カンボジア・ベトナム日記


22

  その日のお昼から、ニュンさんは日本語学校のアルバイトの予定があったので、お昼御飯を一緒に食べたあと、ニュンさんとはお別れすることになっていました。ニュンさんのバイクはホテルの近くだったから、バスはホテルへ向かっていました。
 ニュンさんと私はどうして出会えたのだろうと、そんな不思議なことを私は考えていました。
 「もし、会えなかったら、もし、知り合えなかったら、私たちって、ただ遠くに離れて住んでいて、そのまま決して交わることがなく生きていたはずなのに、今、ニュンさんが隣に座っていて、私、もうすぐニュンさんとお別れっていうことがこんなにも悲しいの・・・いろんな偶然がなかったら、私はニュンさんと出会えてなかったもの」
 私が、小林さんと出会えてなかったら、このツアーはないでしょう。小林さんと出会うには、そのうんと前に、大谷さんが、私の学級便りなどを、本にしてくださっていなければ、出版社さんの目にとまることもなくて、小林さんと出会えていないでしょう。それから、桝蔵先生との出会いもまた偶然でした。ベトナムへ行こうと思い立たなければ、もちろんここへは来れていなかった・・・ニュンさんだって、お仕事が盲学校の先生でなかったら、それから私が、ベトナムへ行きたいと思った時期に、金沢でニュンさんが桝蔵先生と出会われていなければ、この出会いはなかったでしょう。それらが起きるためにはもっとたくさんの出来事や出会いがあったはずです。
 人と人というのは、この広い宇宙の中で、そして、長い時間の流れの中で、不思議な出会いを繰り返し、その出会いがまた次の自分にとっての大切な出会いをつくってくれている・・・私はどんなことも偶然ではないのではないかと思いました。どのひとつのことがなくても、今こうして、ニュンさんと出会えることがなかったでしょう。そして、またこの出会いも、私たちの人生の中で、必要だから起こったように思えたのでした。
「ああ、山元先生、泣かないで。また、会えるから悲しくないです。山元先生、また、必ず会いましょう。結婚式もに来てくださいね」そう言いながら、ニュンさんの目に涙が光っているのが見えました。私たちは何度も握手をしました。
 帰り際に、みんなで書いたニュンさんへのお手紙をお渡ししました。どなたかのお手紙の中に「お父様にもどうぞよろしくお伝え下さい」という手紙があったのだそうで、
「父は医者でした。ずっと一緒に暮らすことができませんでした」とはなしてくれました。
 そのときのニュンさんのお話の仕方から、たぶんお父様のことは戦争がかかわっていたのだろうと感じました。ベトナムや、それからカンボジアで生きている人たちみんなが、戦争で、家族を失ったり、仕事を失ったり、家族がばらばらになったり・・今も、大きな大きな影響を受けているのですね。
 バスからいよいよ降りていくニュンさんに、みんなが声をかけていました。そして、また握手をしました。
 私が泣くと、ニュンさんは何度も「また会えるから泣かないで」と頭をなぜるようにしてくれました。そしてとうとう、ニュンさんはバスから降りて街へ消えていきました。ニュンさんが日本に来ることは簡単でなく、私にしてもベトナムへ来ることは簡単ではありません。きっときっとまた会えますように・・・いいえ、会おうと思えば、必ず会える・・だから大丈夫。私は自分に言い聞かせるように、そうつぶやきました。
 ニュンさんが別かれた後、バスはチョロン市場へ向かいました。その途中に岩澤さんが、マイクをとってこんな話をしてくださいました。
「僕も、少し変わった旅行に添乗員として参加することがあります。でも、現地にいないと、どうしても、コーディネートがむずかしいのです。連絡もとりにくく、細かなこともわかりません。今回の旅は、ニュンさんがおられなければ、絶対にできない旅でした。ニュンさんはそんなことはおっしゃらなかったけれど、いろいろなところに何度も連絡をして、調整をすることは、大変なことだったと思います。僕たちはニュンさんに本当に感謝しなくてはならないなあと感じました」
 ずっと添乗のお仕事をされている岩澤さんのお話はとても説得力がありました。ニュンさんはどんなに大変だっただろうと思いながらも、あらためて岩澤さんの口からお話をきかせていただくと、いっそうニュンさんにありがとうという思いがこみあげてきました。

