カンボジア・ベトナム日記


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「ベトナムやカンボジアに行きたい、そして戦争のことを考えたり、知ったりしたい……そう願って、ベトナムやカンボジアに行って、あたりの観光をしたとしても、それなりのことは感じるかもしれないけれど、でも、もっと私、感じたり知ったりしたいんです」そう言ったときに、小林さんが「それには、現地に住んでいる人にお世話を頼むのが一番いいのだけど」と言いました。
 私には、ベトナムのことを考えるときに、いつも頭の中にうかんでくる人がいたのです。だから、小林さんの言葉を聞いて、すぐにその方を思いました。
 その方は金沢の養護学校の教員をしておられる女の方で、桝蔵先生といいます。ベトナムにおられるわけでなく、金沢にいます。いつもいつもにこにこ笑っていて、とてもさっぱりとしていて、子供たちのことが大好きで、子供たちも先生のことが大好きで、あたたかくて、……私は、遠くから、先生を見ていて、ただただあこがれていたのでした。
「ベト・ドクの発達を願う会」という会があります。桝蔵先生はその会のお一人なのです。
「ベト・ドクの発達を願う会」という会は、本によると会の代表となられた藤本先生という方が、1985年にまだ分離前の結合双生児と言われるベトちゃんとドクちゃんに会われて、ベトちゃん・ドクちゃんが自分の意志で自由に動ける、特別の車いすを作って送りたいという目的のために、発足させた会なのだそうです。福井県の山口光義さんが設計をされ、会員のかたが、募金集めをされたとういうことでした。
 車いすができて、会の活動はなくなったのだそうですが、翌年、ベトちゃんが急性脳症になってしまったときに、また活動が始まったのだそうです。二人は以前から、自由に動き回ることを夢見て、分離を希望していたのだけど、ベトちゃんの病状が悪化して、分離をいそがないと、ベトちゃんだけでなく、ドクちゃんの命も、危ないということになり、いそいで、二人の分離手術がおこなわれるようになったのだそうです。
 それからしばらくして「ベト・ドクの発達を願う会」はベトちゃん、ドクちゃんだけでなく、ベトナムの障害を持っている方の調査(枯れ葉剤との関係など)をされたり、障害を持っている方の支援をされたり、ベトナムと日本の方の共同のセミナーを毎年のようにベトナムで開かれたりしています。
 ベトナムへ行きたいと願った理由のひとつが、桝蔵先生であったかもしれません。もう何年も何年も前に、「ベトナムは教材が少ないので、何かあったら、寄付をしようと思うのだけど、協力してほしい」と私に声をかけてくださったことがありました。私はそのころ、教材を作ることがとても楽しくて、しょっちゅう教材を作っていたのですが、養護学校では、子供さん一人一人に応じて、教材を作ることが多いので、子供たちがその課題を達成したり、あるいは、その教材が、実はそのお子さんの状態にはあまり適当でなかったりして、教材が眠っているということがよくありました。あこがれの先生から声をかけていただいて、本当に私うれしかったのです。だから、すごくうれしく、その準備をさせていただいたことを覚えています。
 そのあと、もう一度先生にお会いする機会があったのですが、そのときは緊張してうまくお話できなかったのをよく覚えています。

 「私の知り合いの方が、ベトナムのことにとてもおくわしくて、そして、ベトナムの養護学校や病院などをきっと紹介してくださると思うのです」小林さんにお話しながら、知り合いの方だなんて、まるでお友達のように桝蔵先生のことを言っているけれど、もしかしたら、私のことを覚えてはおられないかもしれない・・・本当言うと不安でいっぱいでした。
 学校の公衆電話から、桝蔵先生のおられる養護学校へ電話をかけました。桝蔵先生のおうちの電話番号を知っているはずもなく、桝蔵先生の学校にかけました。お仕事中かもしれない・・・お忙しいかもしれない、私のことをどう説明しよう・・・ドキドキして、ためらって、何度か受話器を置いて、それから、また勇気を出して、電話をかけました。それはまだ年が明けない去年の12月のころでした。
 学校の名前と、自分の名前をおそるおそる言い、自分のことを説明し出そうとしたら、
