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 いちじくの手術が明日に迫りました。
 いつもは朝ご飯を食べたら、あとは夕方に「お手」や「お座り」や「とってこい」遊びをしたときに、少しごほうびのおやつを食べるだけのいちじくも、「手術の前日は夜ご飯のあと、いっさい何も口にさせないでください」というお医者様のことばを思い出して、次の日におなかがすきすぎてもいけないからと特別に夕飯を食べさせることにしました。
 私のホームページの「たんぽぽの仲間たち」でもいちじく物語を載せていたり、明日の手術のことを書いたので、たくさんのメールをいただきました。
「お医者様におまかせするのが一番です。あなたの動揺がいちじくちゃんに伝わってしまうから、ね」
「いいことだけ考えるとちゃんとその通りになるんだよ。悪いことを考えると逆効果だから、だから心配は禁物」
「きっと大丈夫。簡単な手術だし、毎日病院では行っている手術だから」(獣医さんをされてる方から)
 そうなのです。私の動揺はすっかりいちじくに伝わっていました。私が不安でたまらなくて、いちじくの顔ばかりじっと見ているから、いちじくも私のひざの上から降りようとしないのです。いいことだけ考えようと思うのに、万が一のことがふと頭をかすめます。きっと大丈夫とそう思うのに、私のドキドキはなくならず、いちじくも不安そうでした。
 夜中じゅう、明日のことが気になって眠れなかった長い夜もとうとうあけて朝になりました。いちじくはのどが乾いたのでしょう。お水も前の日からだめだったので棚の上によけておいたからっぽの水飲みをしきりに取ろうとしています。そして、どうして今日は水をくれないの?というふうに私を見上げるのです。
 朝一時間だけ仕事をお休みすることにしました。9時からでないと病院が開かないのです。玄関を出ようとすると、お散歩のときにあんなに喜んで外へ出るいちじくが、今日はどうしたことか、足を踏ん張って扉から出ようとしません。手術のことをちゃんとわかっているんだなあと思いました。
9時ちょうどに病院に着きました。
「今日手術をお願いする山元です」と言うと、看護婦さんはすぐに「ああ、いちじくちゃんね、お待ちしていましたよ。いちじくちゃんお預かりしますね」と言いました。「え?もう行ってしまうの?」まだなんだか心構えができなくて、私はいちじくに「がんばってね」と言うのがやっとで、もう涙がぽろぽろと止まらないのでした。
「ちゃんと大丈夫なようにしておきますからね」
看護婦さんの声に、お願いするしかないと思って、おじぎをすると、「そんなに深く二つ折れになるまでおじぎをしなくても大丈夫だよ」とお医者さんは笑っていました。
いったん帰りかけたけれど、(何かあったらどうしよう。携帯の電話番号もお伝えした方がいいのじゃないか)と思い直して、もう一度また受付のところに行って「あの、緊急連絡先を言ってもいいですか」と言って携帯電話の番号を伝えると、看護婦さんは少しも嫌な顔をしないで、「何にもなかったらかけませんから安心してね」と言ってくれました。私は本当にしょうがないのですけど、涙目でうなずき、後ろ髪をひかれながら、学校へ向かいました。本当は一緒にいたかったです。でも、私が病院にいても、何もできないどころか、おそらくはじゃまをしてしまうか、そこにいられなくて、結局は外でおろおろしているかどちらかにきまっているのです。学校で子供たちといるのが一番と思いました。
それなのに、学校に来ても気持ちは落ち着きません。心そこにあらずの私を見て、高校の先輩で、同僚で、そして悪友の和美ちゃんが「大丈夫。心配せんでも、もういちじくちゃんのお腹は切られてしまってるよ」と彼の女流の言い方でなぐさめてくれました。
ところがお昼過ぎに病院から携帯に電話がありました。え?いちじくに何か起こったの?いちじくはどうしちゃったの?半分パニックのようになっていたのだと思います。お医者さんは私の声で様子を察して、優しい声で「いちじくちゃんの手術は無事終わったんですよ。安心してくださいね。ただ乳歯が残っていたので、全身麻酔のきいている間に取ってしまった方がいいと思うので、電話しました」と言いました。
ほっとして、「あ、そうですか。よかった。よかったです。ありがとうございます。はい、取ってください」
そして電話は切れました。
ああ、よかった…でも、ほっとしたら、現金なものです。え、いちじくの乳歯!!?私のほしがっていた、けれどあきらめていた乳歯!?絶対にほしい!!電話しなくちゃ。
今度はこちらから病院に電話をしました。
「あの、山元ですけど、歯とっておいてほしいんです」
「はい?さっきお聞きしましたよね」
「そうじゃなくて、あの、捨てないで取っておいてくださいますか」
「え?乳歯をですか?」
「はい、ほしいんです」
少し間をおいて、看護婦さんから「わかりましたよ」とお返事が帰ってきました。きっと乳歯をほしいなんていう人はあまりいないのだと思います。

