カンボジア・ベトナム日記


16

 ツーズー病院までは30分ほどだったでしょうか。通りに面した大きな鉄の門の中に、その病院はありました。
「子供たちがいる建物は後の門からが近いですから、そこへまわりますね」
ニュンさんの説明のあと、バスは、コンクリートの上に鉄の門がついている塀につたって進んでいきました。途中、コンクリートでできた箱のような建物に、椅子が一歩方向を向いて並んでいて、そこに女の人がいっぱい座っているのが見えました。塀の外にあったので、バス停かなと思ったけれど、どこか違う気がしました。
「ニュンさん、あの方たちは何をしているの?」
「待っていますよ。病院の診察の順番です」
「待合室?」「そうです」
 ツーズー病院は、女の人ばかり待っていたのは、ツーズー病院が産婦人科だからなのでした。 産婦人科なのに、どうして子供たちがいるかというと、最初は産婦人科だけだったけれど、枯葉剤の影響で、たくさんの障害を持った子供さんが生まれ、そのお子さんに医療が必要だったり、それから、とても悲しいことだけど、手や足がなかったり、体がくっついている子供たちが生まれると、おかあさんは赤ちゃんを病院に残したまま、姿を消してしまうことが多くて、そのまま、病院で大きくなった子供たちが暮らしているのだということでした。
 ニュンさんは、バスの遠くの景色を眺めるようにして言いました。
「日本に行って、びっくりしたことのひとつは、障害を持っている子供たちを隠していないことですね。お母さんもお父さんも子どもたちを可愛がって、街へ一緒にお買い物に出かけたりするでしょう。ベトナムはそうじゃない。それが恥ずかしいし、悲しいです」
「ニュンさん、日本でもついこのあいだまでそうだったんです。障害を持った子供さんが生まれると、お母さんは自分のせいだと言って自分を責めたり、親戚や、お姑さんや、時には、だんなさんまでもが、そのことを責めたりした時代があったの。20年くらい前まではそうだったの」
「ベトナムは遅れています。ベトナムも社会が、障害を持っている子供や親をまだ差別します。それから、ベトナムがとても貧しいから、障害を持っている子どもを家で育てることが簡単じゃないのです。いろんな理由があるにしても、それでも、親から捨てられた子どもたちは心に大きな傷ができます」
 ニュンさんは悲しそうでした。ニュンさんは、おかあさんやそしてお父さんのつらさや、そして悲しみを知りながらも、それでも、子どもたちの悲しみを思うのだと思いました。誰が、自分の子どもを病院に置き去りにしたいと思うでしょう。子どもたちが障害を持ったのは、けっして自分のせいではないのに、周りから責められて、自分を責めて生きていくのは本当につらいことだと思います。「でも、きっとベトナムも変わっていきますよ」ニュンさんは顔をあげて言いました。ニュンさんは、ベトナムをとても愛しているんだなと思いました。
 病院の門のところに、番をしている人たちの小さい建物があって、ニュンさんは、そこで私たちの訪問の理由などを話してくれました。その前を通って、しばらく行ったところに、子どもたちが住む病棟の建物がありました。その入り口の戸口の前に、バイクが一台とめてありました。バイク置き場でもないのに、そこにバイクが置かれていたのには理由があったのです。
「ドクのバイクです。よく街でドクをみかけますよ」
ニュンさんが指していたバイクは、座席の片側に、Yの形の鉄の棒がくっついていました。あとで聞いたところによると、ドクちゃんは(もう20歳のドクちゃん、ドクさんといったほうがぴったりくるのかな?)他の人の何倍も一生懸命自転車の練習をして、自転車に乗れるようになったのだけど、もっともっといろんなところへ出かけたいからバイクがほしいなというドクちゃんの気持ちを知って、ベトちゃん・ドクちゃんの発達を願う会がドクちゃんにバイクをプレゼントしたということでした。
 階段をあがっていくと、タン先生とドクちゃんが、私たちを迎えてくれました。私がテレビなどで知っているドクちゃんは、まだ中学生くらいでした。今、目の前にいるドクちゃんは、ずいぶん大きくなっていたから驚きました。
