第2次世界大戦中、ウクライナは大部分が戦場と化した。1941年のキエフ戦は包囲戦となり、50万人のソ連兵が捕虜となっている。1941年から1943年の間にハリコフ戦は4回繰り広げられたが、中でも3回目の闘いは
マンシュタイン元帥の反攻で名高い。1943〜44年のドニエプル戦、キエフの解放、そして 1944年のドイツ軍の包囲突破作戦 (
コルスン=チェルカッシー、カメニェツ=ポドリスキー、リウォフ=サンドミェルツ ) 等により、最終的にウクライナはソ連軍に奪回された。
この国の玄関口であるキエフから私達の旅は始まる。ここはドニエプル川を背にする壮麗な都市であり、とくに この広大な河川は '41年の赤軍
および '43年のドイツ軍の防衛線を肩代わりした。 キエフの街を探索するには少なくとも2日を要する。
ローヂナ・マーチ像から見物を始めよう。 これは 高さ 60メートル、光沢のある鋼鉄製の巨大な 「祖国の母」 像で、この付近ではどこからでも見える
(写真 1)。
この彫像の足下には 大祖国戦争歴史博物館 があり、年代順に並んだ展示室は機材や写真、そして地形図 (残念ながらこれはロシアのもの)
が満載で、歴史マニアを半日のあいだ夢見心地にしてくれる (写真 2)。鉄十字や砲弾ケース、それに
かつてのナチスの旗とならんで、芸術的で興味深い多数の勲章が飾られているのが目につく。中庭には戦車や大砲、航空機までもが一箇所に集めて陳列されている。熱烈な
ASLマニアを充分満足させられる内容だ (写真 3)。
2つ目の博物館は 1945年以降の現代戦を扱う施設で、このテーマパークの一部を成している。彼らの “冷戦” 観 は我々西ヨーロッパの見方とは異なるため、とても興味深い。大型機材のパネル、なかでも
Mi-24 ヘリコプターが展示されている。
市の中心部へと探索を続ける。
緑色に塗られ、金色に輝く球形ドームが非常に美しい、修道院の宗教施設を見つけた (写真
4)。 この施設には東方正教会やカタコンベ (地下納骨所)、それに博物館がある。これらの建築物は
ものの見事に復元されており、極めて美しく、必見である。
その他、市の中心部では特に “聖ソフィ大聖堂” 、青と金系統の色合いの “聖ミシェル修道院”、バロック建築の “聖アンドレイ教会”
と その石畳の街路 ( これはパリのモンマルトル地区に相当する : 写真 5
) を探索すると面白い。これらを見て回るには、地下鉄を利用するのが一番手っ取り早い。
宵の入りに独立広場を通過して、やっと私達は見物を終えた。この広場は大勢の若者達がビールを飲んだりタバコを吸ったりしながら散策していて、とても活気がある
… (写真6)。
他の地域を 「発見」 するため、私達は この国際色豊かな大都市を急いで後にした。
ウクライナは広大であり、この地を 「発見」 する最も安上がりで間違いない交通手段は、鉄道である。 寝台列車を利用するには切符の予約が欠かせない。
だが何よりも、我々の 姓 と 名 をキリル文字に置き換える こと、それこそが真の冒険である。
( 訳注 : 予約申し込みのために氏名を記入する際、なにかトラブルでもあったのでしょうか
!? )
残念ながら、この国は余りにも広大なので、西ウクライナ ( オデッサ と リウォフ ) へ行くか、東ウクライナ ( ハリコフ )
へ行くか を選択しなければならない。マンシュタイン元帥の反攻を扱うゲームを幾つかプレイしていたため、私達の選択は、夜行列車で7時間で行けるハリコフへと自然に向けられた。
あいにく、ハリコフは多大な戦争被害を受けているので、戦前の街並みは極僅かしか残っていない。これは 特に ドイツ軍の “大戦果”
であり、博物館や記念碑といったものが存在しないのだ。それでも、この街では幾つかの古い建築物や、この都市が首都だった 1917年〜34年までの短期間に当時の中央官庁街があった非常に広大な広場
(写真 7)、それになんと言っても、この街の大学が醸し出す
ウクライナ というよりはむしろ ロシア の雰囲気を味わうために訪れると興味深い。壮麗な教会
(写真 8) が並ぶ中央広場には、明らかに ロシア内戦 の期間中に使われたと見受けられるイギリス製の
マークIV 戦車 等の兵器が展示されている (写真 9)。
セヴァストポリ行きの列車に間に合うよう、私達は その日の夕方に中央駅へ戻った (写真
10)。
夜明けに セヴァストポリ (写真 11) に到着したのは、シンフェロポリの鉄道結節点を通過したあとである。
この都市は黒海の小さな湾に全域が隠れてしまっている。軍艦が何隻も見えるけれども、しかし私達の目を惹き付けたのは、数々の白い建物や、下方に青い海を湛える起伏に富んだ景色だった。市の中心部には勾配があり、下流にある港は幾つもの入り江で分割されている。小さな街だと感じたが、1942年の包囲戦があった大祖国戦争や、そしてなんと言っても
1854〜55年のクリミア戦争など数多くの戦歴があるため とても魅力がある。
市街とその近郊を見物し、ヤルタまでの沿岸も少々探検するには、4日間はみておかなければならない。1日でこの街を見物することも可能で、我々は初めに、港へ通じる街路沿いにある黒海艦隊博物館へ足を運んだ。
この博物館にはクリミア戦争の記念品や模型、それにセヴァストポリ要塞の円形パノラマとでも言うべき 360゜の範囲でマラホフの丘の占領を描いた巨大な絵画がある。それらは
