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 毎日のいちじくとの散歩でいろいろな人に会います。朝早くに散歩に出ると、背広をきたある男の方によく会います。年の頃は5,60歳(ずいぶん幅があって、ごめんなさい。わからないのですもの)くらいでしょうか?いつも必ずと言っていいほどすれ違います。ずいぶん早い時間なのですけど、お勤めへ出かけられる途中なのでしょうか?その方は私たちとすれ違われるときに、必ずいちじくを横目でにらみつけるようにします。一度など振り返ったら、その方も振り返ってまだいちじくをにらんでいました。
 犬が嫌いなのかな?いちじくはお外ではウンチをしないけど、ウンチしたままにしておかないだろうね…なんて思ってるのかな?それとも、こんなに小さい犬だけど、それから強そうな男の人なんだけど、もしかしたら、犬が怖いのかな?
 いろんなことを考えながら、私はその人とすれ違うたびに、なぜだか申し訳ない気持ちになって身の置き所がないように思うのです。それで遠くにその人の姿が見えると、どこかで角を曲がってしまいたいような気持ちがしたり、足を速めてしまったりしていたのでした。
 ある土曜日の夕方のことでした。夕焼けがきれいで、いつもいちじくと散歩に出かける公園のベンチに座って、オレンジ色にそまった空を見上げていました。いちじくも足下に座ったり、アリなんかを見て遊んでいました。
 トレーナーにジーンズ姿の男の方が、公園にの入り口から、私たちの方へやってこられてベンチに座られました。
 「こんにちは」と声をかけられてはじめて、その方が、いつもすれ違うあの背広姿の男の方だと気がついたのです。いつもとはお洋服が違ったり、会う時間が違うから、少しも気がつかなかったのです。
 どうしよう…何か言われるんだ…私はとてもドキドキしていました。それなのに、いちじくは平気でその人のところへ寄っていこうとするのです。私は犬嫌いかもしれないその人にいちじくをなんとか近づけないようにしようと思って、「だめよ、だめ」と言いながら引き綱をひっぱって、「すみません」と謝りました。
 けれど、意外なことにその方は「いいえ、かまいません」と言いました。そして優しい顔をいちじくにむけ、手を差し出していちじくになめられるままにしていました。あれ?なんだか様子が変です。犬嫌いじゃないのかな?怒ってるわけじゃないのかな?
 男の人はいちじくの頭をいとおしそうになぜてくれました。
「一年ほど前までパピヨンを飼っていたのですよ。模様がとてもよく似ているなあ。死んでしまったんですよ。老衰で。かわいがっていたんでね。おたくのワンちゃんを見かけるたびに、思い出しちゃってね。本当に可愛いやつだったんですよ。生きていたときはそれほど世話をしてたわけじゃないんだけどね、散歩くらいしか連れていかなかったんだけどね、いざいなくなると、心にぽっかり穴があいたみたいになっちゃってね…女房なんて、あんなに可愛がっていたのに、もう『新しい犬を飼おうか』なんて言い出すんだけどね、そんな気にはならないんだよ、ぜんぜん。」
 男の人の目が少し赤くなっているのがわかりました。毎朝いちじくを横目でにらんでいるように見えたのは、飼っておられたわんちゃんのことを今もいつも思っていて、私たちと朝会ったときに、いちじくから目を離すことができなくて、けれどもしかしたら朝の忙しい時間に知らない人と犬に声をかけたり、にっこり笑いかけたりする余裕がなくて、横目でみるしかなかったからなんだなあとわかったのでした。そして最初、怖くていかめしく見えたその男の人が、どんなに飼っておられたパピヨンを愛していておられたのだろうということをしみじみと思ったのでした。
 それから男の人は犬のえさのこと、おもちゃのこと、それから注射のこと、病気のこと、犬の老い、いろんなことを教えてくださいました。男の人はずっといちじくから目を離すことはありませんでした。
 犬は死ぬんだなあと私は思いました。当たり前のことだけど、犬は死んでしまうんですね。寿命は長くても15年とか18年とかそれくらいでしょうか?私だって明日のことはわからない…でもずっと元気で、事故にもあわなければ、まだ30年くらいは生きるでしょう。「犬は死ぬんだ」そんな当たり前のことをあらためて思ったとき、私はいつかいちじくを失う日が来るのだろうかと悲しくてたまりませんでした。
 ちょっとのあいだにいちじくは私たちの心にすっかり入り込んでいました。どこかへ出かけても、知らない間にいちじくのことを考えているのです。顔を傾げてケージの中で待っているいちじくのことが頭から離れないのです。いとおしいいちじく…あなたが家に来て、私はもうひとつ、どんなことがあっても、どうしても守らなければならない小さい命を持ったような気がします。
 朝、その男の方とお会いするのが楽しみになりました。「いってらっしゃい」「おはよう」簡単な言葉を交わすだけだけど、同じようにいとおしいパピヨンを心の中に持っておられるその方とすっかりお友達の気持ちがしています。


 

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