 ドクちゃんは、学校をやめたあと、コンピューターの専門学校へ通い、今は病院内で、パソコンの仕事をしたり、テレビやパソコンの修理の仕事をしている、社会人だということでした。ただ、恥ずかしそうに、にっこり笑うドクちゃんは、やっぱり昔のおもかげを残したままのようにも思えました。
 タン先生は、この病棟で院長さんのようなお仕事をしている女の先生です。白衣を着て、大股で歩き、握手のときも力強く、ぎゅっと私の手をにぎって、やさしく笑ってくださるタン先生を見て、タン先生のようなドクターになりたいと思っている学生さんが多いというお話をなるほどなあと思いました。
 桝蔵先生からお預かりした紹介状を渡すと、
「チエコから聞いていますよ」とベトナム語でおっしゃって、ニュンさんが、すかさず、通訳をしてくれました。タン先生は、日本との交流の様子や、枯葉剤の話、それからこの病院に入っている子どもたちの話をしてくれました。
 日本からもいろいろな援助があるということだったけれど、今、一番必要としているのは、医療器具や薬だということでした。桝蔵先生からあずかってきた箱の中身は、包帯やカット絆創膏やガーゼのような、家庭にでもあるものばかりだと聞いていました。ベトナムの一番の大きな都市である、ホーチミンですら、絆創膏までもがないのなら、皮膚薬や風邪薬や、腹痛止めなどのどこにでもあるようなお薬や、医療器具も、おそらくぜんぜん足りないのではないでしょうか?
 お話のあと、タン先生は私たちを子どもたちのいる階へ案内してくださいました。
 私は病院での子どもたちとの関わりを、自分の目だけでなく、えみちゃんや、あゆみちゃんや、ともちゃんの目を通してもお話させていただこうと思います。えみちゃんと電話で話をしたときも、この病院のお話になったし、ともちゃんやあゆみちゃんも、病院のことで、メールをくれました。
 話したり、メールを交換しながら、私たちが病院に行くことができたことは本当に自分たちにとって大切で、かけがえのないことだったし感謝しないといけないなあと思っています。
 子どもたちの階へあがると、テラスのような廊下に、たくさんの子どもたちが出迎えてくれました。それから、歩いてくることが難しくて、ベットに入っている子どもたちはお部屋の中でベットに入ったまま、私たちをむかえてくれました。どの子も、戦争の影響で障害を持ったのだと思われている子どもたちばかりです。今も、枯葉剤に含まれているダイオキシンの影響は続いているようで、高い確率で、障害を持っている子供たちは生まれ続けているそうです。
 まだ生まれて何ヶ月かの赤ちゃんがベットの中に横になっていました。それから、2,3歳くらいの子どもさんも何人もいました。手の指がないお子さん、足がないお子さん、それから水頭症のお子さんもいました。日本では水頭症だとわかったら、脳からお腹へ水を出すバイパスをつける手術を、すぐに行うので、それほど頭が大きくなることは少ないです。けれど、ベトナムではその手術がむずかしかったのでしょうか?水で頭とても大きくなって、座ることも大変そうな子どもさんもいました。二重体児と呼ばれる、体のどこかがくっついている双子の子どもさんも、今も生まれ続けているそうです。
 私たちが子どもたちと出会ったそのときの様子を、あゆみちゃんはこう書いています。
「TUDU病院で院長先生とお話したあと、子供たちのいる階に行った時、自分で歩くことのできる子供さん、体調のいい子供さんは廊下に出てきて私たちを出迎えてくれましたが、水頭症のお子さんや体調が優れないお子さん、重度の障害をもったお子さんはベッドに寝たきりでした。私はなかなか自分から部屋の中に踏み込んでベッドに寝ている子供たちと向かい合うことができませんでした。そんな時、小学校の先生の藤本さんは一人一人のベッドを覗き込んで頭を撫ぜ、「ほら、笑ったよ!」とやさしい笑顔を子どもたちに向けている姿を見て、母は心から尊敬した☆と言っていました。私は直接そんな藤本さんを見ていませんが、母から話を聞いて、私もまた藤本さんを心から尊敬しました。」
 私は藤本さんがそうしていらしたことには気がつかなかったのですが、引田さんが、小さい赤ちゃんのお部屋に入って、赤ちゃん一人一人の手をとって、笑いかけている様子を見かけました。引田さんは、旅の途中で、
