmの福祉(第166回)

 6月12日(金)から14日(日)まで、横浜市内で日本ケアマネジメント
学会第14回研究大会が開催され、当方も参加しました。最終日の14日には、
今年で6年目となる「ケアマネジメントをみんなで考える会とやまのつどい」
という語り合いの会について、初回から直近の回までの内容などを当方が報告
することになっていました。

 ところが、報告として読み上げる原稿ができた後で、もう一つどうしてもそ
の場でお話しなければならないことができました。発表時間は10分、質疑応
答は5分までが限度と決められています。当初予定していた中味の何を削るか、
どのような順番で話すか、富山で準備をしている間じゅうかれこれ悩み続けま
した。しかし、どうもうまくまとまらない。とうとう、まとまらないまま富山
を発ちました。

 最初の12日は、学会でシンポジウムのやりとりを聞きながら過ごしました。
その日の晩にはなんとか形がつくだろうと安易に考えていました。しかし、13
日の朝になってもまだ納得のいくまとめ方が見つからず、いよいよ焦りだしま
した。

 考えがまとまらないときは歩く。若い頃からの習慣で、午前中の学会日程を
すべてすっぽかして、朝から横浜市内をあてもなく歩き出しました。横浜公園
からフランス山を抜け、港の見える丘公園まで行きました。旧イギリス総領事
公邸の中を巡り、あじさいの花に紛れた緑色のくつわむしに助言を請いました
が、それでも答えは見つかりませんでした。午後は学会会場に戻り、服部大会
長の講演に耳を傾けました。介護保険制度が変わっていくなかでどのような問
題が生じるか、目をそらさず見ていかなければならないという趣旨のお話をさ
れました。そのお話と、今回当方が追加でお話しなければならないこととがと
ても強くつながっているように感じました。

 明けて14日、口演当日、会場に到着してからも頭の中であれこれ考えては
まとまらず、そのままとうとう演台に立ちました。「そんなことぐらい分かっ
ているよ」と思っている人たちに対して、「実は分かっていないかもしれない
ですよ」という話をするのはとても難しいこと。それでも、どう表現すれば伝
わるのか分からないけれど、とにかくでき得るかぎり心を傾けて話すことにし
ました。話の途中、とやまのつどいの場でご家族から語られた様々なつらい体
験がよみがえり、何度も言葉に詰まってしまいましたが、何とか語り終えまし
た。降壇後、数人の方からお声をかけていただき、「気持ちはよく伝わった」
「専門職として大切なことをよく言ってくれた」との感想をいただきました。
少しは役割を果たせたのかなとほっとしました(帰富後に口演要旨を書き起こ
し、以下のページに公開いたしました)。


(口演要旨ページ)
 http://www2.nsknet.or.jp/~mcbr/kangaerukai-gakkai-kouen-20150614.pdf

※当初予定していた前号の続きは次号以降に再び採り上げます。





2015.06.03.

時速30kmの福祉(第165回)

 報道によれば、本年5月20日に開催された社会保障審議会介護給付費分科
会の場で、この4月から「特定事業所集中減算」の対象が拡大された事に対し
て厳しい批判が相次いだとの事です。当方自身、同分科会には過去度々足を運
び、実際の議論と後から報道される内容との間にずいぶん隔たりがあって驚い
た経験をしているので、この度の報道も果たしてどこまで本当のことなのか残
念ながら確証はありません。ここでは、一応報道内容が正しいものと仮定して
論じます。

 同分科会の場で批判として述べられた内容は、概ね以下のとおりです。


(1)特定事業所集中減算の対象が拡大されたため、減算にひっかかる場合は、
   たとえ質の高いサービスを提供する事業所でも減算を避ける目的でケア
   プランを変更し、別の事業所のサービスに切り替えなければならなくな
   る。その結果、サービス利用者は質の高いサービスを受けられなくなり、
   質の高いサービスを提供している事業所は選ばれなくなるという意味で
   不利益を被る。これではいかにも不合理で本末転倒だと言える。

(2)その事業所を選ぶ正当な理由があれば減算対象からはずれる仕組みでは
   あるが、手続が大変で現場での対応は困難。

(3)不適切な法人をチェックする仕組みは他にもあるはずで、特定事業所集
   中減算のような不合理なしくみは直ちにやめるべき。


 以下、当方の私見を述べます。上の(1)〜(3)は複数の委員から発言が
あったとの事ですが、その方々に共通するのは、ご自身がケアマネジメントの
実務に就いているわけではないということ(当方の誤解がなければですが)で
す。当方のような直接ケアマネジメント業務に携わっている者の立場からは、
これらの意見には相当の違和感を持ちます。

 まず(1)との関わりで指摘しておきたいのは、「質の高いサービス」と口々
に言われるのは、ケアマネジメントサービスの事ではなく、ダイレクトケアサー
ビス(訪問看護や訪問介護、通所介護などの直接ケアを提供するサービス)で
あることが話の文脈から明らかです。なぜ、「質の高いケアマネジメントサー
ビスはいかにあるべきか」を正面から論じないのか、非常に不自然で屈折した
論理展開となっています。また、「質が高い」とは客観的・具体的にどういう
事を指すのか全く説明がありません。論者の中には、「質が高い事業所」とい
う言い回しの他に、「がんばっている事業所」というフレーズも用いているよ
うですが、がんばっているかどうかはどうでも良いことです。がんばっていな
くても質の高いサービスを提供できていればそこを選べばよいし、がんばって
いても質が劣れば選ばなければよい。それだけの事です。がんばっているかど
うかを忖度すること自体情緒的であり、ケアマネジメントがそのような不確か
なもので左右されているとしたら、それこそ「質の高いケアマネジメント」と
言えるのか厳しく吟味されなければならないでしょう。「がんばっている」は
論外ですが、「質が高い」についても、当方の目から観るとずいぶん粗い視点
に映ります。

 ケアマネジャーがサービスの組み合わせを考えるとき、その判断基準はただ
一つ、「ご本人ご家族にとってニーズを充足するために最善の選択であるかど
うか」です。具体的な例として福祉用具のレンタルを例にして述べると、地理
的にその方のご自宅をエリア内にもつ事業所が複数あるとして、それぞれの事
業所の長所・短所がどこにあるのかを把握していることが大前提となります。
そして、たとえばご家族が土日にしか日中時間を割くことができない方であれ
ば、土日でも当たり前に動いている事業所であることが紹介条件として高い順
位となります。ご病態が安定せず、福祉用具の種類を頻繁に切り替える必要が
予見できる場合は、それに対応できるだけの品揃えとなっている事業所である
ことが紹介条件として高い順位となります。経済的にあまり余裕のない方であ
れば、平日営業に特化し、品揃えを犠牲にして種類を絞り込み、そのかわり同
じ品物ならばより安くレンタルできるようにしている事業所であることが紹介
条件として高い順位となります。区分支給限度ぎりぎりで超過負担が発生する
かもしれない方であれば、介護保険外の自費ベッドをレンタルできる事業所で
あることが紹介条件として高い順位となることがありますし、さらに体格やご
病状により巾が広めのベッドを要する方であれば、巾の狭い自費ベッドしか扱っ
ていない事業所か巾が広めの自費ベッドも扱っている事業所かといったより細
かな情報が決定的に重要となります。

 何を言いたいかというと、Aさんにとって最善の事業所であるからといって、
Bさんにとっても最善の事業所であるとは限らない。あくまでご本人・ご家族
のニーズがどこにあるのかケアマネジャーとの双方向の対話によって絞り込ま
れ特定されていくなかでやっと最善の事業所が明らかになるということです。
ここでは福祉用具のレンタルについて述べましたが、あらゆるサービスについ
て同様のことが言えます。このことは、現場で日々「ほんとうに」ケアマネジ
メントを行っている者であれば誰でも知っていることです。分科会委員の方の
語る「質が高い」というフレーズには、そのような重み、厚みが感じられませ
ん。本当に自法人以外の事業所個々の長所・短所をきちんと把握した上で語っ
ているとは思えないのです。「利用する相手が誰であろうとうちの法人の事業
所は質が高いから」などと平気で言えるような感覚では、少なくとも現場では
通用しません。

