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Spécial Numéro Cinquante !

50号 スペシャル!

Vae Victis #50


読者の皆さん、
今回の第50号のお祝いに、自由なテーマで弊誌関連の逸話を語ってくださいな と Vae Victis のライター諸氏に依頼していました。以下が、それに応じてくれた方々の寄稿文です。


 Vae Victis に関する私の一番の思い出は、あるヒストリカル・ゲームをプレイしている最中に笑いが止まらなくなったことです。 その問題のゲームとは ゲティスバーグ (VV #8) でした。

あの時私は南軍を担当していて、敵との大乱戦を慎重に避けつつ、北軍側の都市 (ゲティスバーグ) に最大限の急襲をかけることを目標にしていたのです。私は自軍部隊を分散配置する戦術を採り、しかも ダミー・マーカーを集中的に使用していたこともあって、対戦相手は余計に戸惑っているようでした。
そんなわけで、彼もそのような私の戦術に対して柔軟に対応しながらプレイしていたのですが、勝負は私の優勢で進んでいるように見えました。
なかなか活用するチャンスのない 我が軍の高い機動力を信じて、あえて私は ロングストリート中将 (我が軍の中では最優秀) 配下の有力な1個軍団を ゲティスバーグに残置しておいたのです。
しかし次のターンに … ガ〜ン!
北軍がイニシアチブを取得して、軍勢の大半を都市 (ゲティスバーグ) に集めてきたのです。

  もう駄目だ! 我が軍は包囲されたのだ。
このゲームはスペースに沿ってユニットを動かし (訳註 : いわゆる 「 ポイント ・ トゥ ・ ポイント 」 システムのゲームです)、いかなる場合も退却できません。
最強スタックを最後に前進させる北軍。彼は自分に言い聞かせます。
『 よ〜し、ついに奴隷制度擁護論者どもを叩きつぶしたのだ 』
心の中ではゲティスバーグの名を呪っていたにもかかわらず …。
戦闘力の計算開始。あの最強スタックの中身を彼が調べ始めた時、私の顔は完全に引きつっていました。
そして二人は目にしたのです。:

 1個目、ダミー。
 2個目、ダミー。
 3個目、ダミー。
 4個目、ダミー!

 そのスタックは全部、張りぼて だったのです!

  驚きと恥ずかしさが ない交ぜになった彼の表情は、いまだに私の記憶の中に深く残っています。  笑った。いや、とにかく笑いましたよ。私の相棒である彼は、私よりは控えめに笑っていました。
ダミー・マーカーは、確かに敵を欺(あざむ)くためのモノですが、持ち主自身をも欺くものであり、このときは完全に騙されてしまったと言わねばなりません。 結局、私は戦闘から逃れることができて、おまけにゲームは私の勝ちでした。

というわけで、どう考えてもウヰスキー好きなのは北軍の将軍の弱点であるようです。

エルヴェ ・ ボルグ (Hervé BORG)

 


 1995年1月、クラブの仲間と創刊して3年間続いていた同人誌 ・ "Hexagone" (エグザゴ は、やる気のあるライターが皆無となり、最期の瞬間 (とき) を迎えていた。

Casus Belli (カジスベリ : フランスのロールプレイング・ゲーム雑誌) がヒストリカル・シミュレーションから次第に離れ、しかも軍事戦略関連書籍の刊行が減少傾向にあった時代に創刊された "Hexagone" は、ヒストリカル・シミュレーションの主要な3つの媒体(紙製の地図と駒を用いるゲーム、フィギュア・シミュレーション、そしてコンピューター・ゲーム)の現状を論じていた。最終号の論説で私は、
「 塞がれた銃眼壁の凹部を補修することができる雑誌が創刊されることを願う 」
と、もちろん控えめに、過ぎ去りつつある我が同人誌を通して訴えたのだった。

