カンボジア・ベトナム日記



 朝、ホテルでバスに乗り込んでいると、小林さんが、バスの外で男の方何人かと話をしています。
「町内の人とこんなところで会っちゃったよ。日本では5年ほど会ってないのにね。ゴルフに来たんだって」
 本当に不思議ですよね。私も東京で、偶然に学校の同僚とあったりすると、本当にびっくりします。それも外国なんですもの。偶然だけど、やっぱり不思議です。
 バスの中で、ボワさんが、また街の説明をしてくれました。
「バスの料金は、街中どこへ言っても、50サターンです。日本のお金で10円です。それから、タクシーはだいたい35バーツ、100円ほどで、わりといろんなところにいけます。バイクタクシーは(私がリンタクと書いたタクシー)交渉して値段を決めます。昨日はお酒を飲めない夜だったから、どんなふうにすごしましたか?」
すぐに車酔いをしてしまうので、前の方に座っていた私は
「昨日、コンビニでビール売っていたんですよ」と言いました。ボワさんは少しびっくりしたようで、冗談交じりに言いました。
「え?!それはすぐに警察に言わないといけません。お祭りでは決して、お酒は売ってはいけないのですから」
「ホテルの周りだけはよかったのかな?」他の方がおっしゃると
「いいえ、国から、通知があるのです。売らないようにと、先日も今日の日のことで通知がありましたから。そうしたら、どこであろうと売ってはいけないのです」
 ある一つの宗教の特別な日だから、お酒を飲まないように、売らないようにと決められるということは日本では考えにくいことです。国によって、宗教との関係は本当にさまざまだなあと思いました。
 
 ドアがあくと、それがそのままタラップになるような、そして、通路をはさんで、2列ずつ座席がある、小さい飛行機で、私たちはカンボジアへ向かいました。飛行機は、シェムリアップという街に降りることになっていました。1993年まで内戦が続いていたということで、国全体が荒れ地だったりするのだろうかと思いましたが、思いの外、窓の外には、緑色のジャングルが広がっているのが見えました。
 タイからカンボジアのシェムリアップまでは一時間くらいでした。
 シェムリアップは、アンコールワットやアンコールトムがある街です。
 戦争のことを知りたい、そう思って出かけてきた旅だったはずなのに、私はカンボジアのことをほとんど知りませんでした。
 ここで、小林さんに教えて頂いたり、本で調べたりした、カンボジアの戦争のことを少し書かせてください。
 カンボジアは、ベトナムとタイ(シャム)の国にはさまれてあります。昔、アンコールの王朝として栄えたこの国が、二つの国の力を多く受けるようになって、国としての力がだんだん衰えてきました。そこで、カンボジアはフランスと保護条約を結んで、フランスの植民地になったのです。
 その後、シアヌーク殿下という人が、中心となって、フランスからの独立運動をおこして、1953年にフランスから独立をします。
 ところが、1970年、シアヌーク殿下が外国にいるあいだに、ロン・ノル将軍がクーデターを起こして、政権をたてるのです。このロン・ノル将軍という人はアメリカよりの人だったために、ベトナム戦争がカンボジアの中までも広がってくることになりました。 ロン・ノル将軍と戦うために、国の外へ逃げていたシアヌーク殿下は、「カンプチア民族統一戦線」という組織を作って、サロト・サル(のちにポル・ポトと名前を変えます)が率いるクメール・ルージュという集団に協力すると表明したのです。でも、どうも、本当は、シアヌーク殿下はポルポトに負けたのだと思います。そして、そのポル・ポトは、ロン・ノル政権を倒して、プノンペンを制圧しました。
 ポル・ポトは極端な民族主義的共産主義でした。プノンペンの都市で生活していた人々は、都市からみんな追い出して、そののち、都市部に住んでいた人の多くを殺しました。 都市部には、お医者さん、それから政治家、学者さん、お坊さん、学校の教員、そして学生さんなどの人(ポル・ポトが、その人は国民に影響を与えるんじゃないかとおそれている人)がたくさん住んでいました。ポル・ポトは学問を受けた人たちが、反乱をおこすのをおそれて、たくさんの人を虐殺したのです。その数は、100万人とも300万人とも言われるのだそうです。その結果、男の人の数がとても減ったのだそうです。けれど、殺したのはけっして男の人だけでなく、女の人も、子供たちでさえも殺したということでした。
