カンボジア・ベトナム日記


13

「あ、楽器店だよ」大谷さんがバスの中から、外を見て、私に教えてくれました。
店先にはギターやマンドリンの他に、珍しい楽器がたくさん下がっています。「あ、」本当だ」窓にかじりつくように見ていたら、バスはちょうど、その隣に停まりました。
 そこが歴史博物館でした。木造の落ち着いた感じの建物です。そこでは、ベトナムの歴史の紹介や、遺跡や、民族衣装などが展示されていました。ベトナムは中国に支配されている時間が長かったので、中国からとても大きな影響を受けていました。それからフランスからも受けていました。ベトナムの昔からの文化と折り合って、とても美しいものがたくさん展示されていました。織物、バッチャン焼きと言われる瀬戸物・・民族衣装・・もっともっといろいろなもの。
「きれい・・」民族衣装の細かな刺繍を見ているといつのまにか隣にはチーホさんがいました。チーホさんは
「ありがとうございます」と誇らしげでした。
「私、ベトナム好き」まだ来たばかりなのに、でも本当にそう思って、言ったら
「ベトナムは素晴らしい国です。僕もベトナムが好きです」と何度も、うれしそうに、そして誇らしそうに、うなづいておられたのが、印象的で、チーホさんは本当にベトナムが大好きなんだなと思いました。
「いそいで、みんなより先に出て、楽器を見てきたら?」大谷さんがすすめてくれたので、小林さんにお話しして、一人だけ走って、隣の楽器屋さんをのぞきました。琵琶の形をした楽器、竹で作った木琴のような楽器・・たくさんの楽器が驚くほど安く並んでいるのです。
 お店のおじさんは、私が入ってきたから、竹の木琴のような大きな楽器を持ってこられたけれど、それは持って買えるのはちょっと難しいです。弦楽器をべんべんと鳴らす真似をしたら、おじさんはそばにかかっていたギターを手にとって、鳴らして見せてくれました。こんなものもあるよと見せてくださったギターは横の部分が美しい貝細工で飾られていました。
 そのうちに、村井さんと小林さんが来てくれました。
ちゃんと弾き方もわからないのに、買っても大丈夫かな?それに持って帰れるかな?不安になって迷っていたら、小林さんが
「大丈夫。僕が持って帰ってあげるから。大丈夫。どうとでもなるから・・」
といつもの通り優しくいってくれるのでした。いつもいつも小林さんや、大谷さんや、そしてツアーのみなさんに甘えてばかり・・・荷物だって、力が極端にない私のことを知っていて、「重くない?」「持つよ」と持ってくださっているのに、また荷物を増やしてしまうなんて・・・そう思いながら、やっぱり欲しくて買ってしまいました。
 買ったのは琵琶の形をした楽器で、弦が4本ついています。貝細工のものより、私は木の曲線が美しいのがいいなあと思って、シンプルなのを買いました。
 代金は4000円くらい・・・でも、ベトナムのドンでかいてあったから、よくわからなかったのです。村井さんが計算機で計算したところによると、『本当は』3000円くらいのはずだったのよ」と教えてくれたのですが、そのときはわからなくて、私も小林さんもそして、きっとお店屋さんもわからなくて、33ドルを支払いました。日本ではなかなか手に入らないけれど、もし買えたとしても、日本で買うより、きっと、とてもとても安かったと思います。
 外側は漆が塗られているような輝きがありました。大事にしよう・・きっと曲が演奏できるくらいにはなろうと、うれしくて、顔が自然とわらってしまうくらいでした。
 楽器屋さんのおじさんが、黒いケースに入れてくれました。それからピックもひとつ、おまけにくれました。これはどうもピックで弾く楽器のようです。調弦はどうするのかな?そんなこともわからないまま、みんなが待っていてくれるからといそいでバスに乗りました。
 さあ、お昼です。ベトナムのお料理を楽しみにしている人もたくさんいました。私ももちろんその一人です。生春巻きやバイン・ベオ、炒め物など、どれも、日本でも一度は食べたことがあるくらい、今ベトナム料理が人気ですが、本場のお料理はどんなだろうという期待をうらぎらない、とてもおいしい味でした。
 「飲み物は何にしますか?」最初に尋ねられました。
レストランなどで食事をすると、食事はみんなたいてい決められていますが、飲み物は自分で好きな物を注文することが多いです。