  1995年3月、閉塞状態にあったシミュレーション・ゲーム愛好家達は、素晴らしい Vae Victis 誌の出現に仰天したのだ。
“ボール紙製の” シミュレーション・ゲーム や フィギュア・ゲーム、それだけでなく、とりわけ第3号からは PC ゲームも同時に扱うという この雑誌の賭けは、8年後の現在でも継続している。もちろん、私はキオスク(売店)における、この “神の出現” とは無関係だったが、この巡り合わせに すぐ大喜びしたのだ。

ステファン ・ マルタン (Stéphane MARTIN)

(編集部註 :ステファンは、同じテーマを論じている読者からの手紙とともに、Journal de Marche のなかで別の興味深い逸話を書いています。)

 

VV #50 Journal de Marche

Courrier des lecteurs (投書欄)

 1975年の夏、シャルルロワ (Charleroi : ベルギー中南部の街で、第1次大戦の激戦地) の南へ仲間とサイクリングに行った。私達は完成間近な巨大ダムの広い工事現場の前で ひと休みをした。
このダムの完成によって広大な水域ができたため、現在でも特に水上レジャーの愛好家達はこれを非常に高く評価している。
1998年の春、Vae Victis の 3・4月号の付録ゲーム (1940年5月の、特にディナン経由でムーズ川を渡河したロンメル将軍の突破を扱うゲーム) を見ながら、ダムによって造成された、あの非常に特徴的な水域にとてもよく似た地形をゲームマップの中心に発見して驚いたのだ … ロンメルの戦車部隊が通過した40年後に。
地形の下見がゲーム・プレイに影響を与えることは無いとしても、やはり私はこの出来事に思わず苦笑してしまうのだ。

  なにしろ、ベルギーは数多の戦いの場となったので、我々はさまざまなシミュレーション・ゲームの中でそれらの “歪み” を目の当たりにすることになる。:
戦災に毎回遭う都市の名前、シミュレートされた出来事 (戦闘) が発生した頃には まだ貫通していなかった運河、実際よりも大きく扱われている都市。
… そして私は思うのだ …
東部戦線や、ロシア領内におけるナポレオン1世の戦役を題材にする多くのゲームの中で、ロシア人は “破壊された” 彼らの都市名を毎回発見しながら Belliludiste (訳註 : たぶん 「戦争遊戯」 の意) を体験しているのだろうと。

ステファン ・ マルタン (Stéphane MARTIN)

 



50号 万歳!

 Vae Victis の8年間、あるいは 50号とは、綺麗に着色されたフィギュア や 完全な6つの辺で構成された六角形 ( 訳註 : … のヘクスを用いるシミュレーション・ボードゲーム、あるいは六角形をしたフランス国土の意か )、または最新のもの凄いコンピューター・ゲーム (2人用ゲームは既に時代遅れ…) の唯一の功績、と決めつけてしまうのは単純である
私は頻繁に Vae Victis 誌へ寄稿したのだが、多すぎたかもしれない (49号までで、177本の記事を寄稿) 。 しかしそれは、50号までの短期間に、35歳から42歳までの情熱を傾けた、歴史の重要性に対する私の深い確信の具現化に過ぎなかった。
我々は、その時代の良い面すべてを愛する術 (すべ) を知っていなければならない。 とは言っても、その時代のことなら何でも高く評価しなければならない、ということではない。
落ち着いて考えてみよう :
フランス史が多様な意味を持つことを立証しようと奮闘しているのは、紛れもなく Vae Victis 誌だけなのだ。第7号の表紙を飾る ド・ゴール将軍から始まり、クロヴィス王やカール・マルテル (9号)、大コンデ (11号)、ヴィラール元帥 (20号)、ナポレオン・ボナパルト (35号)、あるいは フィリップ2世 (45号) を経て、そして忘れてならない我々のローマ (42号) やギリシア (30号と49号)。
この 第50号は、過去30年の間 まるで評判が悪かった 『戦史』 の 50勝目だったのだ。