「チョロンの市場は、ドンコイ市場よりももっと庶民的な市場です。ここはとても安いので、地方の人たちが、物を仕入れに来ます。だから、ここではひとつとかふたつとかでは買えないと思います。同じ物をたくさんでないと買えません」
 私たちはチョロンの市場の降り立ちました。ものすごくたくさんの人が市場にはいました。
「この市場で迷子になったら、なかなか出てこれません。それから、治安もとても悪いのです。どうしますか?僕についてきて、一周するだけにしますか?それとも時間決めて、集まりますか?でも、迷ったら出てこれません」
 ゴアンさんは、ここではお買い物をしないで、ぐるっと見て回る方がいいよとすすめてくれているように思いました。私たちも、迷子になって出てこれないのは怖いから、ゴアンさんに着いていくことにしました。
 本当にびっくりしました。市場の中はいろとりどりの品物がうずたかく積まれていて、お店とお店のあいだの道は人が一人やっと通れるような幅しかありません。そして、その道が、ゴアンさんの言うとおり、迷路として作られた迷路以上に、分かれていたり、行き止まりだったり、それから行き止まりかと思ったら、その横をくぐるようにして通るのだったり・・・
縦にも横にも道はつながり、あたり中が、小さなお店だらけなのです。
 ゴアンさんは迷わずどんどん進んで行って、私たちは「すごいねえ」「すごい品物の数」「ちゃんと着いてきてね」など言い合いながら、ゴアンさんに続いていきました。
 食べ物屋さんの通りがありました。
「ここでは、僕でも一口食べたら、トイレに走り、二口食べたら、病院に行かないといけません」と言いました。「ゴアンちゃんでもお腹をこわしてしまうの?」小林さんが驚いて聞いていました。「僕たちも、もう、街の食べ物に慣れてしまっているから、だめですね」
 けれど、お料理はとてもとてもおいしそうでした。
 「とっても足下の汚いところを通るけれど平気?時々、こんなところにつれてきてって怒るお客さんがいるから・・・」
「僕たちはどこでも平気だよ。山もっちゃんは、アフリカのウンチだらけのトイレでも大丈夫の人だから」小林さんが言うと
「安心しました」とゴアンさんが選んだ道は、日が差さないためか、下に黒い水がたくさんたまっている道でした。ぐるぐるまわって、どんなに遠いところに来たのだろうと思っていたけれど、気がついたら、私たちは最初の門のところに戻ってきていました。まるで魔法のようでした。
「ゴアンちゃんすごい!!」拍手が起こったほど、本当にチョロン市場の迷路はすごかったです。
 チョロン市場のあと、ホテルに帰ってからは自由行動の時間になっていました。前の夜の食事のときに、ベトナムの楽器の演奏を聞きました。その中でとても変わった楽器がありました。一弦だけの琴のような楽器なのですが、弦の片方のはしっこが、琴に垂直にたてられたはがねの棒のようなものにくくりつけられていて、そのはがねの棒を手で前や後ろにたおすことで、音程を変えるのです。
 また、はじく方の手のひらを軽く弦にふれさせることでも、音程を変えるのです。文章で、その楽器の説明をすることってむずかしいです。その楽器をじっと見ていたら、小林さんが、「山もっちゃん、それを買って持って帰るといいよ。荷物になるなんて心配しなくていいから、僕が必ず持って帰ってあげるから」とそんなふうに言ってくださるのでした。ゴアンさんのお友達は、ベトナムで有名な楽器奏者なのだそうです。そして楽器の販売もしておられるのだそうです。
「彼のお店は歴史博物館の中にあるのだけど、今工事中で、家で楽器を販売しているのだそうだから、連れて行ってあげましょう。」
 ゴアンさんは本当にどこまでも親切でした。私たちの自由時間は、ゴアンさんにとっても自由時間のはずでした。「町の中に、楽器屋さんがありますよ」と口で教えてくださるだけでも、すむはずなのに、ゴアンさんは、すぐにお友達に電話をかけてくれました。
 ゴアンさんと出会ったばかりのころ、ゴアンさんが、冷たいように感じたり、ときには無責任のように思ってしまっていたことを、私はずっと後悔していました。それから自分のことが恥ずかしくもありました。
「山もっちゃんと一緒に楽器を見に行きたい人いる?」小林さんの声に半分くらいの人が手をあげていたので、ホテルについたら、荷物をおいて、すぐにまたバスで、ゴアンさんのお友達の家に行くことになりました。