「私は、子どもたちとふれあう仕事をしていないから、ちゃんと子どもたちとふれ合えるかどうか、すごく心配なんだけど、でも楽しみでもあるの」と言っていました。旅行中、引田さんと一緒によくいたえみちゃんはそんな引田さんの様子を見て、
「引田さん、すごいなあと思ったよ。私は最初、子どもたちとどう話しかけたらいいか、どう一緒にいたらいいかわからなくて、ただ、お母さんが子どもたちにおみやげを分けているのを手伝いをしていたの。引田さんがそのときに、もう、子どもたちと仲良くなっているのを見て、引田さんみたいに子どもたちと遊べたらいいなあと思って、でも、なかなかできなかったの」と言っていました。でもえみちゃんもまた、大好きな友達と巡り会えていました。その様子もあゆみちゃんはこんなふうに感じていました。
「えみちゃんは物静かだけどきっといろんな思いが心の中にあってやさしいやさしい人だと思います。病院でみんながお土産をあげているとき、廊下側でみんなに背中を向けられて『ウーウー』と声をあげている男の子がいました。よく見るとその子は椅子に手首をくくりつけられていました。私はなんと声をかけていいのか分かりませんでした。お母さんが「かゆいの?」と言って男の子と目線をあわすようにしてその子の腕を優しくさすりました。私はそれを見て本当にお母さんの子供でよかったと思いました。横にいたえみちゃんもずっと男の子の横に座ってお土産を見せたり話し掛けたりしていました。男の子は細い目をもっと細くして嬉しそうに笑っていました:)私もあんなふうに接することができたらいいなぁ☆と思いました。あの男の子はきっといつまでもえみちゃんのことを忘れないと思います」
 その男の子は枯葉剤の影響なのか、それともまた別に原因があるのかわからないのですが、全身の皮膚が硬くなって、そして、黒くひびわれていました。えみちゃんは
「正直、最初『わっ』って思ったの。それで、どうしたんだろうと思って見たら、手がベットに結びつけれていたの。びっくりして、『どうして手、結ばれてるの』って山もっちゃんに聞いたら『きっとかゆいんだと思う。かくと悪くなっちゃうんだと思う』って教えてくれたよね。その男の子は、ちゃんとおみやげをもらっていたんだけど、でも他のおみやげの方がよくなって、それと変えて欲しいって私の目を見て、伝えたかったのだと思うの。別のおみやげをを渡したら、むずばっている手で一生懸命ぎゅって持って、すごくうれしそうだったの。いろいろお話したら、ウーウーって返事をしてくれて、ずっとそばにいたら、その子が、だんだん可愛くて可愛くてしかたがなくなって、帰りたくない。離れたくない、ずっとここにいたいって思ったの」
と話してくれました。
 日本舞踊の先生の諸河さんはこの旅行に、浴衣を持ってきていました。そして、ツーズー病院のときも、浴衣姿でした。それだけでもみんな大喜びだったのだけど、諸河さんは、持っていったおみやげの中に入っていたひょっとこのお面を使って、子どもたちの前で踊ってくれました。ベットに横になっていた男の子が、諸河さんが、ひょっとこのお面からヒョイと顔を出すたびに、おもしろくてたまらないというふうに、何度も何度もずっと笑っていたのです。その笑顔を見たときに涙が出そうになりました。諸河さんの一生懸命の姿にも涙がでそうになりました。諸河さんも、本当にうれしそうにしていました。
 諸河さんは、そのあと、小学校でも、孤児院でもそれから、養護学校でも、いつも浴衣で踊ってくださいました。子どもたちはそのたびに大喜びでした。目をまんまるくして、ずっと見入っていたり、そのうち笑い出したり、それから一緒に踊り出したり……あゆみちゃんはここでも、こんな感想を持っています。
「諸河さんが部屋に入ってお面をかぶり、子供たちに踊って見せていた様子は本当に素晴らしかったです。私もダンスをやっていますが、言葉や国、宗教を問わずつながれることって本当に素敵だと思います。そして、踊っている先生もとっても生き生きしていて魅力的でした」
 私も、仲良くなるときに、言葉なんて、必要ないんだなあと思いました。もちろん言葉があったら、もっとわかりあえるかもしれないけれど、でもそれに頼らなくても、仲良くなりたいって思ったら、きっと仲良くなれるんだって思いました。
