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 いちじくが大人になりました。
 犬の育て方の本を読むと「生後7ヶ月くらいで犬は初潮をむかえます」と書かれてありました。いちじくは3月1日生まれなので、10月に入ったあたりからそろそろかなあと思っていたのです。
 11月のある日、ケージの中に敷いてある小さい毛布に丸い点々が水玉模様のようについていました。その毛布は、小さな座布団として使うためのものだと思うのですが、50センチ角の毛布を二枚合わせにして、まわりをバイアステープでくるんであるもので、衣料品屋さんで見つけました。洗うことができるので、毎日とり替えられてとても便利なのです。最初、いちじくが毛布を噛んでくちゃくちゃにしてしまうのじゃないかと思って、一度に何枚も買ったのです。結局はとても丈夫でなかなか痛まないのですけれど、その日は新しい毛布をおろした日でした。
 朝、赤い水玉の模様を見て毛布の模様はこんなだったのかなあとあわてものの私は思いました。私が学校にいる間はいちじくはケージの中にお留守番をしています。帰ってきて、ケージをのぞいたときに、水玉の模様が増えているのに気がついたのです。え?増えてる…どうしてかなあ?それでも私は何が起こったのかわかりませんでした。
 いちじくの様子もどこか変でした。しきりにクーンと甘えるように鳴くのです。そしておしっこをしたあとをきれいにするみたいに、何度も前をなめるのです。そんなことをするのを見たのも初めてでした。
 「どうしたの?」どこかかゆいのかなあといちじくのおなかを見て初めて事態が飲み込めました。赤いひとすじの血がついているのが見えたのです。
「そうだったのね。大丈夫よ。心配しないでね」不安そうに鳴いているいちじくを抱きしめながら、私は心の中でこの日が来るのをおそれていたのだなあとわかりました。
 犬の育て方の本には「子供を将来的に産ませるつもりがないなら、初潮を見る前に避妊手術を受けさせましょう。手術を受けることで、将来予想される病気にかかりにくくなります」と書いてあったのです。
 いちじくは赤ちゃんが産みたいだろうか、赤ちゃんを育てたいだろうか。もし赤ちゃんを産むということになれば、日中留守がちなこの家で、いつ生まれるかわからない赤ちゃんの出産をどう迎えたらいいのだろうか?それに生まれたばかりの赤ちゃんを日中いちじく一人で育てることができるのだろうか。生まれた赤ちゃんを家でたくさん飼うことはできないし、かといって、可愛がってもらえる方を探すことができるのだろうか。私は可愛いに違いない生まれた赤ちゃんを手放すことができるのだろうか。赤ちゃんを産むことでいちじくが死んでしまうことはないのだろうか。また手術をすることでいちじくが死んでしまうようなことはないのだろうか。でも手術をしないと病気になってしまう確率がそんなにも高いのだろうか。
 赤ちゃんのこと、手術のことを考えるたびに、たくさんの迷いが頭の中にわきあがってきました。できればずっといちじくが子供のままでいてくれたらいいのに…などと本当に無責任で自分勝手なことを考えたりもするのでした。
 一番考えたことは、いちじくが赤ちゃんを産むということになれば、いつかはどこかにもらっていただくにしても、それまでは赤ちゃんの命を私が守らなければならないということでした。
 いちじくが家に来てくれたときはもう離乳も終えたころでした。それでもこんな小さい命をちゃんと育てられるのかと、私は怖かったです。いちじくは本能でちゃんと赤ちゃんを育てられるのかもしれないけれど、でも無責任に赤ちゃんを産んだらいいとは言えないなあと思いました。そう思ったら、いちじくが赤ちゃんを産むことは私の家ではむつかしいのではないかという気持ちの方が大きくなってきていたのです。まだまだ迷いがないとは言えないけれど、やっぱり病気が防げるのなら手術を受けさせようと私は思い初めていました。それなのに、なかなか手術のために病院へ行けなかったのは、やはり、いちじくが手術でどんなに痛い思いをするだろうかということでした。
 月日はどんどんたっていきました。いちじくは2,5キロからほとんど体重が増えず、しぐさも可愛くて、いつまでたっても、私たちの目にはあかちゃんのまんまというふうに思えるのです。だからそろそろ初潮を迎える頃だと頭ではわかっていても、なかなか信じられない思いがしていました。「初潮を迎える前に手術を受けるかどうかをちゃんと決めて、病院に連れて行った方がいい」ということも頭から離れなかったけれど、今日病院に行こうとなかなか決心できずにいたのです。そしてとうとういちじくは初潮を迎えてしまったのでした。
 水玉の毛布を見つけた朝から二日ほどすると、今までどこにあるかということもわからなかった乳首がはっきりとわかるくらいに目立ってきました。それから出血しているところが、まるでおまんじゅうのようにふくれてきました。心配になってまた本を読むと、その時期に犬は交配を行って妊娠すると書かれていました。
 身体の中で何かが起きているということをきっといちじく自身も感じていたのでしょうか?いつものように部屋中をかけまわることもなく、身体を丸めていてしきりに「クーン、クーン」と甘えた声を出して鳴いていて、目に涙さえ浮かべているのです。私はいちじくがいとおしくてなりませんでした。
「だいじょうぶよ」とまたそっと抱くと、いちじくは私の顔ばかり見つめているのでした。
 出血はそれほど多くはありませんでした。生まれたばかりの赤ちゃん用の紙おむつにしっぽを出す穴をあけて使おうと思ったけれど、毛布に赤い点々がついたくらいで、出血自体はいちじくが自分でなめて始末をするので、問題にはならなかったのです。
 いちじくが不安がったのは4,5日くらいだったでしょうか?そして出血も2週間ほどで終わりました。
 犬は4ヶ月ごとに出血をすると聞いています。今度はいつなんだろう…。

 手術はまだ受けていません。やっぱり私怖いのです。自分のことだったら、身体のどこかの手術を明日受けなくてはいけないというようなことがたとえもしあっても、きっとなんとか我慢できて、乗り越えられるって思うのです。でもいちじくの手術のことを思うと、もう胸のドキドキが始まって、そんなときにいつもなぜか痛くなる指が痛くなってきて、たえられそうになくなるのです。いちじくの手術の前の日はどきどきしすぎてどうかなっちゃうかもしれない。それから当日は、直前になって、「やっぱりやめます」って連れて帰ってきちゃうかもしれない。どうしよう…誰か私のかわりに、私が少しも知らない間にいちじくを手術のために病院に連れて行ってくれないかな…何にも気がつかない間に、「実はね、もう10日前に手術は終わってるんだよ」ってそんなふうにならないかなあ…
 ああ、やっぱり私ってひどく無責任です。

 

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