 私はココナッツジュースというのが、カンボジアにいるときから気になっていたのに、飲めずにいたから、それを頼むことにしました。カンボジアと同じように、ベトナムでも、たくさんの果物のジュースがあります。ビールはベトナムの333ビールというのが地ビールだそうです。私はほとんどお酒を飲めなくて、そしてビールを少しいただいても、味がどんなふうに違うのか少しもわからないのですが、飲んだ方は、日本のビールとそれほど変わらなくて、飲みやすいよと言っていました。
 食事のときに、お水を注文される方も多かったのですが、私は一緒に旅をしている北山さんが、お水を注文されなくて、ホテルにあったお水をご自分で用意された水筒に入れてこられたのが、すごいなあといつも関心しました。「いえ、けちだから」なんて照れておっしゃったけれど、違うのです。ホテルでミネラルウォーターのキャップをあけて、そのまま置いておけば、それは捨てられることになるでしょう。ベトナムでもカンボジアでも、地元の方は生水を飲んでおられる方が多かったです。アンコール・ワットの前のところで、泥水をすくってお鍋に入れておられるおばあちゃんにも会いました。大事に大事にすくっておられたそのお水は、何に使われるお水だったのでしょうか?
 加工して、清潔になったお水を、一口飲んで、余ったからと言ってホテルに起きっぱなしにして捨てられてしまうのはやっぱりしのびないことですもの。
 旅をして、一緒に生活をともにして、いろんなことを旅の仲間から教えてもらえるのも、旅の嬉しいことのひとつだと思います。
 ココナッツジュースは、ココナッツの実の上を切ってふたにしたもので、中に、白くて甘いジュースが入っています。ときどき、生臭い物もあるということだったけれど、出してくださった物はおいしかったです。ストローの他に、スプーンもついているのが不思議で、「これどうするんだろう?」と思ったら、前に座っていた村井さんが「きっと周りのココナッツをそぎ落としてたべるのよ。ココナッツミルクの中のプルプルってそうじゃないの?それからできてるんじゃないの? 」
ああ・・・そうなんだ・・え?違うんじゃないって?どっちなんでしょう。みんなであれこれ言い合ったけれど、結局はわかりませんでした。
 果肉はスプーンですくって食べるのはむずかしかったけれど、スプーンでこすって、ジュースの中におとすと、ジュースがもっと濃厚になって、ストローでその繊維を吸って食べるのはおもしろかったです。 
 ところで、椰子の木とココナッツ椰子は別の物だということが、カンボジアとベトナムに来てわかりました。まっすぐな棒に飴がついているチュッパチャプスというお菓子がありますが、カンボジアの景色の中で、チュッパチャプスのような形の木がいっぱい立っていて、それがとても可愛いのです。
 なんでも知りたがり屋の私はさっそくあの可愛い木はなんですか?とソチアさんに尋ねました。
「あれは、椰子の木です」
「ええ?!私の知っている椰子の木はあんなじゃないよ。傘のように広がってるんだよ。」「それは椰子の木に間違いないけれど、ココナッツ椰子です」
 私は傘みたいなのが、椰子の木ってずっと思いこんでいたから、なかなかその混乱はとけませんでした。
 食事が終わって出かけたのは、旧大統領官邸である統一会堂でした。
 その日の夜、ニュンさんがホテルをたすねてきてくれることになっていて、明日、あさってとニュンさんと一緒に、病院や学校や孤児院をまわることになっているので、ホーチミン市の中の観光は今日すませておくことになっていたのです。
 統一会堂は大きな鉄の門の奥にあるのだけど、その前の通りも、それから門の奥も、ベトナムじゃないみたい、アジアじゃないみたい・・・それはどこでもない、フランスのパリにそっくりなのでした。
 もし、ドラえもんの「どこでもドア」で突然、この地に立ったなら、私たちは、凱旋門に続くシャンゼリゼ通りを通っているんだと思ったに違いない・・・そう思うくらい、そこはパリでした。ただ、きっと不思議と思うのは、行き交う人々のお顔がまぎれもないアジアの人たちで、そして、バイクがやたらと多く、自転車のタクシー(シクロ)が走っているのはどうしてだろうと思うくらいだと思います。
 それもそのはず、チーホさんのお話によると、ベトナムがフランスの植民地だったときに、フランスの人たちが、なつかしいフランスを思い、ここにもフランスを作りたくて作ったのが、ここなのだそうです。
 そっくりなのは、外だけではありませんでした。会議室や宴会室、大統領の応接室など、どれも、ルイ16世や、マリーアントワネットがいてもおかしくないなあと思ったのは私だけでしょうか?