 それから、家族とか夫婦とかいう考えは、ポル・ポトが考える共産主義の思想とは逆の存在だったので、家族も夫婦もばらばらにして、農業に集団で従事させるようにして、お金を廃止したり、お店も廃止、それから学校、病院までも全部を廃止して、壊してしまいました。それまでのカンボジアの文化とか教育とか、歴史とか・・とにかく、そういったすべての物を壊しました。物だけでなく、そのとき、きっとカンボジアの人たちの心も、そのときはもうずたずたに傷つけられていたと思います。
 ポル・ポト政権は、ベトナムとも対立します。1977年に大きな国境紛争が起きるのです。1978年12月の終わりに、ベトナム軍がカンボジアに攻めてきて、カンプチア民族統一戦線はタイとの国境へ逃げて、そこで、中国やアセアンに支援されて、民主カンプチア連合政府三派というものを作ります。そして、そこには、たくさんのカンボジアの人々が難民となって、押し寄せました。
 また、プノンペンをカンプチア民族統一戦線が解放したときに、ヘン・サムリンという人が、今度はカンプチア人民共和国を作ります。そこはソ連やベトナムに支援されていました。
 それで、そのころ、カンボジアには二つの国家があって、その二つの間で、1980年代は、ずっと内線が続いていました。
 そのころから世界の状況もかわってきました。ソ連のペストロイカが進み、東ヨーロッパでも、社会主義が崩壊していきました。東西対立も解消されていきました。そして、中国とベトナムとも間の関係もよくなってきました。
 今まで、シアヌーク殿下と、ヘン・サムリン政権のフン・セン大統領の話し合いもうまくいきませんでしたが、世界の状況の変化、とくに、中国とベトナムの関係がよくなってきたので、とうとう、1981年、パリ会議で、カンボジアの和平実現のための、「パリ和平協定」が19カ国の代表によって、調印されました。
 1993年選挙が行われて、シアヌーク殿下を国家元首とする、カンボジア国王が誕生しました。こうして、戦争は終わり、平和なカンボジアの今の状態になったのだそうです。
 けれど、武装が解除されたわけではなく、またポル・ポト派が選挙に参加したわけでもないので、不安な要素も残しているのだそうです。
 カタカナの名前だけでも、私にはずいぶん苦手だから、それから政治のことは苦手とそんな思いこみもあるので、戦争の歴史を調べようとしても、なかなかわかりませんでした。 でも、これが、いくつかの本を読んで、難しくて、よくわからなくて、そして書いていてもまだよくわからないのですが、その中でも、私の理解を助けてくれた本、「地球の歩き方」と「カンボジアからやってきたワンディ」(謝孝浩さん)「トットちゃんとトットちゃんたち」(黒柳徹子さん)と小林さんの説明を主に、参考にさせてもらって、まとめたものです。
 1993年は本当についこのあいだのことです。いったい、なんと長い間、カンボジアの人たちは、戦争や内線に苦しみ続けたことでしょう。
 今、こうして私たちが安心して訪れることができるようになったのも、本当につい最近のことで、私はそんなに大変なカンボジアのことを、あまりに知らないでいてしまったなあと思いました。
 シェムリアップの空港は、まるで前の都市に訪れた、赤毛のアンの島、プリンスエドワード島とよく似ている、とても小さい空港でした。
 小さい飛行機から降りて、空港の建物へむかって歩いていると、アンコールワットの小さい模型が私たちを迎えてくれました。
 地球の歩き方を読んでいたので、カンボジアのあいさつはもう知っていました。
「こんにちははチョムリアップ・スオ、そして、ありがとうはオー・クンだよ」そう言い合って、「入国審査の時に、そう挨拶しようね」ってともちゃんとも言っていたのです。 入国審査のとき、2列に別れました。私の列の一番前がともちゃんでした。ともちゃん、チェムリアップ・スオって言うかな?そう思って、ともちゃんを見ていたのですが、どうも様子が変なのです。ともちゃんはいろいろなことを聞かれていて、そして、時間がたってもなかなか、中へ通してもらえないのです。ともちゃんが悲しそうな顔をして、私たちを見ました。私も心配になっておろおろしていたら、岩澤さんが係の人と何か話をし、それから、現地で待っていて下さった男の人とも何か話をしています。もう一つの列についていた人たちも中へは入れてもらえていないようでした。
 どれくらいたったでしょうか?
