カンボジア・ベトナム日記


17

  前の16章では、ツーズー病院でのことを書いたのですが、その中で、あゆみちゃんやともちゃんのメールや、えみちゃんのお話を載せさせてもらいました。私はこのカンボジア・ベトナム日記を、ホームページに載せながら、書き続けているわけで、彼女たちも、それから一緒に旅をした仲間の人も、この日記を読んでくれています。
 もう旅を終えて一ヶ月近くになろうとしているのだけど、カンボジア・ベトナム日記をホームページにアップするごとに、仲間の人がメールや電話で、感想や、それから、そのときに体験したことなどをまた話してくれたりもしました。とくに、あゆみちゃんやともちゃんや藤尾さん(ともちゃんのお母さん)とは何度もやりとりをすることができました。その中で、私はもう一度自分の気持ちを見つめ直すことができたし、あゆみちゃんやともちゃんも、私の書いたことを読んで、さらに、いろんなことを感じたり、考えたりして、またメールをくれました。
 それは今までにないできごとでした。それは、私の気持ちが、私の心の中だけにとどまらないような不思議な感覚なのです。テレビで、カンボジアやアフガンの戦争のことなどが放映されると、藤尾さんは必ず、電話をくださいました。「今、見たら?」って。でも私が家から出ていてビデオを見るのがむずかしかったりすると、そんなときは藤尾さんや、渡辺さんがビデオをとっておいてくれて、送ってくれました。ともちゃんが、ホームページを読んで、「旅のことを思い出して、もう一度旅してる感じがする。あのとき、こんなこと見たんよ」と話してくれたことは、同じ場所にいながらも、私が気がつかなかったり、離れた場所にいて、経験できなかったりしたことでした。あゆみちゃんが感じたことが、自分の気持ちととてもよく似ていて、あゆみちゃんからメールをもらった後は、そのことは私が感じたことだったのか、あゆみちゃんだったのかどちらだったのだろうと思うほどだったりもしました。
 流れるように、私の心の中に、仲間の気持ちが入ってきて、まるでもう一度、一緒に旅をしているような・・・そして今度は一足一足、確かめながら、踏みしめながら旅をしているような不思議な感覚にとらわれているのです。