了見の狭さやタブーもなく (33号の 「ディエン・ビエン・フー」 と 37号の 「フランス1940 ・ オレンジ作戦」 、39号の 「キプール1973」 )、現代を疎かにしない (10号の 「 “黙示録” 作戦」、28号の 「ドラン作戦」 ) 。
私の幼少期から くだらない政治的正当性に従順だった 『歴史書』 を、Vae Victis はその付録ゲームや戦史記事によって復興させたのだ。

 私がデザインした ポワティエ / フォルミニー (26号) で、地形効果表の内容を戦闘結果表のそれと置き換えてしまうというような素人っぽさのある Vae Victis 誌 は ( 自惚れを防ぐ良薬だ )、100%まるまるフランス語で記述されているにもかかわらず、世界中から尊敬を集めている。私はこの事に関して少しも誇張していない。www.consimworld.com/ を閲覧してほしい。

とにかく、私は Jours de Gloire シリーズと2015年のワーテルロー会戦200周年記念ゲームの製作をまだ終えていないので、尚更、Vae Victis 誌が次の50号 (第100号) に到達するという冒険を絶対に諦めることができないのだ。
最後に、私に針路を与えてくれた テオフィル・モニィエ、ならびに、しっかりと舵を取ってくれた ニコラ・ストラティゴに感謝を述べる。彼らがいなければ何も起きなかっただろうから……。

フレデリク ・ ベイ (Frédéric BEY)

 


 ある日の午後、隔月刊の Vae Victis 誌向けに、ナポを主人公にしたコマ割り漫画を創作した。
その時の付録ゲームのテーマはインドシナ戦争で、我が主人公は敵に包囲されたフランス軍を助けるという状況で登場した。救出成功に満足した この末裔は、1814年製の大砲を 絶望の淵にいた
我が同胞に向けて飛行機から落下させたが、彼らの表情は冴えないものだった。
この漫画にインクを塗ろうとした ちょうどその時、窓から
“ドーン” という凄い音が聞こえた。
隣のアパルトマン (訳註 : 共同住宅のこと) の4階の住人が、バルコニーから家具を落っことしたことを知ったときの私の驚きようといったら、どれほどのものだったろう。

 どうやら、改修した流し台を運び上げている途中でバルコニーを越えて滑り落としてしまったらしい (何かしらの超常現象、あるいは単なる不手際によって) 。 幸いにも、そのとき私は自宅のバルコニーには出ていなかった。おまけに、ナポが密かに私の上に住んでいることも分かったのだ。

エマニュエル ・ バティッセ (Emmanuel BATISSE

 


どのような経緯で、そして何故私が VV の仕事を始めたのか …

 パリのパストゥールにあるデカルト (Descartes) の店で Vae Victis の創刊号を買ったことを覚えています。その時の私の反応は、困惑が入り交じったものでした。:
大衆向けのウォーゲーム専門カラー雑誌というものを目にして驚嘆したのと同時に、掲載記事に深みが無く、あまり信用できないと感じて心底ガッカリしたのです。 これは特に SPQR (GMT) 関連の記事の中で、このゲームの魅力と面白さを形成していたルールを簡略化という名目で削除するよう勧めていたことを指しています。
仲間と談笑していたとき、私はこの雑誌をウォーゲーム界の PLAYBOY 誌と揶揄 (やゆ) していたものです。極めて美しい図版、されど大して面白くもない記事……。

 二つの反応が私に芽生えました。
まだ VV誌に期待するなら、あまり積極的ではないものの、今は知らんぷりして改善されるのを待つ。
…… あるいは、反発する。

  私が思うに、記事に関しては改善は可能で、これが ヴィエイユ ・ ギャルド (Vieille Garde : 老親衛隊) という、正確できちんとした研究が掲載されている同人誌の端緒となったのです。
それから私は筆をとり、編集長の テオフィル ・ モニィエ 宛に、私自身の見解を述べた手紙を書きました。 彼からの反応はとても積極的なもので、VV誌の改善を手助けするために記事を書いて欲しい、と言うのです。テオフィル の後を継いだ ニコラ ・ ストラティゴも全く同じ見解でした。:  もし何か気に入らない点があるなら、それを改善するために参加することを勧めます。