「少し、トラブルがおこったので、みなさん、パスポートを預からせて下さい、そして、ちょっとこちらで待っていて下さい」岩澤さんも困った顔をしていました。
 パスポートを渡すと、私たちみんな、入国審査のゲートは通して頂けたのですが、外へ出ることはできなくて、やっぱり様子がなんだか変でした。
 少し心配だったけれど、岩澤さんがいらっしゃるから大丈夫だろうと、私たちはもうすっかりのんきな気持ちになって、
「どうしたのかな」とともちゃんに聞くと、ともちゃんは
「ビザがどうとか言ってはったみたい・・・カンボジア語で挨拶しようと思ったけど、怖かって、それどころやなかったわ」と言いました。
 岩澤さんは、汗をポタポた流しながら、一生懸命、まだお話を続けていました。それなのに、私たちはやっぱりのんきで、「えらく長いね、どうしたんかな」と、でも心配はしていないのでした。
 30分ほどして、岩澤さんがやってこられて、
「ビザの手続きをしてこちらへきたのに、その手続きがうまくいっていなかったみたいです。本当にお待たせしてしまってすみません」と岩澤さんが悪いわけでもないのに、とても恐縮しておられるのです。
「こちらにおられる方は、カンボジアの現地のガイドさんです。その方と一緒に、みなさんは先にホテルに行っていていただけませんか?僕は、手続きをして、みなさんのパスポートを必ずもって、ホテルに行きますから」
 のんきな私たちも、岩澤さんが空港に残られると聞いて、少し不安になったけれど、でも、外へ出てホテルに向かっていいというお話を聞いて、またのんきな気持ちになって、「じゃあ、お願いします」などといいながら、ガイドさんが連れて行って下さったバスに乗ったのでした。
 添乗員さんのお仕事は本当に大変ですね。外国では、きっと予想もしないこともたくさん起きると思います。そんなときも、ちゃんとがんばって、対応されなくてはいけないのですもの。
 前の年の旅行は、添乗員さんがいらっしゃらなくて、すべて小林さんがいろいろなことをしてくださったし、アフリカへ行ったときも、帰りのナイロビの空港の中で、チケットの交換にすごく時間がかかったときも、すべて小林さんがお世話をしてくださったのだけど、小林さんは
「ああ、岩澤さんがいてくださってよかった・・・こんなとき、岩澤さんがいてくださらなかったら、カンボジアに入れなかったかもしれない」とやっぱり、海外旅行での大変さを知っておられるからこそ、そんなふうにおっしゃっておられました。
 私たちが乗り込んだバスにはハングルの文字が書かれていました。このバスは昔、韓国で活躍していたバスなのでしょう。
 カンボジアのガイドさんはソチアさんという方でした。
「日本語で粗末なお茶、粗茶ソチャと覚えて下さったらわかりやすいと思います。よろしくお願いします。カンボジアは今は雨期です。雨期は5月から10月。そして11月から4月は乾期になります」
 ソチアさんの日本語はとてもお上手でした。
「私はちょっと秘密のないしょの日本語の先生いますから、上手です。他の人はこんなふうに上手になるのはちょっと難しいのです」とソチアさんは謎めいたことを言うのでした。
 「雨期の間は、夕方になると多く雨が降ります。雨が降るとすごしやすいです。この夏の時期に来るのは日本人だけで、ヨーロッパの人は、雨のない1月に来ます」
「??」どうしてすごしやすいのが今で、ヨーロッパの人は今じゃないときに来るの?どうも、やっぱり今の時期は雨が降ると涼しいけれど、やっぱり日差しもすごく強くて暑いからなのでしょうか。ああ、不思議に思ったことはやっぱりそのときに聞けばよかったです。だって、今はいろいろ調べてもちっともわからないことがいっぱいなんですもの。