 チーホさんは、ハノイに行くと、もっともっとベトナムの中にフランスがとけこんでいるよと話してくれました。「街の道や、古いホテルや、教会や、町並みや家々にもフランスがあるよ。この建物はあまりに、フランスのまま作られているけれど、そうじゃなくて、フランスからいい影響を受けているところもたくさんあります。ハノイはフランスらしくはあるけれど、そこはフランスではなく、ベトナムです。フランスらしいというより、僕はその姿を見ても、今はベトナムらしい風景だと思う」と言いました。
 歴史というものはおもしろいものだと思いました。
 侵略や戦争の歴史をもつベトナムの歴史をおもしろいというのは、ずいぶんとおかしなことです。そうではなくて、フランスと出会って、フランスをつつむようにして、作られているのが、ベトナムの歴史であり、文化なのだなあと深く感じたのです。またベトナムではあちこちで、中国を感じることができました。ベトナムの女性が来ている美しいアオザイも、中国の服の襟やボタンのところがよく似ています。町中にも漢字の模様があったりします。
 人と人が出会って、人が変わっていけるように、そして変わっていった人格こそが、その人自身の人格であるように、国の文化も、いろいろなところの影響をうけて、それを広く受け止めようとする、ふところの奥の深さがあったとき、ベトナムのように素晴らしい文化がまた花咲くのだと思いました。そしてそれが、歴史というものなのですね。
 統一会堂の大統領夫人の宴会室の前で、どうしてそんな話になったのでしょうか?
 チーホさんが長くお話をしてくださったのです。
「ベトナム人は、日本のことをそんなには知りません。一番有名なのは、『ホンダ』です。それから『ヤマハ』や『スズキ』も知っています。みんばバイクに乗っていますから。それから、次は『コトブキ』です」
「え?コトブキって?」私はなんのことだろうと思ったけれど、藤尾さんや渡辺さんは
「コトブキってあれちゃう?お菓子の」「え?!そうなん?」と心当たりがあるようでした。ことぶきというのは大阪や、もしかしたら、他の地方にもあるのかもしれないのですが、お菓子屋さんの名前だそうで、ケーキなどが売られているのだそうです。ベトナムのホーチミン市にも何件もその名前のケーキ屋さんがあるのだそうです。
「それからとても有名なのが『おしん』です」
 チーホさんの説明に、あゆみちゃんやともちゃんは「おしんって何?」「知ってる?」と互いに顔を見合わせていました。
「ベトナムの人はおしんが好きです。どうして好きかというと、おしんは一生懸命がんばる姿、見せるからです。今、ベトナムは戦争が終わって、とてもがんばっています。つらくても、いつかがんばることで幸せがくる、思ってがんばっています。おしんががんばっている姿、涙を禁じ得ません」
 チーホさんが、「涙を禁じ得ない」なんていう難しい言葉を使ったので、みんなとても驚きました。小林さんも「涙を禁じ得ないを使いこなすとはすごい」と手をたたいていて、チーホさんまで「受けましたね」とうれしそうでした。
 「おしん」は昔のNHKの朝の連続テレビ小説の題名です。
 貧しい農家に生まれたおしんは、子だくさんの両親を助けるために、奉公に出ます。関東大震災があったり、太平洋戦争と呼ばれる戦争があったりして、そのたびに、おしんはいつもがんばって立ち上がります。結婚をしてからも、おしんは、嫁ぎ先でとても辛い目にあいますが、やっぱりくじけずに生きてきて、成功するというドラマでした。アフリカへ行ったときも、このテレビは放映されていたようで、町を歩くと物売りの人が「おしん安いよ」と声をかけていました。ベトナムででも、ついこのあいだまで放映されていて、おしんのテレビが始まると、おしんを見るために、みんな家へ帰っちゃって、市場のお客さんがほとんどいなったり、街を歩く人も減るくらいの人気だったのだそうです。