 次に、(2)とも関係する事ですが、「減算を避ける目的でケアプランを変
更する」とはどういうことなのか? もし本当に現在のダイレクトケア事業所
を選択することがその方にとって最善であるならば、なぜケアマネジメント事
業所(居宅介護支援事業所)の利益ではなく、その方の最善の利益を優先でき
ないのか? 委員はあたかも制度の被害者であるかのような自己認識を述べて
おられますが、倫理的二律背反の場面で、ケアマネジャーが事業所の利益を優
先してケアプランを変更し、結果的にサービス利用者が最善のサービスを受け
られなくなったという事であれば、それは被害者ではなく加害者として振る舞っ
ているのだと気づかなければなりません。アメリカのGCMの倫理基準を引用
するまでもなく、そういう場合はケアマネジャーの方を変えるという選択肢
(選択は利用者の権利!)もあることをご本人ご家族にきちんと説明できてい
るのか検証すべきです。さらに言えば、ケアマネジャーを変更しなくても、
「その事業所を選ぶ正当な理由」を述べるだけでもよいはずです。(2)では、
その理由を述べるのが「手続が大変」で「現場では困難」だと主張されていま
すが、その意味がさっぱり分かりません。ここで言う「その事業所を選ぶ正当
な理由」とは、唯一「ご本人ご家族にとってニーズを充足するために最善の選
択である」理由を証明すれば足りることです。まともなケアマネジャーであれ
ば、なぜその事業所の利用をお勧めするのか、ご本人ご家族に日々当たり前に
説明しているはずであり、それをそのまま述べればよいだけのことなのに、一
体なにが「手続が大変」で「現場では困難」なのか。仮にご本人ご家族に対し
てすら「その事業所を選ぶ正当な理由」を説明せずにケアマネジメントを行っ
ているのだとしたら、それこそ「質の高い」どころかケアマネジメントと呼ぶ
に値しない、報酬請求に値しない行いをなしているを言わざるを得ません。

   次に、(3)の批判ですが、「不適切な法人をチェックする仕組みは他にも
あるはず」と論者は言いますが、では具体的にはどんな仕組みがあるのか、論
者は述べていません。「あるはず」というだけで解決を他人任せにするのはあ
まりにも無責任です。仮にも社会保障審議会という公の場で、国家の政策につ
いて論じているのですから、その立場、その責任に見合った発言を行うべきで
す。

 以上、(1)〜(3)に対する当方の私見を述べました。ところで、上のよ
うなことを言うと、当方が「特定事業所集中減算」のしくみを擁護する立場で
あると誤解される向きもあるかもしれません。当方は、このしくみの導入が発
表された当初から、一貫してこれを批判し、反対してきました。当方自身は、
「第三者機関主義の段階的法義務化」を政策として提案し続けてきた者ですが、
これと「特定事業所集中減算」を混同して批判する人がいるのでとても迷惑し
ています。冷静に考えれば誰でも分かる簡単なことなのですが、両者はその目
的も、範囲も、効果も全く異なる別個のものです。特定事業所集中減算を囲い
込み防止の政策だと言う人がいますが、当方に言わせれば全く逆で、この論理
では「絶対に」囲い込みを根絶できないのです。また、上の(1)の批判にあっ
たような「これまで使っていた事業所を減算逃れのために変更しなければなら
ない」といった不合理は、第三者機関主義ケアマネジメントの場合は起こり得
ません。なぜならば、段階的法義務化とは、一定の基準日を設け、それ以降の
新規ケースからルールを適用するしくみであるからです。基準日前の既に出来
上がったケアマネジャーとの関係やサービス事業者との関係は、当然のことな
がら維持されます。その意味でも、とても合理的な解決策なのです。

 すでにかなりの長文となりましたので、「特定事業所集中減算」と「第三者
機関主義ケアマネジメントの段階的法義務化」との違いに関する説明は次号に
譲ることとします。                     (つづく)





2015.05.20.

時速30kmの福祉(第164回)

 5月15日に、地域限定の番組ではありますが、NHKで「ナビゲーション
なぜ起きる不正請求〜検証介護保険制度〜」というタイトルの番組が放送され
ました。同番組は17日にも再放送されています。

 この番組の中で、不正請求の原因として、系列法人の居宅介護支援事業所が
ケアマネジメントを行うため、経営者の意向でケアマネジャーが不正に荷担さ
せられている実態があると指摘されていました。このような問題提起が番組を
通じて行われる事自体は社会的に意義があり、また必要な事であると思います。
しかし、番組内で行われた問題の分析内容や解決方法として提示された内容は、
なんとも拍子抜けさせられるものでした。

 番組内では、学識経験者として、だと思うのですが、東洋大学准教授の高野
龍昭さんが登場し、コメントをしていました。当方に誤解がなければ、高野さ
んの発言の要旨は概ね以下の3点にまとめられると思います。


(1)ケアマネジメントの公正中立のために独立開業という考え方はあるが、
   介護報酬が低いので「理想ではあるが非現実的」。

(2)和光市のような地域ケア会議によってケアマネジメントの公正中立を担
   保するのは「一つの」解決策。

(3)公正中立を目指す際に、アメリカでは保険者がケアマネジメントを「第
   三者」として担っており参考になる。


 ここからは、上の3点についての当方の考えです。

 まず、(1)についてですが、高野さんは「非現実的」と言われますが、独
立開業者は「現実に」増えています。増えている理由は、上から利益誘導を強
制されることなく、損得勘定抜きで「ほんとうのケアマネジメント」を追求し
たいという気持ちがそうさせているのです。もし独立開業が「理想」であると
いうのなら、その理想を実現するために努力をしなければならないはずです。
心のある人びとは、介護保険が始まってから10年以上、公正中立なケアマネ
ジメントに対する介護報酬の引き上げを求め続け、議会に働きかけ、行政に働
きかけ、学会に問題提起し続けてきました。当方を含め、理想を実現するため
に実際に汗をかいてきた人びとであれば、「理想ではあるが非現実的」という
言葉で傍観者的に語られることに強い違和感を禁じ得ないはずです。

 次に(2)についてですが、現場に身を置く立場で言わせていただければ、
「地域ケア会議では公正中立を担保することができない」とする主張がめずら
しくなく、むしろ普通です。地域ケア会議の効用を肯定する立場の人への取材
だけではなく、批判する立場の人への取材も公平に行い、両者の主張とその根
拠をきちんと明示した上で当否を論じるのが研究者としてとるべき態度である
と考えます。

 次に(3)についてですが、当方の理解では、アメリカで保険者がケアマネ
ジメントを行うというのは、民間の保険会社が給付を抑制するために行ってい
ることで、保険料を払わせて必要なサービスを提供しないことがむしろ社会問
題となっています。アメリカのケアマネジメント研究者や実践者、わけてもソ
ーシャルワークをベースにケアマネジメントを考えている人びとは、そのこと
をとても怒っていて、「あれはケアマネジメントではなくマネーマネジメント
だ」と厳しく批判しているはずです。「ほんとうのケアマネジメント」はそん
なものじゃないと言っているのです。

