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 まだいちじくと知り合う前のことです。
 お天気のいい夕方に海へ出かけました。
 浜辺を歩いていたら、一台の車が遠くの方にとまりました。車からお二人の年輩のご夫婦が降りてこられて、そして2匹の犬が続いて降りてきました。真っ黒の短い毛が輝くように光っているミニュチュアダックスフンド、白くて長い毛を持つそれもやっぱりミニュチュアダックスフンド、その2匹はつなをはずされて、二人の後になり先になって、一緒に海の方へやってきました。
 男の方が2匹になにかを言いました。そのとたん、2匹は見えないつながはなたれたように、思い思いの方向にうれしくてならないというように駆け回り出しました。
「こっちへ来て」
私の思いがわかったのでしょうか?遠くから二匹は私をめがけて走ってきて、そして私の腕の中にすっと入るようにやってきました。二匹ともとてもきれいで、輝くように美しい犬でした。
 遠くの方でご主人が「悪さをしたらいかんよ」と言いました。二匹はちゃんとご主人の方をむいて、小さくワンと吠えました。
 しばらくしてご主人の「いくよ」の声を聞くと、二匹はすぐにご主人のもとへ戻っていってしまいました。
 たったそれだけのことだけど、私はそのとき、いつか犬と一緒に生活できるようになったら、きっと海に来ようと思ったのです。
 私のところに来てくれる犬は、きっと私が大好きで、私と一緒に海にくると、私のことを気にしながらも、浜辺をうれしそうに走っている…そして私は海の空気をいっぱいすって、幸せな気持ちになりながら、犬が駆け回るのをニコニコしてみている。「さあ帰るよ」それほど大きい声を出さなくても、私の犬は私の声を遠くからでも聞き分けて、駆けてきてくれるんだわ…そんなふうに夢見たのです。
 夏になって、キャンプに行こうと思い立ちました。車にキャンプ道具を載せて、いちじくと一緒に乗り込んでも、まだ私たちは山に行こうか海に行こうか迷っていました。私の小さい家族たちは海に行きたいと言いました。まだいちじくは車酔いがすっかりなおったわけではないので、私たちは近くの海でキャンプをすることにしました。
 海です。海。私が夢見た光景が、夕方になったら、繰り広げられるはず…私は海に着く前からワクワクしていました。
 夏休みの海は、平日でもずいぶん混んでいました。それでもテントを張るところを選ぶには充分場所があいていて、私たちはキャンプ場の隅っこを選びました。
 ふだんどんなに一緒にすごしていると言っても、お昼は家には誰もいません。いちじくがどんなふうにケージの中ですごしているかは知る由もないのですが、今日は言葉通りずっとずっと一緒です。食事の用意をする間も、遊んでいるときも、眠るときもずっとずっと一緒です。
 私たちはとてもうれしかったし、いちじくもとてもはしゃいでいるようでした。
 お昼を少しすぎたころ、隣のあいた場所に、犬連れの4,5人のご家族が来てテントを張り始めました。犬はコーギーという割合大きい犬でした。直径3センチくらいの太いつなをつけたコーギーは声もすごく太いです。いちじくがいたからかもしれないのですけれど、コーギーはずっと太い声で吠えていました。
 いちじくが怖がっていやしないかと心配でした。タープテントのいすの下に入るこんでいるいちじくは怖いのか怖くないのか少しも声を出さないで、じっとうずくまったままでした。
 「あの犬どうしてずっと吠えているの?」
 あんまり長い間吠えているコーギーに私は少しいじわるな気持ちになって、「弱い犬ほどよく吠えるって聞いたことあるよ」なんて言ったのでした。
 夕方になって、小さい家族たちが海に行こうと言うので、いちじくのつなをいすからはずして、つなを持ちかえて、テントから出た瞬間、お隣のコーギーが、僕のテリトリーに入るなと言いたかったのでしょうか?さらに激しくいちじくに吠えました。
 そのとたん、いちじくはすごいスピードで走り出し、つなは私の手をすりぬけていってしまいました。
 「いちじく…もどっておいで」
「パピー」悲鳴のように叫んでも、いちじくは一目散に遠くへ走っていきました。
 海へ続く道には海からの帰りの人がたくさん歩いていました。
「捕まえて…」叫んでも、いちじくは人の間を走り抜けて。何人もの人が振り返っていちじくを見ていたけれど、いちじくはとてもすばしっこいのです。
「いちじく…おいで…」
いちじくは私の声など聞こえないようにどんどん海の方へ走っていきます。私たちも一生懸命走って追いかけていたけれど、いちじくはあんなに小さいのに、なんと走るのが速いのでしょう。もう追いつかないほど遠くへ行ってしまいました。
 あー。どうして行ってしまうの。海なんてくるんじゃなかった…もうこのままいちじくはいなくなってしまうかもしれない…私たちの宝物が、私の腕の中から消えてしまう…浜辺はどこまでもずっと続いていて、このままいちじくはどこかへ見失ってしまうんだわ。いちじくと私の間に信頼関係なんてかけらもなかったのだ。
不安で不安で仕方がなかったのに、私はとうとう走り疲れて、砂のところにひざと手のひらをつけて泣いていました。
 ふと顔を上げるとどうしたことでしょう。いつのまにかいちじくがすぐ手のとどきそうなところに戻ってきて、私の様子をじっと見ているのです。
「あ、いちじく。帰ってきてくれたのね」
いそいで捕まえようとすると、またいちじくは走り出しました。
「まってえ…」そしてまたどんどんどんどん走っていってしまうのです。
「もうだめ」そして私はまたへたりこんでしまいました。どうしよう…どうしよう…もうちょっとで手が届きそうだったのに…そっとそっと近づいたら、つかまえられたかもしれないのに…また後悔の気持ちでいっぱいになりました。
 ところが、気がつくと、またいちじくがそばにいるのです。
いちじく?あなた、ひょっとして、私のことおちょくってない?そうじゃないとしたら、私と遊んでるつもりなんじゃないの?
 もう、私はこんなにへとへとで、あんなに悲しくて泣いていたのに…

 

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