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  家について、いちじくを抱き上げようとするといちじくはまた短くキャンと鳴きました。お腹をさわられるのと痛いのです。かといってこのまま車にずっといるわけにはいきません。一度引っ込めた手をまたいちじくの方にのばし、いちじくの身体をまあるくして、身体ごとかかえるようにして、いちじくを家の中に連れて行きました。
「どうだった?」「いちじく大丈夫?」同じように心配して待っていた小さい家族たちが、寄ってくると、いちじくはウーという低いうなり声をあげて、小さい家族たちを、わたしといちじくのそばに寄せないようにしました。
「どうしたの?」子供たちもいちじくにうなられるようなことは今まで一度だってなかったので、不安そうに、いちじくの頭をなでようとしました。そのとたんにいちじくは牙をむいて、その手にかみつきました。
いちじくが血が出るほど噛むなんて今まで決してなかったことです。誰もが本当に驚きました。「痛くてさわられるのを怖がってるのね」そんなことを言ってなぐさめても、噛まれた痛さよりも、きっと大好きないちじくに噛まれたこと自体がショックだったのでしょう。一番小さい家族が泣き出してしまいました。けれど、二人は相談をして、今はいちじくを大事にしようということで、私といちじくをそっとしておいてくれました。
ふたりが部屋から出ていくと、いちじくはよろよろしながら、背中を丸めて、うろうろと部屋の中を歩き出しました。座ることすら痛みが身体を走るのだと思います。しばらくすると、そのままのかっこうで、その場に立ちつくし、また歩き出すのです。
「ね、ケージに入って休んだら?」
けれどもいちじくは夜中じゅう、そうして歩き続けていました。私はただおろおろとその後ろをついていただけでした。ずっとずっとただただ歩き続けていました。目を見るといつも涙で濡れていました。私はこれでよかったのだと思いながらも、いちじくの涙を見ると、本当に可哀想なことをしてしまったと私も涙がとまらないのでした。
夜が少し白く明けてきたころ、ようやくいちじくは私のひざにまた乗りまるくなってやっと横になることができました。
 そして二時間ほど眠り、起きたときには少し元気になって、初めて水も飲んでくれました。
 もうこれで大丈夫。いえ、もっともっと前から、上手に手術をしていただいているのだから本当はもう大丈夫だったのだと思います。
でも、私やっぱり心配で心配でいられなかったのです。よろよろと歩いている姿を見れば、身体を休めることができができないから、そのうちがくっと力を落としてしまうのではないかと思ったし、眠っていれば眠っていたで、このまま目を覚まさなかったらどうしようとお腹が息のためにあがったり下がったりするのばかり見ていました。
まだ家に来て一年あまりのいちじくが、こんなにもこんなにも大切で、いとしい存在になっていました。
まだまだおもちゃで遊ぼうとしたり、ゴミ箱をのぞいたり、そんなことはできないけれど、明日になればまた少し元気になるでしょう。あさってになればもっともっと元気になってくれるでしょう。
私はまだ傷口は恐くて見てはいないし、見ることもできないのだけど、どうやらいちじくは知らないあいだにガーゼははがして食べてしまったようでした。自分でなおそうとしているのでしょうか?しじゅうお腹をなめてばかりいました。横から見るとお腹の部分の毛がそられて、まったくありませんでした。いちじくは毛がいっぱい生えているから、ふわふわしているけれどお風呂に入ると、すごくやせていて小さいのです。だから毛がなくなった部分はそこだけぺこんとへこんだ形に見えて、いっそういとおしい気持ちがしました。
次の次の日、学校から戻って驚きました。いちじくがケージの中にいないのです。ふたの部分がはずれて、斜めになっていました。
ケージのふたがきちんと止められていなかったかもしれません。それにしてもいちじくはお腹がまだ痛いはずです。檻をどうやって登ったのでしょう。そしていったいどこへ行ってしまったの?
お部屋の中をぐるりと見渡しても、いちじくはいませんでした。いつもなら「おいで、いちじく!!」と呼ぶだけで、すぐに私のところへやってくるはずなのに、何度呼んでもいちじくはどこからも出てはきませんでした。動転してどう考えればいいのかわからなくて、外へ飛び出しました。「いちじくー」「いちじくーー」大きな声で辺りを探すけれど、いちじくの姿はありません。
探すあてもなく、また家に戻ると、お部屋の中でチリンと小さな音がしました。それは確かにいちじくが首からさげている迷子札の音のようでした。お部屋の中のどこかにいるんだ…
「いちじく?」おびえないように小さい声で呼んで、音が聞こえたあたりに近づくと、なんといちじくはカーテンにくるまって、隠れていました。「おいで…」そう呼んでも、いちじくは首を低くして耳を寝かしています。こちらに来たがっていないのがはっきりわかりました。
ケージから出たことで叱られるとでも思っているのでしょうか?それとも、手術のことで、私のことをもう信じることができないと思ったのでしょうか?
近づいてさっと抱き上げようとすると、いちじくは手術のあと、小さい家族にしたように、私にむかって歯をむき、おびえてキャンキャンと声をあげて私の手を噛みました。
とてもショックでした。どうして…と泣き声をあげたいような悲しい気持ちでした。けれどいちじくはもっともっと悲しくて、ショックでさびしくてたまらないのだろうとも思いました。いちじくにとって家族は私たちだけです。その家族に対して、信じられない気持ちでいるのはこれ以上ないほどつらいことだと思います。
私はまた泣きながら、頼むような思いで言いました。「大丈夫よ。いちじくが大好きだし、いちじくが可愛いし、いちじくを大事に思ってるよ。おいで、ね、来て・・ね」
もう一度、少しずつ近づいて、そっと下の方から手を出すと、いちじくはためらいながら、長い時間をかけて私の手の上に頭を置きました。
そおっといちじくを抱き上げると、いちじくは涙目で私を見つめながら、身体を私の腕にまかせてくれました。
「ごめんね、大好きだよ。大好きなんだよ。」
 いちじくは私の声に返事をするように、低く小さい声でクーンと泣きました。
 
 それからのいちじくは前以上に、私のあとばかりついてくるようになった気がします。床に落ちたなにかいいもの(私にとってはいいものじゃなくて、ごみだったりおもちゃだったりするんだけど)を見つけると「ね、これ拾っていい?」というふうに私を振り返って見てくれます。私がにっこり笑ったり、「いいものみつけたね」と言うといちじくはそのいいものを拾います。
 抜糸は思ったよりずっと簡単でした。お医者さんが糸をピンピンピンとひっぱって取ってくれてそれで終わりでした。偶然すごく大きな大きな犬がいて、あんまり大きくて、いちじくはその犬にみとれて、痛いのを忘れたくらいでした。
 
 手術をしてよかったかどうか、今はまだよくわかりません。でもすごく悩んで、たくさん考えて決めたことはよかったなあと思うのです。そして、手術を終えて、今はいっそう仲良しになれたことは、本当によかったし、ほっとしたことでした。

 

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