カンボジア・ベトナム日記


19

  食事が終わって、そのあと、ゴアンさんのお店のトンボに出かけました。
 ホーチミンでは、今もアオザイを着ている女の人をたくさんみかけました。女学生さんは真っ白なアオザイを着ています。背筋を伸ばして自転車に乗っている姿は、本当に素敵です。
 ベトナムの方はどうして、どの方もどの方も、こんなにとても姿勢がよくて、スタイルがいいのでしょう。スタイルがいいから、素敵なのか、アオザイを来ているからスタイルがよく見えるのかどちらかなあ・・そんなことをみんなで言い合いました。アオザイを作っても、日本で着る機会がないだろうと思っていた人たちも、みんな作ろうかなという気持ちになってきていました。
 「トンボ」はレックスホテルから歩いて5分ほどのところにありました。ニュンさんも一緒にきてくださいました。
 ゴアンさんのお店は、何日か前にオープンしたばかりだということで、お店の前には開店祝いの花かごがいくつも飾られていました。お店はとてもきれいで、おしゃれでした。こんなふうな書き方はおかしいかもしれないけれど、たくさんおみやげやさんがたち並んでいる中で、ゴアンさんのお店は、周りのお店とは、つくりがちょっと違っていて、そして、東京やパリにあるような、とてもとても、モダンなお店でした。(ああ、こんな書き方やっぱりおかしいな、モダンっていう言葉自体古い感じだものなあ)
 棚にきれいに並べられた美しい刺繍がされた雑貨なども、素敵にレイアウトされ、そして、ひとつひとつの品物に値札がついていました。値札がついていたとことさら書いたのは、市場の品物にはいっさい値段がついていなかったからです。市場では値段は交渉して決めるのでした。
 お店で私たちを迎えてくださった女の人も、また美しいアオザイを着ていました。そしてとても上手な日本語でお話をしていました。
 「わぁ、ゴアンさん、すごい・・・素敵」みんなが口々に言うと、ゴアンさんは少し恥ずかしそうに笑いました。
「お店のレイアウトや店員の制服、お店の看板や、マークなど僕が考えました」
「マークなどはパソコンで作られたのですか?」
「そうです」
 大谷さんとパソコンのソフトのことで話をしているのを聞いていると、よくわからない私でも、ゴアンさんはパソコンも、とても堪能なのだとわかりました。
 ゴアンさんのお店は手前の方に、雑貨類が並べられ、奥の方にはワンピースやブラウス、そしてアオザイがおかれていました。生地もたくさんそろえられていました。
 みんな思い思いの生地を選んで、アオザイやブラウスやワンピースを作りました。私は、ピンクにしようか青にしようかいろいろと考えて、真っ黒な生地に、刺繍がはいっているのを選びました。ゴアンさんが、いい選択だとほめてくださいました。アオザイは下にパンツ(ズボン)をはきます。上が何色でも、ほとんどの場合は白いパンツです。たまに上と同じということがあるけれど、でも、たいていは白です。私も白いズボンだと思いこんでいました。
「山元先生、黒いときは下にはくのは黒ですよ。黒がおしゃれ、おすすめしますよ」
私はすごく迷ったのです。小林さんは白い方がいいのじゃない?と勧めてくださったし、共布だと、しまらないんじゃないかなあと心配にもなったから・・でもゴアンさんは
「黒がいいよ。僕は黒いアオザイが好きだし、そのとき下にはくのはやっぱり黒」
ゴアンさんはそう強く勧めてくださいました。
 ゴアンさんの言葉を聞いて、思いついたことがあったのです。 こんな美しいアオザイ・・けれど、作っても、日本で着ることがあるかしら?と心配だったけれど、そうだ、卒業式に着よう、上も下も黒なら、きっと卒業式に着ても大丈夫・・・なんていい思いつき。
 「私、黒にします」
「それがいいです」ゴアンさんのめがねの奥のやさしい目がいっそうやさしく笑っていました。
 アオザイは体のいろいろなところの寸法をはかります。着る人の体にぴったりに作るのです。
 採寸をしてもらったあと、他の人が採寸したり、選んだりしているのを待っている時間に、ゴアンさんと少しおしゃべりをしました。
「ゴアンさん、本当に素敵なお店」
 けれど、ゴアンさんは少しうつむいて、昼に言ったことばをまた言いました。
「みんなは本当に心があります。でも僕は心がない。お金儲けのことばかりですから・・けれど、女性に美しくなってもらいたいから、だからこれでいいかなと思ったりもするけれど」
 ゴアンさんはお店の品物が、日本の相場からはうんとうんと安いのだけど、でも市場に出ている物よりは高いから、そのことを言っているようでした。そして、ゴアンさんはそのことを、買い物に来る日本人をだましてしまっているのじゃないかとでも思っているかのようでした。
