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 春がやってきました。
 冬の間の小雪の散らつく中での散歩は、風も冷たく、すぐに身体が冷えてしまいます。最初はうれしそうにしているいちじくも、そのうち、早く帰ろうよという様子を見せるのです。それで冬の間は一番短い距離のお散歩コースを寄り道もせずにさっさと帰ってきていたのです。
 けれど春がやってきました。北陸では春が訪れる前に何度か淡雪がふります。三寒四温というとおり、3日ほど、雪の舞う寒い日が続いたかと思うと、そのお天気がうそのように、ぽかぽかとお日様があたりの空気をあたためて、前の日の雪をあっという間にとかしてしまいます。そして少しずつ少しずつ春がやってくるのです。
 
 あたたかい日差しにさそわれて、ひさしぶりに遠いところまでお散歩に行くことにしました。私が引き綱を手にすると、綱を首輪につけてもらおうと、いちじくはあおむけになって、はいどうぞ、つけてくださいというふうに、足下に入り込みます。ひさしぶりに遠出しようとしていることをいちじくは気がついているのかもしれません。綱をつけてもらわなければお散歩に出られないと知っているいちじくはあおむけになったままでいるけれど、でも気持ちはせいているから、その形のまま、移動していこうととても奇妙なかっこうをします。
「待って。そんなに動くとつながつけられないからね」そう言いながら私もやっぱりうれしくてしかたがないのでした。
 外に出ると、いちじくは鼻をくんくんさせています。いちじくが探しているのはきっと春のにおいです。なぜっていちじくは季節を感じる天才なのです。
 いちじくは散歩に行く相手によって、散歩のスタイルを変えているみたいです。一番小さい家族とお散歩に出るときは、ふたり競争するように走りながら出ていって、あっという間に息をきらせながら、走って帰ってきます。
「いちじくの方が少し速いんだよ」といちじくは花をもたされて満足そうです。身体の大きな、兄とお散歩に出るときはいちじくはすまして、兄の少しあとに脇目も降らずにまっすぐ顔をあげて歩いています。まるでドッグショーかファッションショーのモデルさんと一緒に歩いているかのようにすましています。
 そして私と歩くときはいちじくはとてもゆっくりです。いちじくが歩けば私も歩き、いちじくが止まれば私も止まります。いちじくは土や緑や虫のにおいをかいで、いろいろなものを見つけているし、私は空を見上げています。空がとても好きなのです。
 今日もゆっくりとお散歩をしていたら、いちじくのかぎたいにおいが見つかったのしょうか?歩くのをやめて、土に頭をしばらくくっつけていました。それからいちじくは誇らしげに私の顔を見あげました。
「何?」
いちじくは何か言いたいことがあると、必ず私の顔を見つめます。「いいものを見つけたんだよ、お利口さんってほめてよ」とでも言いたげな顔なのです。
 そこでいちじくの鼻先を見てみたら、そこにはまだ顔を出したばかりの小さなふきのとうがころんと芽を出していたのでした。
「ふきのとうだ…ああ、春だねえ」
私が答えると、いちじくはとても満足そうにまた動き始めます。
 そしてまたしばらく歩き続けると、足をとめて私の顔を見上げます。
「どうしたの?」
私もいちじくと一緒にかがんで土を眺めると、そこにはつくしが顔を出していました。
「春を見つけるのが、いちじくは上手だね」私はつくしを今年初めて見たことも、それからいちじくがつくしを見つけたこともうれしくてしかたがなく、いちじくの頭をなぜました。いちじくは誉められちゃった…うれしいなあと、大きくぴょんとはねるのです。
 川の流れのキラキラを見つめるのがいちじくは好きです。
「川の水がずいぶん増えている。山の雪が解けて流れてきたから…」いちじくはそんなことは知らないよと言ったふうにまたうれしそうにはねました。私はそんないちじくを見ながら、もしいちじくがいなければ、つくしが出たことも、雪解け水で川の水が増えてキラキラ輝いていることもけっして気がつかずに私は生活していただろうなと思うのです。
 いちじくと歩くようになって、私はどこのお庭に、何の木があるか知るようになりました。花が咲くまでは、木があることすら知らずにいました。もし木に気がついていたとしても、いったい何の木かもわからなかったと思うのです。けれど、いちじくが歩くのをふとやめた塀の上にはこぶしの花が咲いていて、その木がこぶしの木だったのだと知るのでした。
 6月頃、長い長いめしべのようなものをいくつもたらしている木がありました。何の木だろうねといちじくと話していたのです。秋のお散歩で、ぼんやりと空を見ていたら、いちじくがキャンと鳴き声をあげました。どうしたのかと見てみると、いちじくは栗のいがをくわえて痛い思いをしたのでした。
「ああ、たいへん。こんなところに栗の木が…ああ、6月の不思議な花は栗の花だったのね」栗の木の花の形を教えてくれたのもやっぱりいちじくでした。
 それから沈丁花がどこから香ってきていたかを教えてくれたのもいちじくでした。
 ねえ、いちじく、あなたがきてくれて、私は空をみあげる時間が多くなったよ。ねえ、いちじく、あなたがきてくれて、私は風を感じることが上手になったよ。それからね、季節を感じることが上手になったよ。そしてね、いちじく、あなたがきてくれて、私はいっそう幸せになれたんだよ。

 

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