「おしんが流行ったことは、日本にとっても、いいことでした。日本がベトナムを支配したということもあったので、日本をよく思っていないお年寄りもありましたが、でも、おしんを見て、日本も辛いことがたくさんあって、その中を、我々と同じように耐えしのんでがんばっていたのだという印象が、日本をいい印象に変えました。よかったです」
 チーホさんの説明を聞いて、私たちの両親や祖父母も、戦争中や、戦後、今のカンボジアやベトナムのような時間をすごして、生きてきたのだろうなあということを改めて思いました。
 私の祖父母は父の方も母の方も、戦前韓国へ渡りました。父は南朝鮮で、母は北朝鮮で生まれました。戦争が終わって、父と母の家族はそれぞれ逃げるように母国である日本へ帰ってきたと聞いています。とくに、母は北朝鮮からだったので、昼の間はものかげに隠れ、夜になって逃げ続けて日本にたどり着いたと聞いています。だから母の小さい頃の写真は一枚もありません。何も持たずに逃げたからなのです。末っ子だった母は、そのときもうすでに中学生くらいだったので、家族はそろって逃げることができたようです。でも中には赤ちゃんを連れて行けずに、置いてくるしかなかったという話もテレビなどでよく聞きました。


 戦争がおきると、苦しむのはいつもいつも、国と国との争いを少しも望んでいない、国民たちなのですね。
 ところで、チーホさんが前に「僕は前を向いていきたいし、日本を恨んではいない」と言いました。そして、今、日本がおしんのおかげで、日本をベトナムの人が理解してくれるのがうれしいとも言ってくださいました。遠い国に住んで、こうして日本を応援してくださっているチーホさんのお気持ちは、なんとうれしいことでしょう。。
 最後にチーホさんは力強く言いました。
「僕たちは、まだ貧しい中で生きているけれど、おしんのように、強く明るく生きていって、いい未来をきっと作っていきたいと思っています。何年か前と、ホーチミンはとても変わっています。もっともっと変わっていくことができるでしょう。僕たちはその中でどんなふうに生きるかということを考えていきたいです」 
 みんなシーンとして、チーホさんのお話を聞いていて、お話が終わったときには、大きな拍手が起きました。
 チーホさんはちょっと恥ずかしそうでした。
「あれ?おかしいですね。どうして僕はこんなに力説してしまいましたかね」
 この建物の中には、地下に、軍事施設がありました。それは秘密の施設で、戦争中に、大統領が指令を伝えた司令室や、アメリカと連絡をとりあった放送局などが、今もそのまま残されていました。
 放送局のボタンやマイクを見ていると、ここに座っていた人の緊張が伝わり、その人の息までが聞こえてきそうな気がしました。
 1975年の4月30日に、解放軍の戦車が、この旧大統領官邸の鉄の柵を突破したことで、ベトナム戦争は終わりました。二番目に鉄柵を突破した戦車も展示されていました。
 最後に一番上のダンスホールまであがりました。チーホさんも階段を一段一段上がっていて、足がますます痛そうでした。
「大丈夫ですか?」おたずねすると、「みなさんが食事をしているあいだに、病院へ急ぎます」と言っていました。チーホさんは、痛い足で、階段を降りたりあがったりしてくださったんだなあと思ったら、本当に申し訳なかったです。エレベーターであがろうと言えばよかったなあと後悔しました。