「ゴアンさん、市場でお買い物をしたい人は、市場ですると思う。でも、値段をいくらにするというような交渉がにがてだったり、たくさんの人の中で買うよりは、少しくらい高くても、ゆっくり品物を見て、選びたかったり、値段がついていて気が楽だし、おしゃれなお店がうれしいという人もきっとたくさんいると思う。ゴアンさんのお店の品物なら安心という方もいると思う。そういう人はゴアンさんのお店が好きだと思うから、それは、ゴアンさんが、お客さんに申し訳がないように思う必要はぜんぜんないって思う」
 ゴアンさんはなんてまっすぐな方なのだろうと思いました。「僕は心がない」なんておっしゃるゴアンさんこそが、心のある方なんだということに気がつきました。私はゴアンさんが好きだと思ったし、ゴアンさんと出会えたことがとてもうれしいと思いました。
 お昼に、ニュンさんの家へ行くときに、すれ違いがあって、私はゴアンさんのことを、怒ってしまったのだけど、考えたら、ゴアンさんは、夜の食事に私たちが、もし間に合わないようなことになったら、その人たちにも迷惑がかかるし、私たちがあわただしい時間をすごさなければならないことを心配してくれてのことだったのかもしれません。私も朝、ニュンさんが家にいきましょうと言ってくださったのを聞いたからなのだけど、でも、かりにニュンさんのおうちに行きたいということをもっと前にお話することができていたら、ゴアンさんは快くひきうけてくださったのに違いないのに、私は自分勝手に、ゴアンさんのことを怒ってしまっていました。本当に、なんて恥ずかしいのだろうと思いました。
 戦争のことも、長い時間、あんなに一生懸命話してくださったのに、私はゴアンさんのお話に、ちゃんと心を傾けていたのだろうか、私こそが、声の大きなチーホさんやソチアさんと比べてばかりいて、子どもたちにあんなに優しい目をむけていたゴアンさんに、背実じゃなかった、ひどいことを思ってしまっていたじゃないかと、すごく悲しくなりました。
 アオザイは、明日の晩か、あさってにはできあがるのだそうです。他の人のお買い物はまだ続きそうでした。ずっとつきあってくれたニュンさんの帰りがおそくなってしまうから、小林さんとふたりで、ニュンさんをホテルの近くのバイク置き場まで送ることにしました。
 バイク置き場はホテルのすぐ近くのビルの地下にありました。何千ドン(たぶん日本円にして、何十円)かを払うと、そこに一日おいてもらえるようです。
「時間があったら、山元先生をバイクの後ろに乗せてぐるっとドライブできたのに。もし明日時間があったら、乗せてあげますね。楽しいよ」
 ニュンさんのバイクは真っ黒でぴかぴかでかっこよかったです。「また明日会いましょう」ニュンさんは手を振って、ベトナムの街に消えていきました。
 たった一日だったけれど、いろんなことがあったなあ・・・小林さんと話しながら歩いていると、小学生くらいの男の子が、小林さんにバラの花を買ってと声をかけました。小林さんはいらないよと小さく首を振りました。
 その男の子は、アメリカの男の子のように見えました。どうしてアメリカの男の子がここでバラの花を売っているのか、とても不思議でした。
 ホテルに入ると、小林さんが
「ロビーでちょっと待っていて。さっきの男の子にお金を渡してきたいから」
 小林さんも、あの男の子が気になっていたのでしょう。戻ってきた小林さんは
「お金を渡したとたん、他の子どもたちがやってきて、同じように、僕にも僕にもお金をほしいと言う・・収拾がつかなくなってしまうから、さっきは渡さなかったんだけど、そんなときどんなふうにしたらいいのだろうね」  
 小林さんと別れて、部屋へ帰ってからも、私はあの男の子のことが気になっていました。きれいな瞳をした男の子。お話をしてみたいなあと思ったのです。
 ベトナムへ来る前に桝蔵先生が「ホテルの外に品物を売りに来る子どもたちとも仲良くなれたら、きっといろんなこと話してくれるから、そうなったらいいね」って言ってくださっていたのも思い出しました。大谷さんもそのときに、僕も子どもたちと話したいと言っていたから、大谷さんもさそおうと電話をしたけれど、もう眠ってしまっているようでした。
 桝蔵先生は、「品物をその子から、買ってしまったら、もうそういう関係にしかなれないから、買ったらだめよ。あとで、もし、お礼をしたいと思ったら、最後の日に、お礼を渡したらいいの」と教えてくださったけれど、でも、あの少年の近くへ行って、お花を買わないけれど、お話したいのっていうことをどうして伝えられるだろうと心配な気持ちもしました。
 ホテルの外は、まだ暑いままでした。すぐ前の公園に座っていると、さっき出会った男の子が、むこうの横断歩道のところで、お花を買ってと頼んでいるのが見えました。そして、そっけなく断られているのがわかりました。
