「時速30kmの福祉」(2002.06.08.連載開始)
富山総合福祉研究所の塚本が、ケアマネジャーとして原動機付自転車で地域を回ってい
る中で見聞した事などをまとめ、月1回のペースで配信しています。
※バックナンバー 時速30kmの福祉(1)~(50)
※バックナンバー 時速30kmの福祉(51)~(103)
※バックナンバー 時速30kmの福祉(104)~(150)
※バックナンバー 時速30kmの福祉(151)~(200)
※バックナンバー 時速30kmの福祉(201)~(250)
時速30kmの福祉(251)~
2024.08.22.
時速30kmの福祉(第276回)
毎年8月は戦争と平和についてお話しすることが多いです。今年も、いえ、
国内外の情勢が先の大戦後もっとも悲惨な状況にある今年だからこそ、稚拙
ながら当方なりに全力で発言の責任を果たしたいと思います。長文となりま
すが何卒ご容赦ください。
日本国内のメディアでは全く取り上げられることがありませんけれども、
インターネット上ではイスラエル国軍と入植者の非常識極まりない残虐行為
が日々映像とともに発信されています。およそまともな人権感覚があればと
うてい狂気としか思えない行動ですが、これにはそれなりの背景があります。
具体的には、シオニズムに内包される「例外主義」と「不寛容」です。例外
主義というのは、「自分たちは神から選ばれた者であり、それ以外は自分た
ちに従うべき存在である」とする考えのことです。不寛容とは、ゼロ・トレ
ランスの日本語訳で、「自分たちに逆らう者は悪魔であり、神の名のもとに
これを裁き打ち負かすことが神の意志に適うばかりか、より徹底的に打ち負
かすことが神から選ばれた者の義務である」とする考えのことです。彼らは、
国際社会にこれらの考えが受け入れられないことを重々理解した上で信念に
基づいて行動に及んでいるのです。
このように話の全く通じない者同士の国際紛争であってもなんとか解決で
きないか研究し、実際の国際紛争の調整にも関わってきた研究者にヨハン・
ガルトゥングという人がいます。彼は、戦後平和学を自ら切り開いてきた人
で「平和学の父」と呼ばれています。
ガルトゥングによれば、このような行き詰まってしまった紛争(あいつは
100%悪いと互いに罵り合う紛争)でも、両者の外の視点からより高次の解
決(いままで争っていたことがばかばかしくなるような突き抜けた解決)が
あり得るとし、数学の用語を用いて「トランセンド(超越)」と名づけまし
た。トランセンドは、両当事者間の利害対立と同じ次元のかけひきや妥協と
は異なり、次元をもう一段高めた解決です。
また、ガルトゥングは、戦争か平和かという二元論にも批判を加え、平和
の内にも戦争の種があることを明らかにしました。具体的には、暴力の定義
として、「直接的暴力」と「構造的暴力」、「文化的暴力」の三つの類型を
提示しました。イスラエルの例で言えば、直接的暴力とは、現在も続いてい
るジェノサイドのことです。構造的暴力とは、その行動を可能としている戦
時政府そのものや制度化された法律・命令などのことです。文化的暴力とは、
それらの構造的暴力を正当化したり補強するために駆使される言論活動や教
育・文化活動などのことで、子どものころからのシオニズム洗脳教育やメディ
アによるプロパガンダの拡散などがこれに当たります。ガルトゥングは、こ
のうち三番目の文化的暴力に最も注意しなければならないと警告します。
実際、イスラエルは建国の由来からシオニズムを柱としてきましたけれど
も、イスラエル国民が建国と同時に全員いきなり急進的で攻撃的であったと
いうわけではありません。欧米を後ろ盾とする歴代政府が、あたかもスポン
ジに水を吸わせるがごとくに子どもたちを洗脳し、成長して大人になったら
今度は自ら進んで次世代に対し洗脳を強化していくように仕向ける「反復濃
縮」サイクルを確立しました。その結果、もともとカルトとして無視や軽蔑
の対象とされていた少数の強硬派が多数に転じたばかりか、一気に量から質
への転化を遂げて国民精神を詐称してはばからないところまではびこってし
まいました。今やさながら臨界点を越えて爆発事故を起こした原子炉のよう
に収拾のつかない状況に陥っている観があります。
このように教育とメディアの掌握で一気に少数が多数に転化する例として
ナチス・ドイツの典型例がありますが、日本もまた他人事ではありません。
戦前の治安維持法や国家総動員法はガルトゥングの言う構造的暴力として機
能しましたし、教育勅語や大政翼賛運動は文化的暴力として人々の意識と行
動を規律しました。では、戦後の日本はどうでしょうか?
ガルトゥングは、「日本人のための平和論」(御立英史訳 ダイヤモンド
社 2017年)の中で、以下のような見解を述べています。
・「憲法第9条を無くしたいのは米国であり、その理由は自分たちが行う他国
への軍事介入に日本を参加させられるようになるから。」(14頁)
・「集団的自衛権は日本を守るどころか、日本の安全を脅かすものでしかな
い。」(17頁)
・「長年にわたってなんらかのプロパガンダを信じ込まされてきた国民は、
それが虚偽であったと知ったあとも、別のプロパガンダを簡単に信じ込ん
でしまう。」(20頁)
・「日本人の大多数は、日本が核武装するとか、他国に先制攻撃を仕掛けた
り侵略するなどということは考えもしないだろうが、他国からはそれほど
安全な国だとは見られていないことを自覚しておく必要がある。」(23頁)
・「米国が他国に行う軍事介入の目的は、テロとの戦いのためでも、人権や
民主主義の擁護のためでもなく、覇権主義の行使であり、経済的利益の確
保である。」(28頁)
・「米国は現在、新たな冷戦体制の中で、頼れる仲間を失いつつある。(中
略)米国はこの手詰まりを打開するために日本を使おうとしている。集団
的自衛権行使に向けた日本政府の動きは、そのことの結果として起こって
いる。」(30頁)
・「日本が対米従属をやめて真の独立を果たすということは、沖縄から米軍
が立ち去るということでもある。米軍が日本から撤退したら、いわゆる核
の傘は存在しなくなる。しかし、私はそもそも核の傘-米国が日本を守る
ために中国と核戦争に突入するリスクを取る-などということは信じてい
ないので、米軍撤退で日本の安全保障が弱体化するとは考えない。」(36頁)
・「安全保障上の観点から、日本に原子力発電は必要がない、いや、あって
はならないと考える。」(127頁)
・「日本のジャーナリストは、権力の中枢近くで、国際的に悪名高い記者ク
ラブを作り、ニュースの断片を提供してくれる政治家や官僚と親密な関係
を築いている。権力が定めたルールに従わない記者はクラブから排除され、
内部情報の分け前にあずかれなくなる。外務省にも財務省にも警察にも、
あらゆる省庁に存在する仕組みだ。記事に赤字が入れられるような検閲で
はないが、より巧妙な目に見えない統制のメカニズムが機能している。独
立系メディアの記者たちは困難な状況の中で尊敬に値する仕事をしている
が、十分な浸透力と影響力を発揮できてはいない。」(202頁)
・「今日の日本を見ると、いまや創造力も勇気も見る影はなく、ワシントン
から聞こえてくる主人の声に従うという態度が蔓延している。国の独立と
外交政策における創造力は足並みを揃えて進む。それこそが、日本が米国
から独立しなくてはならない理由である。もし日本が米国の束縛から自ら
を解き放つことができれば、持てる創造力と勇気を-今度は戦争のためで
はなく平和構築のために-解き放つことができる。そうすれば、対等な立
場で米国と良好な関係を結ぶことができ、平和実現のために独自の外交を
展開することもできる。」(210頁)
あるいは、これらの主張を初めてみた人は、ガルトゥングはもしかしたら
思想的に極端に左側に偏った人だと錯覚するかもしれません。しかし、彼の
国際的な評価はむしろ穏健・慎重な保守です。また、「所詮空理空論の非現
実的な話だ、お花畑の理屈だ」と切り捨てようとする人が出てくるかもしれ
ませんが、彼自身は空理空論どころか、国際紛争調停のど真ん中で現実の紛
争の解決にあたってきた人です。逆に言えば、そのような人をうっかり左側
に偏っていると錯覚する人は、自分の立っている場所(日本国内における政
治を巡る言論の状況)が極端に右傾化し、かつ現実離れしているのだと気づ
けなければなりません。
「本当の知」と「偽りのプロパガンダ」を見分ける方法は、実は簡単です。
本当の知は、「信じろ」とは決して言いません。むしろ「もしかしたら間違っ
ているかもしれないと思って自分なりによく考えてほしい。誤りが見つかっ
たら指摘してほしい」と促すものです。正しい批判・反批判の積み重ねで己
の考えをより正しくしよう、洗練させようとするのが本当の知なのです。ガ
ルトゥングもまた、自身の見解について無批判に鵜呑みする態度を決して求
めてはおらず、むしろ正しく批判すること、自分の頭で考え主権者として行
動することを読者に求めています。
ところが、ここで問題が生じます。われわれは、選挙で誰に投票するかを
決めるよう求められたり、憲法の問題であれば改憲すべきかどうかの判断を
求められたりするわけですけれども、その一方で、それらを正しく判断する
ための条件を与えられていません。具体的には、正しく判断するために必要
となる前提情報が公開されておらず、政府に開示を求めても誠実な対応がな
されません。また、そのことを正しく批判したり、独自に調査して解明を試
みるようなメディアも残念ながらほとんどありません。戦前は新聞とラジオ
と映画が国民洗脳の手段でありましたけれども、今日ではテレビもあればイ
ンターネットもあります。正しい情報よりも歪めた情報を圧倒的な力で拡散
されれば戦前よりもはるかにすばやく洗脳が達成されてしまいます。では、
われわれはいま何をなすべきでしょうか?
まず第一に「自分の頭で考える」とはどういうことかを確認する必要があ
ります。この国では、「自分の頭で考える」とはどういうことかを学校教育
で教えません。もしかしたら、為政者は自分の頭で考える能力が育つことを
恐れているのかもしれません。「自分の頭で考える」とは、「他人の頭で考
えない」ということです。当たり前だと言われるかも知れませんが、実際に
は意外とこれをできていない人が多いのです。「Aさんの言っていることだ
から正しいだろう」と判断するのは、Aさんの頭で考えているだけで自分の
頭で考えていることにはなりません。「Bの言っていることだから間違って
いるに違いない」と判断することも、正反対の行いのように見えて、実はB
の頭で考えているだけで自分の頭で考えていることにはなりません。この違
いが分からない人は、簡単にプロパガンダに乗せられて、Aを優れた人物だ
と持ち上げる空気に流されて鵜呑みにしたり、逆にBに対する見下しや差別
の扇動があれば簡単に誹謗中傷行為に乗せられて加担してしまうことになり
ます。情けないことではありますが、まず自分自身本当に「自分の頭で考え
る」行いが出来ているかどうか、うっかり油断して他人の頭で考えていない
かを自己点検するところから始めなければなりません。
考える主体の吟味が終わったら、次に行うことは考える対象と考える方法
を吟味することです。具体的には、
・いま何が問題になっているのかを知る。
・その問題がなぜ起きているのか考える。考えるために必要な情報が明らか
にされていないときは明らかにするよう求めたり自分で調べて見つける。
・その問題を解決するためにどのような意見がすでに提示されているかを調
べる。そのときには、自分の考えに近いかどうかや自分にとって損か得か
という利害が先に立って判断を過たないよう、自分とは異なる考えや自分
にとって不都合な考えももれなく拾い上げる。
・拾い集めた意見の長所短所を比較し、どの意見がより優れているかを考え
る。また、その思考過程でこれまでに発見されていないよりよい解決策が
ないかを考える。
・現在の自分の能力で最善と判断する解決策を決め、他者に対して「これが
自分の意見だ」と述べる。そして、それが本当に正しいと言えるかどうか
広く意見を求め、誤りを指摘されればその都度修正し、自分の意見を洗練
し高めていく。
上の思考サイクルを倦まずに続けることが「自分の頭で考える」というこ
とです。
とはいうものの、判断をするまでに時間がない、事態が切迫しているとい
うときは、落ち着いてしっかりと判断することなどできません。そんなとき
はどうするのが正しいのでしょう?