 理論的にみても、この(3)の主張には問題があります。まず、ケアマネジ
メントの主体論としてですが、ケアマネジメントの主体が保険者であると主張
されるのであればともかく、ケアマネジメントの主体がサービス利用者・家族
であるとされるのであれば、ケアマネジャーは保険者からも独立した立場でケ
アマネジメントを行う必要があるのは自明のことです。次にケアマネジメント
の範囲論としてですが、ケアマネジメントは保険給付以外の社会資源も含め、
トータルでご本人ご家族のニーズを満たすことが目的であるはずです。保険者
がケアマネジメントの主体である必然性は、「必要であるにもかかわらず保険
給付を認めない」ことを目指すのでない限りは、全くありません。

 以上、(1)〜(3)に関して当方の意見を述べましたが、この度の高野さ
んのご発言の中で一番問題だと感じたのは、「第三者」という言葉の使い方で
す。当方は、日本のケアマネジメント政策の流れのなかで、近年「第三者」と
いう言葉の意味が意図的にすり替えられつつあることに対し、学会口演などを
通じて警鐘を鳴らしてきた者です。この度の高野さんの言葉遣いにも、そのよ
うなすり替えの意図がなかったか、当方は疑いを禁じ得ませんでした。サービ
ス利用者・家族と保険者の利害が対立したときに、ケアマネジャーはいずれの
立場に立つのか? この倫理的二律背反(エシカル・ジレンマ)の解決を、高
野さんはどのように考えているのか明らかにすべきでしょう。

 さらに言えば、高野さんは、「第三者機関主義ケアマネジメント」について
は完全に無視されました。なぜ「第三者」という言葉だけを取り出し、「第三
者機関主義ケアマネジメント」には一言も触れられなかったのかはご本人に聞
いてみなければ分かりませんが、はなはだ不自然なことです。仮に(1)の独
立開業が「理想だけれど非現実的」だと言うのであれば、それを実現する手段
としても提示されている「第三者機関主義ケアマネジメント」について、なぜ
それが非現実的であると結論づけられるのかを説明しなければならないはずで
す。これは、この領域を専門に研究している立場の人であれば、気が付かなかっ
たでは済まされないことです。

 「第三者機関主義ケアマネジメントの段階的法義務化」を政策として採用す
れば、囲い込みをして利益を得ることができなくなるので、ケアマネジャー一
人当たり年間200万円前後の赤字を出してまで居宅介護支援事業所を経営す
るメリットがなくなります。つまり、損得勘定で事業所を持っているような法
人は、ケアマネジメント事業から自分で撤退してくれるわけです。強制的・権
力的に事業者指定を廃止するために必要な時間とコストを考えれば、格段に費
用対効果の高い政策であることが分かります。

 もっとも、世の中の居宅介護支援事業所のほとんどがそのような事業所なの
で、ケアマネジメントをする人がいなくなってしまうと心配をする人も出てく
るかもしれません。しかし、現時点の「非現実的な」低価格の介護報酬でも、
「理想」のケアマネジメントを行いたいというただそれだけの理由で独立開業
者が後を絶たないのは何故なのか、そういう心配をする人には考えてほしいで
す。世の中は、損得勘定だけで満たされる人間ばかりではないということを知っ
てほしい。むしろ手弁当でも一歩を踏み出す人びとに対して社会が高い介護報
酬を準備するやり方の方が、現状の囲い込みによって生じる膨大な無駄を抑止
する効果の点で優るため、結果的に保険財政の健全化に資することが分かるは
ずです。


(参考情報)
・塚本 聡「ケアマネジメントにおける『第三者』性について〜『第三者』概
 念の内容分析から政策効果を予測する〜」(日本ケアマネジメント学会第12
 回研究大会口演要旨)2013年
 http://www2.nsknet.or.jp/~mcbr/p-chuchotement20130605.pdf





2015.05.10.

時速30kmの福祉(第163回)

(前回からのつづき)

 ところで、日本における認知症カフェの取り組みで、当方が個人的に気になっ
ていることが二つあります。

 ひとつは、お金もうけのためにカフェを開設しようとする人が出てきている
ことです。国は、認知症の軽い人やまだ診断を受けていない人への対応を、こ
れまでの介護保険のサービスではなく、総合事業という別立てのサービスに切
り替える方針を打ち出しているのですが、その流れに便乗する形で、自分のと
ころの介護保険サービスを将来利用する見込みの高い人たちを「青田買い」す
るような感覚でカフェに招き入れようとする手法が観られます。多くの場合、
認知症になるのを予防しましょうとか、悪化するのを防ぎましょうと言って、
脳トレのドリルや筋トレの運動を抱き合わせるプログラムを持っています。で
も、認知症カフェの本来の目的は「嫌な認知症を予防する」ことではなくって、
認知症を正しく理解し受容することにありますので、方向が全く逆です。こう
いったヨコシマなカフェでは、かえって認知症への否定的なイメージが増幅さ
れて、自分で育てた差別意識によって自身が傷つけられてしまう危険がありま
す。

 もう一つの気になっていることは、専門職の参加の仕方です。海外のアルツ
ハイマーカフェでも専門職の参加はありますが、それは、「仕事として」参加
しているのではなく、「たまたまそういう仕事をしている人として」参加して
います。この違いが、日本ではなかなか理解されない傾向があります。どうか
すると、「あらかじめどういうタイプの認知症なのかアセスメント情報を提供
されなければ本人や家族に対して適切な対応ができない」とカフェの主催者側
に文句を言う情けない専門職に巡り会ったりします。

 人と人が初めて出会うときに、あらかじめアセスメントしていなかったらそ
の人とつきあえないなんてことはありませんよね。普通は、何も知らないとこ
ろから、コミュニケーションを通じて少しずつお互いを分かり合うものです。
その、人として普通のことができないというのは、相手を仕事の客体として観
察しているからに他なりません。認知症カフェの場では、普通の、人対人の対
等な関係を前提として出会うことが特に重要なのです。

 認知症カフェは社会的にとても意義があり、必要なものなので、どんどん増
えてほしいとは思いますが、できれば認知症カフェに集ってみて、これはいい
ことだと実感したご本人ご家族が主催者となってマネをして広まっていくとい
う広まり方のほうが、後で参加される人たちのためによい取り組みになるだろ
うと思います。開設をお考えの方は、まずご自身がカフェに集って体験してみ
てください。                        (おわり)





2015.04.30.

時速30kmの福祉(第163回)

 このごろ、認知症カフェの話題に接することが増えてきました。参加するに
はどうすればよいかとか、自分で開設するときはどういう手続が必要かとか、
果ては認知症カフェは儲かるのかといった質問まで様々です。

 認知症カフェというのは、海外ではアルツハイマーカフェと一般的に言われ
ているものを日本語にしたものです。他に、政策で採用されている言葉を使っ
て、オレンジカフェという呼び方をする場合もあります。
 「カフェ」とわざわざ名付けているのには意味があって、一番大事なのは
「リラックスした雰囲気」を醸し出せる場であることなんだよというメッセー
ジが込められています。

 認知症に関する事は、特に自分が診断を受けたり、思い当たる症状が出始め
たりすると、他の話題のように気軽に誰にでも語れなくなるものです。ご家族
など身近な人にとっても、当のご本人とそんな話題で話をすることはちょっと
タブーになってしまう。

 でも、そうではなくって、自分は本当はこんな症状で困っているんだとか、
こんなことを不安に思っているんだということを誰かに聞いてもらうだけで、
心が楽になることがあります。特に、聞いてくれる相手が同じような症状で困っ
た経験があったり、同じ不安を抱えている人だったら、話に深く頷いてくれて、
分かってもらえたといううれしい体験を得ることができますし、もしかしたら、
こういうときはこんなふうにすれば解決するという経験に基づいた知恵を授け
てくれるかもしれません。ご本人だけではなく、ご家族など身近な人であって
も、それぞれに固有の悩みや心配事がありますので、それをストレスなく語る
ことができる場があるというのはとても大切なことなのです。

 認知症の人の治療にあたっていたあるお医者さんが、そういう場、「リラッ
クスした雰囲気」を醸し出せる場があるだけでご本人やご家族の心が救われる
はずだと考え、最初は少人数からスタートした認知症カフェ。評判を聞いて回
を重ねるごとに参加者が国じゅうから集まってふくれあがるようになりました。
そして、参加してみて「これはうちの地元にも必要だ」と確信した人たちが、
それぞれマネをしてカフェを開き、爆発的に普及することなりました。このよ
うな海外での流れを知って、日本でも取り組む人が出始め、現在では国の政策
として普及が目指されるようになってきました。     (次回へつづく)





2015.03.05.