 ツーズー病院を後にして、私たちは郊外の小学校へ向かいました。その学校は、ニュンざんが時々訪れる学校なのだそうです。
「今から行く学校は、女の先生が、ボランティアで子どもたちを集めて教えている学校です。教室は一つで、家の建物の一部を使っています。1年生から5年生までの子どもたちが一緒の教室にいます。(ベトナムの小学校は5年生までなのです)」
 ニュンさんのお話を聞いて、私はとても不思議でした。共産主義のベトナムでは、子どもたちはみんな平等に通えるのだと思っていたのです。
「どうしてボランティアの先生?」
「ベトナムはまだ貧しくて、ホーチミンから離れた土地ではまだまだなんです。それで、ボランティアで先生をしてもらっている人に頼っているんです。でも教科書もノートも十分にないから、どこかで使ったのをもらって使っているんですよ」
 ニュンさんはその日、少し大きな箱に入った荷物を持ってきていました。その荷物の中身は、雑誌や本だということでした。
「少しでも活字の書いてあるものを、学校では必要としているから、時々持っていくの。子どもたちは読む物をあんまり持っていないから喜ぶの」
「ボランティアの先生がいないとどうなるの?」
 ニュンさんは首を振りました。そんなときは子どもたちは、学校には通えないんだよという意味だったのだと思います。
 その学校はホーチミンからずいぶんと離れたところにありました。バスの中で、ニュンさんと私は、いろいろなことをお話ししました。
「山元先生、きょうだいいますか?」とニュンさんが聞いてくれて、私は双子なのと話すと、ニュンさんは、「私は弟と二人」と言いました。それからニュンさんはいろいろな話をしてくれました。
 弟さんと二人で、ホーチミン市に住んでいて、そこから職場に通っているということ、クチにはおかあさんと、おじいちゃんが住んでいること、おじいちゃんは病気になって、少しよくなってきたけれど、でもベットで一日をすごしていること、お母さんも戦争で手に怪我をしたこと、戦争で怪我をしたら、少しだけ国からお金がもらえるということ、ニュンさんは都会より、クチの暮らしが好きだから、毎週、1時間半離れているクチに帰ると言うこと、それから将来のことを考えると、たとえば結婚したら静かなクチに住みたいけれど、盲学校の仕事もとても好きだから迷っているということ・・・もっともっといろんなことを話してくれました。
「ねえ、ニュンさん、お母さんに私なんてご挨拶しようかな。ニュンさんは大好きな私のお友達ですって言ってもいい?」
「もちろんです。私たち、もう親友だから」
ニュンさんはそんなふうにうれしいことを言ってくれるのです。
 お母さんが果物を用意して待っていてくださるということなのに、私、なんにもおみやげを持っていなくて悲しいなと思って、そうだと思い出した物がありました。それは日本から持ってきた、お祝儀袋です。どうしてそんなものを持ってきたのかと思われるかもしれないけれど、水引で作られた、桜の花や鶴や亀が素敵で、そして千代紙も使われていて、きれいだから、子どもたちのおみやげの中にいれておいたのでした。小林さんに相談したら、「もちろん、数はあるから大丈夫」って言ってくださったので、ニュンさんに少しずつ違うお祝儀袋を3つ渡しました。
「これ、お母さんに渡してね。日本のお祝儀袋なの。おめでたいときにお金をつつんでお祝いよと言ってプレゼントするの。今は中はからっぽだけど、この袋、きれいでしょう?」
 その3つの中に一つだけ、「ご結婚」という文字が書かれた物がありました。
「これ、結婚って書いてありますね。だったらこれは山元先生に取っておいてもらって、私が結婚するときに使ってもらおうかな。山元先生に結婚式に来てもらえるかな」
 ああ、なんてうれしいのでしょう。
「うん、来るよ。きっと来るよ。私、何でも作るのが好きなの。水引で鶴とか亀とか作るのも得意なの。だから、ニュンさんの結婚の時は、お祝儀袋は自分で作って、それを持ってベトナムへくるよ」
「わあ、約束ですよ」
 私はまたベトナムへ来れる、そして大好きなニュンさんに会える、結婚のお祝いができると思ったらとってもうれしくなりました。
「桝蔵先生と一緒に来るよ」と言うと、ニュンさんは桝蔵先生は私の日本のお母さんだと言いました。
「桝蔵先生はいろんなことを教えてくれましたよ。ごみの分別・・・ベトナムでは何でも一緒に捨てるから、最初一緒にすててたら、缶と、ナイロンと、紙とみんな分けて出すことも教えてくれました。それから家であまっている布団も使いなさいと言って、私にくれましたよ。携帯を持ちなさいと桝蔵先生に言われて、お金がかかるから、いらないと言うと、『私が、ニュンさんのことを心配だからもちなさい』と言われました。それから、夜どこへ出かけるとか、何時に帰るとか、そんなこともちゃんと桝蔵先生に言わないと、桝蔵先生はとても心配症だから・・」聞いてみると、本当に、桝蔵先生は、日本のお母さんですね。そしてニュンさんがどんなに桝蔵先生が好きかということが、すごくよくわかるのでした。私も、桝蔵先生が大好き。 
 桝蔵先生のお話をしていると、私たちはうれしくなって、楽しくなって、自然と顔がほころんでくるのでした。
 バスは、市街地をすぎ、田んぼや畑の景色がひろがるところへすすみ、そのうちに、舗装していない小さい道路をすすんでいきました。葦の葉がしげる川沿いの小さい道の途中に、私たちが行こうとしている学校がありました。
 薄暗いトタンでできた建物がたっていて、そこは小さなお店のようでした。といっても、お菓子や、いくつかの品物が真ん中におかれた、それほど大きくない机に、ほんの少し並んでいるだけでした。お店の入り口から入って、そのとなりの一つのお部屋が学校なのでした。