ガルトゥングの答えは「後戻りできない決断をするな」です。万が一自分
の判断が誤っていたときに備えて、いつでも元の位置に戻ることの出来る範
囲で行動し、取り返しのつかない事態となることを回避するのが正しい選択
だと説きました(ガルトゥングはこれを「行為の可逆性」reversibility of
an actと表現しました)。
多くの日本人はオリンピックにうつつを抜かし、イスラエルのジェノサイ
ドで時々刻々殺害されていくおびただしい画像には一切目もくれません。そ
んななかで密かに、世界の良識ある人々と己の利害しか考えない人々とが、
ともに日本の政治が大変動するであろう瞬間を注視しています。本稿で引用
したガルトゥングの著作は2017年に出版されています。2024年のいま既にこ
の国が後戻りできないところまで進んでしまったのか、それとも片足はまだ
踏みとどまっているのか、踏みとどまっているとしたら引き返せるのか、主
権者としてのわれわれの判断と行動がいままさに厳しく試されています。
追記1
ユダヤ教とシオニズムは同一ではありません。ユダヤ教はその例外主義、
不寛容を維持するに足る自己批判によって裏打ちされなければただの独善と
なります。したがって、教義解釈が本当に神の教えに忠実であるのかを厳し
く己に問うことが求められ、実際に批判・反批判を重ねるなかで教義が洗練
されてきた歴史があります。このような、批判という行いに対して開かれて
いるという宗教的性格は、いずれ暴力的でも排他的でもない、平和と民主主
義を重んじるユダヤ教の教義解釈が論理的に成立し得ることを予測させるも
のです。実際にイスラエル国外のユダヤ教徒の中にはイスラエル政府に対し
ジェノサイドの即時停止を求めたりパレスチナへの連帯の意思を明確に示す
人々がいます。また、イスラエル国内においても刑事罰を恐れず勇気を持っ
て兵役を拒否したり、政府に対し退陣を求める運動を起こす人々がいます。
ユダヤ教徒以外の人々は、これらのユダヤ教徒の自発的な批判行動を支え連
帯することによって、ユダヤ教の教義を自己の経済的利益のための道具に貶
めるカルト集団を封じ込めていく必要があると思います。
追記2
ガルトゥングの言葉遣いで言う「構造的暴力」は、末川博が怒りを込めて
用いる「社会悪」という言葉とほぼ重なります。また、アマルティア・セン
の「潜在能力(ケイパビリティ)」という言葉との関連で言えば、潜在能力
の種を芽吹かせる上で妨げとなるものがまさに「構造的暴力」です。そうやっ
て言葉をつなげて考えていけば、ほんとうに目指すべき山の頂とそこに至る
道筋がよりはっきり見えてくるように思います。
追記3
現在取り沙汰されている日本国憲法の改憲案のうち、緊急事態条項の是非
が大きな問題となっていますけれども、すでに紙幅を大幅に超過しているた
め本稿では触れません。筆者は緊急事態条項の挿入を含め改憲案全体に反対
の立場であることを述べるに止めます。
(参考文献)
・ヨハン・ガルトゥング著 御立英史訳「日本人のための平和論」ダイヤモ
ンド社 2017年
2024.07.29.
時速30kmの福祉(第275回)
今回は、話題を災害時ケアマネジメントサポートに戻します。いつもより長
文となりますがご寛恕ください。
能登半島地震発災から6ヶ月以上経過しました。その間「被災地の生の声を聞
きたい」としてテレビ局が窓口を開設したり、新聞社がアンケート調査を行う
などの動きがありました。しかし、どの地域の人からどのような声が上がった
のかについては必ずしも公開されておらず、またその声をどこにつないでどの
ような解決に結びつけようとしたかといった情報も公開されているとは言えま
せん。行われているのはせいぜい誰とも知れぬ「有識者」にコメントを求める
程度で、そのコメントも行政機関がよく用いるテンプレートのつなぎ合わせに
過ぎなかったりします。曰く、「一日も早く元の平穏な生活を取り戻すことが
できるよう」「住み慣れた土地に戻るための住まいの確保と切れ目のない被災
者支援を行い」「持続可能な地域経済の再生を果たし」「迅速な災害復旧等を
推進し」「被災地・被災者の立場に立ってできることはすべてやる」といった
具合です。被災地の現状を伝える報道の頻度は月をまたぐ節目にとどまり、ア
メリカの大リーグやフランスのオリンピック競技の話題に負けて隅に追いやら
れています。
被災地の現状が見えない。この問題は、必要な情報の不足だけではなく、フェ
イク情報の氾濫によってももたらされています。SNSを通じ個人が情報を発
信できるようになって、被災地支援に赴いているボランティア個人や被災した
人自身が自らの体験した範囲の情報を広く発信し心ある人々の関心を引き留め
ている一方で、それら疑うべくもない直接体験の発信に対して「誇張だ」「嘘
だ」「売名行為だ」といった否定、打ち消し、非難の発信が後を絶ちません。
その内容は文章表現までそっくりで組織的な動員を強くうかがわせるものです。
よほど被災地の放置された実情や地域住民の窮状と怒りを「見えず化」したい
何者かがいるのでしょう。数日前にはあるボランティアに対して本人の個人情
報を無断で公開したり家族に危害を加えるなどと脅迫する事件が発生し法的な
問題に発展しています。
半年も経って未だ確実に三度の食事をとれない、入浴できない、住む場所が
ないというのは、半島という地勢だけで説明することのできない遅れです。し
かも、これまで行政から提供されていた飲料水と弁当の配送範囲の縮小や移動
入浴設備の撤退、二次避難所の閉鎖など、およそ「被災地・被災者の立場に立っ
てできることはすべてやる」という言葉とは真逆の実態を告発する現地からの
発信が後を絶ちません。日本国政府や地方行政機関の真意が「復興を諦め移転
を決断するように誘導するための放置」かどうかは分かりませんが、少なくと
も地域住民当事者はそのように受け止め始めており、政府・国民から見捨てら
れたという絶望感を与えられているという意味で二次被害の渦中にあります。
上のような、これまでの大災害の復旧・復興プロセスとは大きく異なるゆが
みをかかえたなかで災害時ケアマネジメントサポートはいかにあるべきでしょ
うか? 本稿では、特に大切だと思うことを2つだけ述べます。
①ひとりひとりが「何に困っているか」、そして「何を望んでいるか」から出
発する。
これは、「what matters for the Person から出発する」というケアマネジ
メント理論の鉄則を平たく表現したものです。「ひとりひとり」というのは、
具体的に生きている人間ひとりひとりのことです。アマルティア・センさんが
警告したように、例えば「珠洲市民が」とか「輪島市民が」とか「若者が」な
どの集団を主語としてしまうと、結果的に個々のAさん、Bさんの困っている
ことが解決しない、望んでいることが実現しないということになりかねません。
焦点を当てなければならないのはグループウェルビーングではなくパーソナル
ウェルビーングの方です。そして、もう一つ大事なのは、「何を望んでいるか」
だけではなく「何に困っているか」を把握することです。この国では、かつて
教壇の上から「『何に困っているか』ではなく『何を望んでいるか』に焦点を
当てよ」と講じる教員がありました。しかし、両者はあちらを立てればこちら
が立たないという二律背反の関係ではありません。「本当はこうありたいと望
んでいるのに何かの理由で実現できないので困っている」わけですから、困っ
ていることの解決が望んでいることの実現でもあるはずです。本来表裏一体の
ものをあたかも二律背反であるかのように言いつのることは、その人に内在し
ない何か、外から持ち込まれた偽りの何かをあたかも自分が「望んでいる」こ
とにさせられ、本当に困っていることの解決から遠ざけられてしまう負の効果
を生みます。誤った方向に誘導してほんとうの解決をあきらめさせる行いをケ
アマネジメントとは呼びません。誤った理論をあたかも正しいかのように装う
ことは、末川博さんの言を俟たず学問に対する背信であり決して許されないこ
とです。今般の災害復興支援との関わりであらゆる物事を無理矢理「あれかこ
れか」の二項対立の枠組みに落とし込もうとする詐欺的話法が急増しているの
で特に注意が必要です。
②困っていることをともに解決し、望んでいることをともに実現する。
「困っていることがあって望んでいることが実現しない」ということは、
「困っていることが取り除かれれば望んでいることが実現する」ということで
あり、逆から捉えればその人はいますでに潜在的に実現する可能性の種(アマ
ルティア・センさんがケイパビリティと呼ぶもの)を持っているということで
す。自然災害のダメージだけではなく、あとからあとから襲いかかる他人の悪
意や無関心に打ちのめされることがあっても、常に種のありかを見定めて芽吹
かせようとする人がいる以上その人の心を支えなければならない。ときに悪意
や無関心の刃をともに浴びる覚悟を持たなければならない。この「ともに」に
は「伴走」という言葉では形容できない厳しさがあります。もうひとつ。困っ
ていることや望んでいることをパーソナルにとらえなければならないからといっ
て、ではどう解決するか、どう実現するかまで一人で背負い込む必要はありま
せん。同じ問題を抱えている人が横につながりを持ち、みんなでみんなの種を
育てることによってみんなの実現可能性を高めればよいのです。その意味で
「横につながる『ともに(interdependence)』」を拡げていくこともまたケ
アマネジメントの専門職の果たすべき役割です。
2024.06.23.
時速30kmの福祉(第274回)
今月は、「学問の自由」について述べます。また脱線かと思われるかもしれ
ませんが、すべてはケアマネジメント・サポートやウェルビーングに収束する
テーマと信じてお付き合いください。
1966年に「現代学問のすすめ」という書物が世に出ました。これは、福沢諭
吉の「学問のすゝめ」の意義を肯定しつつ、時代の変化に合わせて同時代の碩
学7名が共同執筆したものです。その本の出版記念講演で末川博さんという方の
語られた内容が、「現代青年に訴う 人間・社会・読書」という本の中に収め
られています。
末川さんは、まず「学問の理念は真理の探究であり、学問の目的は平和であ
る。だが、学問の実践は闘争である」と冒頭で述べられました。ここで言う闘
争は、大きく分けて四つあります。
まず、第一の闘争は、学問それ自身に対する外部からの圧力との闘争です。
古今東西、ガリレオの例を挙げるまでもなく真理は権力者から疎まれる倣いが
あります。ほんとうの事が世に広まると、嘘がばれて自分たちの権威が失墜し
たり、嘘で金儲けができなくなるからです。そこで、ほんとうの事を言おうと
する者の口を封じたり、学問など無益なものだと思い込ませたり、嘘の方をほ
んとうの事だと宣伝してだまし続けようとします。真に学問を志す者は、その
ような圧力をはねのけてほんとうの事を明らかにしなければならない。
第二の闘争は、社会悪との闘争です。正しい事が分かってもそれを現実の社
会で実現できなければ学ぶ意味がありません。学を志す者には社会悪と闘う用
意と覚悟が求められる。
第三の闘争は、歴史の進展を妨げる時代の逆流との闘争です。学問の発展に
より誤りだと分かった事であってもやっぱり正しかったのだと逆戻りさせよう
とする者が必ず現れるけれども、そのような企みは真理探究を遅らせるだけで、
長い目で見れば結局誤りであることが再確認されるだけです。学を志す者は、
邪な動機で逆行を企む者を阻止しなければならない。
最後の第四の闘争は、己自身の内面との闘争、心中の賊との闘争です。鞭で
打たれようが節を曲げず、権力に媚びて嘘をほんとうと偽ることなく、学問で
はないものを学問だと言ったり教育ではないものを教育だと言って民をだます
企みには決して加担しない。
さて、ここで言う「学問の自由」とは、大学の中で研究している偉い学者さ
んの自由ではありません。学問の自由とは、すべての民に保障されなければな
らない基本的人権です。そして、ほとんどの民がそこから疎外されている、し
かも疎外されていること自体に気づくための教育すら奪われているものです。
人を商品のように扱い、「製造工程で品質管理を徹底し付加価値をつけて出
荷することが教育だ」と言い放つ者に教育を語る資格はありません。偽りの教
育を見破り、学ぶことから疎外されている己自身に気づいたときからほんとう
の学問が始まります。ほんとうの学問を皆で共有すれば、必ず公正で平和な人
間社会が実現します。
(参考文献)
・末川博・豊崎稔他「現代学問のすすめ」雄渾社1966年
・末川博「青年に訴う-学問の実践は闘争である-」(末川博・大河内一男他
『現代青年 に訴う 人間・社会・読書』所収 雄渾社1966年
2024.05.27.