 ベトナムもカンボジアに負けないくらい暑くて、そして、やっぱり湿度が高いのです。私は日本にいて、ほとんど汗をかくことがなかったので、汗をかかない体質なのかなと思っていたのに、旅に出て気がつくと、玉のような汗がかいていました。
 「僕は冬も汗をかいているので、もう大変」と岩澤さんもしきりにハンカチで汗をふいておられました。日本とは暑さではそれほどかわらないけれど、多分湿度がすごく違うのだと思います。
 ダンスホールのすみっこに、飲み物を売るコーナーがありました。たぶん、ダンスがおこなわれれば、ここは飲み物をサービスするカウンターになるのでしょう。
「水分を補給するのが大切なんですよ。ベトナムへ来て、熱射病になる人も多いです。ベトナムの人もたくさん飲みます」
 ということで、私たちもそこで、コーラやミネラルウォーターを買いました。
 村井さんはおもしろいものを見つける名人です。市場でも珍しい果物やおつけ物を見つけて買われて、そして、それをいつもみんなに少しずつおすそわけして「食べてごらん」とくれるのです。
「ほら、見て。“すもう”という名前の飲み物があるわよ」
なるほど、村井さんが買った小さい瓶の飲み物にはおすもうさんの絵がかいてあります。それは、オロナミンCとかリポビタンDみたいな栄養ドリンクのようでした。少しもらって飲んだともちゃんは、「リポビタンとかを、もっとずっと甘くしたような味やねん」と言いました。日本のお相撲はやっぱり強いとか、力がわくというイメージなのかな?
 それにしても、何でも売っているデパートの地下やコンビニじゃない、小さいドリンク売り場に、“すもう”が売っていたのは、もしかしたら、この飲み物はけっこう売れているということなのかもしれません。
 そのあと、市場に行って、今日の観光はおしまいでした。
「横がけのかばんは、たすきがけにして、リュックは前にまわしてください」チーホさんはソチアさんと同じことを言いました。
 ビェンチェン市場は、カンボジアで行った市場より、大きいように思いました。カンボジアでは食品の多くが、床にそのまま置かれていたけれど、ここでは、すべて台の上におかれてありました。けれど、両方とも、すごい活気なのは変わりがありません。お魚、肉、野菜、果物、おつけもの、たくさんの色とりどりの食品が、うずたかく積まれています。
 小林さんがビデオを回しながら、「これがアジアの市場です。これがアジアの活気です」と言っていました。
 ベトナムへ行ったら、ベトナムコーヒーを入れるサーバーがほしいなと思っていました。それも、アルミ製じゃなくて、できたら、ステンレス製のがほしいなあと思っていました。
 ベトナムコーヒーは、他のコーヒーと少し違います。コンデンスミルクが入ったカップの上に、サーバーを置いて、サーバーの中にコーヒーを挽いて入れて、お湯をそそぐと、濃いコーヒーがカップにゆっくりゆっくりと落ち、濃くて甘いベトナムコーヒーができあがるのです。大谷さんはその他に、ジッポのライターを買っていました。お店の方が「本物、本物」というけれど、あきらかに偽物で、でもそれがかえっておもしろいからと4つで3ドルを払っていました。
 私は刺繍が入った、ブラウスを買いました、2つで12ドル。中国のお洋服のような、襟とボタンのブラウスです。
 市場にはどれも値段がついていないのです。市場ではみんな交渉して決めるようなのでした。それが面倒だったり、煩わしいと言う人もいるだろうし、おもしろいという人もいると思います。
 私は市場が大好きです。よく旅行の本にも市場をのぞくと、そこに暮らす人たちの生活の様子がわかるというけれど、本当にそうだなと思うのです。下がっている魚のひものみたいなものを見ていたら、蛇のひらきだったこともあったし、日用雑貨だって、これはいったいこれなんだろう、何に使うのだろうとと思うようなものがたくさんあって、知りたくてしかたがなくなります。だから目を大きくして、きょろきょろ、うろうろしてしまうのです。