「え?山元さん?お元気だった?どうしたの?どうしてた?」先生は優しく聞いてくれました。「私のこと覚えておられますか?」
「もちろんよ、うれしい」
先生は驚いたことに、そんなふうに言ってくださって、そしてやっぱり優しくて、私は、緊張のあまり涙が出そうになりました。
 ベトナムへ行きたいこと、そして養護学校や、病院や、できたら小学校へも行ってみたいこと、そして、戦争のことやベトナムのことを知りたいことなどをお話しました。
 「私、きっとあなたの力になれると思うわ」
本当に先生はどこまでも優しかったです。
 「一度僕もどうしても、その桝蔵先生という方にお会いしたいな。そうしないとお話がすすめられないから」小林さんが浜松から金沢へ来て下さって、今まで一緒に本を書いたり、地元での講演会などをお手伝い下さっている大谷さんと、私と、そして桝蔵先生と4人で会うことになりました。
 あこがれの桝蔵先生は、ちょっとおっちょこちょいでもあります。私はだからこそ、いっそう先生が大好きで大好きでたまらないのですが。
 桝蔵先生が会うために決めて下さった一番目の場所は、この不況のせいでしょうか?もうお店を閉めていて、看板が下りていました。あわてて先生の携帯に電話をしたら、
「だったら、あそこで会いましょう」
携帯電話で指定してくださった場所は、ずいぶん前はとても流行っていたのだけど、もう何年も何年も前にお店がなくなっていて、建物も壊され、ただ塀がたくさんのツタに覆われて立っているだけのところでした。
「そこはもうずいぶん前になくなっていると思います」
そう言うと、桝蔵先生は
「あら、そうなの。じゃあね、今ね、信号待ちしてたんだけどね、電話だったから、大きなくるくるのお寿司やさんの横に車とめてね、電話しているの。そこどうかしら?」
 そして私たちはそのお寿司屋さんで会うことになりました。
桝蔵先生もやっぱり「いろいろな学校に紹介状を書いたりできるけれど、やっぱり現地にいる方が案内してくれるといいと思うから、いい方を紹介するわね」と言ってくださいました。その方がニュンさんでした。
 ニュンさんはベトナムで、盲学校の教員をされていて、今は金沢大学へ留学されていて、今年が3年目。、もうすぐベトナムへ戻られるのだいう、小柄でとても清楚で、可愛い白菊みたいな女性でした。
 私は一目でニュンさんが好きになりました。ベトナムの方は出かけた今もそう思うのですが、やっぱり同じ東洋の人だから、日本の人とお顔がとても似ています。私はニュンさんが、小さいときからずっと仲良しのくにちゃんという友達によく似ているなあと思いました。思ったことはつい口に出してしまう私。
「ニュンさん、日本の方と、ベトナムの方はよく似ておられるのですね。ニュンさんは私のお友達によく似ていらっしゃるの」
「はい、よく似ているけれど、でもベトナムは日差しが強いから、みんな肌の色が黒いです。私も黒いから、ベトナムの人らしく見えます」
でも、ニュンさんはぜんぜん黒くはなくて、そして、日本語がとても上手で、お話していると、やっぱり日本人の方とお話しているように思えてきます。でも、本当はお国がどこだとかそんなこと、きっと関係ないのですね。日本人同士で出会っても、なかなか仲良くなれないこともあるし、お国が違っていても、暮らしているところが違っていても、すぐに仲良くなれる人もいっぱいいますもの。
 私は、そのとき、まだニュンさんに会ったばかりなのに、もうニュンさんが好きでたまらなくなって、もっともっとニュンさんと仲良くなりたい、本当の仲良しになって、親友のようになりたいなあとそう思ったのでした。
 「ベトちゃん、ドクちゃんが住んでるツーヅー病院にも行くでしょう?」桝蔵先生がおっしゃったときに、ずっとにこにこしていたニュンさんのお顔が少し曇ったような気がしたのはきのせいだったでしょうか?桝蔵先生のそれを感じられたみたいで、
「あなたが気が進まなかったら、ヅーヅー病院は他の人に頼んでもいいし、でも、もし大丈夫なら、してあげてくれる?それから小学校なども、あなたが決して無理をしないで、できる範囲でいいので、お世話してあげてもらえる?」
 たぶん、そのとき、ニュンさんが、少し、桝蔵先生がお話してくださっていてにしても、私たちがいったい誰なのか、なぜベトナムへ行きたいのか、そして、どうしてツーヅー病院へ行きたいのかということがまだ不思議だったのだと思います。それから、もうひとつにはこういうことがありました。