 お教室には、うんと昔、私も小さいときに、少しだけ覚えがある、木でできた長机がおいてありました。その机が、黒板から7,80センチ離れたところから、いっぱいいっぱいに教室に並んでいました。いろいろなところから、この机も集められてきたのでしょうか?大きさもまちまちのその机には、ニュンさんが説明してくれたとおり、1年生から5年生までの子どもたちが、キラキラした目で私たちを見つめてくれて座っていました。
 前にある、黒板は、ベニアに黒い塗料を塗ってあって、その黒板が、べこべこに波打ち、ひび割れていました。
 前に桝蔵先生が、どんなものでもいいから教材があったら、持っていきたいから、あまっていたら教えてねと、もう何年も前に声をかけてくださったことを思い出しました。
 私も、べこべこの黒板、上の板がふくれていたり傷がついている机、使い古しの教科書、とても短い鉛筆・・・そんなものを見たときに、もし、今、日本で余っている物や、少し古くなっても十分つかえるものを、簡単にベトナムやカンボジアにもってこれるなら、どんなにうれしのにと思ったのでした。
 ニュンさんが紹介してくれた、その学校の女の先生は、とてもとても優しい雰囲気を持っている方でした。まだ小さい腕白そうな男の子も、内気そうに下から恥ずかしそうに、私たちの顔をのぞいている女の子も、きっと先生が大好きに違いないと、一目お会いしてそう思いました。
 ニュンさんのお世話で、私たちはそこで、いろんな遊びを子どもたちとさせていただくことになっていました。
 日本からたくさん日本のおもちゃを持ってきていました。私が通う学校の近くの100円ショップには100円とは思えないようなりっぱな、ケンダマや、だるま落としや、和紙の折り紙などがたくさんそろっていました。それから、藤尾さんやともちゃんが、50本も、あやとりを編んで持ってきてくれていたのです。
 ここでも、諸河さんがゆかたを来てくださっていたので、最初に、諸河さんが踊ってくださいました。カセットテープに、桜やドラえもん音頭などを吹き込んできておられて、「デッキがあるかしら?」ってニュンさんに聞いてもらっていましたが、この学校にはカセットデッキはないということでした。カセットデッキだけでなく、テレビも、それから、フィルムを映すものなども、ないようでした。
 お隣の小さいお店にはドラえもんの絵がかかれたお菓子が売られていたから、ドラえもんのテレビはおうちで見てるのかな?そう思ってニュンさんに尋ねると、テレビがない家が多いとのことでした、それでもニュンさんが「ドラえもんの漫画をみたことがある人、手をあげて」と聞いてくれたら、半分くらいの人は見たことがあって、たぶん、どこかでたまに映画大会のようなものが、行われて、それを見に行ったことがあるのかもしれないとのことでした。
 子どもたちは諸河さんの手の振りのまねをしたり、口をぽっかりあけてみていたり、興味津々な様子なのがよくわかりました。ケンダマは、奥泉さんとともちゃんがとても上手でした。「やってみたい人、手を挙げて!」というニュンさんの声かけで出てきた男の子は、何度か挑戦して、すぐに玉をのせることができていました。すごい!!とみんなの拍手をうけて、とてもうれしそうでした。それから、だるま落とし、コマなども、見本を見せて、それを何人かが前に出て挑戦していました。そのあと、あやとりのひもで、「うでぬき」という簡単な手品をみんなと一緒に練習しました。それから、日本についてどんなことを知ってる?と質問したりもしました。
「桜」「着物」「さむらい」そして多かったのはやっぱり、「ホンダ」でした。
 女の子たちに、「大きくなったら何になりたいの?」と尋ねました。私が尋ねた女の子は3人とも「学校の先生」と言いました。教えてくださっている先生が、とても優しいから、そう思うのかな・・と私は深くは考えませんでした。
 けれど、日本へ帰ってから、放送されたテレビのビデオを見て、そのときのことを思い出して、涙がとまらなくなりました。そのビデオは、藤尾さんが、録画しておくってくれたものなのですが、24時間テレビの中で、放映されたもので、藤原紀香さんが、アフガニスタンへ行ったときの映像でした。
 紀香さんは、日本にすごしているアフガニスタンの女性(テレビの中で通訳をしておられました)とともに、アフガニスタンへ訪れていました。地雷や爆弾で、穴だらけになった建物のある場所に行ったり、病院で義足のトレーニングをしているところへ行ったり、それから学校へ行って子どもたちとすごしている様子などが映っていました。
 紀香さんも、子どもたちに「何になりたいの?」と聞いていました。そしたらやっぱり、同じように子どもたちは「学校の先生」と答えていて、「どうして?」とまた紀香さんが聞くと、子どもたちは「国をよくしたいから」と答えていました。それから「アフガニスタン好き?」という質問にも「アフガニスタンが大好き」と子どもたちが言うのです。紀香さんも、それから通訳をされていた方も泣いていました。私もこみあげてくるものをとめることができませんでした。
 だって、ビデオの最初の方で、とっても小さい男の子が、地雷で片足を失って、つかまり棒につかまって、義足で歩く練習をしていたり、やっぱり爆弾で、ひざが曲がらなくなったり、つま先立ちでしか歩けなくなった女の子がいたり、道路のあちこちに、地雷がうまっている印の赤い石がいっぱい置かれていたりするのを見たら、子どもたちは、こんなに危ない国を、できることなら逃げ出したいのじゃないかなとか、目の前がまっくらになって、前を向いて生きていくことがむずかしいのじゃないかと思ってしまっていたのです。でも、子どもたちは、そんなことは少しもなくて、自分の国が大好きだと、そしてもっと国をよくしたいと言ったのです。本当になんて、けなげなんだろうと思いました。