時速30kmの福祉(第162回)

 定期的に開催している「ケアマネジメントをみんなで考える会とやまのつど
い」に参加された方からマルティン・ブーバーを学ぶよう勧められ、関連する
文献を読み始めてからおよそ5年あまりになります。本業のケアマネジメント
業務が忙しいもので学ぶといってもなかなか前に進まないのですが、それでも
少しずつブーバーの代表的な論文である「我と汝」を中心に内容を学んできま
した。そんな中で、最近論文中のある言葉にひっかかるようになりました。

 それは、ブーバーが特別な思いを込めて使っている言葉で、代表的な日本語
訳では「包括」と訳されています。原著ドイツ語では Umfassung、英語で表記
すると embracing となります。日本で地域包括ケアというときや、地域包括支
援センターというときの「包括」は、英訳された行政文書では comprehensive
が用いられます。これは、1978年の「第一回プライマリ・ヘルスケアに関する
国際会議」で採択された「アルマ・アタ宣言」の第7条にも登場する言葉です。

 同じように「包括」と訳されている二つの言葉ですが、その意味合いは、も
しかしたら見過ごしてはいけない違いを含んでいるのではないか?

 まだまだよく調べてみないと断定的なことは言えないのですが、後者のcomprehensive
の方は、語感としては、ある位置にいる者が周囲にあるものを手でごっそりと
つかみ取るような意味での「包括」感です。どちらかというと理性の力を用い
て周囲の世界の(論理)構造や機能を把握して使いこなすようなイメージです。
これは、当方自身もいささか雑だと思いながらもあえて言えば、分析的な思考
になじむイメージであり、エビデンス・ベーストとの相性がよいように思います。

 これに対し、前者の embracing は、「つかむ包括」ではなく、「つつむ包括」
であり、つかむ者対つかまれるものの関係ではなく、つつみつつまれる一体的
関係のイメージがあります。理性の持つ限界を超え、ナラティブ・ベーストと
の相性がよいように思います。実際、ナラティブアプローチの考究が進展する
につれ、保健・福祉領域でも特別な思いを込めて embracing を用いる人びとが
増えてきているような気がします。

   1978年の「アルマ・アタ宣言」の時点で comprehensive であることを各国政
府機関や人びとに求めたのは、必要なことであったし正しいことであったのだと
思います。しかし、それから35年以上も経過した今日において未だに comprehensive
を目指していてよいのか。embracing へと進めていくのが「より正しい(better)」
道ではないか・・・。

 と、もやもやと霧がかかったような中途半端なことを考えていたのは、実は今
日がブーバーを紹介してくださった方のお誕生日だから。本当はもっとしっかり
した「成果」を報告して学恩に報いなければいけないのですが、この「時速30
kmの福祉」原稿をもって代えさせていただこうと思います。





2015.02.03.

時速30kmの福祉(第161回)

 毎月の定期訪問の折、行く先々で安否を心配する声の上がった人質事件。報
道によれば、最悪の結末となったようです。国会では政府の対応が本当に適切
であったのか質疑があり、政府は政府で疑義を差し挟む発言自体がテロリスト
への加担であるかのように反駁、マスコミの報道も仲間のジャーナリストの死
を悼む感情の表出に留まり、本来の真相究明の役割には尻込みが見られます。

 メディアの情報は断片的ですし、政府も問われた事には事件後でも発言を差
し控えるとの立場ですので、本当は何が起きたのか誰にも分かりません。ただ、
そんな状況下でも、確かに言えることが一つあります。

 それは、この問題を、「テロを起こす側」と「テロと闘う側」が白黒決着を
つける争いであるかのような、一対一の対立軸で捉えていては、問題が泥沼化
するだけで決して解決には至らないということです。自分自身を「テロと闘う
側」と定義した途端、自分の存在が100%正義であるかのように錯覚し、身
のうちにひそむ悪への自省が疎かになります。「テロを起こす側」もまた、己
のうちに正義を確信するがために同様の過ちを犯します。これでは憎悪が憎悪
を生み、将来に向かって新たな問題の種まきを行っているのと変わりありませ
ん。

 今般の組織的テロのエネルギーの源泉は3つあります。一つは占領地の油田
から生じる一日当たり200万ドルとも言われる資金。もっとも、油がひとり
でにお金になるわけではありません。それを公正な市場よりも安く手に入れよ
うとする者がいるからお金に化ける。その差益で儲けようとしているのは誰か?
二つめの源泉は武器です。油から化けたお金は武器になる。これも、ひとりで
に武器になるわけではありません。武器を売って儲けようとする者がいるから
武器になる。誰が武器を売っているのか? 三つ目の源泉は人です。生きるた
めに移民となり定住したけれども、民族差別や宗教差別を受け続け、基本的人
権という言葉にも民主主義という言葉にも希望を見いだせなくなった人びとが、
人の作った理念にではなく、神に最後の希望を託そうとするようになる。彼ら
を絶望の淵に追いやった社会、低所得層を分断支配する統治システムは誰が作っ
たのか?

 争いの種をまいては育てて利益を得ようとする者は、「テロを起こす側」に
も「テロと闘う側」にも1%存在する。残りの99%はどちらの側であろうと
犠牲になる。そのような構図として捉えるならば、いま行わなければならない
ことは、99%の側に立つこと。そして、1%が独占している権力と経済力を
99%のために解放することです。

 亡くなった日本人ジャーナリストは、戦争と日常の入り乱れた状況下で人び
とが体験しているありのままの「事実」を人としての共感とともに伝えようと
しておられたそうです。99%の「事実」です。そして、その「事実」と日本
で暮らす人びとの「事実」との連続性に気づき、ひとりひとりがこの状況を変
えるために何ができるかを考えてほしいと呼びかけておられたそうです。

 マララ・ユスフザイさんが「わたしはマララ」と言うとき、あたかも映画
「スパルタカス」のクライマックスシーンのように、絶対に相容れない敵に対
して闘う姿勢を示してほしくてそう言ったわけではありません。マララさんは、
自分を狙撃した人も、もしマガイモノではない本当の教育の機会を与えられ、
自分で自由に考える権利と環境が保障されていたならば、決して誤った行動は
とらなかったであろうと考えておられます。敵ではなく、おなじ99%の仲間
としてその痛みを受け止められたということだと当方は思います。マララさん
は、他人が「わたしはマララ」と言うことを喜ばないでしょう。マララさんが
望むのは、そのひとそのひとが自分自身の名を他人の名である「マララ」の代
わりに宣言することだと思います。「わたしはマララ」という共感の意思表示
を思考停止の免罪符にしてしまうのではなく、「わたしは、どう考えるのか」、
「わたしは、問題解決のためになにをするのか」、誰かの考えにすり替えず、
一人称で考え、一人称で発言し、一人称で行動することです。それをあきらめ
ずに続けていくことで自らのうちに巣くう悪への気づきが促され、己と他者の
弱さをともに肯定し、過ちを許すことにつながる。打算やかけひきではなく、
真の対話が生まれ、本当に問題を解決する道が拓けるのだと思います。





2015.01.01.