お迎えの約束の5時が迫ってきました。はやくいちじくに会いたいという気持ちが大きくなりながら、でも、お腹を切っているいちじくがいったいどんな状態でいるのかと思ったら、私、ちゃんとしていられるかなあと心配でたまりませんでした。血をみたり、傷を見るのが、苦手です。一度などは、病院に附属の学校につとめていたときに、エレベーターの中で、怪我をした人と一緒になって、あまりの出血に、気を失ったくらいです。だから、手術がきまってから、私はずうっとそのことも心配でした。それで、犬好きで、最近ダックスフンドを飼いだした友達に、前の日に急に電話をして「迎えに行くときに一緒にいってほしいんだけど?」と頼んであったのでした。
「いいよ。ちょうどダックスの予防注射してもらいにいかなくちゃって思ってたから」
 友達とは病院の前で待ち合わせをしました。私はやっぱり平気ではいられなくて、誰かが怪我をしたのを見たり聞いたりしたときになぜか痛み出す親指が、もうずきんずきんと痛んでいました。
病院の前で会った友達は「つれてきてあげようか?」と言ってくれたけれど、迷ったあげく、やっぱり一緒に行くことにしました。だってちゃんと看護婦さんにお話を聞かないといけないって思ったからです。
 受付に行くと、看護婦さんがおだやかに笑いながら説明をしてくれました。
「3日たったらガーゼをはがしてくださいね。でも気にしてとってしまうわんちゃんがほとんど。乾いた方がいいから、そのままでいいです。10日後に抜糸します。それからお薬を3日間飲み続けてね。はい、これが乳歯です。それからフィラリアのお薬を今月から飲んでくださいね」
それだけでした。本当にあっけないほどの簡単な説明に、逆に拍子抜けしてしまうほどでした。
「今連れてきますね」
看護婦さんが奥に入って行かれたと同時に、キャンキャンという甲高い犬の鳴き声がしました。「あの声はいちじく?」聞いたことがないような大きな叫び声でした。
いちじくは真っ白のタオルにつつまれてきました。「麻酔が切れて、抱くといたがるのでしょう」
 いちじくは目に涙をいっぱいためて、私の顔をじっと見ていました。
その目は「どこに行っていたの?すごく大変だったんだよ。待ってたんだよ、探してたんだよ」と言っているようでした。
 いただいたお薬にはいちじくの体重が1,75キロと書かれていました。家の体重計で2,5キロと思っていたけれど、100キロまではかれる体重計はそんなに少ないところは正確に計れないのでしょう。
「小さい体でよく頑張りましたね」お医者さんにほめてもらうと、私はまたいちじくががんばったなあ・・えらかったなあという思いでいっぱいになって、胸がつまるのでした。
 また深々とお医者さんと看護婦さんに頭を下げました。なぜって、やっぱり私にとっては大切ないちじくの手術を上手にしてくださってありがとうございますという思いで、胸がいっぱいだったからだと思います。
 友達も「早く連れて帰ったらいいよ」と言ってくれたので、来てくれたお礼もそこそこに、車に乗りました。
いつもは助手席の足下がいちじくの指定席だけど、今日は特別に、助手席の上に用意したいつもの四角い小さい毛布の敷物の上にいちじくをそっとおろしました。すると、いちじくはよろよろと倒れそうになりながら、足を引きずるようにして助手席から、ハンドブレーキを越えて、私のひざに乗って丸くなりました。そしてやっぱり私の顔を涙でいっぱいの目で見つめるのです。
痛くてもつらくても私のひざにいたいといちじくが思ってくれているのです。
手術はいちじくが望んだわけではありませんでした。もしかしたら、いちじくは赤ちゃんがほしいと思っていたかもしれません。私は私の思いでいろいろなことを決めて人生を歩んでいるのに、いちじくはそうではなくて、赤ちゃんを産むかどうかということさえ決められずにいます。住むところ、食べるもの、なにもかもが私が決めた人生です。私を恨んだり、怒ったりするわけでなく、ただそばにいたいと私のひざに乗ってくれているいちじくの顔を見ながら、私は当たり前のことだけど、今更ながら思いました。
「いちじく、私ね、いちじくを大事にするよ。一生いちじくを守るよ。いちじくをずっとずっと愛するよ」
 ラジオからは、そのとき「耳や肉球を誰かに故意に切られた子犬が見つかりました」というニュースが流れてきました。
 人間というものは私を含めて、なんて勝ってな生き物なのでしょう。いったん家の犬になってもらうと決めたからには、たとえば途中で病気をしても、年を取っても、それから思いがけずたくさんの子犬を産むようなことがあったとしても、その子犬の行き先までもきちんと一生守るべきなのだと思いました。

 

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