バスが停まって、ゴアンさんが携帯から電話をしたら、お友達が、表通りまで迎えにきてくださいました。お友達の家は、アパートのような集合住宅の中にありました。下の階段のところにいくつかの自転車がおかれ、二階へあがっていく階段は狭くて暗く、日本の昔のアパートはみんなこんなふうだったなあとまるでフラッシュバックのように、思いだし、昔の日本がここにあるようだなあと思いました。
 おうちには奥さんと、小さい女の子が一人。おうちの中は、ベトナムの家だからと、とりたてて日本と違うなあと感じるところは少なかったです。ただ、お部屋にホーチミンさんの写真がかざってあるのが、共産主義国家らしいという気がしました。
 部屋のいたるところに、いろんな楽器が飾られていました。
「今から彼と彼の奥さんがいくつか楽器を演奏してくれるそうだから」すすめられるままにお部屋のソファや床に腰掛けると、お二人は楽器を演奏してくださいました。
 「彼はベトナムの奥地へも出かけて、いろんな楽器を仕入れてきて、それを見て、楽器を作ったりもするんですよ。テレビにもよく出ているんです」とゴアンさんが教えてくれました。 
 私は、ベトナムに来て、琵琶の形の楽器を買ったけれど、調弦の仕方がわからないのだと言うと、その楽器は「低い方から、ド、ファ、ソ、ドの音に合わすのだ」と、教えてくれました。2弦と3弦の間が一音だけというのはとても変わっています。沖縄の三線にしても、三味線にしても、それから、ギターやヴァイオリンにしても、たいていは4弦の間は均等だから、不思議だなと思いました。その楽器は押さえてはじけば簡単に音が出る楽器だから、調弦さえわかれば、旋律(メロディ)だけを弾くことはそうむずかしくないから、「涙そうそう」という日本の曲を弾いたら、お友達の方が、「楽器を買ってくださるからには弾いてほしいから・・・うれしいなあ。あなたは上手になれるよ」などとほめてくださいました。でも本当は、すごく下手だから、そんなふうに言って頂いてちょっと恥ずかしかったです。
 それから、竹でできた木琴が上から下へと斜めに並んでいるものを奥さんが演奏してくれました。木琴も、音の並びさえわかれば、メロディをたたくことはそうむずかしくないから、みんなでかわるがわる叩きました。
 そしてそのあと昨日見た、不思議な楽器をみせてくれました。奥さんの演奏であらためて聞いたこの楽器の音は素晴らしかったです。以前、胡弓という楽器の演奏を聞いたときと同じような感動を覚えました。人が泣いているみたいな音だと思ったのです。せつなくて、心をゆさぶる音でした。けれど、いざ、さわらせて頂いても、一音すら出すことができないのです。ヴァイオリンでもたまにそういう技法をつかうのですが、ふれる程度に弦を抑えて音を出すと、一オクターブ高い倍音の音が出ます。この楽器は、すべての音をその技法で演奏するようでした。押さえすぎると低い音しか出ないし、押さえが足りないと、やっぱり変な音しか出ません。
「この楽器を弾くときには、ベトナムの子どもたちは小さい頃から練習します」
 奥さんのお話に、この楽器は私には無理かなとも思いました。けれど、この切ない音を出すことができたらどんなにかうれしいことでしょう。買って帰らないと、私ずっとこの楽器のことを想うだろうな・・やっぱり持って帰ろう・・。けれど、私が買いたいと思った楽器は、アンプのつかない、大きな形のものでした。電気で音を出すのではどこでも弾けないからと思ったのです。
 でも、彼は「昔はこの楽器はアンプにつながないタイプを演奏していたけれど、今はほとんどアンプにつないで演奏する方を使います。アンプにつなぐ方が、小さいし、折りたたみができるようになっている。電気を使わないのは、音を大きくするためにこんなに大きいし、それでも音が小さいです」
 「大きいのは持って帰れないよ。アンプは日本に帰ってから、きっと安く買えるから」大谷さんの言うとおりでした。とても持って帰れる大きさではないのです。それにアンプにつながなければ、小さい音でも練習できるかもしれない・・・そこで、アンプにつないだものを買うことにしました。代金は一万円。貝の細工がついたものは1万2千円。貝の細工も美しかったけれど、でも、私は美しい木目だけの楽器が好きで、それを選びました。 「夜、ホテルに届けます。商品はここになくて、店の倉庫にあるんですよ・・・そのときに、楽器の組み立て方を教えてあげます」
 その楽器は、折りたためるだけでなくて、弦をつけるはがねの部分も取り外しができるようになっているのでした。
