カンボジア・ベトナム日記



 「今日はとてもついています。雨がすっかり上がりました。今日は夕日がきれいに見られると思います。昨日も夕日見ることができませんでした。とってもラッキーです」
 雨期には、夕方になると、きまって雨が降ります。

 旅行から帰って、カンボジア・ベトナム日記を始めて2,3日したころ、友人からメールをもらいました。
「偶然にびっくりしています。今、カンボジアのシェムリアップにいます。シェムリアップには10日ほどいる予定です。時間があったらメールをください」
 私もとても驚きました。ついこのあいだまで私がいたところに、友人がいるということが、何か、私とシェムリアップの道をつなげてくれている気がしました。
 「私ね、シェムリアップにいて、ガイドさんのお話を聞いていて、不思議に思って、でもそのときに訪ねられなかったことがいくつかあるの。教えてくれる?たとえばね、ガイドさんは、この時期に観光に来るのは、日本人だけで、ヨーロッパの人は違う時期にくるって。でもすごしやすいのは、雨期だとも言ったの。どういうことなのかな?」
 友人はさっそく、カンボジアのお友達に聞いてくれました。
「日本人だけが今、来るというのは、少し違うかもしれないけれど、確かに観光客は少ないそうだよ。たぶん、この時期だと夕日が見えないからだと思う」
 そういえば、前にアンコール・ワットを何度も訪ねている友達も、一度もサンセットを見ていないし、サンライズは一度見ただけだと言っていました。
 本を調べると、「サンライズ、サンセットを見ることができるベストシーズンといわれる11月〜5月のあいだですら、2,3日雲がかかって見えないことはざらで、雨期ともなると、1週間連続で雲がかかることはめずらしくない。美しい朝日、夕日を見られるかどうかは、まさに神に祈るしかないのである」(地球の歩き方)と書かれていました。
 そんなこと少しも知らずにいて、夕日を見に出かけますと言われて、出かけて、ソチアさんが「ラッキーですよ」と教えてくれたのに、そのありがたさのようなものも、実感しないでいたなあと思いました。そして、そのことを気がつかせてくれた、今シェムリアップにいる友人が、メールで送ると、すぐにお返事を返してくれるということだって、本当に不思議で、ありがたいことだなあと思いました。
 バスは、アンコール・ワットから山道へ進んでいきました。到着したのはプノン・バケンという山でした。バスがとまっているすぐそばに象が3頭いるのがみえました。その象は、観光用にかわれていて、象に乗ってこの山をのぼることができるということでした。
「ここで生まれた象?カンボジアに野生の象はいますか?」
「戦争で、動物はみんないなくなりました。象もいません。今いるのは、猿だけです」
 ソチアさんの言葉に胸がつまりそうになりました。ついこのあいだまで戦争が、あったということは本で読んだり、お話を聞いて頭ではわかっていたつもりだったのに、でも本当にはわかっていないのですね。アフリカで野生の象に出会えて本当にうれしかったし、アンコール・ワットを作ったのも象だと聞いていたので、もしかしたら、象がこのジャングルにたくさんいて、ひょっこり顔を出してくれたらどんなにうれしいことだろうと思ったからなのでした。

 タイでも象は、ビールにも、飲み水にも、それからゴミ箱にも絵が使われていました。だから、象はきっととても大切でそして、身近な動物なんだろうと思いました。きっとお隣の国のカンボジアだって同じはずです。でも戦争というものは、人だけでなく、当たり前だけど、動物や植物にもとても大きな影響をあたえるんですよね。今は猿がいるだけです。淡々とソチアさんはお話されたけれど、それは本当はとても大きなことなのだと思いました。
 

 「ここの山も急なので、元気な人だけ登ってください」ソチアさんが言いました。
「山もっちゃんはこういうときはきっと登るから」小林さんが言ってくださったように、私は登りたいと思っていました。でも、本当を言うとちょっと不安でした。というのも、私は心臓がちょっと弱くて、山道を長くのぼるのが、にがてなのです。でも小林さんが言われるとおり、行けるところはどこにでも行きたいと思っているのも本当でした。

