カンボジア・ベトナム日記


15

ベトナムでも朝、お散歩に出かけました。大谷さんも朝のベトナムの風景の中で人形を撮るつもりと、私たちは人形を持って出かけました。
 ホーチミンの街は朝が早いです。5時すぎから、もうたくさんの人が、動き出していました。
 昼間のベトナムの道はバイクと自転車でいっぱいです。それからバイクと比べれば少ないけれど、でも車もたくさん走っています。バイクと車は、あまり信号を守っていません。チーホさんが、前の日に
「ホーチミンで道を渡るときは、急がないでください。ゆっくりゆっくり渡れば、バイクの方がよけてくれます。みんなバイクの運転上手ですから。でも走って渡られると、予測できませんから、ひかれます。無事にベトナムから帰られますようにお祈りします」
なんて教えてくれました。でも、バイクも車も信号を守っていないみたいなので、慣れていない私たちは、なかなか渡るきっかけをつかめません。ベトナムの人は、車やバイクが来ていても、そちらを見ないでゆっくり渡り出します。そしたら、なるほど、バイクはよけていくのです。でもバイクは、まるで川の流れのように切れ目なく流れていくのです。事故にならない方が不思議だなあと思いました。
 ところで驚いたのは、朝早くて、いくらまだシクロの自転車や、バイクの数が少ないにしろ、やっぱり道路を次々と走っている交差点の真ん中で、中学生か高校生くらいの男の子たちが、6,7人で、サッカーのゲームをしていたことでした。
 え!?うそ、って思うでしょう?でも本当なのです。本当に、交差点の道のまん真ん中なのです。それで、バイクや、自転車が、サッカーをしている人たちをさけて通っていました。いくらバイクの運転が上手な人たちばかりだからと言って、危なすぎるよね。男の子たちは、ボールしか見てないみたいだもの。それにどうして、誰も、危ないぞって、クラクションをはでに鳴らしたりしないのかな?サッカーに慣れているのかな?
 それから、ゆっくりだからって言って信号を守らないのもやっぱりちょっと、危なかったです。実際、一度、スピードを出していたシクロが、坂で停車線を少し行きすぎて、私たちのバスの前の前の黒くて大きい車にぶつかったのを見ました。
 黒い車は、脇に停まって、シクロの運転手さんは、本当に悲しそうで、つらい顔をして、ぴかぴかの黒い車の人と話をしていました。黒い車の人は、あんなにきれいな大きな車を持っているから、お金持ちなのかもしれません。そして、シクロの運転手さんのシクロは古そうだったから、きっとお金持ちではないでしょう。いったいどうなっちゃうのかなあととても気になりました。でも、どちらかが怪我をしたとかではなくて、よかったです。
 朝早い道路には、両天秤に荷物をたくさんつんでいる女の人たちが、荷物を下ろしたところで、次々とお店を開き出しました。果物をピラミッドみたいにきれいにあっという間に積み重ねていた人、揚げパンを並べ出す人、さまざまですが、どの人も、お隣のお店の人とお話をしたり、通りがかりの人とあいさつしたり、おしゃべりしたりして、とっても楽しそうなのです。
 屋台のごはんを食べると、お腹を壊すかもしれないと(たぶん慣れていないから)岩澤さんや、チーホさんや、カンボジアではソチアさんに何度も言われていたのだけど、揚げパンなら、いいだろうと、買おうということになりました。
 というのも、大谷さんはずっと屋台の食べ物がおいしそうだなあ・・食べたいなあと言い続けていました。アフリカへ出かけたときもそうだったけれど、大谷さんはガイドさんたちが食べているものが食べたいなあと何度も言っていたから、きっと私が市場を好きなように、大谷さんも、そこに住んでいる人はどんなものを食べているのかなととても知りたいのだと思います。
 「ドルでいくら?」と、揚げパンを売っている女の人に、大谷さんが聞いたけど、その女の人は6000ドンと言うばかりでした。
「きっと一ドル出したらおつりをくれるよ」と言うと、その女の人は、おつりじゃなくて、にっこり笑って、一つドーナツを足してくれました。
 女の人の笑顔がとっても素敵なのです。ガハハハと大きなお口をあけて、大きな声で笑うのです。あんまり素敵に笑うので、カメラのシャッターを押すしぐさをして、「OK?」と聞くと、その女の人は、私の手をとって、肩を組んで写真をとろうと言うのです。それから、一号を見つけて、「それをここに起きなさい。パンと一緒に撮ればいいよ」とたぶん言ってくれて、そのお人形さんを、前に座らせて、お人形さんの上に、小さく切った新聞紙を置いて、その上にパンを置いて、「さあ、これで撮れ、撮れ」と大谷さんに、言うのです。それで、またガハハハハと声をたてて笑っていました。みんな底抜けに明るく、そして、人なつっこく、そして、親切でした。
 ベトナムの女の人は親切と言うより、世話焼きなんだよとベトナムへ行く前に、ベトナムが大好きな友人が話してくれたけれど、私もいろんなときに、ベトナムの女の人にお世話をかけました。