 第3号以降、私が定期的に記事を執筆したり、付録ゲームの企画に協力しているのは以上の理由からです。 たとえ、Vae Victis がまだ私の理想とする雑誌ではない、あるいはそうなることは決してないのだとしても、この雑誌が存在することによってフランスやヨーロッパ、そしてその他の地域の読者の大多数を満足させているという利点があります。
2001年に米国で開催されたウォーゲームの大コンベンション、オリジンに参加したことを例に挙げましょう。 私は Vae Victis 誌の “特派員記者” として派遣され、タダで入場し、さらには報道用資料を自由に利用することができたのです。展示会場やプレイング・ルームでは、業界関係者やゲーマー達から率直に言って熱狂的な歓迎を受けました。彼らがよく口にしたのは、
「 フランス語は全然読めないけど、君たちの雑誌はグラフィックが綺麗だし、プレイしてみたくなるゲームが付いていて素晴らしいよ 」
というものでした。
そういうわけで、Vae Victis 誌が今後も末永く続くことを祈ります。

リュック ・ オリヴィエ (Luc OLIVIER

 


 Vae Victis の創刊号は 1995年に出版されたのだが、当時私は身をもってフランスを守っていた (ここだけの話だけど、あれほどフランスの防備が悪かった時期は無い!) 。 私は実際に メス (Metz) の砲兵部隊で兵役に服していたのである。
この雑誌の刊行に、私と懺悔仲間は心を奪われていた。というのも、入隊した部隊でウォーゲーマーを発見し、同部屋で再会するなんていう離れ業をやってのけていたからだ。
私がいつも思い出すのは、我々が壁にピン留めしていた Gulf Strike (VG) のマップを真っ先に激しく非難した週番の下士官殿の表情だ。無論、我々には何の悪意もなかったのに!

  そういうわけで、VVが最初に発表したゲーム ・ Tunisie 1943 の我々の初プレイは兵舎内で行われ、しかも、酷くおかしなエピソードのきっかけにもなった。
私が かの栄光のドイツ・アフリカ軍団を叩きのめしている真っ最中という時に、あの下士官殿が部屋を検査するために不意に現れたのだ。まさかこのような 《検査》 を受けるとは我々は思っていなかったので、彼もビックリしていたようだ。 シミュレーション・ボードゲームが緻密なものであるという我々の説明を聴くため、彼は部屋から出て行こうとはしなかった。 …でも本当のことを言うと、我々は何もしなかった。
それもそのはず、彼は唯一空いていた椅子に腰掛けて、ゲームに参加していたのだ。

おかげで、我々の部屋に非合法で備蓄し、キャビネットで彼の視界から遮蔽していた、圧倒的な弾薬ストック ( “クローネンブルク 1664 ※” 口径というマイルドな名称がついている) がバレることはなかった。
( ※ 訳註 : フランスを代表するアルザス地方のビール)

クリストフ、イヴ、ステフィヌ。君達にこの文章を捧げます。

アントワーヌ ・ ブルギロー (Antoine BOURGUILLEAU

 


Vae Victis、あるいは 手作業の発見

 大多数のフランス人ゲーマーの場合と同様、私にとって Vae Victis の到来は、大西洋の向こう側から出版されるヒストリカル・ゲーム専門誌の絶対的支配をまさに打ち崩した出来事でした。

 その反面、デザインは素晴らしいものの、ボール紙製ではなく カットもされていない付録ゲームの駒に馴染むには、ある程度の時間が掛かりました。 実際、Vae Victis の最新号が届くたびに、記事を読んで、駒の出来に感心しているだけという状態が長く続いていたのです! 
駒の両面を糊で貼り合わせてから切断する作業は複雑すぎるので、もし上手く貼り合わせができなかったらゲームを台無しにしてしまうかもしれない、と私は思っていました。