 そばにいらした、奥泉さんや北山さんに楽器を買うことにつきあってくださったお礼を言うと、奥泉さんは、いつものようにやさしく笑って、「いいえ、ベトナムの方の一般のご家庭も見せて頂けて、そして、楽器にもふれさせて頂けて、本当によかったわ」って言ってくださって、ほっとしました。
 小林さんは、旅のことで、いつも「このツアーは『山もっちゃんと行くツアー』ということで、募集させていただいているのだから、山もっちゃんがどんなことをしたくて、どんなことを考えているかをみんな知りたかったり、一緒に感じたかったりして参加してくださってるんだから、どんどん、気持ちを出してもらった方が、ありがたいんだから」なんて言ってくださるのですが、結局は自分のわがままにつきあっていただいているようにも思えて、心配になります。だから、こうして、奥泉さんが言ってくださったことが、本当にありがたかったです。
 夜は、ホテルの近くにある、別のホテルの上の方の会での食事でした。食事の前に、ゴアンさんのお店で、ともちゃんとあゆみちゃんはできあがったアオザイをもらってきたということで、二人はアオザイ姿でした。
 なんて可愛いのでしょう。あゆみちゃんは紫色の透ける素材と下の生地の二枚重ねのドレスで、ともちゃんは深い青のドレスでした。
「成人式にだって着れるんじゃない?」そんな感想も飛び出すくらい、二人はとても華やかできれいでした。
 その日は、実は北山さんのお誕生日だったのです。小林さんが、ゴアンさんにケーキを街のどこかで買えないか?と頼んでいたということで、食事の終わりにとても大きくてきれいなケーキが出てきました。
 ゴアンさんが、「このケーキは僕が選んだんですよ。いつもケーキを買うときはここで買います。おいしいことで有名なんです」って説明してくれました。ゴアンさんは、私たちを楽器を買いにつれていってくださった後も、走り回ってくださっていたのですね。
 北山さんはとてもうれしそうでした。カンボジアであいこさんのお誕生日があって、ベトナムで北山さんがお誕生日を迎えられました。偶然だけど、本当になんてうれしいことでしょう。私は北山さんのお誕生日がいつかは知らなかったので、小林さんやあいこさんやゴアンさんが準備をされていたこともとてもうれしくて、私たちはこの旅ですっかり仲間だなあと改めて思ったのでした。
 大谷さんが私に何か合図をおくってくれていたので、その手の方向を見たら、部屋の外に、ゴアンさんのお友達が楽器を持ってきてくださっていたのでした。旅にも大丈夫なように包装をしてくださってあって、その包装を大切にほどくと、その中に、とてもきれいな楽器が入っていました。
「むずかしいけれど、いつかきっと弾けるようになるから、きっときっとがんばって練習してね。もし弦が切れたら、ギターの2弦で代用できます。大切にしてね」
 「大切にしてね」という言葉で、ゴアンさんのお友達は、楽器が大好きなんだなあと、あらためて感じ、私は彼の宝物をいただいたんだという気がしました。
 食事の後、私たちはまたゴアンさんのお店に行きました。まだ受け取っていない人のアオザイや上着などを受け取りに行ったのです。
 アオザイはきれいに、そしておしゃれに包装されていました。包装の仕方などもゴアンさんが考えられたのでしょうか?ナイロンのつつみの中に、薄紙につつまれたアオザイが入っていました。
「あれ?ゴアンさん、パンツが、白い。どうしよう・・」袋をのぞくと、ゴアンさんの提案で黒をお願いしたあったはずのパンツの色が白でした。私はそのときにはもう卒業式に着ようと思っていました。、ゴアンさんが、すぐに「黒にかえてあげますよ」って言ってくださったのでほっとしました。
それを聞いておられた小林さんが
「ねえ、ゴアンちゃん、この白いパンツ。山もっちゃんに合うサイズなんだから、他の人には使えないでしょう?白いのもあげてよ。僕は白のパンツの方が似合んじゃないかなあと思っていて、これで白と黒がそろうとすごくうれしいから」って言ってくださって、ゴアンさんも、いいですよと言ってくださったので、私は黒と白のパンツをいただけることになったのでした。
 その晩大谷さんの様子が少し変でした。何か考え込んでいるようだったのです。これがこの旅の最後の晩でした。