 学校などへ行った後に、観光へも行ったので、諸河さんは、バスの中で、ぱっと浴衣に着替えてくださいました。それから髪の毛も上に結い上げられるのです。
「諸河さん、歌舞伎の七変化みたい。すごく着替えるのが早いからびっくり。。でも大変でしょう?」とおたずねすると、「ぜんぜん。簡単だから平気よ」と諸河さんは言いました。でも、子どもたちの笑顔を見たい、子どもたちに喜んでほしいって諸河さんが思わなかったら、けっしてできないことだと思うのです。
 奥泉さんも、小さい子どもさんの話をニコニコしながら、聞いていました。男の子はベトナム語で話していて、奥泉さんは「あらそう」って日本語でお返事していたけれど、お互いにお話が通じ合っているというのが、よくわかりました。奥泉さんはまるでお孫さんを見ているときのような、とてもとても優しい顔で、子どもたちと一緒におられたのが、印象的でした。
 ともちゃんは、こんなふうに書いてくれました。
「初めは他の人と一緒にみんなにおみやげ配ってて、かっこさんとか、お母さんがベトちゃんとドクちゃんの部屋に入って、ベトちゃんに話しかけたりしてるのに気づいて、私も部屋に入った。ドクちゃんは時々テレビに出てたりするから、どんな子か知っていたけれど、ベトちゃんは寝たきりになってるってことしか知らんくてって、どうしてるんやろって思ってた。実際会ってみて、私が来たってわかるんかなあ?って思ったけど、からだ触ったらニコニコしたり、声出したりするから、わかってるんやーって思ってうれしかった。からだがくっついて生まれてきた子は、からだを切り離す手術のときに、どちらかが犠牲になるって言うか、助からなかったりするっていうのを聞いた。ドクちゃんはベトちゃんのことをどう思っているのかなあって思った。それから、他の体がつながって生まれた子供で、どちらかが助からなくて、助かった子は生きていて、一番仲良しの友達を失い、親や医者は、一人救うために一人を救えないことをどうおもうのかなあ?っておもった。そのあと少しドクちゃんと話した。伝わるかなあと思って話しかけたら、日本語で返ってきてびっくりした。日本語を勉強してるって言ってた。外国の人が自分の国の言葉を勉強してるのって言うのはうれしいなって思う。奥泉さんがドクちゃんとの写真を撮ってくれたのだけど、かっこさんのホームページのカンボジア・ベトナム日記を読んでいたら、ベトちゃんドクちゃんは有名だから、それだけで会いに来る人もいるって言うのを読んで、ドクちゃんは私たちのこともそんなふうに思ってないかなあと心配になった。
 一緒に写真に入ってくれた、車いすの男の子二人ともしゃべった。両足と右手がなかった男の子は、私の言うことに首を縦に振ったり、横に振ったりして、ジェスチャーもまじえて話をした。もう一人の子は、私の言うことにウンウンと頷いているけど、その子は日本語全然わかっていないけど、右手のない子は『僕はほんのすこしわかる』って言ってた。そうやってニコニコしてキラキラの目を私に向けながら話してたのに、小林さんが送ってくれた写真にうつってる彼は、すごく難しい顔してて、なんでやろ?って思ったし、もっとしゃべりたかったなあって思った。ちいさい子が3人とか4にんとかあげたおみやげを持って、足下に来たから、少し遊んでたら、途中でおもちゃをとりあってけんかしたりしてた。写真やテレビで見たとき、涙が流れてしかたがなかったけれど、今回、自分の目で見て、子供らはみんな、外国のおもちゃがうれしくて、はしゃいで喜んで、おみやげをとりあってけんかして、全然、他の子たちとかわらんなあって思った。すごく後ろ向きやけど、だけど、枯葉剤がまかれなかったら、戦争がなかったら、平和やったらって考えて自分はなんやろ?って考えて、無力さに、涙がとならなくなった」
 本当にともちゃんもすごくたくさんのことを感じたんだなあ、素敵だなあと思いました。ともちゃんの文章の中で、二重体児のお子さんの分離手術のときに、どちらかのお子さんが犠牲になってしまうというようなことが書かれていたけれど、それは、少し誤解を生んでしまうかもしれません。ベトちゃん、ドクちゃんの分離手術のときも、ベトちゃんは脳炎のために、脳障害をおこしているということはあったけれど、二人の子どもたちが、同じように、体を分け合って、生きていくことができるようにと、何度も何度もくりかえし、話し合いがおこなわれたのだそうで、ただ、より元気なドクちゃんに性器の部分と、肛門を残すようにしたことはあるけれど、内臓なども、ふたりの子どもたちが同じように生きていけることを一番大切に考えていたということでした。