  マリニャン (※) のゲーム (第3号) が出たことにより、やっと私は美しいカラー図版を綺麗な駒に仕上げるために必要なモチベーションと熱意を得たのです (発売から随分時間が経ってましたが… ) 。その作業は簡単どころか、両面印刷の駒を使いたがる人を今まで恨んでいたことを思い出してしまうほど! 
でも、結果は満足のいくものとなりました。というのも、私にとっての最良のプレイ経験の一つと同じように (今では) このゲームのことを思い出すからです。それは、私自身の10本の指で何かを成し遂げたことによる満足感、そして年代以外のことは何も知らなかった戦いを 「発見」 したことが要因です! 恐らく、こんなところが Vae Victis 誌の強味なのでしょう。:
比較的簡単な付録ゲームのおかげで、私達は、忘れられていることが多い戦闘、または興味深いテーマを発見させられます。そんな “戦闘” が、頑固一徹な人間に 糊 あるいは 両面テープ と カッターナイフ を手にするよう仕向けるのです!

( ※ 訳註 : 1515年9月、フランス王フランソワ1世が、スイス傭兵団を中心とするミラノ公軍をミラノ近郊マリニャーノで撃破した戦い )

 さらに、二人のVV 誌の読者がゲームをプレイする時、決まって駒の作り方を比べあうようになる様子を見るのは楽しいものです! それは、2ヶ月ごとに駒の図版 (ユニットシートのページ) と格闘しているのが私だけではない、という何よりの証拠!
どれだけ駒の作製経験を積んでも、遭遇する困難は、既に過去のそれではなく、…… 。

グレゴリ ・ アントン (Grégory ANTON

 


デンマークが平野のド真ん中に

  クロヴィス王時代のガリアを舞台にした DBM と Champ de Bataille 用のキャンペーン ・ ゲーム "Regis Francorum (フランク王国の支配) " を、 VV誌 18号のために執筆した。
18号の最終締切前の土曜日、いつもより早起きした私は ニコラ ・ ストラティゴのいる編集部へ行き、午前中のほとんどを、執筆した記事の読み返し、幾つかあった問題点の修正といった作業に費やした。なかでも、記事中に掲載される地図に、なぜか “デンマーク” の表記が二箇所あったのだ。:
一つ目はユトラント半島 ( これが正しい!)、
二つ目はスラブ国家に成り代わって中央ヨーロッパに ( あなたは 『鎖の中の弱い人』 です! ※ )。
私は (修正する) 義務を果たし、もっと牧歌的な活動の方へ ウキウキしながら戻っていった。

 その18号が発売された時、掲載されている地図が “平野のド真ん中にデンマークがある” 古いバージョンであることに気付いた。 殺意を覚えたことを この場で白状しなければならない。 土曜の朝に早起きしたのが無駄になってしまったのだ ……。

 それ以来、私は記事を書くたびに仕返しをしている …。
発売間近になると、編集部にそれが訂正済みの正確なバージョンであるかどうか 10回は確認しているのだ。


( ※ 訳註 : フランスのクイズ番組 「ル・マイヨン・フェーブル (Le maillon faible) 」 に出場している 9人の (素人) 解答者の中で、一番答えられなかった人のことを指して そう言うらしい。 )

ジャン - フィリップ ・ アンバシュ (Jean-Philippe IMBACH

 


そして夜明けが … Vae Victis !

 1993年の夏のある晴れた日、一人の青年が、何通もの手紙を送った末にようやく、かの名高い Histoire & Collections 社の経営者 フランソワ ・ ヴゥヴィリエ (François Vouvillier) 氏とオフィスで面会させてもらえることになった。空想的なプランと溢れるほどのアイディアを抱いて … 。  何時間も掛けて話し合った後、ゲームに夢中となったこのコンビは、H&C 社が持つ特質と熱意を基に、世界で最も美しい雑誌を創刊することになったのだ! 
これが Vae Victis 誌 誕生の経緯である。


