カンボジア・ベトナム日記


11

 朝、食事が終わったらすぐにベトナムへ出発することになっていました。あいこさんのハッピバスディーを歌うのは朝食のときにしよう・・だったら、私たちもカンボジアのそろいの服を着てこようということになりました。あゆみちゃんも服を買ったので、ともちゃんと私と3人でそんな約束もしていました。
 食事に降りていくと、あいこさんが
「わあ、山もっちゃん、素敵ね。昨日市場で買ったの?ああ、私も買えばよかったかな」「そうなんです。あいこさんはきっと似合うって、みんなで言ってたんですよ」そう話していたら、あいこさんが
「ねえ、いくらぐらいするんだろう」と言いました。
どうしよう・・・みんなからのプレゼントだから、言わないほうがいいかなあ・・・おろおろして、「ナイショ」と言うとあいこさんがびっくりした顔をして、
「どうして?私と山もっちゃんの仲なのに、どうして?こっそり教えて」なんて言うのです。あいこさんはともちゃんやあゆみちゃんにも聞いていたけど、「内緒だよね」とみんなが言うと、あいこさんはすごくさびしそうでした。それであわてて「あいこさん、あとで教えてあげる」なんて付け加えたけれど、あいこさんが教えてって言うのに、おしえてあげられないのはちょっとつらかったです。
 結局、朝ご飯のときには出だしがそろわなくて、ハッピーバスディーを歌うことはできませんでした。娘さんのえみちゃんが話してくれてわかったんだけど、あいこさんはお部屋へ帰ってからも、「ああ、山もっちゃんが急に朝になったら、いじわるになってしまった」ってすごく悲しそうだったんですって。
食事が終わって、あと少し時間がありました。私は、仲良しになった、レストランの女の人と、それから門のところに立っておられた男の人に挨拶をしに行きました。子供たちと一緒に折ったあの、はばたく鳩を折って、「はい」と差し出すと、女の人は、私の体を抱くみたいにして、握手をしてくれました。男の人は、羽をひっぱって鳩をはばたかせたあと、プルメリアの花をまた私にくれました。ありがとう・・・、みんな、ありがとう。カンボジア。
 9時になって、出発のためにロビーにみんながあつまりました。
「今だ!」と思ったので、急にたちあがって
「みなさん、今日はあいこさんのお誕生日です。あいこさん、旅の仲間みんなからあいこさんのプレゼントがあります。それで、今からハッピバスディーを歌います」と言いました。
 あいこさんはすごくびっくりしていました。そして、目が赤くなっていたみたい・・・ ソチアさんも、岩澤さんもそれから小林さんもこのことはご存じなかっただけど、一緒に歌ってくださいました。
「ね、着てみて。巻きスカートだから、上からも大丈夫だから・・・」
「みなさん、もう、私びっくりしてしまって。本当にありがとうございます」とお礼を言ってくださいました。
 バスに乗り込んでから、あいこさんはバスの後の方で、えみちゃんが持っているバスタオルのカーテンのかげで着替えてくれました。あいこさんは思った通り、本当によく似合いました。
「もう一回挨拶をします。みなさん、ありがとうございます。お誕生日をみなさんにお祝いしていただけるなんて、思いもしませんでした。朝、山もっちゃんにドレスの値段を聞いたら、山もちゃんが教えてくれなくて、山もちゃんどうしちゃったんだろう、急に意地悪になってしまったって思っていて、私、本当に反省します。やっぱりね、山もっちゃんは、そんな意地悪するはずないのに・・みなさん、本当にありがとうございます」拍手がおこりました。あいこさん、ごめんね。私ちょっと意地悪だったかもしれない・・・「ナイショ」だなんて言わないで、ちょっと理由があって、ごめんなさいとか、それから、別にあいこさんに、いくらだったって言ってもかまわなかったかもしれないのに・・だって、あいこさんは値段がいくらだろうと、きっと変わらず喜んでくださったのに違いないのに。
 バスは空港へ向かっていました。
ソチアさんは約束通り、北国の春の歌を歌ってくれました。ソチアさんはいつものガイドさんの制服じゃなくて、ワイシャツにチノパン姿でした。その姿はいっそうさわやかで、希望にあふれているように私には見えました。
 ともちゃんが「私、メッチャカンボジア気に入ったわ」と言っていたけれど、私だって同じ気持ち。カンボジアが大好きになりました。ソチアさんのいるカンボジアが大好きになりました。
 たった二日間だなんて思えない・・もうずっとカンボジアにいて、ソチアさんとすごしたみたいだなあとそう思いました。
 空港の外で、ソチアさんが、もう一度あいさつをしてくれました。
「僕はここで、お別れです。僕は中へ入れません」みんな一人一人が手を握って、お礼を言いました。でもソチアさんはそれで帰ってしまわれることはなかったのです。私たちが、手荷物を入れて、岩澤さんが手続きをしてくれているあいだに、私たちがいる窓のところへ着てくださって、窓の外でにこにこ笑ってくれていたのです。
 窓ガラスに字を書いてお話したり、ジェスチャーや、口を開いたり閉じたりしてお話をしたり・・そしてみんなで投げキッスをして、それを返してくれたり・・・ソチアさんはずっと笑っていました。途中であらわれたお友達と肩を組んで、私たちにずっとずっと手を振ってくれました。
 そして私たちは、出国審査を終えたのでした。
 入国審査のときと違って、審査の方はとてもにこやかでした。カンボジアの衣装をきた私たちに声をかけてくれて、「ユウーアーアプサラー」と言ってくれました。最初はなんだろうと思って、そして、わかったのです。アプサラーはカンボジアの女の人、アンコール・ワットに彫られていた女神様のこと、それから踊っていた人たちのこと、そして、きっとカンボジアの女の人はみんなアプサラーなのです。
 飛行機の下に、カンボジアのジャングルが見えました。さようなら・・これっきりじゃないから。きっとまた来れるから・・・

