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Vae Victis Hors-Serie #10


La Vie Après la Mort

壊滅後の復興

 

Voyage à Volgograd ヴォルゴグラード 旅行記


by Hervé BORG

 

スターリングラードの戦い (1942年9月13日 〜 1943年2月2日) は独ソ戦の転換期となり、時として 『ヴォルガ河畔のヴェルダン』 と呼ばれる。あれから 60年以上が経過し、フルシチョフ派による非スターリン化政策期間中に ヴォルゴグラードと名を改められたこの街は、凄まじい戦いが繰り広げられた痕跡を未だ残している。

 

訳者より : この旅行記には多くの写真が用意されており、それらを眺めつつ記事を読み進めないと内容の半分も理解できないと思われます。 できれば掲載誌・ Vae Victis Hors-Serie #10 を傍らに、この翻訳文をお読みいただきたいのですが ・・・ 今現在は中古品(古本)を探す必要がありますね。

 

 

嗚呼、ヴォルガよ

 もともと スターリングラードは、1589年にヴォルガ河とツァリツァ川 (現在、この川は涸れている) の合流地点に建設された要塞で、ツァリーツィンという名前だった。 ロシア内戦の折、この街の防衛は スターリン に託される。彼が出世したことにより、ツァリーツィンは 1925年に スターリングラード への改名という、首を傾げたくなるような栄誉を授かった。
この街の特色は、ヴォルガ河の流れに沿って市街地が拡大した点にある。街の 『厚み』 にはそれほど変化が無いにもかかわらず、市街北部から南部へ行くには車で 2時間も掛かるのだから、確かにこの特色は現在も残っている。さほど現地では感じないのだが、ヴォルガ河岸に向かって自然に 『吸い込まれる』 ような緩やかな傾斜があることに気づく。これら2つの要素を考慮に入れると、スターリングラード攻略時の第6軍の戦術ミスを部分的に解明できる。実際、彼らは市街地内のソ連軍を包囲する際、数ヶ所の地点で集結することなく、川の流れに向かってヴォルガ河へ到達しようとした。なぜドイツ軍は戦闘期間中に一度も渡河を試みなかったのかという疑問は、この河が現地では 『小さな海』 と呼ばれていることで説明できる。

ZONE 1

52ページの地図を見て頂きたい。 もはや ヴォルゴグラードには、スターリングラードの面影があまり残っていない。なぜなら、1942〜43年の凄まじい戦闘で街が完全に破壊されたからだ。
当時のまま保存されている稀少な建物の一つが、激戦の舞台となった製粉工場である (写真1) 。この極めて興味深い情景の裏手には、パノラマ博物館が建てられている。この博物館の呼び物は、スターリングラード戦、なかでも その主たる英雄的武勲 (ソ連側の主観によるものであることは言うまでもない) を描いた巨大な油絵で、広いスペースが割かれている。それ以外にも、我々 (訳注 : 戦史愛好家やウォーゲーマー) がこの途方もない闘いに浸りきってしまう … たとえロシア語が読めなくても … ような地図や写真等々の展示物を見ることができる。

[ 写真2 : このポスターは 『倍の気力で働け』 と叫び、さらにあの有名なスローガン 『前線のため、勝利のため、あらゆることを!』 と繰り返す。
写真3 : パウルス元帥と参謀本部は麾下の第6軍の残存兵達を自らの運命に委ねた。その降伏調印が行われた机が復元されている。
写真4 : 軍服も数着が展示されている。これはソ連邦英雄の勲章を4回授与されたジューコフ将軍のもの。
写真5 : 第72親衛狙撃兵師団、元の第29狙撃兵師団の軍旗。この戦いの後、スターリングラードで戦った部隊の多くは親衛部隊に昇格した。
写真6 : この街は外国から沢山の敬意や贈り物を受け取った。これは、最近になって現代的意義が見直された ギィ・モケ から送られたフランス国旗。]

博物館の前後に屋外展示されている軍事機材には感心した (第2次大戦時の戦車や大砲 、 写真7 )。

 

英雄の黄昏

戦後、13の都市が国家の最高の軍事勲章である 「ソ連邦英雄」 の称号を授与した。もちろん スターリングラード はその中に含まれており (注1)、製粉工場とパノラマ博物館に隣接する場所に建立された記念碑がそれを物語っている (写真8) 。
そこから道路を挟んだ向かい側に、 「パブロフの家」 の残骸がある。これは第6軍の執拗な襲撃に晒されるも 58日間 死守したパブロフ伍長の命令のもとで要塞化された建物である。