 ヒストリカルゲーム ( と、なかでも ASL ) に学生時代の大半を捧げていた 26歳の時分、私は他の数人の仲間とともに "Tactiques (戦術)
" という可愛らしい同人誌を 二晩 で創りあげていた。  さらに一歩先へ進む決意をした私は、戦略ゲームを扱う “本格的な” 雑誌の刊行を胸に抱き、パリにあるすべての出版社に何度もアタックした。 その際、履歴書代わりに "Tactiques" のバックナンバーを何冊か送ったが無駄であった。  しかし幸運なことに、"Tactiques" 第4号に掲載されているセネガルの原住民歩兵に関する記事が、私を窮地から救ってくれていたのだ…。
衆知の通り、フランソワ ・ ヴゥヴィリエ はフランス軍に対して情熱 (それに該博な知識) を持っているので、彼は間違いだらけの その記事に、知らん顔をし続けることができなかったのだ!
私は彼に無理矢理 "Tactiques" を定期購読させていたが、それでも彼は私の取り柄が何なのかをきっちり見極めるため、私に出頭を命じたのである。
当然、彼は既におおよその考えを固めていた。 というのも、その頃、Casus Belli (カジスベリ : フランスのロールプレイング・ゲーム雑誌) が "Wargames" という臨時増刊を ( ローラン ・ エニング Laurent Henninger 氏の見識ある指導のもとで ) 出版していたし、ウォーゲーム市場は確かに縮小していたものの、それでも一定量の需要はあると思われていた。
歴史書出版社の大物と対面して怖じ気づいてはいけない …… そう信じれば、まったく問題ないのだ。

  この突拍子もない冒険が始まったのは、我々が面会した日に、とあるレストランのテラスで、 『 ジャーナリズムの世界では互いに親しい口を利くんだ。いいね? 』 と言われて気持ちがほぐれた時だ。我々は一時間も掛からない間に、一枚の紙の上でプロジェクトの草案を描いていた。:
次号の付録ゲームを紹介する “戦術ファイル” 、フィギュア ・ パレード、取りあげるカテゴリーの配分、この雑誌を成功に導いた ボードウォーゲーム ・ フィギュア ・ 軍事史 の巧妙で斬新な混合 … 今あなたが手にしている Vae Victis のすべてが、あの時、短時間でおおよその形を成していたのだ!
最後に、これは落とし穴となる質問だった。:

『 … それと、各号の付録ゲームのことだけど、テオフィル、君がそれを全部引き受ける。問題ないね? 』


時として、人は人生すべてを大博打に結びつけようとする …。

『 もちろんです。そもそも、私は既に第1作目をほとんど完成させているんですよ。 』


まさかね、イカサマだよ!

数日後、私は正式に採用された。そうなると、然るべく働かなければならなかった :
ライター (記事執筆者) を見つけ、レイアウトを作製し、ゲームの駒の絵を描くイラストレーターを探すのだ。

( VV のレイアウトを 一から創りあげる人物を探すのは、フランソワの方の途方もない任務だった。各号のゲームに命を吹き込むに違いない貴重な人材をようやく見つけだし、私は “黄金の指” を持つ男、クリストフ ・ カミロト (Christophe Camillotte) を選任した )

…… そして、あの嘘八百の第1作目のゲーム、最終的に "Tunisie 1943" となったゲームの製作に取り掛かった。この領域に関しては未経験だった私の頭脳は、なんだかよく分からない奇跡によってそれを完成させたのだ。 (幸いにも、この時は 気まぐれな ニコラ ・ ピラート Nicolas Pilartz に助けられた)
雑誌なんて娯楽の一つだと思い込んでいた私は、やがて、それが “十字架の道行き ※ ” であることを悟ったのだ。  … もっとも、私は未だに背負い続けている。なぜなら、それがこの世で最高の仕事なのだから!