時速30kmの福祉(第160回)

 2014年のノーベル平和賞受賞者、マララ・ユスフザイさんの本といえば、
「わたしはマララ」が出版されています。当方自身は、このタイトルにちょっ
と違和感を感じていたのですが、実際に読んでその意味が分かりました。

 マララさんは、後方に扉のないスクールバスにいきなり乗り込んできた男か
ら「マララはどいつだ?」と言われ、「わたしだ」と言う間もなく銃弾を受け
たのだそうです。逃げも隠れもしないという覚悟の姿勢が、その時に発するこ
とのできなかった「わたしがマララだ」という言葉に集約されている。そして、
それが本のタイトルになったのだと思います。

 また、ノーベル賞授賞式のスピーチでは、「黙ったまま死ぬか声を上げてか
ら死ぬかどちらかしか選択肢がない状況で、わたしは後者を選んだ」と言い、
世界中の子どもたちが自分と同じように声を上げるよう呼びかけていました。
その意味では、「わたしはマララ」というフレーズは、マララを自分の名に置
き換えてごらん、というメッセージが込められているともとれます。

 話は変わりますが、この「時速30kmの福祉」には、ときどき小難しい横
文字が出てきます。これは、興味を持たれた方が芋づる式に関連する情報を調
べるときの手がかりとしていただくためにわざとそうしているのですが、正直
なことを言うと、当方自身、「読み飛ばされているだろうなぁ」と半分あきら
めまじりで書いているところがありました。

 ところが、先日定期訪問先で、所報に掲載した「時速30kmの福祉」の中
のフレーズを暗記している方がいて驚きました。毎回ということではなく、心
にひっかかったテーマについて、何度も繰り返し読まれたご様子。戦前の尋常
小学校を出てからは農業一筋、横文字などとは縁もゆかりもなかった方です。
その方が、当方の拙文をきっかけに何かを考え、調べ、また考えられた。興味
が芽生えて学ぼうとされた。そのことをとてもうれしく思いました。

 戦前の過酷な環境の中で学ぶ機会を奪われた「むかしのこどもたち」も、現
代日本の作意の貧困の下で学ぶ機会を奪われた「いまのこどもたち」も、おん
なの子もおとこの子も、みなマララさんが守ろうとしているなかまであり、マ
ララさんが「いっしょに立ち上がろう」と呼びかけているなかまです。

 かく言う当方も、相当年季の入った「こども」として、マララさんのよびか
けにどう応えていくべきか、考え続けていきたいと思います。





2014.12.28.

時速30kmの福祉(第159回)

 この12月は、当研究所はじまって以来経験したことのない相談過密状態で
した。なにしろ、そけいヘルニアだけでお二人、大腿骨頸部骨折の手術がお一
人、認知症症状亢進がお二人、それぞれ入退院や退院後のことに関する相談で
かなりの時間を要しました。それに加え、お世話になっているホームヘルパー
さんが入院されたり、お世話になっている施設や病院の看護師さんが相次いで
ダウンしてローテーションを維持できなくなったりと支える側のトラブルが発
生、玉突きで次の対応に追われることとなりました。さらにその合間合間に、
ひとり暮らしの方から「灯油が切れてストーブがつかない」とか、老人保健施
設に入所したらその日のうちに退所してしまったなど、突発的な連絡が入って
文字通りの右往左往となりました。介護しているご家族が入院することとなっ
てご本人の居場所の確保に奔走するということもありました。

 いろいろありましたが、もっとも困ったのは、クリスマスイブの夜に退院を
決められてしまったけれど次の行き先がないという方の相談が相次いだ事です。
年末で病院の地域連携室の仕事納めのタイムリミットが近づくなか、冷や汗を
かきながら転院先探しに奔走しました。うちお一人はなんとか退院日の延期と
転院先の確保に成功しましたが、あとのお一人は現時点でも決まっておらず、
訪問看護や福祉用具搬入、24時間のホームヘルプサービスの手配をとるとこ
ろまでで精一杯でした。

 当方にとって残念だったのは、当研究所が開業したての12年前に担当させ
ていただいた方(故人)の配偶者の方が要介護状態となったためケアマネジメ
ントのご依頼があったのに、断らざるを得なかったことでした。現時点ですで
に担当させていただいている方々への対応が不十分な状態なのに、新たにお引
き受けすることはかえって無責任な行いだと考えたのです。人と人とのつなが
りを大切にして仕事を続けてきたつもりですので、このような相手の期待と信
頼を裏切る事態になってしまった事がとても心苦しく申し訳のないことでした。

 年末に向けて、まだまだやらなければならないことがあります。当方だけで
はなく、現場の人たちはみな一様にぎりぎりのところで最底辺を支え続けてい
ます。





2014.11.13.

時速30kmの福祉(第158回)

 今回は、わたしたち相談を業とする者にはなじみの深い「エンカウンター
(encounter)」という言葉について述べます。

 エンカウンターというのは、「出会う」ことです。さて、「出会う」とは、
どういうことでしょう?

 ある人は、同じ時間に同じ空間のとっても近い場所にいること、と考えるか
もしれません。でも、よく考えると、必ずしもそうではないことに気づきます。
同じ時間にいなくても、同じ空間にいなくても、出会うことはできる。たとえ
ば、ずうっと昔にお亡くなりになった人であっても、その人が書かれたものを
読んで、その人と出会うなんてことがあります。

 ということは、その反対もある。同じ時間、同じ空間のとっても近い場所に
いるのに、出会えない! たとえば、小さな会議室で何時間も顔をつきあわせ
ているのに、言葉をたくさん交わしているのに、出会えない。そういう悲しい
こともあります。

 エンカウンターというときの「出会い」は、人格と人格の遭遇です。どちら
か一方が他方の人格を認めていない状態では、出会いは成立しません。

 人格を認めていない状態というのは、言葉を代えると、他者を道具として使っ
ている状態のことです。マルティン・ブーバーの用いる言葉で言えば、「我−汝」
の関係ではなく、「我−それ」の関係として相手を扱っている状態ということ
です。

 いま、このエンカウンターが、相談を業とする人びとの間で急速に廃れてい
ます。専門性の未熟と言ってしまえばそれまでですが、これには社会の変化が
背景としてあります(ここでは詳述しません)。

 そもそも相談員でありながら相手との出会いを望んでいない場合は、専門職
としての倫理に問題があることを意味します。出会いは望んでいるけれど失敗
してしまい出会えないという場合は、専門職としての技術に問題があることを
意味します。

 前者の場合、これはご本人に気づいてもらうより他にしようがありません。
気づくということは、ご本人にしかできない。他人が代わってできないことで
す。だから、他人にできることがあるとすれば、「気がつくように心がけましょ
う」とその人に伝えることしかできない。これを、業界の用語では「自己覚知
(self awareness)」というキーワードを使って通常は伝えることとなります。

 後者の場合は、技術の問題ですから、話はもっと簡単になります。

 「まず、相手の話を聴きましょう。なによりも、まず第一に」

 そう伝えるだけで、その人は相手と出会えるようになります。出会えない人
がもしいるとすれば、それは「聴き方」を学んでいない方です。しかし、それ
も初心者のうちは技術の問題ですので、素直に学ぶ気持ちのある方であれば、
そのうち「聴く」ことができるようになります。そして、「聴く」ことを何度
も何度も繰り返しているうちに、やがて技術を超えて深く(profondeur)聴く
ことができるようになるかもしれません。





2014.10.28.