[ 写真9 : その当時に撮影されたパブロフの家
写真10 : パノラマ博物館と製粉工場の前にある新しいビルに もたれかかっている記念プレート。
写真11 : レーニン広場正面から見た同じビル。
写真12 : 記念プレート。そこに描かれた顔の右上にある一文は 「戦闘の58日間」で、その下にはこう書かれている : 「1942年9月末、この家は パブロフ伍長 とその戦友である アレクサンドロフ、グーシェンコ、チェルノゴロフによって占拠された。1942年 9〜11月の間、この家はレーニン勲章を受章した第13親衛狙撃兵師団 第42親衛狙撃兵連隊 第3大隊によって英雄的に守り通された。」 ]

注1 : モスクワ、レニングラード …現在は サンクトペテルブルグ、ムルマンスク、スモレンスク、ミンスク、ツーラ、ブレスト=リトフスク、キエフ、ケルチ、セバストポリ、オデッサ、それに ノボロシースク がこれに含まれる。
左の写真 (48ページ左側中央の無番号写真) : スターリングラード戦に捧げられたパノラマ博物館の入り口。


地雷と対戦車兵器を巧みに用いることにより、パブロフは、このビルを 防波堤の代わりとなるトーチカへ変身させた。守備側に有利な都市環境の中で決意を固めた狡猾な抵抗勢力。そんな敵と対峙したドイツ軍が遭遇した戦術上の困難が、この実例で本当によく理解できる。
それらの建物がある1ブロック反対側には、例によってレーニン広場がある。ずっと以前からロシアはスターリンを否定しているようだが (このグルジア出身の独裁者の名誉回復を画策しているのがプーチン氏だという噂があるけれど) 、この国はレーニンを歴史上の重要人物の一人と見なし続けてきた。これまで私が訪れたすべての街には、彼の名を冠した通りや広場が現存する。

次に、この戦いの末期に第6軍の参謀本部が置かれた市街中心部のショッピングセンターへ足を運ぶ。その地階は史跡でもあるので、ドイツ第6軍が徐々に味わった断末魔の苦しみに関する博物館に改装されている。

[ 写真13 : 第6軍が存続した最後の数日に、懸命の打開策としてパラシュート投下された補給コンテナ。
写真14 : ドイツ兵に降伏を厳命するビラ。]

完全復興を遂げたこの街には新しい都市計画が存在するが、その多くはスターリングラードの戦いを記念するためのものである。ヴォルガ河と直交する形で、実に堂々とした「英雄の並木道」が整備されている。これはこの戦いでソ連邦英雄の勲章を授与された者全員を称える道路だ (写真15) 。この並木道は 「永遠の炎」 と 「“戦死した闘士”の広場」 へ通じていて、すべての軍事パレードがここで開催される。
パノラマ博物館のすぐ近くでは 「第13親衛狙撃兵師団 通り」 や 「チュイコフ (この街の防衛の最前線で戦った 第62軍の指揮官) 通り」 を散策できるが、道すがら表示板や胸像を見るたびに、その人物や部隊の武勲を思い起こすこととなる。

上段 (46〜51ページにかけて) の絵画
スターリングラードの戦いを扱う博物館の名称の由来となった巨大なパノラマを筆者が再現した。つまり、16m × 120m (!) もある ひとつながりの環状油絵こそ、この博物館が円形になっている理由なのだ。


ZONE 外の場所

注目すべきは、ロコソフスキー通り と ジューコフ大通り が合流する交差点だ (写真1617) 。 加えて、この街には 1942年11月18日当時の最前線を象徴する T-34 戦車の砲塔が あちこちに点在する。

[ 写真18 : これらの砲塔は、博物館の警備も担当するロシア軍工兵部隊の司令部前に鎮座している。 私は入場制限の厳しいこの博物館を どうにかして見学できたが、その間、自分のカメラは没収されていた。]

ZONE 2

このエリアには大規模工場などの伝説的な戦闘現場がいくつか現存し、その名称が 街の地区名になっている (赤い10月地区、トラクター工場地区、ジェルジンスキー地区) 。 赤い10月工場の正門は戦闘後に修復された装飾が今でも残っている (写真19) 。

 

丘に登る

ZONE 3

ヴォルゴグラードを訪れて、最後に ママイ ・ クルガン (ママエフの丘) に行かないなど論外である。
戦時中、両陣営はこの丘の上で互いに高台を奪い、奪い返され戦った。つまり、ここが市街で最も標高の高い場所なので、砲兵部隊を効果的に指揮するにはこの場所の占有が欠かせなかったのだ。 ここで繰り広げられた凄まじい戦闘と他の一般の戦闘を記念する目的で、1960年代に 丘全体がまるごと整備された。丘の頂には 『母なる祖国』 (Rodina-Mat') と名付けられた巨大な彫像が建立されている。さらに、この像の景観に配慮して、中心街へ通じる鉄道は迂回するように敷設されている。 何はともあれ 巨大な階段をよじ登り、噴水を取り囲む狭い広場に出る。

[ 写真20 : 母なる祖国像の下にある窪地の真ん中に彫像が一つ見える。そこから、驚くほど音がよく響く壁に両側面が囲まれた階段を通って2階に到達する。 (ロシア人は戦闘中にソ連軍兵士が廃墟に書いたスローガンや合い言葉のいくつかを継承している)]