( ※ 訳註 : イエス ・ キリストが十字架を背負って辿ったエルサレムからゴルゴタの丘までの道のこと)

 

〈 ストラティゴって、ペンネーム? 〉

  30号以降、Vae Victis は ニコラ ・ ストラティゴ の手に握られている。
したがって、彼は私よりも長期間 VV の指揮を執ることになる ( 可哀想なことに、彼がリーダーとして何年も堪え忍ばなければならないのだとしてもね ) 。
ところで、シェ ・ カステル chez Castel ( 訳註 : パリのナイトクラブ ) の常連で、名字がギリシャ系、且つ 色男で、一見したところ ブラッド ・ ピット の顔を持つ フィル ・ コリンズ ( この例えの正確な解釈は、この二人の有名人を知っている読者諸氏に委ねます ) であり、とてもウォーゲーマーには見えないわね と女性達に高く評価されているにもかかわらず、ウォーゲームの黎明期から出版された全ての東部戦線ゲーム名を そらで言えるこの変わり者は、いったいどんな人物なのか?

  あれは VV の第2号の準備をしている頃だった。まだ朝から晩までヒストリカル・ゲームを 『食べる』 ことにウンザリしていた私は、友人の ワルテル ・ ヴェイドフスキー  Walter Vejdovski ( やはり彼も、フランスではニコラに次いで2番目に凄い東部戦線ゲームのコレクター ) の家で開催された ASL の集会に顔を出した。
そこで見かけた その反逆者は他の人物とプレイの最中で、名を ストラティゴといい、恐ろしいことに、シナリオ巡りをしているのかと思ったらそうではなく、しかもプレイしているのは ASL でさえもなかったのだ!  幸い、その青年は感じのイイ奴で、腕前も確かであり、私のプロジェクトを噂で聞き、私がライターを探していることも知っていた。 それなら問題ない。私は GMT のモンスターゲーム、"Lost Victory" をテストプレイしてくれる お人好しを探していたのだ!
とてつもなく難解な このゲームのシステムが2ターン以上プレイする価値など無いことを知る以前に、真面目なニコラはルールを読み、無謀にも我々が2ターン以降もプレイしてみた数日後、身を引きずって我が家にやって来たものである。しかし、そんな献身的な彼は、記事の執筆を依頼するに相応しい人物であり、第3号の海上戦ゲームの記事、続いて第5号の付録ゲーム "Belisaire" へと繋がるのだ …。

初めの頃、ニコラは編集部の近くを通りかかる度にコーヒーやタバコを差し入れしてくれたこともあって、すぐに必要不可欠な人物となった。これは彼がおべっか使いであり、しかも策士でもあるからだ。
(編集部註 : 最終的に私はカリフ (回教国王) に替わってカリフとなったのだ。 ヒッヒッヒッ!)
だが、もっと具体的に言うと、彼は各号の付録ゲームのテストプレイ、修正、そして開発を手伝うことにも優れた手腕を見せたのだ。編集部で日々を過ごした彼は、結局、11号から編集部の補佐役として採用されたのだが、これは至極当然のことだった。
その後は皆さん御存知のように、彼は快調に VVの指揮を執っている!
(編集部註 : ありがとう、テオ。)

テオフィル ・ モニィエ (Théophile MONNIER) : 初代編集長

 


『 戦車が足りないよ … 』
『 なんだって? 』
『 戦車が足りないって言ってるんだ。守備についているドイツ戦車っていうのは、裏切ってどこかへ回されちゃうんだ。誰でも知ってるよ。』
『 あぁ、そうだな。役立たずだよな。』
『 裏切りってのは何時でも有益なのさ。』
『 まぁ確かに、16世紀の宗教戦争の頃の守備隊だとそうだな。その場合、君はとっても可愛いおチビちゃんだけど、戦車 (の使用) は慎んでくれよ! 』
『 そんじゃぁ、代わりに親衛隊の擲弾兵でも置いておくか。親衛隊の擲弾兵ってのも、よく裏切るもんな。』
『 …… 』


 三年半。 Vae Victis の読者の皆さんが愛読誌の内幕を いつの日か知ることができるようにと、私が Histoire & Collections 社へ潜り込んでから三年半が経過した。