時速30kmの福祉(第157回)

 ドイツの有名な言葉で、「ユーモアとは、にもかかわらず笑うことである
(Humor ist, wenn man trotzdem lacht.)」という言葉があります。当方が
ユーモアの師と仰ぐアルフォンス・デーケンさんがよくお話になる言葉です。

 そのデーケンさんのお師匠、フランスの実存主義哲学者のガブリエル・マル
セルさんは、「問題」と「神秘」を分けることが大事だと考えたのだそうです。
ここで言う「問題」とは、理屈で答えが分かる類の問いです。科学的に実験で
証明できたり、合理的に結果を予測できるようなことです。それに対して、
「神秘」というのは、人間の合理的な思考では解明できないことです。

 そう言ってしまうと、科学の急速な発達によって解決できる「問題」がどん
どん増えて、いままで「神秘」とされたことも後の時代にいくほど解決済みの
「問題」になっていくのではないか、結局「問題」と「神秘」を区別する意味
なんてないのではないか、という疑問があたまをもたげてきます。

 でも、マルセルさんは、「問題」に向き合う態度と、「神秘」に向き合う態
度は全く異なるものでなければならないんだよと説きます。

 たとえば、最愛の人が不治の病にかかってしまった。そんなとき、人は誰し
も、なんとか病気を治すことができないか、藁にもすがる思いで血眼になって
「治すという解決」の手段を探し出そうとします。あたりまえですね。でも、
いくら探しても、見つからない。胸がつぶれそうになって、あせって、あせっ
て、どうすればよいか分からなくなる。解決しようとすればするほど遠いとこ
ろへと押しやられていってしまう。

 でも、それは、向き合う態度を間違えているからなんだよと、マルセルさん
は言います。いま、本当に見つめなければならないものは、そこではないでしょ
う? いま本当にやらなければならないことは、そういうことではないでしょ
う? と問いかけます。

 いのちとは何か? 誰にも答えられません。その理屈で解決しない何かに対
しては、ただ自分の全身で謙虚に向き合うしかない。どのような治療を試みる
場合も、そんなこととは全く無関係に、治療の内容とは全く無関係に、いのち
と向き合う。それが一番大切なこと。

 「にもかかわらず」は、その前と後ろの論理的なつながりを断固として否定
する表現です。理屈ではないんです。理屈では到達できない深み(profondeur)
を感じること。そこに、本当の望み(fundamental hope)をかなえる鍵がある。
当方の理解が間違っていなければ、マルセルさんは、どうもそんなことを言い
たいようです。

(参考文献)
・アルフォンス・デーケン「よく生きよく笑い よき死と出会う」新潮社2003年





2014.09.20.

時速30kmの福祉(第156回)

 9月19日のテレビ報道によれば、原子力規制委員になった人が、これまで
原子力の推進の側にいてお金のやりとりもしていた人だったとの事。当然公正・
中立性に疑問の声が上がりますが、当のご本人は「中立的」にやるので問題な
いと表明された由。

 当方のような古い時代の人間であれば、李下に冠を正さずと教わり、たとえ
己に私心がなくとも、このような場合は就任を断るのが道徳的に正しい判断だ
と考えるのが当たり前です。しかし、今日ではこのような道徳観は廃れ、むし
ろ「なにが悪い」と開き直るのが当たり前になりつつあるようです。

 この例に限らず、新自由主義の価値観を前提とした場合、往々にして「公正」
や「中立」といった価値が軽んじられたり、否定される傾向があります。新自
由主義を最初に唱えた経済学者が「賄賂をもらって何が悪い」と自己弁護した
という話は世界的に有名ですが、賄賂をもらう地位にたどり着いたのは本人の
努力の賜(たまもの)であり、神も祝福しているから許されるのだという理屈
です。それを押し通し続けて外部からの批判が強まり、押し通し続ける方が批
判を受け入れるよりも己にとって不利益となる時点(損益分岐点を下回った時
点)で、彼らは「正しさ」にではなく、「己の利害」に従って言動を翻す傾向
があります。逆に言えば、彼らの言動を我々が正しいと考える方向に誘導する
ためには、彼らに「自分が正しくなかった」と気づかせ反省させるやり方では
失敗するということであり、彼らに「改めなければ自分にとって損になる」と
思わせるやり方を選ばなければならないということです。

 この事実は、「言葉を尽くせば人間は相互に分かり合える」と考える人々の
心を深く傷つけるものですが、事実は事実としてそこから目を逸らさない勇気
を持つこと、そして自分たちが正しいと思う社会が実現するよう、「彼らにとっ
て損な状況」を作り出す力を蓄えることが必要です。それと同時に、自分たち
が正しいと思うことが本当に正しいと言えるのか常に自己批判を行い、正しさ
へのこだわりを持つことも大切です。正しいものとそうではないものを見分け
る力を批判力と言うならば、我々は誤って他者を傷つけないためにも、己自身
を過たないためにも、批判力の涵養の努力を怠ってはなりません。





2014.09.08.

時速30kmの福祉(第155回)

 当方の作る「ケアプラン」は変わっているとよく言われます。ご本人ご家族
の間でも好き嫌いが分かれます。好まれる方は、「分かりやすい」、「心をと
らえている」、「丁寧に書いてある」などと言われます。好まれない方は、「簡
潔ではない」、「分量が多すぎる」、「(プライベートなことを)そこまで詳
しく書かなくてもと思う」などと言われます。

 サービスの事業者の方々からの賛否も分かれます。「相手に対する思いが伝
わってくる」と言われる方もあれば、「簡単にコピー・アンド・ペーストで個
別計画に落とし込めないので苦労する」と言われる方もあります。

 当方のケアプランの作り方は、ナラティブベースト(物語を大切にする手法)
と言います。厚生労働省が推奨しているのは、それとは別のエビデンスベース
ト(根拠を大切にする手法)という作り方なので、当方は少数派です。ナラティ
ブベーストがどうあるべきかについては、海外の例も含めて実はまだまだ発展
途上です。でも、これは当方のひいき目になるかもしれませんが、今後10年
20年のうちに、ナラティブベーストの研究は飛躍的な発展を遂げて、むしろ
多数派になっていくのではないかと予想しています。

 ナラティブベーストとエビデンスベーストはどう違うのか? これを正確に
説明するのはとても難しいことです。たとえ話として、両者は車の両輪に例え
られることがよくあります。当方も初めのうちはそう考え、尋ねる人があれば
そう答えていましたが、いまはこの答えは間違いだと考えています。より正確
に例えれば、エビデンスは舟、ナラティブは海です。

 別の例え方をすれば、魚を釣り上げてまな板にのせて、三枚に下ろして内臓
と骨と切り身に分解して大皿の上に並べて、「はい、これが魚というものです」
と説明するのがエビデンスベースト。自然界の中で生きて泳ぎ回っている魚を
指さして「あれが魚という生き物です」というのがナラティブベーストです。
どちらも魚を認識していることには違いありませんが、方法が全く異なります。
中身が細かく分かるのは確かに魅力的だけれど、殺してしまっては意味がない。
当方がナラティブにこだわる理由はその一点にあります。

 日本の介護保険という制度の枠組みの中でナラティブベーストを試みる場合、
書式の壁にぶつかります。そもそも紙に書いたものが「ケアプラン」そのもの
ではないのですが(ケアプランは暮らしの中に描くものであって、紙の上に書
くものではない!)、厚生労働省の定めた書式で紙の上に書かなければならな
い決まりがあるのです。その書式が、当方の目からみるとおかしい(どこかの
立派な方々が作られた書式なのだとは思いますが・・・)ので、無理に当ては
めて書くのが大変なのです。それでも、その限界の枠内で何を表現できるか、
ときにくじけそうになりながらも試行錯誤を続けています。