 だから他の子どもさんも、きっとどちらかが犠牲になるような手術の方針はとらないのだと思います。けれど、ともちゃんが言うように、結果的に、どちらかの子どもさんに、手術による障害が残ってしまったということはあるかもしれません。二人の体の一部だけがくっついている双子のお子さんは、割合簡単な手術ですむかもしれないけれど、内臓が共有していたり、手や足が共有していたり、脳が共有していたりするときは、本当にむずかしい手術になるのだと思います。そしてどちらかが、手術のために生きられなかったりしたとしたら、どんなに残された子どもさんは心を痛めることでしょう。
 ドクちゃんは、ベトちゃんが僕のために、たとえば性器の部分や肛門をくれたことをとても感謝していると言っているのだと話してくれました。ベトちゃんとドクチャンは同じ部屋に暮らしていて、ドクちゃんが、ベトちゃんのおむつを変えたり、食事をベトちゃんのお口に入れてあげているのだということでした。それから毎日、その日あったことや、外の世界を見れないベトちゃんが知らないことを、ベトちゃんに話しているのだということでした。
 それは、ドクちゃんのベトちゃんへの感謝の思いももちろんあるだろうし、それから、ベトちゃんのことをとても愛している、大切な兄弟だということもあるでしょう。私も双子なのですが、妹のことは、やはり、自分の体の一部のように思うこともあります。ベトちゃんとドクちゃんは長い間、体がくっついていたから、聞いたり見たり、感じたりすることも、一緒にしてきたから、ベトちゃんの心の痛みをドクちゃんも、より強く感じているのかもしれないと思ったのでした。
 私も一人の青年と仲良しになりました。その男の子は、ともちゃんが言っていた青年と同じ人だと思います。足が、ひざから下がありませんでした。それから手も地雷で足がなくなったんだと教えてくれました。学校に行ってると話してくれました。とても恥ずかしそうに静かに笑う青年でした。
  それからベトちゃんとも一緒に少しのあいだ遊ぶことができました。ベトちゃんは、小さいときは、ものすごく元気だったのだそうです。ベトちゃんとドクちゃんの体がまだ離ればなれになっていないころ、ベトちゃんの方がドクちゃんより力が強かったから、ベトちゃんの体の脇に、ドクちゃんの体がくっついて見えることがあったくらい、ベトちゃんは元気だったのだそうです。
 ところが6歳のあるとき、ベトちゃんが重い病気にかかって、意識不明になりました。すぐに日本へ渡って命をとりとめることができたのです。そのあと、前にも書かせて頂いたとおりの経過をたどって、分離手術にいたったわけです。
 脳炎にかかって以来、ベトちゃんは、ずっと意識のない状態が続いていたのだそうです。戦争博物館でもチーホさんが「ベトちゃんは意識がないままです」と話していました。けれど、ともちゃんが書いていたように、ベトちゃんは、見えていて、聞こえていて、そして、いろんなことを感じているんだなっていうことがよくわかりました。
 「手をさわるね」とか、「足を触れるね」と話しかけると、ベトちゃんも日本に長い間いたから、日本語がわかるのか、私がさわるのを受け入れてくれているように、感じました。握手をして「ブルンブルン」と言いながらベトちゃんの手を揺らすと、すごくいい笑顔で笑ってくれました。それから最初に、おみやげを目の前に、持っていって、それから、ベトちゃんに渡して、手でにぎってもらうと、ベトちゃんは「どんなおみやげかもっとよくみたい」というふうに、手の方を一生懸命見ようとしていました。
 お部屋につきそっておられた看護婦さんが、「抱いてみる?」と声をかけてくれました。私は、とってもうれしかったけれど、でも力がないから、むずかしいと思う言うと、ニュンさんが、「ベットの上に座って、ベトちゃんを抱いたらいいですよって看護婦さんが言ってますよ」