 前に書いた藤本先生が「ベト・ドクはアメリカの大統領よりも有名人だ」と言われたことがあるそうなのだけれど、本当にベトちゃんとドクちゃんはとても有名です。だから、お聞きすると、観光バスで、ベトちゃんドクちゃんだけに会いたくて、病院を訪れる日本人がとても多いのだそうです。けれど、ベトナムには、同じような理由で障害を持って生まれられたお子さんが、病院内や、それ以外にもたくさんおられるから、ただベトちゃんドクちゃんに会いたいというのでは、少し問題なのではないかという考えも、確かにベトナムの中にあるということでした。
「でもね、私、かっこさんにぜひ、ベトナムへ行って、いろんなことを感じてきてほしいの。それがすごく楽しみなの。そしてね、書いてほしいなあ。ツーヅー病院にも行ってほしいと思うの、あそこは書いてもらうときにはずせない場所だと思うの」
桝蔵先生はそう言ってくださいました。
 私は桝蔵先生のお言葉が本当にありがたく、そして、感じたり書くことは、自分の願いでもありました。ニュンさんが嫌と思われることはけっしてしたくないという思いもあったけれど、もう一度ニュンさんにお話してみようとおもったのでした。
 3月の終わりにニュンさんは、金沢でのお勉強を終えられて、ベトナムへ帰られました。そして、小林さんや私と、ニュンさんとのメール交換が始まりました。ニュンさんは私とは、盲学校のこと、ベトナムのことなどいろんなことを教えてくれました。そして小林さんとは、おもに、旅行の予定の話をしてくださって、ニュンさん自身が、学校や孤児院や病院に行ってくださったり、電話をしてくださったりして、お話をすすめてくれたのです。そして、ニュンさんもツーヅー病院に行きましょうねと言ってくださいました。
 もうあと1週間ほどで、ベトナム出発のころ、桝蔵先生がメールを下さいました。
「ツーヅー病院へ持っていっていただきたいものがあるの。病院では薬や包帯などがまだやっぱり不足しているの。カット絆創膏や、他にいろいろなものを持っていってくださる?それから、私から学校や病院の先生にも、紹介状を書いて準備をしておくね」
 金沢の少し郊外に、国際ホテルというところがあります。その一番上の階にあるレストランで食事をしながら、(お世話をおかけしているのは私たちなのに、それなのに、ごちそうになってしまったのですが)大谷さんと、私は、桝蔵先生と、それから先生と同じ養護学校の今井先生とおしゃべりをしました。
 今井先生は、お二人が働いておられる学校のビデオを持ってきてくださったのです。
「コアーイ先生という養護学校の先生に、このビデオを渡してもらいたいんだ。コアーイ先生の学校と僕たちの学校が姉妹校になったものだから」
「いよいよね、あのね、生水は飲まない方がいいわ。それからアオザイは作る?私はもう10着くらい持っているよ。子供たちに着てもらったり、何かのときに着たりしているから、もし、よかったら作ったらどうかな。ホテルの周りに、商品を売りに来ている子供たちがいるの。仲良くなったら、いろんなことを話してくれるよ。もしお金をあげてしまったら、それはそれ以上の関係にはなれないけれど、そうじゃなくて、お友達になれたら、いろんなことを話してくれると思うよ」
 そんなふうにいろんなことを教えてくださいました。
 夕食もとてもおいしくいただいて、そして、桝蔵先生にごちそうになったものだから、ベトナム語でお礼を言いたくなりました。
「”ありがとう”はベトナム語でなんというのですか?」
「スパシーボだったかな」
「!??」
あまり外国の言葉を知らない私ですが、それは違うお国の言葉のように思いました。首をかしげていたら、今井先生が笑いながら「カムオンじゃなかったかな?」と言いました。
桝蔵先生は、「そうだっけ・・。ま、どっちでもいいけど、そうかもしれないウフフフ」と少女のように笑いました。
 もうベトナムに、何回も毎年のように行っていらっしゃる桝蔵先生だから、そんなふうにおっしゃるのも、可愛かったりおかしかったりして、私は、やっぱりうれしくて、こんなきれいな夜景の中をこうして、先生と一緒にご飯を食べて、いろいろなお話を聞けて幸せだなあと思ったのでした。


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