 現時点で、当方が到達している段階(これは、あくまでもゴールではなく、
途中の段階です)を前提としてナラティブ表現の特徴をいくつか述べるならば、
まず第一の特徴は「時間軸を表現する」ということがあります。エビデンスベー
ストでは「現在」に焦点が当てられ、解決した過去は次々に削除されていきま
すが、ナラティブベーストでは現在の背景である過去を切り分けません。それ
らは一体となって物語を形作ります。第二の特徴は、「矛盾を隠さずそのまま
表現する」ということがあります。現実の社会、現実の生活の場では、ともす
るとご本人の思いとご家族の思いが異なっていたり、援助者である医師やリハ
ビリ専門職、看護師、ケアワーカー、ケアマネジャーなどとの間でも考える方
向が異なっていたりすることがあります。エビデンスベーストでは、そのよう
な場合は、一定の根拠(あるいは意識下に隠された価値基準)によって導きだ
された方針に合わない事実は存在しないかのように切り捨てられる嫌いがあり
ます。しかし、ナラティブベーストでは、その違いをありのままに表現します。
なぜならば、それこそがその人の物語の豊かさを示すものだからです。矛盾を
そのまま表現しつつ、全体として「そうだよね」と納得していただけるように
するのが難しいところで、まさにナラティブベーストの勘所です。第三の特徴は、
「対話表現を重視する」ということがあります。

 長々と書きましたが、これらの特徴を一口で言えば、「読めばその人の物語
が分かる」表現ということです。まだまだ試行錯誤中。自分でも、これではダ
メだと分かっていても時間が足らなくて改善できていない箇所がいくつもあり
ます。下手をすると、ただの自己満足の行いとして見捨てられていくかもしれ
ない試みです。それでも、この試みには意味があると信じて、これからも続け
ていきたいと思っています。





2014.09.08.

時速30kmの福祉(第154回)

 本年8月21日付の北日本新聞、富山新聞、北陸中日新聞の各朝刊に、地域
包括支援センター受託法人の囲い込みが全国的に問題となっている旨の報道が
ありました。これに相前後して、中国新聞や琉球新報などでも同様の報道があ
りました。いずれも内容が同じであったため、当方にて共通の配信元を確認し
情報の詳細をうかがったところ、ひろく良心的な声を取材されたものであるこ
とが分かりました(受け止め方によっては特別養護老人ホームなどを運営する
社会福祉法人へのバッシング目的ともとれる紙面もあったため、どこかの営利
企業からの戦略的なリークを疑ったのですが、そうではありませんでした。付
言しますが、社会福祉法人に限らず、どのような受託法人でも同様の構造的な
問題を抱えています)。

 地域包括支援センターは市町村が運営するものですが、これを民間に委託す
ることが認められています。しかし、事業を受託した法人がその立場を利用し、
自己の利益が高まるように利益率の高い利用者を身内の事業所のサービス利用
に結びつけたり、手間暇ばかりかかって利益の出ない利用者をよその事業所の
サービスに結びつけるなどの操作を行うことが常態化しており、これを規制す
る手段が法的に全く整備されていないのです。

 このような実態については、地域包括支援センターの構想が公にされた時点
で既に予見され、警鐘が鳴らされていました。また、実際に運用が開始されて
後も、心ある人々が問題を指摘し、改善を求めたり、センターのしくみ自体を
廃止するよう訴えてきました。しかし、残念ながら、政府も学会もそのような
不公正な実態を隠蔽し続け、「そのような事実はない」「一部の者が嘘の噂を
ばらまいて言いがかりをつけているだけだ」と開き直ってきました。

 しかし、不公正な取り扱いを受けた利用者と家族の口に戸を立てられるもの
ではありません。だんだん社会実態として隠しようもなく浮き彫りになり、こ
こ1、2年は政府や学会も、知らぬ存ぜぬでは通らないと考えたのか、問題の
存在を恐ろしくゆっくりとしたペースではありますが認め始めているようにも
見えます。

 この度の新聞各紙に掲載された記事は上の背景事情を反映しており、もはや
問題を隠し続ける段階は終わったことを告げるものであると思います。ただ、
当方の目からみて、記事の内容には二つの点で不十分なことがあります。

 ひとつは、受託する側の不正についての言及はあるけれど、委託する側の不
正については目が行き届いていないという点です。委託に際しては、候補者と
して手を挙げた法人の中から適切な法人を選ぶという手続を経なければなりま
せんが、そこに利権が生じ、有力な地方議員の後押しのある法人が選ばれたり、
行政からの天下りを受け入れる密約をした法人が選ばれてしまう実態がありま
す。そして、これを規制する法的な手段は何もありません。施設長や事務長な
どの高給管理職が公務員の天下りルートとして固定化されてしまうと、代々の
天下りの給与分の利益が確保されなければいけないため、その法人の利益率を
高めるように行動する動機が強まります。これを改めるためには、どのような
利権構造があるのかを明らかにし、天下りを禁ずるなどの具体的な予防策を制
度として確立しなければなりません。

 もうひとつの不十分な点は、地域包括支援センターの不正についての言及は
あるけれど、居宅介護支援事業所の不正については目が行き届いていないとい
う点です。もともと地域包括支援センターを創設する動機の一つとされたのが、
居宅介護支援事業所の不公正な実態でした。本来であれば、居宅介護支援事業
所の不公正を正すような仕組みを作らなければならなかったのに、そのような
正攻法の対策を全く講じることなく、地域包括支援センターの創設でごまかし
てしまった。しかし、その地域包括支援センターを委託する先が不公正な居宅
介護支援事業所をかかえている法人であれば、地域包括支援センターがその二
の舞になることは火を見るよりも明らかでした。記事では、地域包括支援セン
ターは市町村の事業であるから公正・中立でなければならないのに不正がまか
り通っているという論調でしたが、居宅介護支援事業所もまた制度上公正・中
立でなければならないのです。このことに言及しない記事では、あたかも居宅
介護支援事業所であれば利用者の囲い込みをしても差し支えないかのような誤っ
た印象を読者に与えかねません。その意味でとても不十分なものを感じました。

 行政組織の中にも、このような不公正な実態を苦々しく思っている良心的な
方々は数多くいますし、所属している地域包括支援せンターから不公正な指示
を受けて悩んでいる良心的な相談員も数多くいます。囲い込みを強要されて苦
しんでいる居宅介護支援事業所所属のケアマネジャー、それを拒んで人事考課
でマイナス評価を受けたり退職を余儀なくさせられたケアマネジャーも、石を
投げれば当たるほどそこらじゅうにいます。システムの末端、現場の最前線に
いるこれらの人々の声をきちんと拾い上げ、フィードバックし、政策を改めさ
せていく。その流れをしっかりと創っていかなければなりません。


(参考情報)
・塚本 聡「地域包括支援センター検証の根本問題〜批判なくして検証なし〜」
(隔月刊誌「介護支援専門員」2008年3月号 メディカルレビュー社所収)





2014.08.15.