時速30kmの福祉(第273回)
イスラエル政府と国防軍によるジェノサイドでパレスチナの民が時々刻々殺
害されている状況下であるため、今号は問題の重大性と緊急性に鑑み「市民的
不服従」の意味について述べます。災害時ケアマネジメントサポートはいかに
あるべきかという問いと根本でつながっている話題としてご容赦ください。
いま、イスラエル政府の主張する「自衛権の行使」では全く説明のつかない
パレスチナの民の虐殺行為が進行中です。これに対し、様々な国・地域の人々
が人道に悖るとして抗議の声を上げ、直接イスラエル政府に対してジェノサイ
ドを止めるよう求めています。これに加え、ジェノサイドを可能にするような
資金・技術供与や武器提供などを行っている国や大学などの研究機関、民間企
業などに対しても、イスラエル政府への協力を止めるよう求めたり、それでも
協力し続ける場合は不買運動などで抗議する活動が急速に広まっています。そ
の一方で、これらの運動が形式的に各国の国内法規に触れるとして、過剰なま
でに暴力的な警察権の発動と取り締まりも横行し問題となっています。
この問題を考えるときに参考となるのがハワード・ジンさんという歴史研究
者の言葉です。ジンさんは、アメリカの独立宣言を根拠として、政府に対する
異議申し立ては国民の基本的人権(抵抗権)であると考えました。どういうこ
とかと言うと、独立当時のアメリカの民は理不尽なイギリス政府の振る舞いに
反旗を翻して自分たちが求めるほんとうの政府、正しい政府を作ったわけで、
もしもイギリス政府が定めた法規に違反することを理由に独立運動がすべて違
法だというならば、そもそもアメリカの独立自体が違法になっちゃうよね、そ
れって変だよね、と言ったわけです。この論理でアメリカ政府が行っていたベ
トナム戦争に異を唱え、「人間は神様じゃないんだから間違える。しょせん政
府なんて人間が作ったものだから政府も間違える。政府が間違えたのならば気
づいたものから正すのがむしろほんとうの愛国者のとるべき道であり、その行
動は人権として守られなければならない。独立宣言を見ろ、そう書いてあるだ
ろう? みんな子どもの頃にそう教わっただろう?」と言って反戦運動を支え、
結果ベトナム戦争は終結しました。今般の大学の学生や研究者の世界的な連帯
は一時的な感情や思いつきではなく、この歴史的成果をしっかり踏まえた行動
です。暴力を伴わない静かな抗議を警察権力が暴力をもって封じることは各民
主主義国家の憲法に論理必然的に内在する基本的人権である抵抗権の侵害であ
り憲法違反であると身を賭して明らかにしているのです。付言すると、ジンさ
んは後年に上のような問題意識を持つ世界中の国の人々の間で、「独立宣言
(Declaration of Independence)」ならぬ「互いに助け合うより高次の独立宣
言」 (Declaration of Interdependence)のようなものを樹立する必要があ
ると主張しました。インターディペンデンスという言葉は、ケア理論との関わ
りでこの「時速30kmの福祉」でも度々言及してきた言葉です。また、アマルティ
ア・センさんが先進国と開発途上国の関係のあり方として提示した言葉でもあ
ります。東西と南北の諍いの狭間でパレスチナの民がすべてのケアを奪われて
いるいま、この言葉の持つ重い意味を考えなければいけません。
2024.04.20.
時速30kmの福祉(第272回)
前号ではケアの空白よりもさらに深刻なケアマネジメントの空白という問題
があると述べました。今号はその続きです。
まず、災害時ケアマネジメントサポートとして何を行わなければいけないの
かを意識化するため、当方なりにまとめたものを以下箇条書きで記します。次
いで、それぞれの項目について、今回何をどこまでできたのか、あるいはでき
ていないのか、そしてできていないとすればその理由は何かについて私見を述
べます。
(1)ケアマネジメントサポートの手順
1)まず被災地に赴いて直接地元の人々からお話しを伺い、誰が何に困ってい
るのか、そして何を望んでいるのかを聞き取る。
2)平時とは異なる発災後の環境下で医療機関や介護施設などで働く地元の人
々、地元のケアマネジャーなどからもどんなダメージがあったのか、いま
何ができるか、どんなことが必要かを聞き取る。
3)1)で聞き取ったリアルタイムの情報を①行政や②地元の医療機関や介護
施設等の人々、③地元のケアマネジャーと④域外から被災地に入った支援
者等に伝えて情報を共有し、誰が何をするかいっしょに考える。
4)2)で聞き取った情報を①行政や②地元の医療機関や介護施設等の人々、
③地元のケアマネジャーと④域外から被災地に入った支援者等に伝えると
同時に、⑤被災した地元の人々が誰でも知ることができる方法で公開し情
報を共有できるようにする。
※上の1)から4)までは行う順番ではなく同時並行で行うことを箇条書きし
たもの。
5)被災地の人々が困っていることの解決や望んでいることの実現に向けて行
動し、もしも上手くいかなかったら、何が原因で上手くいかなかったのか
を調べ、うまくいくまでやり直す。もしも既存の制度や社会サービスだけ
では限界があると分かったら、①制度やルールを変える、②制度やルール
を新たに作る、③不足する社会サービスを招き寄せる。そして④そのため
に行政や議会に働きかける(ソーシャル・アクション)。
6)被災した人々のケアが充足されるようマネジメントサイクル(計画をたて、
行動し、失敗したら計画を見直してまた実行することを繰り返すサイクル
のこと)を動かし、それが同時に政策のマネジメントサイクルを動かすこ
とを意識する。最終的に地域住民や地域の医療機関、介護事業所、ケアマ
ネジャーが自律的にマネジメントサイクルを動かせる目処が立った時点で
災害時ケアマネジメントサポートの直接介入を終了する。
7)直接介入終了後も一連の活動の結果を検証し、将来の発災に備えたマネジ
メントを行う。具体的には、
・反省を活かした防災計画改善・避難行動計画見直し提案を地域住民や行
政、議会に対して行う。
・広域災害発災に備えたケアマネジメントサポートのネットワークを形成
し、平時からの情報共有や連携手順確認を行う。
(次号へつづく)
2024.03.22.
時速30kmの福祉(第271回)
前号ではケアとケアマネジメントに空白が生じたと述べました。今号はその
続きです。詳しく書き始めるときりがないので、ここでは最小限にとどめます。
まず、ケアの空白についてですが、石川県からの要請でボランティアとして
赴いたケアの専門職は、1.5次避難所と名付けられた「いしかわ総合スポー
ツセンター」に配置されました。そこでは感染症対策の区画分けがなく、あっ
という間に感染症が拡がりました。その際、医師や看護師には防護服や使い捨
て手袋、消毒薬などの感染予防用品が支給されたのに対し、ケアの専門職には
一切配慮がありませんでした。皆さんが心配なさったのは、自分が任を解かれ
て地元の介護事業所へもどったときに、自分のせいで職場の仲間やサービスの
利用者に感染を拡げることがないかということでした。
さらに、1.5次避難所ではケアの専門職が圧倒的に不足していました。発
災前は自分でトイレへ行けた人が環境の変化と人・物不足で便座に腰かけて排
泄させてもらえず紙おむつをあてられる。適切な心のケアがあれば問題を起こ
すことはないであろう認知症の方が放置されることで不安が高じてトラブルを
起こし当のご本人も周囲の避難者の人たちもつらい思いをする。そのような光
景が眼前に広がるなかで、やるべきことを分かっていながらそれができないこ
との悔しさ・もどかしさをケアの専門職は強く強く体験しました。
災害救助法上の予算措置として医療には支出根拠があるのに介護にはない。
建前はそうかもしれませんが、そんなものは運用でどうとでもなることです。
なぜ目の前の人間を見ないのか? さらに言えば、石川県から派遣要請があっ
たのは金沢市内の1.5次避難所等に限られ、輪島や能登、珠洲などで被災し
た介護事業所は未だに放置されたままであり、被災したケアの専門職が離脱し
た同僚の分まで過酷な負担を強いられ続けています。唯一の頼りが石川県とは
無関係に自主的にケアに赴いているボランティア団体ですが、石川県はなぜか
ボランティア団体の現地入りを未だに悪いことであるかのように嫌っています。
志願して赴くケアの専門職は、平時から情熱を傾けて仕事をしている人たち
であり、過去の各地の発災に際し常にかけつけてきた人たちでもあります。手
弁当でかけつけるボランティア団体の方々も同様です。その人たちの目から見
て、今回の石川県の対応は明らかにおかしい、具体的にはケアの担い手に対す
る無理解とケアの欠如が絶望的なまでに際立っているのです。これを放置する
ことはすなわち人間を見殺しにするということであり、人倫の破綻です。決し
て許してはなりません。
もう紙幅が尽きました。ケアの空白よりもさらに深刻なケアマネジメントの
空白という問題についてはあらためて次回に述べさせていただきます。
(次号へつづく)
2024.02.18.
時速30kmの福祉(第270回)
前号のコラムでは津波への備えが防災計画上不十分であると述べました。今
号はその続きです。
まず短期的な計画として、①岩瀬の富山競輪場や民間の工場施設など海岸付
近の既存の三階建て以上の中高層建築物をまず所有者の承諾を得て津波警報発
令時の緊急一時避難場所に指定し、②発災時は正面玄関まで回り込まなくても
すぐ敷地内にたどり着けるよう緊急時出入り口を東西南北複数箇所に整備する
こと、③さらに、駐車場避難とは異なり上層階避難の場合床面積が限られるた
め、地域別に避難先を割り振って避難者数を均等に分散する計画を立てる必要
があります。そして、長期的には避難先の空白地帯に垂直避難用のタワーを建
設する必要がありますが、その際には動線をバリアフリー化し、スロープは1
対15の傾斜比で介助者への負荷を軽減したり、介助スペースを加味した設計
にする必要があります。あと、事後検証で明らかとなったことですが、津波警
報発令時は水橋、岩瀬、射水、魚津の沿岸部からの避難に自家用車を用いる人
が多く、主要道路で大渋滞が起きた事が分かりました。あのときもしも大きな
余震で高い津波が発生していたら自家用車もろとも被害に遭うところでしたし、
そうならなかった場合も地震自体の被害で火災や受傷者が発生していれば、そ
れらの車両が緊急車両通行の妨げになる二次被害が発生するところでした。津
波の時は自家用車を用いないルールを周知する必要があります。
②ケアとケアマネジメントに空白
上の津波への備えの他にもう一つ大きな問題が浮き彫りになりました。発災
4週間を機に富山県が主催した医療福祉関係者の被災地支援対応の報告会の内
容によれば、富山県のDMATなどの医療チームは他の都道府県に先駆けて現
地入りに成功し、ニーズ把握や資源の配分、他のDMATとの連携など理想的
な動きができていたのに対し、DWATなどの福祉系は制度の未整備もあって
初動に遅れが生じていたほか、ケアワーカーが派遣されたのは広域二次避難所
等に限られ、被災した介護施設などでは被災当事者の施設職員が不眠不休で長
時間働かざるを得ず、報告会開催時点でも大変過酷な状況が続いていました。
そして、もっと残念だったのはケアマネジメントです。富山県介護支援専門員
協会からは報告会への参加自体がありませんでした。ありとあらゆる医療・福
祉系専門職が支援に入りその結果を報告しているなかで唯一の空白。これは大
いに反省すべきことだと思います。
2024.01.21.