 私たち、朝の散歩でずいぶん、いろいろなところを歩いていたら、ホテルの方向がすっかりわからなくなったのです。こんなときは誰かに道を教えて頂こうと、そばを通りかかったおじいちゃんに、泊まっているホテルの名前を言って、「レックスホテルはどこですか?」と手ぶり混じりで尋ねると、あっちだあっちだと教えてくれて、そっちへ向かって歩いていたら、昨日の昼間の市場へ出てしまったのです。
「間違ってるよね、昨日は市場から車でずいぶんあったもの」
朝食時間まで、もう時間がなかったので、私たちはちょっと焦っていました。大谷さんは、ずっと反対方向だと思っていたようなのに、私がおじいちゃんに聞いて、「こっちだって」って言ってひっぱってきてしまっていたので、市場を見てすごく、がっかりしていました。
「もう一回誰かに、聞き直さないと」
でも、レックスホテルという私たちの発音はどうも通じないみたいなのです。
 女の人が3人通りかかりました。私、すごくいいことを思い出したのです。 ホテルの名前を書いた朝食券をかばんに入れてきたはず…それを見せたら、きっと通じるはず…あわてて鞄の中のポケットの中から朝食券を出そうとしたら、手に持っていたデジタルカメラが、コンクリートの歩道の上にガチャンと大きな音をたてて落ちてしまいました。
「あー」3人の女の人はそろって、声をあげて、一人の人が、「カメラをちゃんと、鞄の中にいれておきなさい」とベトナム語で、たぶん、そう言いました。そして、私のカメラを鞄に押し込んで、わかった?ちゃんと入れておかないと落とすでしょう?とまたベトナム語でたぶん、まるでお母さんが子供に言うみたいに、私に言いました。「はい」とうなづくと、うんうんって頷いて頭をなぜてくれました。。
 道は、朝食券を見せたら、「それは、今歩いている方向と逆にまーっすぐまーっすぐいったらあるからね」とまたベトナム語と手振りでおしえてくれました。
 ベトナム語はまったくわからないのだけど、なぜか、この旅に来てから、いろんな方が、お話していることがよくわかる気がします。それはきっとタイのおばあちゃんや、カンボジアのおばあちゃんや子供たちや、ベトナムの女の人たちが、一生懸命に私に伝えようとしてくれたからだと思います。
 みんな、世話焼きというよりはやっぱりとっても親切でやさしくて、大きいんだと思いました。
 それでね、カメラね、壊れちゃったんです。ふたが閉まらなくなってしまいました。閉まらないなら、閉まらないままで、いいから、撮れればいいのに、ふたが閉まったらとれないけど、開いているんだから、何の不都合もないはずなのにだめなのです。
 シャッターを押すと、「カバーがあいています」と英語で表示されるのです。わかったから、開いているのはわかったから、でも、カメラさん、写真をとってね、撮ればいいのよ、そう思うのに、「開いています」というばかりで、シャッターを切ることができないのです。それで、この旅ではそれっきり、デジカメは使えなくなりました。
 思えば、この旅はよく物が壊れる旅でした。
 というか、私にかぎると、壊れた物の、いくつかは、私が壊したのですけれど・・・
 カンボジアにいるときに、ホテルで、持っていったドライアーを使いました。ガイドブックに、変圧器が必要と書いてあったので、私はそれを使ったつもりでした。でも、私が使ったのは、ただ、コンセントの穴の形を変換するだけのものだったらしいのです。それで、変圧器というものは、もうちょっと大きいものでした。でも、私ときたら、ケニアでも、アメリカでも、大丈夫だったから、コンセントの穴の大きさを変える物の中に変圧器という物が内蔵されていると思いこんでいたのでした。
 ドライアーのスイッチを入れると、ぶーんという聞き慣れない音がして、それが、だんだん大きくなって、そして、ゆっくりになって、静かになったと思ったら、それっきり、ドライアーは動かなくなりました。あとで、友達が開いて直るかなとのぞいてくれたら、コイルがすっかり焼けこげになっていたのだそうです。
 でも、私が原因でなくても、なぜか、よく物が壊れる旅でした。もうひとつのアナログのカメラは、いちいちシャッターを切るたびに、ふたがしまって、電気が切れてしまうのです。でも、大丈夫なときもあって、だめなときもあって、それはどうしてかわかりません。旅行中使わなかったにもかかわらず、携帯電話が、壊れました。帰ってから日本で使うと、しばらく通話して、ぷつんときれてしまうのです。最初は壊れたと思わなかったけれど、あまりに、それが続くので、やっぱりおかしいなとわかったのでした。
 他の人のカメラも何台も壊れました。
 奥泉さんのカメラも、おかしくなって、最初は電池がなくなったのかなと思ったけれど、そうじゃなくて、帰ってから修理に出されたら、液晶の部分が壊れていたことがわかったそうで、でも、映っていたから、もっと撮ればよかったなとおっしゃっていました。
