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 アジリティを見ていて、私はいちじくとそれまでただただ一緒に時間をすごしていたことに気がつきました。ただ一緒にいただけだったなあと思ったのです。走り回ったり、ハンカチをくわえたり、私の足から靴下を引っ張って脱がせたり、あくびをしたり、ご飯を食べたり、眠っているいちじくをただただ、可愛いなあと思って眺めていただったのです。
 「おいで」と声をかけても、いちじくはこちらへ来ることもほとんどなく、それは仕方のないことだと思っていました。それからいちじくがアジリティに出場していたワンちゃんたちと同じようなことができるなんてことも考えたこともありませんでした。
 私は犬の「芸」のことで大きな勘違いをしていたのかもしれません。昔、親戚のおうちに犬がいました。お手やお替わりやおすわりを私たちの前で見せてくれているときの叔母さんの顔はとてもうれしそうでした。「おりこうさんでしょう?」と叔母さんはとっても誇らしげでした。
 犬に芸を仕込むのは、素敵なお洋服や時計を買ったときに、ちょっと誰かに自慢してみたいようなそんな気持ちに似ているのかなと私は思っていたのです。
 でもアジリティを見たときに、それは勘違いだったと思いました。
 芸の練習をするということは一人と一匹がとても仲良くなるためはとてもいい時間だったのではないかと思ったのです。テレビを見ながら、パソコンをうちながら、ただいちじくと一緒にいた私に足りなかったのは、いちじくと心を通わせようという気持ちでした。飼い主が犬としっかり向き合って、できたことを一緒に喜んだり、失敗したことを一緒に残念がったり、また頑張ろうねと励ましあうことで、犬と飼い主は堅い絆で結ばれるんだ・・犬は飼い主をうやまって、飼い主は犬を守ろうとする…ああなんてすばらしい関係なんだろう…夕焼けを見つめ合いながら散歩している一人と一匹の映画の一シーンのような姿が頭の中にうかびました。私は自分で考えたことに自分で感動して、目がうるんできたのでした。
「今日からがんばる!!!」という私のことばを聞いて、友達はまるでいちじくを哀れんででもいるみたいに、「おまえ気の毒にね」といちじくの頭をなぜていました。
 おうちに帰って、さっそく私はまずいちじくに「おすわり」を覚えさせることにしました。「お座り」と言って腰の上から手を下ろして、いちじくにお座りのかっこうをさせました。そして本に書いてあるとおりに、ドッグフードをひとつあげました。いつもの乾燥のドッグフードではなく、半生タイプのドッグフード。いちじくはこれが大好きなのです。
 何度も繰り返せばきっと覚えてくれるから…何度でも根気よくするうちに私たちは映画の一シーンになれるのよ…だからえん、頑張るのよ。そういう覚悟だったのです。
 ところが二度目に「おすわり」といちじくに言うと、あっけなくいちじくはおすわりをしました。
 あれ?もうできちゃうわけ?どうして?いちじくはそんなにおりこうさんなの?
 本当にとてもあっけない感じで、私は覚悟しただけに拍子抜けしました。だって、こんなんじゃ、繰り返し練習する中で育つ信頼関係というものはいったいどうなっちゃうの?って思ったからです。
 まあいいや、できたんだから…その次に「お手」と言って、いちじくの手を私の上にのせさせ「お手よ、お手」そしてまたドッグフードをひとついちじくにあげました。
 それでまた「お手」と言うと、いちじくはすぐにまたお手ができちゃったのです。あれ?どうしてできちゃうわけ?もしかしたら「お座り」や「お手」って犬の本能みたいなものなの?それとも人間の言葉が犬はわかってるの?
 本当に、あまりに簡単にいちじくが「お座り」や「お手」をしてしまうのです。
 なんか違うな…ちゃんと「お座り」や「お手」ができているんだからいいんだけど、なんか違うな…そう思ったのです。
 アジリティでは障害物のジャンプも行われていました。障害物と言っても思いあたらなかったので、私は床に座って足を長く出して、足を少し高くあげました。そしていちじくを片側にお座りさせて、反対側でえさを見せて、「ジャンプ」と声をかけました。いちじくはジャンプという声を聞いたからではないと思うのだけど、えさを見て、大きく私の足を越えました。そしてジャンプも覚えちゃったのです。
 ふーん、そうなんだ。ふーん。
 上手上手…本当にそう思ったけど、そんなに簡単にできちゃうのって…なんだか違うなとまた思っていたのです。
 それからもうひとつなんだか違うなって思うことがありました。何度か練習しているうちに、いちじくは私の先を読んで、声をかけるまえにお手やお座りをしてしまうのです。
こちらが号令をかけない先にしちゃうのって、それも拍子抜けしてぴしって決まらないよね。まあ、とにかくできることになったので、私は家族にいちじくが上手なことを見せたくなりました。
 家族を前にして言いました。「今からいちじくの隠し芸を見せます」
 「いちじく?」そういちじくに声をかけると、いちじくは今から何が起きるかというおことがわかってたみたいに、「お座り」と私が言う前にいちじくは「お座り」をしました。しかたがないので、付け加えるみたいに、私は「そうそう、お座りだよね」と言いました。それでまた「お手」と声をかけようとしたら、声をかける前にいちじくがさっと私に手を出すのです。私は反射的に、いちじくの手の下に私の手を出しました。「そうお手」
 一番目に小さい家族も、2番目に小さい家族も、「すごいすごい!!」と目を見開いて驚いて拍手をしていました。けれど身体は私よりずっとずっと大きいけれど、年は3番目に小さい家族が、少し太い声で言いました。
「ねえ、それって、いちじくに命令されてあなたが手を出してるように見えるけど…それでいいの?そういう関係で」
 え?いちじくに命令されてる?従ってるのは私の方?芸を見せているのは私?
 私がアジリティの犬とご主人の関係となんだか違うなと感じていたのはそういうことだったのです。
 ね、いちじく、お座りやお手は確かにできているけど、違うのよ。私が言う前にしちゃうのはやめてほしいの。私が「お座り」って言ってからしてほしいの。結果的には同じようだけど本当はぜんぜん違うんだよね。
 それからもうずいぶん月日がたちました。今ではいちじくはもっといろいろなことができます。お散歩がしたくなったら、自分で壁にかけてあるひきづなを引っ張ってとって、それをくわえてきて、私に渡します。ご飯の時間以外でもちょっとおなかがすいたなあと思ったら、ゲージにの中の自分のお皿をくわえてきて、私に渡します。私はいちじくってなんておりこうなんでしょう…って思っていたけど、よく考えたら、それだって「ねえ、お散歩につれてってよ」とか「おなかがすいたから何かちょうだいよ」って私に命令してることになるのかな?
 でもね、お皿を持ってきて、じっと大きな目見つめるんだよ。ねえねえって顔して、顔を傾げて私のこと見つめるんだよ。仕方ないよね。
 

 

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