 私は見た! そして私は、1809年4月型の若年親衛隊専用半ズボンのボタンマニアや、T34戦車のキャタピラ履板の狂暴性マニア、さらには Panadanlag の戦いにおける von Strumpfnagel 将軍の天才的な作戦行動に詳しい専門家といった連中のなかに自分が居ることを理解したのだ。
私は度々、自分の命や居場所が無くなる危険に晒され、ときには編集長 (ギリシア系の方) の色欲に委ねられる目にすら遭っている。これも、我々のような身分も低く、非難の声をあげることもできず、使いっ走りをやってるような者達が、こんな Vae Victis 編集部の中で日々を過ごすという “生き地獄” を、いつの日か開示できるようにするためなのだ。
しかし、今日、全てをぶちまけるという時になって、私は恐怖を感じている …。
あっ、あそこだ 。
私は棚の陰に隠れてうずくまる。マグネット付きの小さな台座に並べられた 15mm や 25mm の奴らから、非難の色を帯びた、鉛のように重い視線が私に集中している ……。目を離した途端、彼らは私をなぶり殺すつもりだ。 きっとそうなんだ …。

 もう私は皆さんに伝えることができない! 頭の中で転がるダイスのすべて、目の前で行き来する膨大で難解なルールブックのページ……。
私が X X であることを世界が知ることになるなんて、恐れ多いことだ。
やめろ! 
放せよ! 
まさか、接着剤 と フロック! 
ウワァ〜ッ!


  現体制の打倒、あるいは 謎めいた 《使い走り解放 革命運動》 を掲げる多数のビラと一緒に、この手紙は Vae Victis の編集補佐の机の上で発見された。容疑者は見つかっていない。
 一件落着?

ローラン ・ デュクロ (Laurent DUCLOS) : 編集補佐



( 訳註 : この文章は特に翻訳が難しく、私のスキルではこれが精一杯です。御容赦願います。)


LE TOP 10

 まず最初に、我々に返事を書く時間を割いてくださった読者諸氏全員に、心から御礼申し上げます。 というわけで、皆さんからの投票結果は以下のとおりです。順位は次の要領でつけられています。 1位には5点、2位には4点、以下同様。 全体として、上位はほとんどがシリーズもの( Champs de Bataille と Jours de Gloire )の個別ゲームで占められていた (特に1位) ので、それらはシリーズとしてまとめてランクしてあります。
皆さんの手紙を読んで、5つのゲームを選ぶことがどれほど困難なことなのかが分かったような気がしています。投票してくださった方々の全てが Vae Vicis を創刊号から知っていたわけではないことも確かです。そのため、(各ゲームが獲得した)点数を加重計算するのではなく、皆さんが1位に投票したゲームの 10傑を掲載することで、集計を簡単にします。
では トップ10 をご覧ください。:

1位 : Imperator (VV 42号)
2位 : Jours de Gloire (18, 23, 29, 35号)
3位 : Kharkov 1943 (25号)
4位 : En Pointe Toujours ! 2 (31号)
5位 : Champs de bataille (9, 15, 30号)
6位 : Ardennes 1944 (48号)
7位 : Le Matz 1918 (24号)
8位 : Barbarossa 1941 (43号)
9位 : Normandie 1944 (27号)
10位 : Rocroi (11号)

 この順位からどのようなことが分かるでしょうか?
ナポレオン時代と第2次世界大戦の戦略ゲームの有力テーマが占めていること、それに古代文明の時代が見事に突出していることに気付きます。他のテーマ (Fontenoy、De Bull Run a Appomatox、Belisaire、Gettysburg 1863…) は、10傑とそれほど差がありません。
我々は、有名な軍事エピソード以外の、もうちょっと 『無名な』 エピソード または 時代のテーマに取り組むことを継続していかなければならないと思っています。宗教戦争をテーマとする今月号のゲームをその実例として挙げると、これは極めてプレイアブル、且つ、多くの皆様に楽しんでいただけるものと期待しています。

ニコラ ・ ストラティゴ (Nicolas STRATIGOS) : 現・編集長

 

 

Fin

 


本記事掲載誌の Vae Victis 50号は、2003年4月に発行されました。

この非公式翻訳文は Vae Victis 編集部の許可を得て公開しています。

Translated by T.Yoshida

 

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