と教えてくれました。ベトちゃんの顔をのぞきこんで、抱っこしてもいいかな?と聞くと、またベトちゃんは笑ってくれました。「いいって言ってくれてるよ」半分は看護婦さんと、ニュンさんにそして半分は私自身に言いました。だって、ほっとしたのですもの。
 ベッドに腰掛けると、看護婦さんは、ベトちゃんを慣れている調子で抱き上げて、私に抱かせてくれました。ベトちゃんが緊張して、体を堅くしたのがわかりました。嫌だったのかな?ベトちゃん、大丈夫?いっそう心配になったけれど、そのあと、ベトちゃんが、体をやわらかくして、私に身をまかせてくれたので、急に涙が出そうになりました。ベトちゃんの笑顔はとっても可愛くて、大谷さんや小林さんが一緒の写真を撮ってくれたので、うれしかったです。
 ベトちゃんを抱きながら、去年まで一緒だった大好きなえいちゃんやしょうちゃんのことを思い出していました。みんな抱かれるのが大好きで、抱っこすると、笑ってくれたなあ、誰だって抱かれるのは好き。私だって、ベトちゃんと体をくっつけて、見つめ合っていると、とても幸せな気持ちがするもの。
 小林さんが、「もうそろそろ時間だね」と教えてくれました。私はまた泣きそうになったから、それをベトちゃんに見られたくなくて、こっそりとお別れを言いました。「またいつかね」って。
 ゴアンさんが、ドクちゃんとすごく仲良しなのはびっくりしました。私たちには、少し距離をおいて、話しているようなゴアンさんが、ドクちゃんや、他のみんなとは友達のようで、手をぽんとあわせあったり、笑いあったりしているのです。ゴアンさんはやさしい人なんだなと思いました。あとで、お聞きすると、日本人をよく案内するので、もう友達なのだと教えてくれました。
 みんなとのお別れはとてもとても淋しかったです。誰もがそう感じているようでした。私は、泣きそうだったし、お別れすることはしかたがないことだからと、ばたばたと階段を下りてきたけれど、でも、なかなか降りてこられない人たちもたくさんいました。
 あゆみちゃんはそのときのことをこんなふうに書いてくれました。
「TUDU病院を去らなくてはならない時間がきて、私のひざにいた男の子がピーンと身体を真っ直ぐに伸ばしました。抱っこして欲しいのかと思って抱き上げたら身体を左右にジタバタさせるので、私もバランスをくずしそうになって危なかったのでもう一度座りなおしました。傍にいたあいこさんが『大丈夫?』と心配してくださったので、『きっとアユミの抱き方がへたっぴだったんと思います。』次はあいこさんが抱きかかえるとやっぱりジタバタするのです。あとで考えてみるときっと私たちが帰ってしまうことが悲しくって身体いっぱいで私たちを引きとめようとしたんだと思います。日本に帰ってきてからお母さんが言っていました。『日本にはモノが溢れていて、カンボジアやベトナムに送ってあげたら子供たちはきっと喜ぶやろーなぁ☆けど、TUDU病院や孤児院で出逢った子供たちが一番喜ぶのはぎゅって抱きしめてあげることやと思う』って。私もほんまにそう思います。バスに乗り込むまでずっとえみちゃんは泣いていました。言葉では言わないけれどいろんな気持ちが心の中で溢れていたんだと思います」
 大切なことを知っているのは、年齢とかじゃないんですね。えみちゃんも、あゆみちゃんも、ともちゃんも(それからお話はうかがわなかったけれど、きっと引田さんだって)みんななんて素敵なんでしょう。本当に大切なことは何なんだろうと考えて、ときには涙したり、笑ったり、うなづいたりしながら、4人は旅の間に、たくさんのことに感動をし、そしてそれを私たちに、伝えてくれました。4人の感動は、また私たちの心をもゆさぶってくれるものだったと思います。この素敵さは、もともと4人が持っていたものかもしれないけれど、でも、旅がまた、4人をさらに大きくしてくれたのかもしれないとも思いました。そしてきっと私たちだって、旅をしたことで、なんと多くのことに気がつけたことだろうと思うのです。
 人は人と出会うことで、いろんなことに気がついていけるのですね。・・・大ちゃんが『生まれてきたのには理由がある』と言ったように、出会ったことにも、また大切な意味があるのかもしれません。
 あゆみちゃんはさらに、こんなことも言っています。