 ともちゃんも、このビデオを見て、こんなメールをくれました。
「昨日、24時間テレビで藤原紀香がアフガニスタンに行くって言うのがあって、見ましたか?アフガニスタンにはまだまだ地雷がいっぱいあって、建物も爆弾が落ちたままやっり、焼かれたままになってたりしてた。子供たちもそれと、女の人も今やっと教育が受けれる状態やった。カンボジアの数年前の状態なんかな?って思った。私より全然小さい子が、目の前で人が撃たれたりしているのを見てたり、地雷で手や足がなくなったりしてた。それでも子どもたちは先生になりたい子がおおくて9割くらい。その理由は国を良くしたいからやなんて。すごいなーっておもった。アフガニスタンもがんばったらそれだけ夢がかなう国なんやって思った。それから、通訳として一緒にいってた、日本に住んでる、アフガニスタン人の人が、子供たちにここ(アフガニスタン)好き?って聞いたら、大好き。って答えたらしい。
 10分ぐらいしかなかったけど、私はやっぱり涙がポロポロ出てきて泣いてしっまた。でも自分の国のことが好きって思う人がいっぱいいる国はきっとステキな国にそだつんやろなーっておもった」
 本当ですね、私はともちゃんの「自分の国のことが好きって思う人がいっぱいいる国はきっとステキな国にそだつんやろなー」というところを読んで、本当にそうだなあと思いました。
 ベトナムの女の子も、同じような思いで、先生になりたいと言ったのかどうかはわかりません。でも、きらきらした笑顔で、「先生になりたい」と言っていた子どもたちの顔を思い出すと、きっと子どもたちも、ベトナムが好きで、自分の未来を大切に思っているに違いないと思ったのでした。
 ニュンさんは、教員という仕事は、ベトナムの仕事の中でも、あまりお金をもらえない仕事だと教えてくれました。「いつかまた日本にニュンさんが来られたときに、私の家にも来てね」とお話したら、「私は日本へ行くことは簡単じゃないです」とニュンさんが残念そうに言いました。月給を一年分ためても、日本の飛行機代にもならないからと。
「学校の先生のお給料はとても低いです。その中でも養護学校の教員はさらに、低いです。月給は7千円くらい。それだけじゃ暮らしていけないから、国は、教員にアルバイトをすることを積極的にすすめています。私は日本語学校の先生のアルバイトしています。でも、私は今の仕事がとても気に入っているよ。盲学校で子どもたちといるのは楽しくてやりがいがあるから」
 そのお話を聞いて、せつない気持ちがしました。子どもたちのために一生懸命である、この小学校の先生は無給だということだし、ニュンさんのお給料は他のお仕事の方よりは、ずいぶん少ないということです。いくらお給料が少なくても、子どもたちが好きだからというだけでは暮らしていけませんもの。
 子どもたちが安心して勉強することができるには、施設も大切だけれど、教員の生活も安定していないと難しいんじゃないかと思ったのでした。
 学校にはやせた猫と犬が2匹いました。その猫と犬たちが、ぎゅうぎゅうつめの教室の机の下、子どもたちの足の間を自由に歩き回っていました。
 私たちが、にぎやかに、ゲームをしたり、遊んだりしていたときに、途中から、あゆみちゃんとともちゃんは教室の外にいました。
 なぜかというと、私たちが、子どもたちととてもにぎやかに遊んでいたときに、学校の外にも子どもたちが来ていて、中で何をしてるのかなと、のぞいていたのに気がついたからです。それで、二人は、どうして、その子どもたちが中にはいらないんだろう?どうしたのかな?と思って、ゴアンさんに聞いてもらったのだそうです。
 そして、子どもたちは学校に通っていないのだということがわかったのだそうです。
「学校は無料でも、子どもたちも大切な家の働き手だから、学校に来れない子どももたくさんいるんだよ」とゴアンさんは教えてくれたのだそうです。
「『中へ入って一緒にあそぼー』と誘ったけど、みんな首を振って、誰も中へはいらへんねん」と二人が言っていました。
 子どもたちは本当は、学校に行きたいのじゃないかと思うのです。けれど、それがかなわない・・・「なんといっても、国が貧乏なんです」ニュンさんが言いました。
 前に大ちゃんのこの詩を紹介させて頂いたのですけれど、もう一度書きます。
 
食べものがなくて
割りばしのように
なった足の赤ちゃんが
今もう死んでしまう
僕はこんなに
大きいのにや。

 同じ一つ地球上で、どこかが、とても足りなくて、そしてどこかの国が余裕がある。
逆にあまりすぎて困っていたりもする・・・日本だって、ひとりひとりのおうちは、それほどお金持ちで余裕があるというわけではないけれど、でも、少しでも活字が書かれたものが必要だからと、学校へ本を持っていくニュンさんのように、ボランティアで学校を教えている女の先生のように、私も何かできたらいいのにって思いました。大ちゃんが、ああ、僕はこんなに大きいのにやと思うように、私の机の中には今も、えんぴつがごろごろしていたり、消しゴムもいっぱいあったりします。何かできたらいいのになあと思いました。、

小学校の前でみんなと写真をとったときも、ゴアンさんは、学校の外に来ていた子どもたちとお話をしていたのが、私にも見えました。私たちには少し素っ気なく見えるゴアンさんはここでも、子どもたちにとても優しい顔で笑っていたのが、印象的でした。


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