 
 この山全体は、たんなる山ではなくて、山自体も遺跡なのでした。それで、山の頂上には、参道の階段を上っていくのです。整備されていない、でこぼこの参道は、とてつもない大きな石があったり、木の根っこがでていたりして、とても登りにくいものでした。
 登り出すとすぐに息が切れてきました。ハアハアハアハア言いながら登ると、大谷さんが「はい、ここでお休み」と気遣ってくださるのです。あいこさんも、「山もっちゃん、少しずつ少しずつのぼってね」と言ってくださいました。息を大きく吸って、上をみあげたときに、階段の端っこのところに、軍服を着た、兵隊さんが座っているのが見えました。
「傷痍(しょうい)軍人です」ソチアさんが言いました。
「傷痍軍人という言葉をソチアさんが知っているとはねえ」と小林さんが言いました。「傷痍軍人なんて言葉をここで聞くなんて」と大谷さんが言いました。
 傷痍軍人という言葉は、私も知っています。そのことばを小さいときに、ときどき聞いた覚えもあるのです。
 小さいころ、ショウイグンジンという言葉は不思議な言葉として、私の心に残りました。集団登校のために子供達が集まっている場所に、近所の人が子供さんを送りに来ていて、私の横で、顔をよせあって話をしていました。
「小学校の前にショウイグンジンが今日は座っていたわ。学校の前に座らんでもいいのにね」「学校の先生、他へ行ってって言えないんかね」
 ショウイグンジンってなんだろうと、どんな字を書くのかなと不思議に思いました。学校にいちゃいけない人なのかな。こっそり話をしていたから、聞いてはいけなかったのかな?なんだかわからないけれど、暗い気持ちになりました。
 学校の前に座っておられたのは、もう戦争も終わって、ずいぶんたつのに、兵隊さんが座っていました。近くで「行ってくるぞと勇ましく・・・」という音楽が流れていました。私たちがとおると、その人がつえをもって立ち上がったのです。その人の足はひざから下がありませんでした。
 私には、足がないということと、戦争が結びつきませんでした。でも近所の人のお話を思い出して、見てはいけないものを見てしまったのではないかと思ったのです。
 家へ帰ったとき、あの方はあそこで何をしていたのか、どうして足がなかったのか、聞きたくて、でもなかなか聞けませんでした。ずっと考えていたら、母は、そんな私がどことなく変だと思ったのだと思います。
「何かあったの?つらいことがあった?」と聞きました。
「ううん」
「だったら、どうしたの?」のぞき込んで心配してくれた母に、これ以上心配をかけたくなくて、聞きました。
「学校の前に兵隊さんがいたよ。今、戦争から帰ってきたところなの?」(たぶん、軍服を着ていたからそう思ったのです。そして、その洋服を着ている意味もわからず、今、着ているということは、今帰ってきたところなのかなと思ったのだと思います)
「そうじゃないのよ」
「でも、戦争のお洋服着てたよ。それでね、足が、足がね...」
そう言ってから、いったいどうしたことでしょう。胸が急にいっぱいになって、涙が出てとまらなくて、そのうち、声をあげて泣いてしまいました。
「戦争で戦って足をなくされた方なのよ」母は私の髪をいつまでもなぜてくれました。
 私はそのときに、泣いてしまった涙の意味を、大きくなる途中で何度も考えていました。障害をもっておられるお友達も増えました。障害があることで、友達のことを「かわいそうに」と言う人と出会うと、その考えは違っているんじゃないかと思うようになっていました。私がもし、自分がたとえば、貧乏でかわいそうとか、顔がかわいくなくてかわいそうなんて言う人がいたら、その人のことをなんて失礼な人だろうと思うだろうと思うのです。

 傷痍軍人さんと出会ったとき、私はどうして、泣いたのだろう・・・・。そんなときには決して泣いてはいけないんじゃないだろうか、泣くことは相手を傷つけるのじゃないだろうか、失礼なことではなかったのだろうか。・・・・私は、いつかそのときに泣いてしまったことを恥ずかしいと思うようになっていました。
 学校で傷痍軍人さんに会ったあとでも、お墓参りに行ったときや、時にはデパートの前で、同じように音楽をならして、白い箱をさげている傷痍軍人さんをみかけることがありました。私には、もうどうしても、その方を見ることができなくなっていました。もしまた泣いてしまったら、その人にとても失礼になってしまう・・・そう思ったから、傷痍軍人さんに会うことがとても怖かったのです。
 大きくなるにしたがって、傷痍軍人と言われる人を見かけることは少なくなってきました。けれど、たまに見かけることがあって、そんなときに、大人の人達の「他のお仕事でがんばれば、きっとやれるだろうに、いつまでも軍服にすがって生きていなくても」といった批判的な言葉を耳にするようになっていました。「戦争はいけないって伝えたいんじゃないかな」私がそう尋ねると、大人達は「いや、中にはそういう人もいるかもしれないけれど、ほとんどの人が、そうすることで、少しでもお金をもらえるから、しているんだろう」と言うのでした。でも、それも、日本ではずいぶん昔のことになりました。