時速30kmの福祉(第153回)

 8月は、戦争にまつわる特集番組があり、毎年観るともなく観ています。そ
の中で、次の一文が心にひっかかりました。

  「一死を鴻毛(こうもう)の軽きに比し、進んで醜(しこ)の御盾
   (みたて)たらん」

 この言葉の意味は、「自分の命は鳥の羽のように軽くいつでも死ねる。自分
から進んで天皇をお守りする盾となるのだ」ということだそうです。きっと、
多くの将兵がこの言葉に大義を見いだして死んでいったのだろうと想像します。

 ところで、上の言葉には二つの由来があります。鴻毛というのは、「只々一
途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ」
という軍人勅諭(正確には「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」)の一節から来て
います。そして、その軍人勅諭の一節は、漢の時代の有名な歴史家の司馬遷が
記した書簡の中にある「人固有一死、或重泰山、或軽於鴻毛、用之所趨異也」
に由来します。

 司馬遷という人は、一生懸命外敵と戦って負けた味方の将のことを国王がな
じったものだから、そんな風に敗戦の将を責めるのは間違いですよと諫めたと
ころ、その国王の逆鱗にふれて処罰されてしまった人です。そんな自分自身の
ありようを、「人は誰でもいつかは死にます。ある人の死は泰山のように重く、
またある人の死は鳥の羽のように軽い。人はどう生きるかで、その死が重くも
なれば軽くもなります。わたしは国王の機嫌で左右されるようなくだらない事
で死ぬわけにはいかない。一生をかけてやらなければならない大仕事(歴史書
の編纂)があるのです。」という意味で先の言葉を友人に送ったようです。

 ところが、軍人勅諭ではなぜか「命を大切にする」という本来の言葉の意味
がすり替わり、むしろ逆に命をいつでも捨てる覚悟を持ちなさいという意味に
なってしまっています。司馬遷の境遇からすれば、「国王のために命を捧げる
ことが大義である」とは、どう考えてもつながりません。

 さきほど二つの由来があると言いましたが、もうひとつの由来というのは、
「醜の御盾」という言葉に関するものです。これは、万葉集のなかの次の歌に
由来します。

  今日よりは かえりみなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ我は

 この歌は、「今日を境に後ろを振り向かず天皇をお守りする盾となるべく出
征するのだ」という勇ましい内容の歌だとされ、戦時中は大和魂を鼓舞する意
味で盛んに引用されたのだそうです。

 ところが、この歌の本来の意味は、「防人(さきもり)としてかり出される
ことになって、今日からは愛する家族と離ればなれになってひとりぼっちだ」
と嘆く悲しい歌だったようです。万葉集は漢字の音だけを借用して漢字を連ね
て書かれていますが、「かえりみなくて」の音だけ拾って意味が真逆になって
しまった。当方は素人でよく分かりませんが、上代の「日本語」の文法上「後
ろを振り向かず」という現代語訳ではどうしても無理があるのだそうで、これ
はうっかり間違えたというよりも、意図的に意味をすり替えたと考えるのが自
然だと思います。

 古今東西、戦争を遂行するために、国の指導者は国民に対して嘘の宣伝(プ
ロパガンダ)をばらまくものですが、司馬遷や万葉の歌人の古の言葉がそのた
めだけに明治以降ずたずたに改ざんされてしまったのだとしたら心が痛みます。

 どう考えるのが正しいのか、何が間違いなのかよく分からなくなっている時
代ではありますが、彼らの言葉から本当に学ばなければならないことは、自分
のいのちも他者のいのちも決して軽んじてはいけないということ、そして、暴
力で他者を屈服させる行いは恥だと思う文化を育てるということにこそ大義を
見いだし、大切ないのちをそのために用いることではないかと当方は思います。





2014.07.14.

時速30kmの福祉(第152回)

 先日、仕事の役に立つかもしれないと思い、タブレット型端末なるものを手
にとりました。素人の目で見ると、コンピューターとスマートフォンを足して
2で割ったようなものかなぁという感覚です。もともとコンピューターもスマ
ートフォンもよく分からないものですから、足して2で割ったところで結局使
い方はよく分かりません。あれこれいじっていると、突然そのタブレット型端
末から「なんですか?」と尋ねてきました。まさか機械の方から尋ねられると
は予測していなかったのでびっくりしました。とっさに、

「たぬきは?」

 と、わけのわからない質問を投げかけたところ、タブレット型端末はしばら
く沈黙した後、ウィキペディア辞書のたぬきの項目からたぬきそばの情報まで、
膨大な回答を表示しました。一昔前は、音声入力というと、声の登録だけで1
時間以上かかったものですが、なにもしないでいきなり認識されたことにまた
また驚きました。

 さらに、地図情報を見たところ、住所を入力すれば瞬時に地図上に示され、
最短ルートの検索までできることが分かりました。ということは、移動の際に
カーナビの代わりに使えるということですねぇ・・・。カメラとしても使え、
メールもファックスもできる。なんとも不思議な道具です。

 仕事上のことでは、アプリケーションソフトなるものを用いると、事務所の
コンピューターを遠隔操作して、出先で情報を閲覧したり編集したりできるら
しいということも分かりました。こういった機能を使いこなせるようになると、
仕事の仕方は一変するだろうなぁと感じました。

 でも、まだまだ新しい道具なので、どこかに落とし穴がないか、やっぱり心
配な面もあります。あと、診察室で患者の方を見ないでコンピューターを見て
診察する医師のように、訪問先で人間を見ないでタブレット型端末を見てケア
マネジメントをしていた、なんてことにならないかなどとも・・・。 ともあ
れ、新しいことについていくのは大変です。 (T_T)





2014.06.20.

時速30kmの福祉(第151回)

 先日、サービス付き高齢者向け住宅について匿名のご相談を受けました。そ
の方によると、住宅への入居を申し込んだところ、これまで担当してきたケア
マネジャーやデイサービスの利用を止めるよう求められたとの事。ご家族とし
ては、これまで長く相談にのってくれて信頼関係も築けているケアマネジャー
を変更したくないし、通い慣れたデイサービスも変更したくない。そこで、住
宅併設事業所のケアマネジャーやデイサービスに切り替えなければ入居を認め
ないと言われたことに納得がいかず、誰かに相談しようということになった模
様です。

 本件の場合、いくつかの問題があります。まず、法的な問題としては、住宅
への入居条件として自社サービスの利用者か否かを判断基準とすることは憲法
で禁止された「不合理な差別」に該当します。つい最近オストメイト(人工肛
門などを造設した人)であることを理由に宿泊を拒否した旅館が平等権侵害に
問われた事件がありましたが、これと本質的に同じ問題を含んでいます。また、
民事的には利用者側の介護サービスの選択の自由を不当に侵害するという意味
で、不法行為と評価される可能性があります。さらに、併設の介護保険サービ
スと住宅が一体的に経営されていることから、強要行為が形式的には「住宅側」
から行われたとしても、実質的には「居宅介護支援事業所」や「介護サービス」
側から行われたとみなし得るので、それぞれの事業にかかる運営基準違反を問
われる可能性があります。運営基準違反は、行政による指導や事業者指定取消
処分の対象となります。

 以上が法的な問題ですが、それよりもっと深刻なのが事業者としての倫理的
な問題です。事業者は、利用希望者から尋ねられなくても利用者の権利につい
てきちんと説明しなければならないのに、その義務を果たさないばかりか、あ
たかも権利が存在しないかのように思いこませる意図が感じられる説明を行っ
ています。利益率を高めることを優先して利用者の権利を軽んじるような経営
者のやっているような事業所では、利用してもろくな事にはならないだろうと
思います。

 ケアマネジメントとは、その人が自分で自分の抱えている問題を解決したり、
望みをかなえることを支える仕事です。いますでにその人を支える人の輪が築
かれているのに、私利私欲でそれを破壊するなど、ケアマネジメントの対極に
ある行為であると言わざるを得ません。

 今回のご相談は匿名であったため、保険者がどこの市町村か分かりませんで
した。そこで、富山県と厚生労働省の担当課に事案を報告し、対応すべきこと
などの御教示を得ました。その過程で分かったのですが、富山県内では、本件
に限らず同様の事案があちこちで発生しているそうで、トラブルの情報をなる
べく担当課に寄せてもらえれば問題のある事業所が浮き彫りとなって指導等の
対処も迅速に行うことができるとのお話を承りました。

 また、厚生労働省では、各市町村や都道府県が住宅側に指導を行う際の判断
基準となるガイドラインを策定することに決めたそうです。このことは、社会
保障審議会介護給付費分科会の場で報告されました。せっかく作るガイドライ
ンですから、サービスを利用する人の権利がしっかり守られるよう、住宅側の
説明義務や選択権侵害に対するペナルティを明確に定めていただきたいと思い
ます。








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