 どうしようかなあ・・・その男の子をしばらく見ていると、目が合いました。それなのに、私、ぱっと目をそらしてしまったのです。どういう気持ちだったのか、はっきりわからなかったけれど、たぶん、どうやって彼に「お話したいの」と言うことを伝えたらいいかわからなかったからだと思います。でも、彼は私の方へやってきてくれました。そして、驚いたことに、彼は、私にお花を買ってということは言わないで、そばに座ってくれたのです。そして私をじっと見ています。まだ黙ってしまっている私に
「ジャパニーズ?」彼の方から私に話しかけてくれました。
私はどきどきして、「うん」と言葉にせずに、うなづくと、今度は
「こんばんは」と日本語であいさつをしてくれたのです。まるで私が彼と話したいと思っていることを、彼がわかってくれたみたい・・と思ったら、うれしくてうれしくて仕方がありませんでした。
 その少年は、日本語も英語も、少し知っていました。お客さんから教えてもらったと少年は言いました。(本当を言うと、日本語や英語や、ジェスチャーやいろいろ混じっていたから、どうして、こんなふうに上手にお話し合えたのか、今になってみるとわからないのです。でも私は確かにわかったし、彼もわかってくれたと思うのです。いいえ、伝えようと思えば、言葉がなくても伝えられることはたくさんあると、私はこの旅で何度も思ったし、そして学校へ帰ってから、子どもたちと話していても、そう思うのです)。
 彼は英語も日本語も、観光客の人とお友達になって覚えたと言いました。
 それから、どうして、アメリカの少年がここにいるんだろうと不思議だったのだけど、そして、私はなんてうっかりものなんだろうと悲しくなってしまうのだけど、少年と話しているうちに、私ははっと気がついたことがあったのです。
 彼はアメリカ人ではないのだ、もしかしたら、彼のおじいちゃんとかが、アメリカのたぶん兵隊さんだったのではないかということが頭の中に浮かんできたのです。
 彼にあったそのとき、私は戦争のことをいろいろと聞いたり感じたりしてきたあとでした。戦争には、たくさんの虐待があり、それから、女性に対する乱暴もつきものだと本にも書かれてありました。私は本当におろかです、乱暴をするという意味をそのとき、漠然としかわかっていなかった・・・あとで五木さんの本などの中にレイプという言葉があって、今はそのことに気がついているけれど、でも、それまでは、私は女性や子どもたちは力が弱いから、だから叩かれたり、突き飛ばされたりしてしまったのだとそんなふうに思いこんでしまっていたのです。
 もし、目の前の少年が、ベトナムの女性とアメリカの男性の幸せな結婚が過去にあって、生まれたのであれば、私が今、書くことは本当に失礼なことです。だから、書くことをとても迷いました。 
 そのとき、私は、ベトナムには、敵国と言われていたアメリカの兵隊さんとのあいだに生まれた子供たちがたくさんいたのだろうかということに思い至っていました。そして、生まれた子供たちや、それから、お母さんは、大きくなっていく間に、きっとたくさんのつらい悲しい思いをされたのじゃないかと思ったのです。
 私たちは悲しいことだけど、いつも差別というものをしてしまいます。ただはっきりとした理由がなくても、「他の人と違う」というようなことで、差別をします。
 アメリカ人の血をひいた子どもさんは、ベトナムでは周りの人と違う容姿をしていて、それだけでなく、ベトナムにとっては、当時、アメリカは、枯葉剤をまいた憎い相手だったから、そのために、さらに、とても悲しい思いをしたのじゃないかなということは予測できました。
 目の前の男の子は、とてもきれいな目をしていました。
「お花の売り上げは一日に5ドルくらい・・・もっともっと売れることもあるよ」少年は誇らしげでした。ニュンさんは盲学校の先生のお給料が、月に7千円くらいだと教えてくれました。もし、毎日、5ドルの売り上げがあったら、少年の売り上げはニュンさんの盲学校の売り上げをはるかに超えます。
 でも、少年は学校へは行きたいけれど行っていないのだと教えてくれました。
「どうして行かないの?」
「ほら、あそこにいるのが妹だよ」妹は、まだ小さいのに花を売っているのだと教えてくれました。小さい妹でさえ働いているのだから僕はがんばらないといけない・・ふたりで働いても生活は大変なんだと。
 「子どもたちの収入が多くなれば、なるほど、大人はなお働かなくなるから、子どもたちの収入が高くなると、子どもたちはいっそうつらくなるんですよ」と岩澤さんがカンボジアでおしえてくれたなあと思い出しました。彼のおうちはどうなのか、心配できいてみたかったけれど、聞けませんでした。
 お金は、お父さんやお母さんにあげるんだと男の子は言いました。
私はベトナムへ行く前にカンボジアに行ったよ、とか、今日アオザイをつくったんだよとか、それから、私はベトナムが好きとか、いろんなことを話しました。
 夜がふけていっても、ベトナムの街は元気でした。


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