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 いちじくと一緒にいるようになると、車に乗っていても、歩いていても犬がやたらと目につくのです。猫だって大好きだったのに、いつか猫と犬が歩いていれば犬に目がいくようになり、「犬派?猫派?」なんて聞かれると、もうすぐに、「犬が好きです」って胸を張って答えそうな私がいました。
 本屋さんに行ってもそれは同じです。私のアンテナに犬関係のものがひっかかるようになって、犬の雑誌だけでなく、犬のことが書いてありそうな本がまるで白く光ってでもいるように、私を呼び寄せるのです。
 そういうわけで、私はその日、犬の雑誌と、犬と一緒に暮らしている人のエッセイの本を抱えて本屋さんを後にしました。
 本をぱらぱらめくっていると、二つの本の両方に「アジリティ」という言葉が出てきました。「何?アジリティって…」
 アジリティなんて、それまで聞いたことも見たこともない言葉でした。
 雑誌には驚いたことに「石川県金沢市○○公園でアジリティが行われます。参加者募集、また多数のかたの参観をお待ちしています」と書いてありました。何が驚いたかというと、○○公園というのは、家からそう遠くない、よく出かけている公園だったのです。
 その雑誌はけっして地方の雑誌ではなくて、全国で発売されているものでした。そしてそれは初めて偶然に買った雑誌なのです。本屋さんでこの雑誌が目についたのも、この記事を見つけたのも、近くの公園で行われるということも、みんな偶然ではあるけれど、私にはそうではない気がして、神様か、天の力か何かわからないけれど、「必ず見に行きなさいね」と言うことなのかなと私には思えたのでした。
 雑誌を見ているとアジリティとはどうも何かの競技会らしいという見当はついたものの、でもやっぱりいったいどんなものなのかということがわからないまま、私はその日をとても楽しみにしていました。
 当日は朝から小雨。中止かもしれないなあとがっかりしながらも私は犬の大好きな友達といちじくとで会場へ出かけました。
 遠くからでも公園に並んだテントが見えました。どうやらとても大きな大会らしいということはテントの数だけでもわかりました。駐車場にはもうすでに、ほとんど停める場所もないくらいにうまっていました。ナンバーのほとんどが県外のもので、大阪や三重や中には東京のナンバーをつけた車もありました。車の後にはいろいろな種類の犬のステッカーが貼られていました。今日のためにすごく遠くから、みんなが集まってる…私はだんだんワクワクしてきました。だって大好きなたくさんの犬たちに、きっともうすぐ会えるのですもの。そうだ、雨で中止かもしれないと思いながら、私をアジリティショーに駆り立てていたのは、たくさんの可愛い犬に会えるに違いないというその思いだったのです。
 はたして公園にはたくさんの犬がいました。遠くからみると子馬のようにも見えるほど大きな犬、顔のやたらと長い犬、まるで警察官と言った感じの精悍な顔の真っ黒の犬、小さい犬……。まるで犬の品評会のようにいろいろな色、いろいろな種類の犬が集まってきていました。雨は少しずつおさまってきて、どんよりしている空の下だけど、大会は行われるようでした。
 「どうしちゃったの?」友達が私に聞きました。
たくさんの犬を目の前にしてうれしすぎて私は言葉をなくしていたのです。だって、こんなにたくさんの可愛いいろいろな犬が目の前にそれも動いたり、喜んだりしてるんですよ。
「うぐ・ぐ」何かを口の中で言ってただ犬たちを指さすと、友達は「そうそう。犬がいるね」とつぶやくように言いました。
 友達は一見冷静に見えたけど、私はちゃんと知っています。友達の唇のはしっこがいつになくあがりっぱなしになっていることを…友達もあきらかにたくさんの犬を目の前にしてうれしくてたまらないのです。
 遠くから見えたたくさんのテントは主催者の方のテントだけではなく、少し小さめのずらりと並んだテントは出場者のテントでした。何頭もの犬を飼っているためか、車に載せて運ぶためのゲージを4つも5つも積むようにして置かれているテントや、椅子やテーブルや冷蔵庫などが置かれていて、楽しそうにテントの中でお話をしている姿も見受けられました。
 これはますます一大イベントです。いつもの公園で、知らない間に(雑誌を見なかったらしらないままだった)こんなに大きなイベントが行われていたなんて、本当にびっくりです。
 公園の真ん中にはタイヤや平均台、ナイロンでつくったトンネルの遊具、ジャンプ台などいろいろな器具が置かれていました。
「みんなあそこに乗ったり渡ったりくぐったりするのかな?」
「そうなんじゃない。しかも時間を競うんだよね、きっと」
「すごいよね。ちゃんと乗ったり渡ったり、くぐったり…」
「スピード出して、乗ったりするんだよね。渡ったり、くぐったり…」
しつこく同じ言葉を繰り返していたのは、けっしていちじくを責めているわけではないのです。何もかもが始めてでわくわくして、驚いていたからなのです。でもいちじくはそんな私たちをなんだか少し悲しげに見ていました。