1905年に一般公開された。今日では、この博物館の設立当時の展示館は雄壮かつ極めて写実的に修復されていて、包囲期間中の戦場地形図を描くためには無くてはならないもの
(訳注 : ランドマーク的存在)
となっている。 つまり、マラホフの丘の見物が、この都市を訪れた際の目玉となる。この丘は、古い時代の大砲や、なによりもあのパノラマ絵画の中で見ることができる要塞の記念碑で溢れかえっている
(写真 12)。
街の外れには、古代都市の遠い過去を偲ばせる、13世紀まで存在した ケルソネソスのギリシア遺跡 (写真
13) がある。ただし、セヴァストポリの街は 18世紀にロシアのエカテリーナ2世によって建設されている。
市の郊外には美しいバラクラヴァの漁港 (写真 14) へ通じる街道があり、そこにはクリミア戦争の記念碑、なかでも
( イギリスの ) 軽騎兵旅団による有名な突撃があった現場には、多数の記念碑が建立されている。
1942年と1944年当時、第2次世界大戦の重要な要塞施設だった サプン・ゴラの丘には、今日、非常に写実的で見事なジオラマ絵画や多数の記念品、そして古道具を収容する博物館があり、その中庭には哨戒艇や海軍の砲塔、多数の戦車
等の重要機材が展示されている。
バラクラヴァ は港に面する小ホテル (訳注 : レストランを兼ねた高級ホテル)
で空腹を満たせるので、昼食時の休憩地として最適だ。
古い 「ジェノバの塔」 はクリミアの歴史上の出来事を想起させる。
この丘の下には、入り江を くり抜いて造られた原子力潜水艦専用の秘密修繕基地がある。ここは ジェームズ・ボンドの映画のような雰囲気を感じながら見物できる。
セヴァストポリからローカルバスに乗って海沿いに 60km 進むと ヤルタに到着する。
一方に海 、他方に山 、と 景色は素晴らしい。ヤルタは ずっと昔から人気のある リゾート都市で、この地に建つ壮麗な宮殿がそれを物語っている。言うまでもなく、その
リヴァディア宮殿は必ず見物しなければならない。 ツァー (訳注 :帝政ロシア皇帝)
が夏のあいだ住んでいた この宮殿は、1944年の(ヤルタ)会談に使用され、例の有名な協定がサインされた場所でもある
(写真 15)。
ある風変わりなドイツ人によって 20世紀初頭に建設された 「ツバメの巣」 という名の小さな宮殿が断崖絶壁の頂きに建っていて、イルカと一緒に短時間のクルージング
(船旅) を楽しむ際の目的地代わりとなる。
最後に、偽物 か (フランス・カンヌの) 本物 かと迷わせる
クロワゼット通り を海岸沿いに散策しておかねばらならい。ロシアの文豪 ・ チェーホフの別荘 (ダーチャ) を見て、見物納めとする。
最終的に、セヴァストポリから列車で 17時間の最後の旅をしてキエフに戻り、そこから再び飛行機に乗って我々は帰国した。
旅行情報
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行程が複雑ではなく、極端な冒険心を必要としないような旅行計画を立てること。
ウクライナは 1991年から独立しており、ヨーロッパ連合 ( EU ) に合流すべく努力している。そのため、ヨーロッパ人は
ビザ (査証) 不要。 (訳注 : 日本人も、2005年8月1日から、「90日以内の滞在」の場合に限り
ウクライナへの入国の査証は不要になっている。)
首都 ・ キエフ は、パリ から航空機で 3時間半 かかり、パリ - キエフ 間の直行便、または他の空港を経由する便が数日ごとに何便かある。
運賃は、インターネット上では まぁ妥当な金額となっている。 旅行の初めの数日間の宿も、直接インターネットで予約できる。
ユーロは、場所によって大歓迎されるし、地元の通貨 ・ フリヴニャ ( Hrivna ) に両替するのも容易だ。(訳注
: 支払いに関しては、ウクライナの法律で現地通貨での支払いが定められている。要注意!)
最後に、現地の生活水準はフランスよりも劣るので、レストラン や 列車での移動、それに ビール 等々の料金は さほど高くはない。ただ、宿泊費だけは、特に
キエフ では高いかもしれない。しかし列車の寝台席は安く、私達はそこでよく眠った … 。
私達と同じような 10日間の周遊旅行の場合、小遣い込みで 1,000 ユーロ以下とみておかねばならない。
唯一、不自由するのは言葉であり、実際、英語よりもロシア語で話す方が良く、キリル文字の基礎をサラッと勉強しておくと良い
… 。 確かに、(現地の言葉を知らなくても)
普段は なんとかなるのだが、時々、ハチャメチャなことになるのだ。
【 訳者より :在ウクライナ日本大使館のWebサイト
にも詳しい現地情報が掲載されています。興味のある方は御覧になってください。 】
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Fin
本記事掲載誌の Vae
Victis 72号は、2006年12月に発行されました。
この非公式翻訳文は Vae Victis 編集部の許可を得て公開しています。
Translated
by T.Yoshida
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