19

 二人の妹と犬の兄になった家族がまだ小学校に上がる少し前のころ、私のところにやってきて言いました。
「いいものをあげるからね。ちょっと目をつぶって…一生だいじにしてね」
小さい子が「一生」なんて言葉を使うのがおかしくて、きれいな小石でも拾ったのかしら、もしかしたら虫の死骸でも持っていたのかしらと目を閉じて、おそるおそる手を出し、そっと目を開けると、私の手のひらには小さな乳歯がひとつのっていました。
「赤ちゃんの歯がとれたよ。保育園の先生は屋根の上にぽーんと投げればいいって言ったけど、ずっと歯みがきして大事にしてきたから、捨てないでママにあげようともって帰ってきたよ」
 私はうれしくて、その小さな歯を、ほとんど何も入っていない宝石箱に大事にしまいました。二番目に小さい家族と3番目に小さい家族には私からねだって、「ね、歯がとれたらちょうだい。ちょうだい」と言いました。そしてそれももらって宝石箱に入れて大切にしていたのでした。

 いちじくが家に来たばかりのころ、インターネットで「パピヨン」を調べていたときに、パピヨンのメーリングリストがあることがわかって、さっそく入会しました。メーリングリストというのは、ひとりの会員がメールを出すと会に入っている会員全員にそのメールが送られるようになっていて、そのメールにお返事を出すと、そのお返事もまた全員に送られて、いろいろなことを話題にして話をしたり、相談しあったりすることができるのです。ときどきオフ会といって近くのパピヨン仲間と公園で会う約束をしたりもするのです。
 そのメーリングリストで犬の乳歯の話題が出ました。
「変なところから大人の歯が生えているんですけど、病院につれていって、とってもらったらいいでしょうか?」
「自然に大人の歯が生えてくるものですか?」
「うちのパピヨンは骨の形のおもちゃを噛ませていたら乳歯がとれましたよ」
そっかあ、犬も乳歯があるんだ…私は人間だって動物だということをすぐ忘れてしまうのです。だから犬の歯も生えかわるという当たり前のことにとても驚きました。
 だったら私、いちじくにも乳歯をもらうことにしようって思ったのです。

 犬の育て方の本には「小さいうちから顔をさわられることが平気な犬にしましょう」と書いてありました。それから「食べた後は濡れたハンカチで歯を拭いてあげましょう」とも書いてありました。
 それで私はしょっちゅういちじくの口の中に手を入れたり、「あーん」してと言って、中をのぞいたり歯を毎日拭いたりしていました。そのことはとてもよかったなあと思っています。大きくなってからでは、いくら信頼していても、なかなか口の中に手を入れさせないことが多いとメーリングリストの方が教えてくれました。
 いちじくはいろんなものをすぐ口の中に入れてしまいます。気をつけていても、子供たちが多い家の中では小さいおもちゃや髪留めのゴムやいろいろなものが棚に置かれていて、いちじくは後足でちんちんのかっこうをしながら、ずいぶん高いところのものまで取って、それを口に入れてしまうのです。
「あ、いちじく、何か食べてる」
口をモゴモゴ動かしているいちじくを見つけて、「だめ!!」と口の中に手を入れて、おもちゃやゴムを取り出すこともそのおかげで簡単にできました。
 そんなふうなので、毎日のように歯磨きのときにいちじくの口の中を見ていました。犬の歯はやっぱりとても尖っています。犬歯(けんし)という名前どおりです。毎日見ていると、この歯は、もうすぐ抜けるんじゃないかなあということも割とわかるのです。
 生まれてから5ヶ月くらいたったころでした。口の中にもうすぐ抜けそうな歯をみつけたのです。だからと言って、怖がりの私は自分でいちじくの歯を抜いてあげようという気持ちにはなかなかなれません。「まだ抜くのには早くて、いちじくに痛い思いをさせたらかわいそうだもの」とか、「もう少し様子を見てみるわ」とか何とか言って、ついついそのままにしておいてしまうのでした。それでもいつもいちじくに言い聞かせることは忘れませんでした。
「いちじく、歯が抜けたら、飲んじゃだめなんだからね。きっと私にちょうだいね。おにいちゃんのもおねえちゃんのも、ほら入ってるでしょう?」
「ケージの中に出しておいてね」
宝石箱を見せながら、何度も言うと、いちじくはとても神妙に私のいうことを聞いていました。
 ぐらぐらしている歯が気になって、学校から帰って、すぐにいちじくを抱いて歯を見るともうその歯は抜けてなくなっていました。
「ね、歯ちょうだい。どこに置いたの?」ケージの中の毛布をひっくり返して見ても、歯はどこにもありません。「ねえ、あなた食べちゃったの?」
 8ヶ月ころ、いちじくの歯が抜けかわるのは終わりになりました。結局、いちじくの乳歯は私の知らない時にみんな抜けました。そしてすぐに新しい歯が生えました。いちじくにとって困ったことはきっと何もなかったからそれはそれでよかったのだけど、私はなんだかとても残念です。歯が抜けるたびにケージの中を探すけれど、結局いちじくの乳歯は見つからず、いちじくの乳歯を宝石箱に入れることはかないませんでした。
 歯磨きや爪切りは私にとっても、それからたぶんいちじくにとっても、もう恐くもなんともないのですけれど、耳掃除だけはなかなか上手にできません。
 小さい時からいちじくは身体じゅうをさわられているので、耳を触ったからと言って怒ることはないのです。でも私が、耳を掃除する少し長めの綿棒を深く耳へ入れるのが恐いのです。それで入り口のところだけを掃除することになってしまいます。でも耳あかはだんだん外へ出てきて、とれやすくなってくれている気がします。お医者様も「無理に取ると中を傷つけてしまうことがあるから、外耳の部分をふき取るだけでいいですよ」と言ってくださいました。それからメーリングリストで友達になった方も、「パピヨンはたち耳だから拭くだけで大丈夫」と教えてくださいました。コッカスパニエルや垂れ耳のダックスフントなどは、もしかしたら、もっと耳に気をつかわないといけないのかもしれません。
 ところで、パピヨンの毛は絹のように細くて、毛玉ができやすいように思います。抜け替わる時期をのぞいて、抜け毛は少ないのですけれど、毎日くしでとかさないと、毛玉は知らないうちにどんどん大きくなって、せっかくのびた飾り毛をはさみで切らなければならなくなってしまいます。毎日くしでといているようでも、うっかりみすごして、何度かいちじくの毛の毛玉を作ってしまいました。
 切り取ったふわふわの毛玉を手に載せていると、その毛玉がとても可愛くて、大事に思えて、2人の妹と犬の兄になった家族が昔言った言葉をふと思い出しました。
「ずっと大事にしてきたんだから捨てないでママにあげようと思ったの」
そうだね、いちじく、この毛玉をもらってもいい?宝石箱に歯の替わりに入れておこうと思うの」
 私の宝石箱にはいくつかの指輪の他に、子供の乳歯がいくつかと、パイヨンの毛玉が並んだのでした。
.
 

20へ

もくじへ