 アフリカに行ったときも治安もよくないのに、やっぱりスーパーに行きたくて、お願いして行きました。沖縄の市場もとってもおもしろかった・・・豚のお顔、耳、手、ウミヘビを蚊取り線香みたいに巻いてほしたもの、色とりどりの布、本当に楽しみです。
 小林さんは、市場の中でカメラを回しながら何度も「これがアジアの活気です。」と話していました。私もわずかの時間でしたが、市場の中で市場の方々の活気に包まれて、そのエネルギーに酔いしれていたのです。チーホさんの話していた、「前を向いてくらしていくこと」がどういうことであるかということを実感できた気がしました。
 その日はひさしぶりの日本食を食べてホテルに帰ってきました。ホテルには病院から帰ってきたチーホさんが待っていました。
「ちょっと集まってください。涙を禁じ得ないお話があります」
 おしんのお話をしたときに、「受けましたね」とチーホさんが言っていた、涙を禁じ得ないという言葉をまた使われたので、みんなどっと笑ったけれど、でもそのあとのお話はとてもさびしいお話でした。
「病院に行って来ましたら、足の腫れがひどく、血もとまっていないので、本当に涙を禁じ得ないくらい僕も残念ですが、明日、あさってはみなさんと一緒に、出かけることがむずかしいことになりました。僕の友達が変わりに来てくれます。本当にごめんなさい」
 私たちはチーホさんとすごしたのはたった一日だったけれど、とっても楽しくて、そして、いろんなことも教えてもらって、チーホさんともっとずっといたいなあと思っていたし、もっといろんなことを教えてもらいたいなあと思っていたから、本当に残念とがっかりしました。
「チーホさん、お大事にね」奥泉さんが、声をかけておられました。私たちもみんな握手をして別れました。
 「このあと8時から山もっちゃんの講演会をするので、僕の部屋に集まっていてください、僕たちはここで、ニュンさんを待って、ニュンさんと一緒に上へ上がりますから」
 小林さんは、旅のどこかにいつも講演会を組み込んでくださっていて、
「本当は、旅の早い時期にしたいんだけどな」とカンボジアにいるときから、今晩しよう、明日できるかなと考えておられたのだけど、なかなか時間がとれなかったのです。でも、私はニュンさんが来られる今日だということが、とってもうれしかったです。
 ニュンさんとは一度お会いしただけでした。メールも何度か交換したけれど、でも、私はニュンさんとお会いしたときから、ずっとニュンさんとはきっと仲良しになれる、お友達になれるって思っていました。
 桝蔵先生が日本にいたときに
「ベトナムの方はみんなつらいことをいっぱいかかえているの。ニュンさんも多かれ少なかれ、そんなことがあるかもしれない。3年間、日本にいたときも、ベトナムへ行ったときも、ニュンさんはあまり自分のことは話そうとしなかったの。私も何度もベトナムへ行っているけれど、おうちへ出かけたこともないの。でも、加津子さんなら、きっと仲良くなれるから、大丈夫。私も、加津子さんに仲良しになってほしいの」と言ってくださいました。桝蔵先生のことをニュンさんはメールで、日本のお母さんですと言っていました。そんな桝蔵先生に、あまりご自分のことを話されないのだから、ニュンさんに無理におたずねすることはしないでいようと思いました。でも、やっぱりもっともっと仲良くなりたいと、心からそう思って、ドキドキしながら、ドアばかりを見つめていました。
 


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