時速30kmの福祉(第269回)
2024年1月1日午後4時10分頃に能登半島を震源とする大きな地震が
あり、富山県内では震度5強の揺れとなりました。たいへん大きな出来事だっ
たので、ウェルビーングのお話しを少し中断して地震関連のことを述べたいと
思います。
まず当研究所の対応についてですが、発災直後富山湾沿岸に津波警報の発令
があったため、岩瀬地区の独居の方へ直ちに避難するよう携帯電話で連絡をと
りました。ご本人は警報発令に気づいておられず、連絡を受けてすぐに近隣の
方と避難されました。次いで、独居で近くにお身内のおられない方から順番に
安否確認の電話連絡を行いました。一件一件順番にかけたので全員の安否を確
認するのに午後5時までかかってしまいました。それでも、携帯電話が通じな
くなっていたら安否確認をその日のうちに終えることすらできなかったかもし
れず背筋の凍る思いをしました。安否確認終了後は研究所棟や敷地内構造物の
点検、電気や水道などライフラインの点検を行い無事を確認、次いでケアマネ
ジメントサポートネットワーク富山加入のメンバーとラインワークス上で情報
を交換、うち沿岸二事業者は津波警報を受け避難行動の途上でした。要請があ
れば応援にかけつける約束でしたが、それぞれの事業者のスタッフでなんとか
避難されました。そのうち夜半に津波警報は注意報に変わり、翌日には解除さ
れました。その後は被災地の情報を収集したり被災地の介護関係者と連絡をと
りながら後方支援でできることを行って現在に至っています。
次に、富山県内の被災・避難状況および次に備えての課題としていくつか分
かったことがありましたので箇条書きで記します。
①津波への備えが防災計画上不十分
岩瀬地域では垂直避難場所の想定が甘いと分かりました。指定一次避難所の
小学校まで距離があるため、歩行移動に支障のある高齢者や車いす利用者は富
山競輪場に集まりました。しかし、そこは駐車場を広域の緊急一時避難場所と
して利用することしか想定されておらず、津波で垂直避難するために建物を用
いることは想定されていませんでした。段ボールも毛布もなく、暖をとる設備
も稼働せず、寒さに耐えかねて警報解除の前に三々五々帰宅される方が少なか
らずありました。もしも余震で大きな津波が発生していたら輪島や珠洲に匹敵
する被害となっていたかもしれません。次に備えて速やかに暖房設備などを整
える必要があります。 (次号へ続く)
2023.12.17.
時速30kmの福祉(第268回)
11月は相談の仕事で多忙を極め、加えて国内外の情勢に対する鬱屈で心が折
れてしまいとうとう稿を欠くこととなりました。今月は年の終わりでもありなんとか希望
をつなぐ言葉を残したいと思います。
さて、12月10日は1948年の同日に採択された世界人権宣言の75周年を記念す
る世界人権デーでした。そして、それを当然意識してなされた行いが二つありました。
ひとつは、12月8日エルサレム副市長で宗教右派でもあるアリエ・キングとい
う人が、パレスチナの人々全体を(ハマスの戦闘部隊に限定しないで)「サブヒュー
マン(人間以下の存在)」と明言したことです。世界人権宣言で守らなければな
らないとされるのは「人間」の権利であるから、「人間以下の存在」である「サブ
ヒューマン」には権利がなく、地を這う蟻と同じ扱いで構わないという理屈です。
そして、理屈にとどまらず現実世界において人であれば当然保障されなければ
ならない人権の数々が今もなお蟻を踏み潰すように平然と否定され続けています。
これに対し、蛮行を繰り返すイスラエル国防軍こそが人の名に値しないサブ
ヒューマンだと世界中から非難の声が巻き起こっていますが、それとは一線を
画するもう一つの行動をとった人があります。それは、気候変動問題に取り組
んでいるグレタ・トゥーンベリさんとその仲間3名です。彼らはイギリスのガー
ディアン紙の国際オンライン版オピニオン欄に現地12月5日付(日本12月6日
付)で「私たちはガザの苦しみについて声を上げることをやめない – 人権なく
して気候正義なし」と題する発信を行いました(内容は本稿末尾WEBサイトから
ご覧ください)。
グレタさんらはこの文章の中で「サブヒューマン」という差別用語を一切用い
ませんでした。逆に「同じ人間として(as fellow humans)わたしたちは発言
の責任を果たさなければならない」と説いています。どちらかが他方を「サブヒュー
マン」呼ばわりし続ける限りこの争いは終わらない。そんな不毛な言い争いが起き
ることを予見して見事に正鵠を射た発信をしています。また、この問題を論じ
るときには「ハマス」と「個々のパレスチナの民」や「個々のイスラム教徒」を、「イ
スラエル国家やイスラエル国防軍」と「個々のイスラエル人」や「個々のユダヤ教徒」
を明確に分けて論じる必要があると指摘しています。言葉を代えればグループ
ウェルビーングとパーソナルウェルビーングの混同で問題をこじらせるなと戒
めているわけです。さらに、「発言の責任」については「沈黙は共犯に等しい
(Silence is complicity.)」という強い口調で警告を発しています。
日本国内ではジャニーズ事務所性加害問題や宝塚いじめ自殺問題、日大アメフ
ト部麻薬常用問題、自民党パーティ券裏金問題などの「沈黙は共犯」そのものの
重大事件が相次いでいますので、この言葉はとても重く響いてきます。わたし
たちは身近に「見て見ぬふり」で沈黙していることがたくさんあり、その怠惰
の集積が重大事件を引き起こしていることに気づかされます。
差別用語を用いてゆがんだ願望をはき出す相手には客観的・科学的な数字と
事実を示して対峙する。差別される人や人権を侵害される人があればその立場
に立ちともに歩む。ごまかさずに差別だから止めろ、人権侵害だから止めろと
言う。イスラエル・ハマス戦争に対してだけではなく日常生活の中で何をしなけ
ればいけないのか、普遍的なことを彼らは背中で伝えてくれています。次号で
はこのお話しの続きから元のテーマであるウェルビーングのお話に戻ります。
(参考情報)
グレタ・トゥーンベリ他3名
「私たちはガザの苦しみについて声を上げることをやめない–人権なくして気候正義なし」
(ガーディアン国際オンライン版2023年12月5日付)
https://www.theguardian.com/commentisfree/2023/dec/05/gaza-climate-justice-human-rights-greta-thunberg
2023.10.23.
時速30kmの福祉(第267回)
今回も「誰のしあわせか」の続きになります。前回の脱稿後10月7日早朝
にイスラム抵抗運動(ハマス)によるイスラエルへの奇襲攻撃があり、それに
対するイスラエル軍の反撃でこれまでにない深刻な危機が生じています。パレ
スチナの民もユダヤの民もそれぞれにしあわせな暮らしを望んでいるはずなのに、
なぜ正反対の惨劇で苦しめられることになるのでしょうか? このいわゆるパ
レスチナ問題は、東西と南北それぞれの国家間の利害対立とかけひきの果てに
生まれたものであり、かつ一部の者の利益を温存するためにわざと放置され続
けている問題です。また、両サイドとも民の求めるしあわせとその民を統治す
る権力が目指すところのしあわせとのずれが悲劇を招いています。まさに戦後
福祉国家が失敗した3つの理由のすべてが凝集している問題であると言えます。
加えて、宗教というカテゴリー間の対立や民族という集団間の対立という意味
では、アマルティア・センさんが警告しているグループウェルビーングの落と
し穴にすっぽりはまってしまっている問題であるとも言えます。
もしもパレスチナの民とイスラエルの民がそれぞれ相手の存在を自分よりも
下等なものとみなし、相手が自分の求めるしあわせの犠牲になってもかまわな
いと考えるならば、一方のしあわせの実現は他方のしあわせの破壊を伴うこと
となります。そして、国際社会が意図的に両者の関係を拮抗させ続ける限り、
双方の幸福実現の努力がかえって対立と殺戮を助長する悪循環を生みます。逆
に言えば、それぞれが「ほんとうのしあわせ」を実現するためには、偽りのし
あわせを見抜いて手放す決断が必要となります。しかも、それは個人の決断で
はなく「集団としての決断(コレクティブ・チョイス)」でなければ成功しま
せん。さらに、いかなる決断を行うかの判断基準が誤解や偏見・差別に左右さ
れることのない確かなものでなければいけません。
上のことをもっと一般化して平たく申しますと、具体的に生きている人の具
体的なしあわせ(パーソナルウェルビーング)を実現するためには、その前提
として以下の4つのことが必要となります。
(1)他者に犠牲を強いる「偽りのしあわせ」を求めてはいけない。
(2)他者に犠牲を強いる「集団としての決断」に力を与えてはいけない。
(3)己が加わっている集団の内部に「偽りのしあわせ」を助長する誤解や偏
見・差別があればこれを正さなければならない。
(4)己が帰属するアイデンティティが差別の標的とされているときは、その
アイデンティティに先立つリーズン(存在根拠。「自分はなぜ生きてい
るのか?」「自分は何者か?」という問いに対する答え)に立ち返って
これを乗り越えなければならない。
パーソナルウェルビーングは個人が主観的に願望するだけでかなえられるも
のではなく、他の個人や重層的な集団と正しい方法で関わる行い(ウェルドゥーイング)
を通じて実現するものだということが分かります。(次号へ続く)
2023.09.25.
時速30kmの福祉(第266回)
今回も「誰のしあわせか」の続きになります。前回は集団を主語とする「グ
ループウェルビーング」ではなく具体的に生きている人間から出発する「パー
ソナルウェルビーング」でなければならないというお話をいたしました。この
ことをより丁寧に説明いたします。
人間は誰しも様々な集団の一員として生活しています。どこかの国の国民で
あると同時にどこかの自治体の住民であり、もしかしたらどこかの会社の社員
であると同時にどこかの合唱団の団員かもしれません。そして、その集団の中
で共有される価値観やルールに強弱はあれ従って生きています。
また、人間は様々なカテゴリー(分類)の中から自分の居場所を定めようと
します。男と女に分けられたら自分は男だと思ったり、白人と黒人に分けられ
たら自分は白人だと思ったり、逆にいずれでもないと不安になったり、人によっ
ては新たにカテゴリーを自分で見つけようとします。
問題は、自分が帰属している集団の価値観やルールに差別が混じり込んでい
る場合、自分が居場所だと思ったカテゴリーが差別の標的となっている場合に
生じます。
前回ご紹介したアマルティア・センさんの「補論B」の中で、栄養失調の程
度の軽い村と深刻な村があるけれども、調べたところ女児の栄養失調の度合い
はいずれの村も同様に深刻だったという調査結果が紹介されています。これは、
生存限界の村では男児と女児は同じように栄養失調をきたしているのに対し、
他方の村は男児の方が女児よりも栄養状態が良い、つまり優遇されているとい
うことを意味しています。自分が所属している村集団がどちらなのか、自分の
カテゴリーが男児なのか女児なのかで本人の思いや願いとは無関係に生存に必
要な栄養の量が制限されてしまうということです。さらにもうひとつ、「補論
B」では重要なことが述べられています。配偶者を亡くした男女に体調を尋ね
たところ、男性は5割近くがすっきりしない(インディファレント・ヘルス)と
答えたのに対し、女性は一人残らず問題なしと答えたというのです。子どもの
ときから死亡率に影響が出るほど栄養面で差別され、病気になって病院に行く
のは男性であって女性ではないことが当たり前という価値観の社会で育ったも
のだから、客観的には男性と同じ健康状態であったとしても主観的にはそれを
体調不良と感じることができない。尋ねられれば「わたしは健康です」と答え
るわけです。このような認識のずれをアマルティア・センさんは「パーセプショ
ン・バイアス」と呼びました。
上のようなバイアスは、なにもインドの女性に限ったことではありません。
人は誰でも、奴隷状態に置かれれば、そしてその状態が過酷であればあるほど、
よりわずかなパンで幸福を感じることができてしまいます。しかし、いくらそ
の奴隷状態の人が栄養失調で死亡するレベルのパンに幸福を感じたとしても、
それはその人がほんとうに幸福な状態(ウェルビーング)であるというわけで
はない。ウェルビーングを「主観的な幸福」だなどと決して言ってはいけない
理由は正しくその一点にあります。(次号へ続く)
2023.08.28.