 私はやっぱりカンボジアでも、その軍人さんを避けてしまっていました。お金をおわたしするかどうかということじゃなくて、その前に、軍人さんから目を離してしまっていました。小さいときの”泣いてしまったらどうしよう”という思いが、今も私の心から離れないのだと思います。
 大谷さんもそんな私の気持ちを察しておられたのかもしれません。軍人さんのいないところへいないところへと、私を誘導してくれていました。
 ところで、ソチアさんは
「僕は彼らに、上を向いて歩こうの歌を教えてあげているんです。その歌を歌うといいよと教えました。彼らは歌うようになりました」と言いました。
 それを聞かれた小林さんが、私に、「ソチアさんは、彼らを支援しているんだなあと思ったよ」と話してくださいました。
「前に、ソチアさんが、手や足を失った人は、お勉強を好きな人は、焼き物をしたり、音楽をするけれど、そうでない人は物乞いをしますと言ったのだけど、ソチアさんは傷痍軍人さんのことを決して批判的には見ておられないということですね」
「僕はそう思ったな。きっとソチアさんは我々が物乞いという言葉に感じるようなニュアンスをこめて、物乞いという言葉は使っていないと思う」
 物乞いという言葉に驚いて、そのことばに、私はこだわってしまったかもしれないけれど、商品を買ってきて売るということ、音楽を演奏するということ、そして、軍服をきて、すわっているということ・・もしかしたら、どれもが、どうにかして生きる手段をみつけようとしていることに代わりがないということなのでしょうか?
 階段の上には、踊り場があって、階段はその上へと続いていました。そこでも、元気な子供達がにこにこと、いろいろなものを売っていました。絵はがき、アンコール・ワットの本、マフラー。そして冷たく冷やした、水やジュース。
 私は一ドルで、ジュースを買い、5ドルで、アンコール・ワットの本を買いました。
 夕日が傾いてきたのがわかったので、いそいで、また上へ上がっていきました。上の方には遺跡がたっていて、たくさんの人が、夕日が沈むのを待っていました。
 みんな思い思いの場所に座って、そのときを待っているのです。
「アンコール・ワットはどこやろう」大谷さんは、この旅にきて、ずっと私の木のお人形を風景のあちこちに置いて、写真を撮っておられました。先に書いた「・・しっぽみたいに・・」の本の次の本のために、写真を撮っておられたのです。
「探してくるね」夕日が沈むところに木のお人形を置いて写真をとっている大谷さんをそこに残して、私は、アンコール・ワットが見える場所を探しに出かけました。
 むこうの方に山が見えました。「あの山から石を切り出してアンコール・ワットを作ったんですよ」知らない男の人が、私のことを日本人だとわかってくれたのでしょう。声をかけてくれました。
 あんなに遠いところから、象が、重い重い石にひもをかけて、ずるずると長い距離を、きっと象が何頭も順番をついて運んでいたのかなあと、この山からそれが眺められたんだろうかと想像すると、時間もふうっと前へ戻っていくようで、不思議な気がしたのでした。
 アンコール・ワットと日が沈む方向は反対側なのでした。夕日に照らされているジャングルの中に浮かんでいるようなアンコール・ワットを少し見た後、やっぱり日が沈むところを見ることにしました。
 真っ赤な夕日が、今まさにジャングルに沈もうとしていました。朝、太陽がのぼって、こうして、日が沈んでいく・・・象が石を運んで、そして、ジャングルが戦火につつまれたり、今、世界中の観光客が、訪れるようになったり、何千年もの長い歴史のどの日にも、日は昇り、日は沈んでいきました。その繰り返しのうちの一日に、私たちがそこにいられたことがなんと幸せなことだろうと思いました。小林さんが夕日にむかって、手をあわせて頭をさげていました。
 日が沈んだ瞬間、拍手が起こりました。アメリカの人、カンボジアの人、日本の人、いろいろな国の人が、美しい日の入りがみれたことに感謝し、そしてそのすばらしさに胸をうたれ、拍手をしていました。
 山を下りると、象も山をもう下りていました。「明日の朝まで象もまたお休みです」
 象の横を通るとき、「ごくろうさま」と象に声をかけて、そっと象の鼻をさわると、象さんはまるで、私の手に鼻をそわすように、手に鼻をからめてくれました。
 バスに乗り込むころ、あたりは暗くなってきていました。


 



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