「カンボジアはまだ、戦いが終わって、あまり時間がたっていないので、大きな飛行機が発着できる堅い地面をもった、飛行場がありません。だから、一度タイかベトナムへ着て頂いてから、小さい飛行機でこちらへ着て頂くしか方法がありません。それはカンボジア人にとってもとても残念なことです。カンボジア人は、ベトナムとタイとずっと戦ってきたので、あまりどちらの国のことも好きではありません。だから、観光をがんばっているカンボジアにとっても、そのことはとても残念なことです」
 カンボジアは、タイともベトナムとも陸地続きの国だから、今はとても仲良しなのかなと思ったけれど、やっぱりまだまだ、カンボジアの人にとっては長い戦争の歴史があるから、難しいんだなと思いました。
「僕はカラオケも歌います。日本語で、千昌夫の「星影のワルツ」と「北国の春」をみなさんとのお別れのときに歌いますから、楽しみにしてください」
 ソチアさんはとてもお若い方で、ニコニコしていました。タイでは、運転席は左側だったけれど、カンボジアでは右でした。ソチアさんは立って、私たちの方を向きながら、いつもニコニコしてわかりやすくお話をしてくださいました。
 シェムリアップの街の中心を通って、新しいホテルがたくさん建ち並んでいるところにきました。
「ここでは、観光客のお客さんのためのホテルがどんどんどんどん建っています。今、右に見えるのは、2月にたったばかりのホテルで、2番目に大きいところです。一日泊まるのに、2万円もかかるのだけれど、いつもお客さんがたくさん泊まっています。左に見えるホテルが完成すると、一番大きいホテルになります」
 私はそのとき、2万円というお金が、カンボジアの人たちの生活から考えて、どんな金額になるのか、まだ気がついていませんでした。
 そんな具合に、ホテルがたくさん建ち並ぶあたりは、他の世界とまったく違うように見えました。けれど、何件かは、小さいお店や、一般のおうち(それでも、きっととてもとても大きいおうちになるのだろうと思うのですが)も建っていました。

 私たちが泊まるホテルはその通りの中では、それほど大きくもなく、けれど決して小さくもない、すごしやすそうなホテルでした。
 門のところに、男の人が警備に立っておられて、私たちを出迎えてくれました。それから、ホテルの中に入っていくと、可愛い女の人が、きっとカンボジアの民族衣装だと思うのですが、長いスカートと上着にわかれているスーツを着て、ウェルカムジュースをもって出迎えてくれました。もう1時を少し過ぎていました。
「そのまますぐ、食事をしてください。岩澤さんはすぐ来られるでしょうから、そうしたらお食事されますから、大丈夫です。お食事を終わったら、少し休んで3時にロビーに集合してください」
 気持ちのよい、真っ白なテーブルクロスの上に、ナイフやフォークが並んでいました。次々に運ばれるお食事は、とってもおいしくて、本にカンボジアのお料理は日本人の舌に合うと思うと書いてあったけれど、本当にその通りだなと思いました。
「きれいっていうのはなんていうの?」
あゆみちゃんが地球の歩き方の本をもっている私に聞きました。
「スアートって書いてあるよ。可愛いとかきれいはスアート。スマートに似てる」
素敵なお洋服を着ている女の人に、あゆみちゃんはさっそく「スアート」と洋服を指さして話しかけていました。女の人は恥ずかしそうに、でもうれしそうに笑っていました。あゆみちゃんが思ったことをどんどん伝えようとしていることが、本当に素敵でいいなあと思いました。
 私も「ありがとう」の言葉「オー・クン」を覚えていたので、お食事を運んでくださったときに、「オー・クン」とお顔を見てにっこり笑うと、その女の人も必ずにっこり笑って、「オー・クン」とお返事してくれて、それから、そのとき着ていた洋服を「スアート」って言ってほめてくださったりするので、そんなやりとりが本当にうれしくて楽しかったです。



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