時速30kmの福祉(第265回)
前回のコラムでは、「誰のしあわせか」「誰によるしあわせか」「誰のため
のしあわせか」に分けて順番に述べたいと申しました。今回は一番目の「誰の」
に対象を絞って述べます。
戦後西欧福祉国家のウェルフェアは東西と南北の二つの国際関係で引き裂か
れたと以前このコラムで申しました。それらに共通する問題の根源は、しあわ
せについて語っている者が人ではなく国家だということです。主語が国家であ
る限り国際関係に引きずられるのは当たり前ですよね。また、自国内で暮らす
人々のしあわせとも相反することになったと述べましたが、これは国家が考え
る「民のしあわせ」の基準が具体的に生きている人の具体的なしあわせではな
く、厚生経済学の机上で作り上げられた抽象的で非現実的なモデルだったから
です。そこで、ウェルフェアという言葉にまとわり付く「国家が主人公」とい
うイメージを払拭するため、「パーソナルウェルフェア(個人の福祉)」や「シ
ビルウェルフェア(市民の福祉)」といった言い回しなどが工夫されましたが、
言葉の負のイメージが残るため、しだいにウェルフェアではなくウェルビーン
グという別の言葉に置き換えて表現されるようになっていきました(もっとも、
ウェルフェアもウェルビーングも新しい事態を説明するために全く何もないと
ころから新たに生み出された言葉というわけではなく、もともとあった言葉に
新しい状況に合わせて新しい意味が付け加わったものですから、もともとの意
味も当然残っています。この「1つの言葉に複数の意味が併存している」とい
う性質が、説明の混乱を招いたり、その混乱を利用して詐欺的に悪用されたり
する原因にもなっています。その点については後の回で触れたいと思います)。
アマルティア・センさんは、「福祉の経済学」岩波書店1988年(鈴村興太郎
さんという方が訳されたもので、邦訳書の副題の「財と潜在能力」は原書の本
題です)に収めた「補論Bインドにおける福祉と性的偏見」(原書中のタイト
ルを直訳すると「ウェルビーングと機能と性的偏見」です。客観的な指標に基
づく『機能』に着目することで性的な偏見を取り除き『ほんとうのしあわせ』
が何かを明らかにできるという含意があります)の中で、ウェルビーングを語
るときは頭の中で作り上げられたモデルではなく、具体的に生きている人間か
ら出発する「パーソナルウェルビーング」でなければならないことや、国家に
限らず個人が帰属する様々な集団を主語とした「混合概念」(原書では「コン
パウンド・ノーション」)としての「グループウェルビーング」から出発すべ
きではないことを国内の具体的な調査研究結果から論証されています。また、
他のいくつかの論文では、実在する集団だけではなく、頭の中で組み立てられ
た「自分が帰属するもの(アイデンティティ)」とそれに先立つ「自分自身の
存在根拠(リーズン)」について細かな分析をなさっています。われながら説
明が下手でごちゃごちゃしてきました。次回はこの続きから始めたいと思いま
す。もっと分かりやすくなるよう努めます。 m(_ _ )m (次号へ)
2023.07.24.
時速30kmの福祉(第264回)
前回のコラムは、「戦後福祉国家がめざしたウェルフェアがにせものなら
ば、ほんとうのしあわせとは何か?」という問いで終わりました。この問いに
答えようとした人でもっともよく知られている一人にアマルティア・センさん
がいます。インドで生まれ、飢饉の不条理や世の中の不公正を目の当たりにし
て育ち、これを克服できない厚生経済学(ウェルフェア・エコノミクス)の問
題点を明らかにしてあるべき道筋を示しました。1998年にはノーベル経済学賞
を受賞しています。
ここから先はアマルティア・センさんから影響を受けた者として語らせてい
ただきますけれど、あくまで当方個人の考えでありアマルティア・センさんの
考えそのものではありません。正しい理論を確かめたい方は、原書のいくつか
が富山大学附属中央図書館に、翻訳本の多くが県内の公立図書館にあります。
また、国連での発言をまとめた文書や講義の動画などがインターネット上で多
数公開されておりますのでご覧になってください。
ところで、本題に入る前に大事だと思うことを二つ述べたいと思います。ひ
とつは、アマルティア・センさんが論文の中でウェルフェアという言葉を用い
るときは、たいてい厚生経済学の理論を指すことが多く、ウェルフェアそれ自
体を批判しているわけではないということです。厚生経済学の足らない点をウェ
ルビーングという言葉を用いながら解き明かしますが、ウェルフェアとウェル
ビーングを両立しないものとして述べているわけではありませんし、新旧や 正
誤で両者を分類しているわけでもありません。ここが多く誤解されているとこ
ろではないかと個人的には思います。もう一つは、アマルティア・センさんが
ウェルビーング(しあわせに生きる状態)について語るとき、ウェルドゥーイ
ング(しあわせに生きる行動)をアドバンテージという言葉でつないで語って
いるということです。例えば、マハトマ・ガンディーの断食は必要栄養量を欠
くことでウェルビーングを損なうけれども倫理的により高次の行動を選択する
ことは認め得る。それに対し、物にあふれる社会の中にあって食べたくても食
べられずに餓死する人は、同じように食べていなくてもその意味は全く異なる
とされます。アマルティア・センさんの理論は、ウェルビーングの一言ですべ
てを説明できるような単純なものではないのです。
ここからやっと本題になります。「ウェルドゥーイングとつながるウェルビー
ング」という前提で、「ほんとうによく生きよく行動する」とはどういうこと
なのかについて、次回以降私見を述べたいと思います。本当は連続4回で読み
切りにするつもりだったのがここからが本題とは! 文字数を考えると、あと
10回くらいかかりそうな予感・・・・・・。これも全部しあわせに生きしあわせに
行動するためということで、みなさまどうぞ忍耐強くお付き合いくださいませ。
次号から、「誰のしあわせか」「誰によるしあわせか」「誰のためのしあわせ
か」に分けて順番に述べたいと思います。そんなふうに言うとなんだかリンカー
ンの有名な演説みたいですねぇ。(次号へ続く)
2023.06.28.
時速30kmの福祉(第263回)
前回のコラムでは、「戦後イギリスをはじめとする自由主義陣営の先進国が
歩んだ福祉国家への道はいくつかの問題を抱えていくこととなりました」と述
べました。ここでは具体的に三つの問題を挙げたいと思います。
第一の問題は、戦後ほどなく顕在化した東西冷戦の影響です。「資本主義の
国と社会主義の国ではどちらが優れているのか?」という喧嘩に巻き込まれて、
「福祉国家」という言葉が今度は「コールド・ウォーフェア」の手段として使
われてしまいました。ウェルフェアの元々の意味を冷静に考えれば「資本主義
か社会主義か」という選択の問題とは無関係だと分かります。もしも東西冷戦
がなかったら、ウェルフェアという言葉はもっと素直に、もっと広く深く人々
の心に浸透して、この世界は異なる景色になっていたかもしれません。でも、
実際の歴史はそうなりませんでした。
第二の問題は、南北問題と呼ばれるものです。先進国を自称する国々は、か
つて他の国々に武力で攻め込み、大量の鉱物資源を奪ったり人々に奴隷労働を
させるなどして巨万の富を築きました。そして、それを元手にして自国の経済
を発展させました。かつてそんな目に遭わされた国々の人から見れば、先進国
は福祉国家を気取っているけれど、そのお金の出どころをたどれば自分たちか
ら奪った資源と労働です。それなのに、過去の行いの過ちを認めず、謝罪も弁
償もしないばかりか「君たちは発展途上だから僕たちが手を差し伸べてこれか
ら経済を発展させ僕たちと同じように福祉が充実するようにしてあげよう」な
どと言われても納得できるわけがありません。格好良くウェルフェアなんて言っ
ているけれどそんなの嘘だよねと見破られていきました。
第三の問題は、福祉国家を理論面で支える経済学に内在する問題です。当時
の厚生経済学は、人間の行動はおしなべて「損か得か」を判断基準として決定
されるという極めて一面的な人間理解に基づいていました。その理屈を推し進
めると、利害の衝突があった場合でも最終的にはなんでもお金で解決できると
いう考えに行き着きます。しかし、実際の人間はそんなものではないですよね。
飛行機の騒音で夜も眠れないというとき、国は十分な補償をくれてやるから立
ち退けと言う。でも、困っている人たちが取り返したいのは今までどおりそこ
で平穏に暮らすこと、お金に代えられない幸せです。また、厚生経済学では「最
大多数の最大幸福」を優先するので、わずかな住民たちの利益よりも国全体の
利益を優先して立ち退かせるのが正しいと判断されてしまいます。でも、10
人のうち9人までが残りの1人を殺すことに賛成したからといってその1人を
殺してもよいということにはなりませんよね。いのちに限らず人には数を理由
に奪ってはならないものがあるはずです。
福祉国家が目指すウェルフェアは「主義」で分断され、過去の他国への侵略
の事実を覆い隠し、自国で生きる人々が望むしあわせとも矛盾対立する「にせ
もの」。ならば、「ほんもののしあわせ」とは果たしてどのようなものでしょ
うか? (次号へ続く)
2023.05.22.