「僕はどうせ、乗ったり渡ったりくぐったりなんてしないし、できないもん」って思って少しすねていたのかもしれません。
「いちじく大丈夫。いちじくは小さいからいいのよ」私は繰り返し、いちじくを傷つけたことをいいわけするように言いました。
 それに私はここにはいろいろな種類の犬が来ているけれど、出場をするのはきっと特別の訓練された特殊な犬に違いないと思っていたのです。他のたくさんの犬は私たちと同じように見に来ているだけなんだろうと思っていました。ましてやパピヨンはこんなに小さいのだし、足も細いのだし、こんな競技に出るなんてことは考えもつかないことでした。
 でも、でもいたのです。競技会のために遠くから来ているパピヨンがいたのです。
 飼い主の方はいちじくを見て、声をかけてくれました。パピヨンの名前はモモちゃんと言いました。白くて長い毛がとても美しい犬でした。
「大阪から来ました」
そしていちじくを見て「競技会に出場するんでしょう?」と言うのです。
「え?違います。出場されるんですか?」
「ええ、そのために大阪から来たんですよ。アジリティはとても楽しいから一緒にやりましょうよ」
 身体の小さいパピヨンがバーを飛んだり、階段を昇ったり降りたり、高い平均台を渡ったりするいことがはたしてできるのか…私は半信半疑でした。
 でも男の方とモモちゃんの練習が空き地で始まったとたん、その考えは一変しました。私が少しもパピヨンのことを、それどころか犬のことをわかっていなかったということに気がついたのです。
 男の方が「待て」と指示を出すと、モモちゃんはそこにお座りをしたまま、男の方がモモちゃんからずっと離れていっても、ご主人を見ていました。5,6メートル離れたところで「こい」と号令がかかると、モモちゃんは瞬間的におきあがって、ご主人のところまで駆けていきます。ボールが投げられると、すごいスピードで取りにいって、またご主人のところに持ってきます。今度はご主人がそのボールをご自分の二本の足の間をくぐらせると、モモちゃんもまたボールにつれられるように、足の間を八の字にくぐるのです。そしてご主人の用意したハードルも耳をパピヨンの名前どおりに蝶のようにひらひらさせながら、難なく飛んでいたのでした。
 「はー」(まるでサーカスみたい…)ただただため息をついて、私たちはあこがれのまなざしでモモちゃんとご主人を見ていました。
 信頼しきっているふたり。気持ちを通わせあってるふたり。二人の動きの美しさはきっと二人がお互いにとても大切な存在だからなんだわ…
私の心の中では映画のストーリーが勝手にできあがっていくようでした。それくらい一人と一匹は優雅で素敵でした。
 アジリティの競技がはじまりました。競技はいくつもの障害物を越えてゴールまでたどりつく時間を競います。障害物をたどる順番も決まっていて、ひとつでも間違えるともう失格になるのです。順番にまわることも、障害をクリアすることもそう簡単なことではないから、失敗してしまう犬もいっぱいいます。犬はご主人の様子をよく見ているから、きっと失敗しちゃったんだなってわかって、申し訳なさそうにするのです。ご主人も「いいんだ。がんばれ。よおし、いい子だ」と決して失敗を責めずにその時々に的確な指示を出すのです。
 犬は生まれつき勇気があるかというと、私は本当はとても慎重でどちらかというと臆病なのではないかなと思います。雷がなると身体をふるわせて怖がったり、初めてのところには近づかないようにしたり、そういうことが多かれ少なかれどの犬にもあるのじゃないかと思います。
 けれど、ご主人が、(友達という言い方のほうがいいでしょうか)「トンネルをくぐれ」というなら、大好きなご主人のためにくぐろう…「大丈夫」と言うなら信じよう。高い平均台だって、ご主人が喜んでくれるなら怖くてもがんばろう…犬たちはみんなそう思って、障害物を乗り越えているようでした。そして飼い主の方たちも、みなさんそのことを知っていて、「よく頑張ってくれたね、ありがとう」と犬たちをいとおしく思っているのが、見ているものたちにもよく伝わってくるのでした。
 感動しました。心から感動しました。
「いちじくにもあんなふうになってもらう」私は友達に宣言するように言いました。
友達は
「今、なんて言った?」と私に聞き直しました。
「いちじく…気の毒」とも言いました。
 私は友達が言葉にしなかったけれど、言外に思ったことがなんとなくわかりました。
「いちじくが来いって言ってもこなかったり、待てって言っても待たないのは、いちじくのせいじゃないよね。わかってるよね。覚えの悪い犬だとかそんなことまさか思ってないよね。どちらかというと、人間の側の問題なんだよ。あなたの問題!!あなたのいいかげんさが問題なの!」
 友達といちじくは私が一人で「あんなふうにする・・いちじくにあんなふうになってもらう、今日から」なんて言っているのを冷静に見ているようでした。
 


 

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