「明日はもう日本へ立つというのに、僕は写真をずっと撮り続けていて、気がついたら、あまりいろんなことを感じずに、この旅を終わってしまいそうで、残念でたまらないんや。もっとベトナムの人やカンボジアの人とお話もしたかったし、いろんなことを感じたかったから、すごく残念なんや。写真なんて撮ってる場合じゃなかったんじゃないかな。せっかくの旅がもったいなかった気がする」
 私たちの本「あなたといつもつながっていられたらいいのに・・」ーしっぽみたいにーの本の2冊目に使う写真を、大谷さんは旅の間中、ずっと撮っておられんだと思うと、私は申し訳なく思いました。
 私は、大谷さんはとても素敵な写真を撮られるし、ここで撮られた写真を見てくださった方が、きっと心を動かしてくださるのじゃないかと思うのです。そして大谷さんはきっとカメラを通してたくさんのことを感じているのじゃないかとも思ったけれど、けれど、大谷さん本人が、この旅の中を後悔しておられるのだったら、やっぱりその責任の多くが私にあるのじゃないかと思いました。
 それにしても、大谷さんに限らず、どんなときも、旅の最後の夜は本当にさびしいと思います。家を思う気持ちは片方ではどんどん大きくなっていくけれど、でも、ここで出会った人たちや、ここで知ったいろいろのことや、いいえ、この地そのものと別れてしまうことがとてもとても淋しかったです。
 ホテルに入って、一度ベッドに入ったけれど、またベッドを抜け出して、ホテルの外へ出ました。
 ホーチミンの夜はまだとても元気でした。ホテルの前の公園は明るく、人がたくさん歩いていました。それから、ふたり乗りのバイクがたくさんホテルの前を駆け抜けていきました。
 昨日の少年が私を見つけてかけよってきてくれました。
「会えるかな、会いたいなって思ってた」私が言うと、
 少年は少しうつむきながら、「いつ帰る?」と聞きました。
「今日が最後の夜、明日の晩には帰るの。さびしいな」
 彼の日本語はけっして上手ではありませんでした。それから英語も、そんなに上手ではなかったと思います。そして、私も英語はほとんどわかりません。ベトナム語はぜんぜんわかりません。片言の言葉と、表情と手や体の動きで、どうして、こんなふうに気持ちを伝え会えたかということをどう説明したらいいか、むずかしいです。
 ただ、相手に気持ちを伝えたいという思い、それから、相手の気持ちを知りたいという思いがあって、それから、お互いに、相手も自分の気持ちを聞こうと一生懸命耳を傾けてくれているということを感じられれば、ちゃんとわかりあえるんだなと、この旅でわかった気がしました。
 養護学校で子どもたちと一緒にいるときも、そのことを感じることがあります。話し言葉としての言葉をもたないお子さん、それから麻痺のために言葉がはっきりしないお子さんが一生懸命伝えようとしてくれたとき、そのお子さんの想いがわかって、お互いにうれしくて一緒に笑いあったときの気持ちは特別にうれしいけれど、彼といたときも、同じようにとてもうれしかったです。そして、お互いにわかろうという思いが、さらに、私たちを仲良くさせてくれたように思うのです。
 「カンボジアに行ったの。小学校も行ったんだよ。それからアンコールワットにも行った。知ってる?」
「カンボジアとアンコールワットのこと、知ってるよ。カンボジアからベトナムへ来た人を知ってるから」
「カンボジアからベトナムへ来た人?」
「戦争で、逃げてきたんだよ。カンボジアは怖いところだった?」
「ううん、私はベトナムもカンボジアも大好きだよ。あなたはベトナムが好き?」

彼はベトナムが好きだと言いました。ここはいい国だからって。
 ずっとおしゃべりしていたかったけれど、夜も更けてきました。彼はなんと言っても子どもです。もう帰らなければならないでしょう。
「ありがとう。また会えたら、そしたら、またおしゃべりしよう」
彼はにっこり笑って着れました。やさしくうれしい顔でした、
「うん、友達だから」
 ホテルに入る私を彼はずっと見送ってくれました。旅をするということは、出会っては別れるということなのかもしれません。ベットに入ってから、大谷さんが旅が残念だったと言っていたことを考えていました。それから、ソチアさんのことを思いました。つい何日か前に会って別れたばかりなのに、もう何日もたったような気がしていました。ゴアンさんとも明日でお別れなんだ・・・
 ベトナムの空気につつまれながら、ベトナムのことを思いながら、いつのまにか私は眠っていました。


カンボジア・ベトナム日記の23へ
カンボジア・ベトナム日記の目次へ
topへ