時速30kmの福祉(第262回)
前回のコラムでは、「ウェルフェアが古くてだめなもの、ウェルビーングは
ウェルフェアの反対で新しくてよいものという漠然としたイメージを持ってい
る専門職も多い」と述べました。実は、ウェルビーングはウェルフェアの反対
の言葉ではありません。ウェルフェアの反対の言葉は、ウォーフェア(warfare)
といいます。日本語では戦争遂行とか戦時体制といった言葉で表現されます。
より具体的には、戦争の相手国に対していつどんな攻撃をするのか、そのため
に何をいつまでに準備するのか、反撃されたらどうするのか、あるいは敵から
攻め込まれたらどう守るのかといった計略をめぐらせる行いをウォーフェアと
呼びます。また、戦争を遂行し続けるためには自国の民の協力を得る必要があ
りますので、自国の民を戦争に駆り立てるための意識づけ(宣伝工作など)や
戦時中の耐乏生活を乗り切るための資源配分(食料の配給など)を計画する行
いなどもウォーフェアの内容に含まれます。
ウォーフェアは、もともと第一次世界大戦前からあった言葉で、戦争で他国
を侵略して利益を得ようとする国はウォーフェア・ステート(戦争国家)と呼
ばれました。また、そのような国はひと握りの権力者が国内を暴力的に支配し
たり他国に対しても力任せに脅したりするものですから、パワー・ステート
(独裁強権国家)とも呼ばれました。でも、ウェルフェアという言葉との対比
でウォーフェアが本格的に語られるようになったのは第二次世界大戦のナチス・
ドイツをウォーフェア・ステートと位置づけたときでした。
大戦でイギリスはナチス・ドイツと戦い激しい空爆を受けました。戦争は国
家総力戦となり、兵器や物資全般の涸渇、将兵の欠員、住居や病院・工場の爆
撃による喪失に見舞われました。そんなときに、イギリス政府はウォーフェア
ステートとは正反対の国の姿としてウェルフェアステート(福祉国家)を掲げ
ました。「われわれの国はナチス・ドイツのような戦争国家ではなく、その正
反対の福祉国家だ。戦争が終わったら早速国の再建に取りかかり、すべての国
民が住むところにも食べることにも困らない、必要なときに医療を受けられ失
業で所得を失って困ることもない良き国に生まれ変わるのだ。他の国々の範と
なり、他の国々もまたしあわせな福祉国家になっていくことを助けるのだ。そ
のためにもこの戦争には絶対に負けられない。正義は我々の側にある。国民よ
今こそ立ち上がれ!」という具合に人々を鼓舞しました(有名な「ベヴァリッジ
報告」は戦争が終わってからではなく戦争のただ中で出されたものでした)。
冷静に考えるとイギリスとしての戦争遂行(ウォーフェア)の手段としてウェ
ルフェアという言葉が使われるという皮肉なことになっているわけですが、当
時のイギリスの人々は戦争に勝った後に実現するであろう戦争国家とは対極の
福祉国家に強い期待をいだき、その実現を夢見て戦争を戦い抜きました。とこ
ろが、戦後イギリスをはじめとする自由主義陣営の先進国が歩んだ福祉国家へ
の道はいくつかの問題を抱えていくこととなりました。(次号へ続く)
2023.04.16.
時速30kmの福祉(第261回)
先日ある方の書かれた論文を読んでいたら、哲学者のインマヌエル・カント
の名前がエマニュエル・カントと誤記されていることに気がつきました。原語
を確認すればすぐ分かることですが、頭文字が E ではなく I なので日本語表
記が「エ」になることはあり得ません。出版されるまで何人ものプロが目を通
したはずなので、かなり珍しい初歩的ミスだなとそのときは感じました。
ところが、その後なんとなく気になって「エマニュエル・カント」でインタ
ーネット検索をかけたところ、びっくりするほど多くのエマニュエルさんであ
ふれかえっていました。こんなに圧倒的な量で流通すると、そちらの方が正し
いと錯覚する人が増えてしまいます。ましてや大学教員のような立場の人から
うっかり「エ」を使われると誤った情報に箔がついてしまい、一層の勢いで拡
散する恐れがあります。さらに、これが人だけならまだしも、AI(人工知能)
までが情報の流通量を根拠に「おおよそ正しい」と判断して「エ」を使い出し
てしまったら、AIに頼りっぱなしで自分の頭を使って地道に検証することを
忘れた尋常ではない数の人々がAIにすっかりと欺かれてしまいかねません。
カントが「エ」でもほぼ実害はありませんけれど、ほかのことではどうでしょ
う? 試みに「ウェルビーング」という言葉で検索してみたところ、こちらも
意味の取り違えや言葉の誤用で埋め尽くされていて、正しい情報にたどり着く
ことの方がむしろ困難なほどでした。これでは偽情報を本当のことだと錯覚し
ても無理はありません。むしろ、誰かが意図的に人々を錯覚させようとでもし
なければ、ここまで偽情報でウェブ空間を埋め尽くせるものだろうかと疑いた
くなるほど異常な様相となっていました。
ちなみに、ウェルビーングというのは、日本語では「幸福」と訳されること
が多いですが、それでは意味するところが漠然としすぎるので、そのままカタ
カナでウェルビーングと表記されることが多い言葉です。ケアマネジャーやソ
ーシャルワーカーを養成する教育機関では、初学者に対して「ウェルフェアか
らウェルビーングへ」という丸暗記でさらりと通り過ぎる説明しかしないため、
ウェルフェアが古くてだめなもの、ウェルビーングはウェルフェアの反対で新
しくてよいものという漠然としたイメージを持っている専門職も多いようです。
次回はこの点を少し掘り下げて述べてみたいと思います。
2023.03.21.
時速30kmの福祉(第260回)
「なんで、早くお迎えが来ないのかねぇ?」と問われ、「順番がつかえてい
るからじゃないですか」と答える。「そんなに人気があるところなのかい?」
と問われ、「最低賃金がこっちより高いんじゃないでしょうか」と答える。そ
れでも納得しない人には、こんな話をします。
昔、ギリシャの国にゼノンという名の哲学者がおりました。彼は、「飛んで
いる矢は止まっている」と主張しました。矢は一直線に的へ向かって飛んでい
くように見えるけれど、よく考えたら的にあたる前に中間地点を通らなければ
ならず、その中間地点を通るためにはそのまた中間地点を通らなければならな
い。そういう中間地点は数えれば数えるほど無限に出てくるので、結局いつま
でたっても矢は前に進めないじゃないか、というのです。なんという屁理屈で
しょう。でも、これにきちんと答えられる人は、果たして何人いるでしょうか?
ある人は、こんな答え方をしました。ゼノンは止まっているというけれど、
その位置にいるときに運動エネルギーがゼロなのではなく、微分法で計算した
瞬間の速さ分の運動エネルギーを備えているのだから動かずに「止まっている」
わけではないのだ、と言いました。科学的ですね。でも、なんだかこっちも屁
理屈に聞こえます。
もっと時代が下って、こんなことを言う人が出てきました。時間を直線だと
思うから間違えるのだ。量子論によれば時間は波であり、矢は時間の波のてっ
ぺんを波乗りのようにすべって動くのだ。だから、矢と接していない無限の中
間点など考えなくてよいのだ、と・・・・・・。でも、そうなると、波のてっぺん以
外の時間の曲線上には矢が存在しないことになりますが、量子論では矢が存在
したり存在しなかったりするのではなく、観察しているこちらから見えたり見
えなかったりしているだけだと説明されます。やっぱり屁理屈みたいだ。波だっ
て、びろーんと引っ張れば一直線になるじゃないかと思ってしまいます。でも、
そこがむしろ逆なのです。波の一部を虫眼鏡でみると拡大されて一直線に見え
るけれど、さらに拡大すると直線ではなくて細かな波線に見えてくる。さらに
その波線を虫眼鏡で見ると、また直線に見えて、さらに拡大すると、また波線
が出てくる。フラクタル構造と言いますが、単純に一直線に進んでいるように
見える時間の一瞬の中に、実は無限に折りたたまれた厚み(「深み」とも「永
遠」とも言います)があるのです。あれ、お迎えの方はもうどうでもよくなり
ましたか?
(注)時間に関する哲学的考察や自然科学的考察を極めたいと思われた方は、
ぜひ無限の時間とお金をかけて研究に没頭してください。お金をかけず
気軽にユーモアを楽しみたいと思われた方は、ひきつづき本コラムをご
利用ください。
2023.02.22.
時速30kmの福祉(第259回)
介護保険で要介護認定の調査を行う人のことを認定調査員と言います。認定
調査員は、定期的に研修を受けることとなっています。そんなわけで、当方も
今年の研修をオンラインで受講したのですが、講師の発言の中に「認定調査は
社会保険なので公平・公正でなければならず、それに対してケアマネジメント
は公平・公正ではなく個別性が尊重されなければならない」という趣旨の解説
があってびっくりしました。というのは、このコメントには二重三重に間違い
があって、論理的に支離滅裂だからです。念のため何度か繰り返し再生してみ
たのですが、どうやら当方の聞き間違いではなさそうでした。
このコメントのなにが問題なのかを以下に述べます。まず、認定調査は公平・
公正でなければならないのに対して、ケアマネジメントは公平・公正よりも個
別性を尊重しなければならないという主張の根拠として、認定調査は社会保険
だから、という説明がなされています。しかし、論理的に正確な表現をするな
らば、認定調査が社会保険なのではなく、「介護保険」が社会保険だと説明す
べきです。そして、認定調査もケアマネジメントもともに介護保険制度内のし
くみですので、「社会保険だから」という根拠付けが本当に正しいのであれば
(本当は正しくないのですが・・・・・・)、認定調査もケアマネジメントも公平・
公正であるべきとしなければ論理的に辻褄が合いません。そもそも「個別性」
の反対は「普遍性」であって「公平・公正」ではない。そこから間違っている
のです。ケアマネジメントが公平・公正でなくても構わないと考える国は世界
のどこにもありません。ただし、その理由は「社会保険だから」ではありませ
ん。社会保険方式を採用していない国であっても同様に公平・公正でなければ
ならない。公平・公正と個別性は両立しますし、ともに尊重しなければならな
いのです。
問題は、なぜこんな初歩的な誤りが研修を通じて拡大再生産され続けてしま
うのかということです。ひとつには、本当は公平・公正ではない認定調査基準
の実態(調査員の「寒いですね」に対し「おなかが減った」など辻褄の合わな
い返答でも意思伝達が「できる」にチェックされる調査基準!)を覆い隠す印
象操作のため、もうひとつは、ケアマネジメントを未だに公平・公正に改めら
れないことを言い逃れるためのすり替え論法に思えてなりません。講ずる側と
受ける側の双方の倫理的な水準と批判力が試されていると言えます。
2023.01.12.