 「かっこさんが旅行中の講演会で話してくださったきいちゃんのお話の中で、『私は私だから好きになれる!私だから出会えた人たちがいる!』っておしゃってましたよね、(言葉は違うかもですけど、ニュアンス的にこんな感じ?)それはきっと自分でも、家族でもお医者さんでもきいちゃんの障害は、避けることのできなかった結果で、それがポジティブな意味で自分の“運命”なんだって受け入れられたからだと感じました。辛いことや悲しいことがあった時、人間はその結果を誰かのせいにしてしまいがちです。それを受け入れそこから道を開いていくことはとっても勇気のいることだと思います。TUDU病院で出会った子供たちは、私が想像していた以上に元気で明るく、ペタンッと私のひざに座った男の子は日本のちびっこと何の変わりもないように感じました。看護婦さんたちも愛情たっぷりに子供たちを見守り、きっとこの子達は幸せなんだろーなぁ☆と感じ、私も嬉しくなりました。 だけど、この子達が大きくなった時、きいちゃんのように自分自身を受け入れることができるでしょうか?大きくなって戦争のこと、枯葉剤のことを知り、チーホンさんのように前だけを見て歩んでいけるでしょうか? TUDU病院の子供たちや資料館で見た写真に写った子供たちは明らかに人間が手を加え、人間が作り出した子供たちです。 あの子供たちは全身で一生戦争と共に生き続けるのです」 
 本当にそうですね。私は、子どもたちと会ったときに、どうして、前に戦争博物館で子どもたちの写真をじっと見つめることができなかったのに、今、実際に子どもたちと出会ったときはそうじゃないかが、わかった気がしました。前にともちゃんも書いていたけれど、目の前の子どもたちは、とても可愛く、そして、とてもいとおしいかったです。日本の養護学校で出会った子どもたちのことを、いとおしく可愛いと思う気持ちと、きっと同じだと思います。ニュンさんは、子どもたちのほとんどが、言葉はとても悪いのですが、両親から『捨てられた』のだと教えてくれました。子どもたちが、障害を持っていること自身を気の毒とかかわいそうだと思うのは間違っているかもしれません。けれど、障害を持ったことで、おうちの人が、親戚や村から、村八分のように扱われたり、また両親から『捨てられて』しまったとしたら、それは、言葉にできないくらい悲しくつらいことです。その悲しみは本当ならさけることができるはずだった悲しみです。戦争がなければ、平和であれば、子どもたちの苦しみや悲しみはなかったはずなのです。子どもたちは、人間が作り出した悲しみや苦しみの中で生きている・・・あゆみちゃんが書いているように、子どもたちは、大きくなって、戦争のことをどんなふうに考えるでしょうか?
 とても勝手な考えかもしれないけれど、私は、子どもたちに、元気に前向きに生きていってほしいなあと思いました。ドクちゃんが、「障害を持っているから仕事ができないなんていいわけはしたくない。しっかり仕事をして認められたいんだ。そしていつかベトナムと日本の架け橋になる仕事もしたい」と言っていたように、目の前の、大好きになった子どもたちが、夢を持って生きていてほしいなあと思いました。そしてやっぱりベトナムが大好きで、ベトナムの子どもたちが大好きな桝蔵先生や、ベトちゃんドクちゃんの発達を願う会の方も、同じように、子どもたちが、夢を持って生きていってほしいと願っておられるのだろうと思いました。
 ともちゃんは旅の後で読んだ本を見て、
「枯葉剤のせいで障害を持って生まれた子やその家族のことが色々書いてありました。みんな、枯葉剤のことをアメリカのことを憎んでいました。人が人を憎むのってとっても悲しいと思うけど、枯葉剤のせいで、何回も流産したり無脳児や手足がなかったりする子供ができたり、自分自身も体がだるく、はきけがあったりだとしたらやっぱりしかたないかもしれない。でも、地上で戦っていたアメリカの人たちも枯葉剤をあび同じ症状に苦しんでいるそうです。私は、何のための戦争だったのだろうか?とはっきりとはやっぱり分からないと思いました」
 それから北山さんはツーズー病院へ行った後、小林さんに「愛ってなんでしょう?」と尋ねておられたということでした。北山さんは答えを見つけられたのでしょうか。


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