やっとのことで、母なる祖国像へと向かう道に辿り着いた。この道の両脇には数多くの墓石が並んでいる。ここには ジャン=ジャック・アノー監督によるスターリングラード戦の映画 注2 の主人公として有名な狙撃手、ヴァシリ・ザイツェフ の墓があるが、それくらいしか新鮮なネタはない。彼の狙撃銃はパノラマ博物館に展示されている (写真21)。

注2 : ウィリアム・クレイグの有名な小説 "Enemy at the Gates" を脚色した作品)


巨大な像の後ろには軍人墓地が整備されている (写真22)。ところで、丘の頂上では市街全体とヴォルガ河の対岸が眼下に広がる様子を眺められる (写真23)。

[ 写真24 : 「永遠の炎」 を収容するための建物。 その入り口のすぐそばには、無名戦士の墓とチュイコフ将軍の墓が向かい合わせに置かれている (写真25) 。]

 

鮮明な記憶

幸運にも私は戦勝記念日にヴォルゴグラードへ行くことができた。我々の国では 5月8日だが、こちらでは 5月9日に祝う。
ここで歴史の裏話。 ドイツの降伏調印は 5月7日に西側連合国ならびにソ連邦代表者 (ソ連政府の指示も無いまま) により、 (フランスの) ランスで行われた。その数分後、 「書類にはサインするな」 との スターリンからの命令を代表者は受け取った……。事実、スターリンは勝利をもたらしたソ連邦の貢献を明確に示すため、それに、世界におけるソビエト体制のイメージを向上させるためにドイツの降伏を利用したかったのだ。そのため、彼は赤軍主催の降伏調印式をベルリンで新たに開催することを要求し、それは実現した。この新しい手続きは 5月8日の午後三時に行われ、ランスの調印式と同じ内容で 5月9日午前零時に戦争終結と決まった。ド・ゴールはこの情報をすぐにラジオで告知した。現在、フランスで祝っているのは、この戦争終結声明なのである。ソ連政府は 5月9日だけを 「戦勝記念日」 として制定し、自己満足することになる。今日、 (これに相当する) ロシアの国民の祝日は、1990年にソ連邦からロシアが分離したためソ連邦崩壊を引き起こした日付、6月12日である。しかし、この 『独立記念日』 の意義を理解している人はそれほどいない。5月9日といえば軍事パレードの日であり、ロシア中で退役軍人の名誉を称える日であり、自分たちがロシア人であることを誇りに思う日なのである。要するに、我々の 7月14日 (訳注 : フランスの革命記念日) と少し似ているのだ。

[ 写真26 : 戦勝記念日おめでとう! ヴォルゴグラード市民の皆さん、我々は自分たちの英雄を決して忘れません。]

戦後 60年が過ぎても、枢軸軍との協力関係があった期間とスターリン主義者達の犯罪を完全に隠蔽しているおかげで、ママエフの丘の雑踏は消えていない (写真27、51ページ参照)。 『大祖国戦争』 注3 は ファシズム 注4 に対する闘いだっただけに尚更、当然かつ正当なものと認識されている。

注3 ロシアにおける 「独ソ戦」 の名称。ほかの用語を使うとウケが大変悪くなる。
注4 ロシア人は 「ドイツ人」 ・ 「ナチス」 ・ 「ファシスト」 を区別せずに言い表す際に 『ファシスト』 という表現を使う。 彼らは今でもこんな調子でソビエト的論法を踏襲しているのだ。


その一方で、人民の苦難の象徴たる あの戦争は、恐らく 国の歴史の中では特別の共感をも 得ている。

ここまでの基礎知識がないと、2007年の初頭に エストニア の タリン市 で起きた ソ連邦兵士の記念碑をめぐる問題に対してロシアが見せた頑なな態度を理解することはできない。 エストニア政府にとって、あの記念碑はソ連による占領の象徴だった。 ロシアにしてみれば、赤軍はナチスの支配下からヨーロッパを開放したに過ぎないし、大祖国戦争に まつわる あらゆる事柄は絶対に尊重すべきものである。 故に、 (記念碑の撤去は) 主権国家の問題への干渉を十分に正当化する、非常に重大な侮辱だったのだ。

あの戦争の灰は依然として熱を帯びており、戦争終結をあれほど熱烈に祝う国は世界中で稀である。だからこそ、第2次世界大戦に興味を持つ者は、ロシア、それもとりわけ ヴォルゴグラードでは、彼らロシア人たちの幸福な姿が印象に残るのである。

 

Fin

 


本記事掲載誌の Vae Victis Hors-Serie 第10号は、2008年夏に発行されました。

この非公式翻訳文は Vae Victis 編集部の許可を得て公開しています。

Translated by T.Yoshida

 

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