時速30kmの福祉(第258回)
いまから30年以上も前のことになりますが、介護の業界で「統一処遇」と
いう言葉が用いられた時代がありました。これは、施設などで介護を行うとき、
関わるスタッフの行いにばらつきがあってはいけないということで、よく言え
ば介護サービスの品質を一定に保つ目的で用いられた言葉でした。しかし、当
時はまだ介護の業界に人権教育が普及しておらず、この「統一処遇」という言
葉は様々な意味で問題を引き起こすこととなりました。
まず第一の問題は、ケアの質の低下です。かかわるスタッフの能力にばらつ
きがあるとき、全員が同じことをできるようにするためには、能力の一番低い
人に合わせて統一する必要があります。すると、定期的にばらつきをチェック
する度に統一した基準はだんだん低い水準へと下がっていくことになりますよ
ね。
第二の問題は、コスト削減の言い訳にされることです。先ほど人権教育が普
及していなかったと申しましたが、これは現場だけではなく、経営者について
も言えることで、経営者は経費の節約を優先して、本当は必要な経費を削減し
たり、本当は時間をかけて対応しなければいけないことをおろそかにして、単
位時間あたりの労働密度を高めようとしました。具体的には、食材にかける費
用を下げたり、室内を暗くしたり冷暖房を切って電気代を浮かせたり、入浴は
一人の利用者あたりの所要時間を切り詰めて芋の子を洗うような流れ作業にし
てしまいました。そうすると、もっとまともなものを食べたい、寒いから暖房
をつけてほしい、ゆっくりお風呂に入りたいという人が当然出てくるわけです
が、そんなときに、他の利用者もみんなそうしているのだから我慢してくださ
い、公平に「統一処遇」しなければいけないのですと言ってごまかしたわけで
す。
第三の問題は、現場スタッフに対するパワーハラスメントの正当化に使われ
たことです。ケアについてしっかり学んだ人であれば、だんだんケアの質が低
下していく悪循環のしくみはおかしいと誰でも気づきます。サービスを利用す
る人から発せられるヘルプの言葉になんとか応えようとするものです。しかし、
ケアの専門職としてあたりまえのこと、むしろほんとうはやらなければならな
いことを行うと、それは「統一処遇」のルールを乱す行いだから服務規律違反
だと叱られてしまう。下手をするといじめに遭って職場を追い出されてしまう
ということが起きました。
第四の問題は、サービスを利用する人に対する虐待行為の正当化に使われた
ことです。今の価値観からするとちょと想像もできないことかもしれませんが、
個々の利用者の声を聞いたら統一した処遇ができないという理由で、利用者の
話をいちいち聴くなという業務命令すら発せられる時代でした。そうなると、
現場スタッフとサービスを利用する人との対話の機会が奪われます。寒いのに
暖房を消されたり個々の健康状態に応じて食事内容を考えてもらえないこと自
体すでに人権の侵害状況と言えますが、それにも増して、他者とのコミュニケ
ーションの機会を正当な理由なく奪われるということは、人間存在の根幹にか
かわる尊厳の毀損であり、絶望の強制となってしまいます。
上のような様々な問題が生じたことから、「統一処遇」は克服すべき悪しき
前例となりました。厚生労働省は、「処遇」という言葉は差別的であるとして、
以降は「接遇」や「ケア」という言葉に置き換えるようになりました。介護
サービスの品質を一定に保たせる取り組みについては「チームケア」という
言葉を用いるようになりました。
「チームケア」は、「統一処遇」と以下の点で決定的に異なります。
(1)チームケアは、まずサービスを利用する人の話に耳を傾けるところか
ら始まる。
この原則は、ケアの先進国では最も重要な原則とされています。いかなるケ
アも、まずサービスを利用するご本人の話に耳を傾けるところから始まる。そ
して、ケアの専門職はその話のなかから、その人が何に困っているのか、そし
て何を望んでいるのか(この二つをwhat matters for the Personといいます)
を正確に把握する。これがなければいかなる行為もケアと呼ぶに値しないので
す。ちなみに、話はケアの内容を決める前にだけ聴くのではなく、その後も絶
えず耳を傾け続けることが必要です。なぜならば、困っていること、望んでい
ることは時とともに変化するからです。
(2)チームケアは、みんなで話し合って決めたケアプランに基づく。
その人が何に困っているのか、そして何を望んでいるのかを正しく把握する
ことができれば、次に「では困っていることをどうやって解決するか」「望ん
でいることをどうやって実現するか」をその人に関わるスタッフがみんなで考
えます。そして、話し合って見つけた方法をみんなで協力して行います。従っ
て、ケアの内容がサービスの利用者の思いからかけ離れたり、施設の都合に合
わせただけのものになるということはありません。また、ケアプランがどんな
内容で、どうしてその内容になったのかをスタッフに知らされないまま一部の
人だけで勝手に決められるということもありません。
(3)チームケアは、ケアスタッフの人格を尊重し、チーム全体のケアの質を
高める。
ケアスタッフは、それぞれ得意な分野もあれば不得意な分野もあります。「統
一処遇」のように全員が一律に同じ行動をとらされるのではなく、ケアプラン
として合意された一つの目的に向かってそれぞれがそれぞれの個性を発揮して
最善の働きをします。そうすることで、現場スタッフは互いの良いところを活
かし合うことを学び、互いを尊重する心を育みます。他のスタッフの優れたと
ころにならい自分を専門職として向上させていくことができます。その結果、
チーム全体のケアの質が相乗効果の好循環で高まります。脈絡のない理不尽な
業務命令でパワーハラスメントを受けることも起きません。
(4)チームケアは、サービスを利用する人の尊厳をまもる。
上のような理由で、チームケアがうまく行われたときには、サービスを利用
する人の困っていることが解決し、望んでいることが実現します。発する言葉
は決して聞き捨てられたり無視されたりすることはありません。人としての尊
厳を保って生きていくことができます。「統一処遇」の名の下に行われていた
ような虐待で傷つくことはありません。
(5)チームケアは、より大きなチームケアを育む。
もっとも、いくらひとつのチーム、ひとつの介護事業所でがんばっても、乗
り越えられない壁があります。例えば介護報酬など国の制度の限界でできない
ことなどがあります。しかし、それもチームの垣根、事業所の垣根を越えてよ
り大きなチームとなって問題解決に当たれば、制度をよりよいものに変えてい
けるかもしれません。内向きの作用しかない「統一処遇」とは異なり、地域全
体、国全体を人としての尊厳が大切にされるしくみに改善していく力を秘めて
います。
2023.01.01.
時速30kmの福祉(第257回)
年明け早々マニアックというか、狭い分野のお話になってしまいますが、法
学という学問には大まかに理論法学と実用法学があり、理論法学はさらに法社
会学や法哲学などに分かれます。そのうち法哲学の領域で論争となる問題に法
主体論というのがあります。簡単に言うと法的に見て人間とは何か?という問
いに帰着する問題なのですが、法の中でも社会保障法学の分野でかつて法主体
としての人間像について論じられたことがありました。その動機は論者により
様々なのですが、扱う内容は概ね共通していて、国家と個人の関係とか国家以
外の社会集団と個人の関係はいかなるものであるのか、そして、特に社会保障
法という分野において固有の人間像とはどのようなものであるのか、というこ
とでした。しかし、それらの議論の内容をすべて理解した上で、「どうも違う」
と首をかしげた人がいました。富山県出身の研究者で沼田稲次郎さんという方
です。では、どう考えるのが正しいのか? 当方は学びはじめの頃にその答え
が気になって、沼田さんがどのような発言をしているのか探したことがあった
のですが、そのときはとうとう見つかりませんでした。
ところで、先人の業績を研究するときに、ふたつの異なった方法があります。
ひとつは、先人が生きた時代に即して、事実に忠実に理論を辿る方法です。も
う一つは、「もしもこの人がいま生きていたら何を語るだろう」と推し量る方
法です。
もしも沼田さんがいま生きていたら、きっと自然科学の初期原子論の類推で
打ち立てられた近代人権思想の枠内に停まるのではなく、思想そのものを虚偽
と看破し底の底までさらう批判を継承・発展させる人がいないことを嘆くので
はないでしょうか? 沼田さんの時代にはすでに「インターディペンデント」
という言葉が国際社会で使われ始めていたので、きっと国内外を問わず地球上
のすべての法秩序のベースをインディペンデントからインターディペンデント
に大転換する構想をご生前から密かに持っておられたのではないか? もしそ
うであれば、この法理論的にも法実務的にも極めて困難なコペルニクス的転回
を誰よりも早く言語化して世に問い、構想実現のための運動に一身を投じられ
たのではないか?
当方のような浅学の者があえてこんな大それたことを言うのは、その構想を
実現する以外に、地球上からすべての戦争をなくしたり、すべての貧困をなく
す方法がないからです。
2022.12.13.
時速30kmの福祉(第256回)
今年最後のコラムを清々しくと思っていたのに、ここにきてひとつ良くない
ことが起きてしまいました。ケアマネジャーの助け合いネットワークに加入し
ているあるケアマネジャーに対して事実に基づかない誹謗中傷行為が確認され
たのです。そして、「あのケアマネジャーと助け合うくらいならネットワーク
に加入しないほうがよい」と言い添えて、助け合いネットワークへの妨害まで
していることが分かりました。およそ差別や排除を行うということは人倫に悖
る恥ずべき行為です。ましてや相談の専門職であるソーシャルワーカーやケア
マネジャーがこれを行うなど言語道断です。
言うまでもないことですが、地域の中にはいろいろな価値観の人々が暮らし
ています。お互いにお互いの価値観を尊重し、多様性を認め合うことができな
けば差別や排除が横行してしまいます。ソーシャルワーカーやケアマネジャー
は、すでに差別されている人や排除されている人が差別されないよう、排除さ
れないように力を尽くさなければならない仕事です。また、将来差別される人
や排除される人が生まれることのないよう人としての尊厳が大切にされる地域
社会を創造していく仕事でもあります。その当人がこともあろうに差別や排除
の片棒を担いでどうするのか? 特定のケアマネジャーを排除するということ
は、そのケアマネジャーが担当している地域の人々もまとめて排除するという
ことです。大地震が来た、高波が来たというときに助け合うためのネットワー
クに対して排除の論理を持ち込むということは、すなわち人を殺すということ
です。どうしてそんなことぐらい気づけないのか? 国が荒むとは悲しいこと
です。
当方のかかわっている「ケアマネジメントサポートネットワーク富山」は、
差別や排除の論理を許しません。ネットワークに加入しているケアマネジャー
に対する差別や排除の行為が確認されれば、そのケアマネジャーを全力で守り
ます。悪質な事例に対しては毅然として法的な手段も用います。それができな
いようなサポートネットワークに大規模災害時の助け合いなどできるわけがあ
りませんから・・・・・・。
終いまで愚痴ではおもしろくないので良かったことを一つ。10月1日付で
岡山県内のわたしたちの仲間が「ケアマネジメントサポートネットワーク岡山」
を正式に立ち上げました。同じ志の人たちがもっともっと協力して全国に広がっ
ていけばよいなぁと思います。
2022.11.17.
時速30kmの福祉(第255回)
前回の「時速30kmの福祉」で話題として取り上げました「共通診断書」問
題ですが、その後地元関係者の方々のご努力で来年3月末をもって運用を終了
することが決まりました。地域で発生した問題を地域住民自らの力で解決する
ことができてとてもよかったです。4月以降のことはまだ決まっていないそう
ですが、もしかしたら富山県内の他の市町村で現在も運用されている「診療情
報提供書」という文書を新たに導入する案が出てくるかもしれないので、以下
にご参考まで診療情報提供書について触れたいと思います。
診療情報提供書には、「共通診断書」と比べていくつかよい点があります。
1 国の制度で医療保険の適用となるので、文書料が窓口負担1割ならば250
円、3割でも750円見当で済みます。重度心身障害者等医療費助成に該当す
る人であれば、通院医療費や薬剤費同様0円となります。
2 国の制度が根拠なので、お住まいの地域外の医療機関がかかりつけ医でも
そのことを理由に作成を拒まれることはなくなります。
3 患者の書面による同意が作成条件となるので、患者や家族の同意をでっち
上げられる危険が減ります。
4 共通診断書は患者と医師と介護サービス事業者の三者のみで作成できてし
まいますが、診療情報提供書の作成には必ず居宅介護支援事業所や地域包
括支援センターのケアマネジメント担当者などが関与しないと作成できま
せん。従って、ケアマネジャーの知らない間に厚生労働省の事務連絡に違
背する文書が作成されてしまうのを未然に防ぐことができます。逆に言え
ば、違背する診療情報提供書の作成を未然に防ぐことができなければ担当
ケアマネジャーが専門職としての落ち度を問われることになります。
上の1から4の理由で、診療情報提供書を導入することにはよい点がありま
すが、その反面で問題もあります。例えば、県内の事例を調査して分かったの
ですが、本来ケアマネジャーに対して交付すべき診療情報提供書が介護サービ
ス事業所に対して交付される例があるのです。その場合二つのパターンがあり
ます。一つは宛先自体が介護サービス事業所になっているパターンで、この場
合は医療保険の適用とならず、共通診断書と全く同じ問題が残ることとなりま
す。
もう一つは、宛先がケアマネジャーの事業所になっているけれども、受けと
ったケアマネジャーが原本のコピーを各介護サービス事業所に転送するという
パターンです。このパターンの場合作成した医師の複写提供同意を書面で得る
ことが必要ですが、実際の運用事例の中には、同意をとっていなかったり、同
意をとっていても「ケアプラン作成のために役立てることに同意します」など
の抽象的もしくは包括的な同意条項に署名があるだけで、具体的にどこの介護
サービス事業所に提供するのかが明示されていない事例がありました。こうい
った運用は作成した医師の権利を侵害する恐れがありますので改める必要があ
ります。
また、たとえ医療保険制度上適法に診療報酬を請求できる診療情報提供書で
あったとしても、それが厚生労働省の事務連絡文書に違背する形で運用されれ
ば、結局のところ共通診断書と同様の問題が生じることになります。
ここまで診療情報提供書についてくどくどと説明しておきながら恐縮ですが、
ケアマネジメントの現場実務に携わっている者として率直に言わせていただけ
れば、在宅サービスを利用されるにあたり診療情報提供書で情報が得られなけ
れば困るような事態などほとんどありません。入院や入所の場合は主治医自体
が入院・入所先に切り替わりますので紹介書面によって引き継ぐのはむしろ当
たり前ですが、在宅サービスの場合は主治医が変わるわけではありません。本
当に在宅介護サービスの提供に必要な機微ほど書面ではなく直接対面で主治医
から真意を伝えてもらうほうがよほど的を射た情報を得ることができます。国
は、ケアマネジャーが通院に同道して医師から直接指導や助言を得てケアマネ
ジメントに活かす取り組みに対してわずかではありますが介護保険法上の加算
を設けて評価するようになりました。熱心なケアマネジャーであれば、そのよ
うな加算などできる前から当たり前に行ってきたことです。
そう考えると、その地域に共通診断書の書式があろうとなかろうと、診療情
報提供書の書式があろうとなかろうと、本当は関係がないのかもしれません。
介護サービス事業者の側が厚生労働省の事務連絡文書に違背する行いを正しく
理解し、そのような使い方をしないよう心がけてさえいれば発生しない問題で
あった。また、担当のケアマネジャーがもし事務連絡文書に違背する行為を目
撃したり、あろうことか医師への仲介などの協力を求められてしまったという
ときに、介護サービス事業者に対して毅然とした態度をとり、「それは法的に
適切ではない行いですのでやめてください」とか「協力できません」と返答で
きてさえいれば発生しなかった問題であったと言えないでしょうか?