 それから渡辺さんのカメラも壊れました。村井さんのカメラもおかしくなりました。大谷さんがカメラにくわしいので、私も他の人も、みんなカメラが壊れたよと大谷さんのところへ持ってきていたので、大谷さんは「どうして、こんなにカメラが壊れるんだろうと、次は自分の番だろうかと怖かった」と話していました。どれも偶然なのかもしれないのだけど、本当によく物が壊れる旅でした。
 朝食が終わって、8時半に、約束通りニュンさんがホテルのロビーに来てくれました。「バイクに乗ってきました」ニュンさんはバイクをホテルの近くにある、バイク駐車場にとめてあるんだと教えてくれました。街にはいっぱいバイクの有料駐車場があるのだそうです。そこに停めないと、盗難が心配なんだそうです。
 「アオザイのことだけど、たくさんの人の分はむずかしいからどうしましょうか?」とニュンさんが言いました。というもの、まだ私が日本にいるときに、ニュンさんにメールでアオザイをつくりたいことを話すと
「私がいつも作っているところに連れて行ってあげるね」とニュンさんが話してくれていたのです。私は、だったらみんなも作りたいかなと思って、旅の仲間にも話したら、ほとんどの人が一緒に行きたいと言っていたのです。
 でも、ニュンさんのいつも作るところは、一般のおうちで、好きな布を市場で買って、それを持っていってつくってもらうという作り方で、1日とか2日とかで、何枚も作るのは、むずかしいということでした。それじゃあ、近くのお店に行って作りましょうということになりました。
 岩澤さんと小林さんのお隣に、めがねの見知らぬ方が立っていました。その方は、チーホさんのお友達で、ゴアンさんというお名前の方で、今日と明日のガイドさんをしてくださることになった方でした。
 さっそく、ゴアンさんは、ニュンさんと今日の打ち合わせをされていました。戻ってきたニュンさんは「ゴアンさんが、とんぼという服とか雑貨のお店を、このすぐ近くに持っているそうで、、そこにみんなで夜に行くことになったから安心してくださいね」と言いました。アオザイのことを、気にかけてくださってたんだって思って、とてもうれしかったです。それからニュンさんは、これから訪れるドクちゃんにも電話をかけていました。私たちが来ることで、ニュンさんは本当に、どんなにいっぱいの準備をしていてくださったのだと思います。
 私は最初、ゴアンさんって、不思議な人だなと思いました。最初だけ、チーホさんやソチアさんのように、こちらを向いて、「ゴアンです。日本語で食べる御飯と覚えてください」って言われたけれど、それっきり、一番前の席に座って、前を向いたまま、ボソボソ話をされるのだけど、ゴアンさんの席の後にいる私ですら、何を説明して、何を話しておられるか少しもわからないのです。
 最初、どうして私、ゴアンさんの話している内容がわからないんだろう?日本語はとってもお上手なのに、どうして、聞いている内に眠くなってしまったり、ちっとも頭に入ってこなかったりするんだろう?って不思議に思っていたのです。小林さんも同じように思われたのかもしれません。「いろんなことを知っている知識のある教授の話が、ずうっとしゃべっていても、学生に伝えようという思いがあまりないと、学生には伝わらないのと同じなんだな」と言っておられましたから…
 それからゴアンさんは、運転手さんとベトナム語でお話をされていました。そのときはすごく楽しそうだったのに、私たちとおしゃべりするのは、楽しくなさそうだったので、もしかしたら、ガイドをするのが嫌なのかななんて思ったほどでした。
 私はそのときまだ、本当のゴアンさんの気持ちや、ゴアンさん自身がかかえておられる気持ちについて、なんにも気がついていなかったのです。
「今日、ツーヅー病院に行って、それからすこし郊外の小学校に行ってね、それで昼からクチのトンネルに行く予定なんだけど、トンネルは私の家からすごく近いから、寄っていってくださいね。母が果物を用意して待ってるから」
 ニュンさんの思いがけない言葉を聞いて、私とてもとてもうれしかったです。
「お母さんにお会いできる?」
「そうです。待っていますから。母は夕飯も用意するって言ってたのだけど、夕飯はもう、他の場所で皆さん食べることがと決まっているからと話したら、じゃあ、今度のときは、夕飯を作りますって言っていました」
私はうれしくてうれしくて、大喜びで、 
「ゴアンさんに、クチトンネルのあとのことをお話しておかないと…。時間の都合でよれなくなったら大変だから」と言いました。
ニュンさんは笑って、「はい、私、もう話しましたよ。わかりましたとゴアンさんも言っていました」と言いました。
 そのときは、ああよかったとほっとしていたのです。


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