前回の「時速30kmの福祉」では、この問題を「共通診断書の問題」として取
り上げましたが、本当の問題は紙切れの方にではなく、地域ケアに携わるケア
マネジャーなどの専門職としての情報処理能力や判断力、問題解決能力、そし
て倫理的な水準の高の問題であったと言えるかもしれません。いまこのタイミ
ングで当事者の方々がこれを自覚できなければ、問題の種は残り、何度でも姿
を変えて芽吹いてくる恐れがあります。そうならないためにも、しっかりとこ
れまでの対応を検証・反省する作業が必要であると個人的には考えます。当研
究所では、ひきつづきこの問題で困ったという人からの相談を受け付け、個別
問題の解決をサポートしていきます。
2022.10.19.
時速30kmの福祉(第254回)
2022年10月初旬、富山県東部の方から一本の電話相談をお受けしました。
その方によると、お住まいの地域で「共通診断書」なる文書が流通しており、
介護保険のサービスを利用するときは必ず作成して提出しなければならないと
のこと。また、その文書料も1万円以上と高額で困っているとのことでした。
当方にて調べたところ、こういった文書についてかつて全国的に問題となった
ことがあり、厚生労働省から各都道府県の介護保険担当部局に対して事務連絡
文書が発出されておりました。それによると、ホームヘルパーやデイサービス、
短期入所などの利用に際しては、ずっと同じ施設内で住み続けるわけではない
のでそのような診断書の提出強要を行ってはいけないこととされています。ま
た、診断書の提出がないことを理由にサービスの提供を断ってはならない旨も
記されています。さらに、どうしても他に選び得る手段がなくやむを得ず診断
書の提出をサービス利用者・家族にお願いするとき(実際にはそのような極め
て特殊な事情などほとんどあり得ないのですが・・・・・・)は、診断書の文書料を
当然のように利用者に全額支払わせることがあってはならないという趣旨のこ
とも書かれています。介護サービス事業者の都合で取り寄せが必要なのであれ
ば介護サービス事業者が全部または一部の費用を支払うのがむしろ当たり前。
厚生労働省の関係法令解釈は至極もっともと言えます。
全国的に見ると、こういった共通書式の運用事例は京都府医師会が嚆矢のよ
うです。施設入所を申し込むときに施設ごとに診断書が異なると施設の数だけ
診断書の作成が必要となり、それを書く医師も費用を支払うサービス利用者・
家族も大変だというところから共通書式を作ろうという話になったようです。
しかし、先に述べた厚生労働省からの事務連絡文書が発出されて後は、書式作
成元の京都府医師会から注意書きが出されるようになり、事務連絡文書に反す
る書式の運用が禁じられました。京都府医師会を見習って共通書式を作った他
の地域の団体も、時を同じくして同様の対応をとりました。
今回問題となった富山県東部の事例は、事務連絡文書が発出されて後もなぜ
か20年以上放置されてきた不可解な例であり、個別の事例によっては違法行為
すら疑われます。本来必要のない文書の作成と文書料の支払いを介護保険サー
ビス利用の条件として強制されて困っている人は当研究所宛連絡ください。
弁護士等と連携して問題解決のお手伝いをいたします。
(参考情報)
平成13年3月28日付厚生労働省老健局担当各課発各都道府県介護保険担当主幹部(局)等宛事務連絡より抜粋
2022.09.25.
時速30kmの福祉(第253回)
前回の「時速30kmの福祉」で「仕事上の研修に参加することを通じて、
国が定めた研修プログラムの中にカルトと親和性の高い内容がこっそり埋め込
まれている事実にも気づかされ、受講する人たちがうっかりだまされないよう
都度注意喚起をして」きたと述べました。この機会に、それが具体的にどのよ
うな内容であるかを以下にかいつまんで述べます。
(1)戦前日本の家制度の価値観があたかもアメリカのシステム理論に合致す
るかのように装って説明されるのを度々聴きました。これはまったくの
デタラメです。「個人は家族システムのうちにあり、家族システムは町
内会などの共同体システムの下位システムであり、個々の共同体システ
ムはより大きな国家システムの下位システムであるから、個人は家族に、
家族は共同体に、共同体は国家に従わなければいけない」などと、シス
テム理論の本場アメリカで教壇の上から語ろうものなら、即刻教員生命
は終わるでしょう。
(2)法律と憲法の違いを正しく説明せず、憲法上の基本的人権と法律上の権
利とを混同するよう仕向け、あたかも「自立は義務」であるかのように
無理矢理結論づける説明も度々聴きました。まともな法学部の学生なら
1回生でもこのような間違いは犯しません。
(3)学問的な正しさと制度上の規範力の強さを混同するように仕向け、学問
的に辻褄の合わないことを言うときは制度の説明で強引にごまかそうと
します。
(4)批判は悪い行いであるかのように繰り返し宣伝し、批判力が育たないよ
うに仕向けます。批判されることはカルトにとって最大の脅威だからで
す。
(5)密室空間で行うマインドコントロールの手法を演習の場で実行し、正常
な判断力を奪います。
さて、では彼らにだまされないためになにをなすべきか?
[A]批判力を涵養すること。「ほんとうの批判」とは何かを知り、巧妙に埋め
込まれた嘘を見抜きましょう。
[B]「えらいひと」を作らないこと。ピラミッドの頂点に居座るひとたちが上
から教育を歪めます。自他共に「えらいひとになることはみっともないこ
とだ」という価値観を広めましょう。
[C]「密室」を作らないこと。研修に外部の人が自由に参加できるようにすれ
ば、恥ずかしい詐欺の話術など使えなくなるでしょう。また、研修内容を
決めるときも密室ではなく民主的なプロセスで決めさせるようにしましょ
う。
2022.08.21.
時速30kmの福祉(第252回)
先の参議院議員選挙との関わりで、政界とカルト宗教との癒着関係が問題と
なっています。連日テレビ各局で報道されていますが、内容を見ると「これか
らいかにあるべきか」という一般論に終始し、「これまでがどうであったか」
の個別具体的な真相究明に踏み込んでいないものが多いようです。また、政治
家だけではなく、行政組織や大手株式会社などの経済界、大学など高等教育機
関への浸潤についてはほとんど踏み込んだ追求がなされていないようです。
だまされた人を助ける側の相談員の仕事をしている者であれば、多かれ少な
かれカルトに心を奪われている人と巡り会います。そして、その人がピラミッ
ド型組織の頂点に立つ人である場合、その組織がカルトに対する自浄作用を失っ
てあっという間に腐敗していく様を身近に見ているはずです。
当方自身、相談の仕事を通じて富山市議会議員や富山市の関係部署の課長代
理職以上の人物でそれとおぼしき問題行動を起こす人たちと度々巡り会ってき
ました。また、仕事上の研修に参加することを通じて、国が定めた研修プログ
ラムの中にカルトと親和性の高い内容がこっそり埋め込まれている事実にも気
づかされ、受講する人たちがうっかりだまされないよう都度注意喚起をしてき
ました。当方の体験だけで申せば、この国のありとあらゆるピラミッド型組織
が頂点を押さえ込まれて機能不全に陥っている観があります。
この状況を打開するには二つのことが必要です。ひとつは組織の内側から変
えることです。ピラミッド型組織の最底辺、言葉を換えれば現場最前線の経験
と知恵を組織の頂点にフィードバックし、上からの間違ったコントロールを止
めさせ、正しいマネジメントサイクルを再起動させることが必要です。その過
程では間違ったコントロールで利益を得てきた愚か者たちとの闘争が生じます
けれども、それに打ち勝てなければこの国に未来はありません。
もう一つは、組織の外側から変えることです。ピラミッド型組織による間違っ
たコントロールから逃れた者たちが結集し、自由独立のウェブネットワーク組
織体をオルタナティブとして形成し力を持つことによって、腐敗したピラミッ
ド型組織の自壊と新生を促進させなければいけません。
同じ問題意識を共有する人たちであらゆる組織の内側と外側の両面からこの
国を立て直していきましょう。
2022.06.26.
時速30kmの福祉(第251回)
「人間はいかに生きるべきか?」という問いへの答えは人それぞれ。人それ
ぞれで良いし、他者から無理矢理強制されるべきことではありません。当方の
ような人生にまつわる相談を受ける仕事の者は、特に目の前の相手の人生観や
価値観を己の物差しで計って見下したり見落としたりすることがあってはいけ
ません。不十分ながらそんな心がけで他者と接して30年あまり、振り返って
ひとつ心にかかることがあります。それは、水から学ぶ哲学です。戦前から農
業一筋、荒れ地を拓き治水に身骨を砕き風水害と格闘した人々の経験に根ざす
哲学と言い換えても良いかもしれません。
水は、必ず窪地を潤してからでなければその先へは進まない。低きを見殺し
にして通り過ぎるようなことはしない。目に見えないほどの小さな下りの傾斜
も小さな裂け目も決して見逃すことなく赴く。自分の行くべきところを知り、
いかなる障害物にも遮られることなく、どんなに遠くであっても迷うことなく
到達する。少なければ火を消すことはできないが、多ければどんな火をも消し
止めることができる。少なければ自らも濁るが、多ければすべてを清めること
ができる。その意志は不変であり、次々に新しく湧き出でて尽きることなく、
目的を果たして後は雲となり、風にのり、山と邂逅しては再び湧き出づる一滴
となる。人もまたかく生きるべしと。
初期仏教や原始キリスト教が成立するはるか以前、長い戦乱と感染症の蔓延、
干ばつ・飢饉で人々の生に対する凝視が頂点に達したとき、洋の東西を問わず
水に人間存在の意味を仮託する思想が生まれました。これは決して偶然ではな
い気がします。
この寓意をどうとるかも人それぞれ。水と人は違うと見るか、それとも水も
人も自然の理(ことわり)の内に同じと見るか。あるいは、戦火を消せぬ水の
非力、濁る一方の水の非力を笑うか、それとも行くべきところを過たず、あら
ゆる窪地裂け目を漏らさず、立ちはだかる壁に臆すること微塵もない一滴一滴
の結集がやがて堰を切り炎を鎮め澱みを清らかにすると考えるのが天然自然の
理に適うと観るか。
ケアの仕事をしていると、エビデンスベーストの船上であぐらをかく愚かさ
とナラティブベーストの大河大海に秘められた深い賢察との対比のうちに水の
哲学を観ずることがあります。より身近には、ケアリング・デモクラシーの息
吹の中に人と水と大気のダイナミックな循環を連想します。
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