 ところで、私はまた出国を待っているときに、また失敗をしていたということがわかりました。出入国カードというものを、事前に岩澤さんが全員分を記入してから、わけてくださってあったのを、私はスーツケースの方にいれてしまっていたのです。
「出入国カードを用意してください」と岩澤さんが言ったときに、
「え?あれ、いるものだったんだ。スーツケースの中です。ごめんなさい」と私が言うと、岩澤さんは、ああぁととてもがっくりしたように、体をくずしていました。小林さんや大谷さんが、「飛行機の中でもらえるから大丈夫だよ」と言ってくれたけど、そして、岩澤さんも、「他の人のを参考にして書いてくださいね」とあとで言ってくださったんだけど、本当に申し訳なかったです。

 飛行機は一時間半くらいで、ベトナムのホーチミンに到着しました。
 ここで、今度はベトナム戦争のことを本で調べたので、そのことを書こうと思います。「地球の歩き方」「心はつながっている」グェン・ドク(幻冬社)「声を聞かせて、ベト」グェン・ドク(PHP)「あの日、ベトナムに枯れ葉剤がふった」大石芳野(くもん出版)などを参考にさせていただきましたが、とくに、「あの日、ベトナムに枯れ葉剤がふった」は、旅が終わって、一週間くらいたったある日、一緒に旅をした北山さんから「とても感じることの多い旅でした。ベトナムの戦争のことが大変わかりやすく書かれている本があったので、送ります」というお手紙と一緒に送ってくださった本で、私にはとても感じることの多い、そしてわかりやすい本でした。
私はベトナムの歴史について何にも知らなかったなあとびっくりするばかりです。日本が大きく関わっていたということを私はどうして、知らないままに大きくなってきたのでしょうか?
 ベトナムは最初ずっと中国に治められていました。それは合計すると千年もの長い間だそうです。10世紀になって、独立したけれど、それでも中国の干渉はずうっと続いていて、18世紀になってやっと、ベトナムは国を安定させることができたのです。
 けれど、19世紀の半ばになると、今度はフランス軍が、責めてきて、ベトナムはフランスの植民地になりました。ベトナムは、独立をするために、長い間フランスと戦ってきました。
 1939年になって、今度は第2次世界大戦が始まります。そのとき、日本はドイツ、イタリアと軍事同盟を結んで、アメリカ、イギリスたちと戦いました。そして、日本軍は東南アジアの島々に進出して、占領しました。戦争がおこると、そこでは、必ずと言っていいほど、虐待や、それから女性に乱暴するようなことが起きるといいます。日本の軍も、やはり、そこに住む住民を虐待したり、殺したりしたというようなことがあったようです。
 ベトナムを植民地にしていたフランスにも、日本は、圧力をかけて、ベトナムを共同で支配することにしたのだそうです。そのとき、本には、日本はベトナムにとてもひどいことをしたというようなことが書かれていました。ベトナムの人が食べるものをみんな取り上げて、日本へ持って行ったので、ベトナムの人は食べるものがすっかりなくなったということ。それから、日本はベトナムをずっと統治しようと考えていたから、ベトナムに基地や道路をつくるために、たくさんの人たちを激しく働かせたというようなことが書かれていました。。
 日本が1945年に戦争に負けると、ベトナムは独立を宣言し、ホー・チ・ミンを主席とするベトナム民主共和国ができました。 そこへまたフランスが攻撃をしかけてまた戦争が始まったということで、フランス側の政府、そしてホー・チ・ミンの政府、そのふたつにベトナムが別れたのです。
 1954年に、戦争が終わり、「ジュネーブ協定」で、いったん17度線で別れたベトナムだけど、2年以内に、南北で、同時に選挙をおこなって、勝利をおさめたところが、ベトナムを治めることにしようという約束ができました。
 ところが、アメリカはその協定に反対をしたのだそうです。その当時、アメリカはソ連と大きく対立していました。どんどん世界に共産主義や社会主義の国がひろがっていました。アメリカは、ベトナムまでもが、共産主義になることをとてもおそれていたのだと思います。
 アメリカは、南ベトナムに、アメリカに協力する政府をつくりました。そこで、ベトナムは十七度線で、別々の国となって、別れました。そして、ハノイとサイゴンに、ハノイ政府とサイゴン政府のふたつの政府ができたのです。
 ベトナムの人たちの多くは、ベトナムが統一されることを願っていました。北ベトナムの人はもちろんのこと、アメリカがいた南ベトナムの多くの人もやはり、そう思っていたのです。
 南ベトナムにいた、アメリカの行為に反対をする人たちが、1960年に、南ベトナム解放民族戦線を結成しました。農民も自分たちの国を守るために、解放戦線にくわわる人が増えてきて、ゲリラ兵となって、南ベトナムのいろいろなところにある森にかくれて、サイゴン政府とたたかいました。
 アメリカは、解放戦線に参加している農民や市民をきびしくとりしまったのですが、本当のところは政治的な考えを持って、参加していたというより、自分を守ろうと思って、参加していた人が多かったのだと聞いています。
 そして、ゲリラの動きが活発になると、とうとう、アメリカ軍も直接、ベトナムへ来て、戦争に参加するようになってしまいました。
 最初は北ベトナムは、南ベトナムの様子を見ていただけでしたが、そのうちに、アメリカに反対する解放戦線に物資を送り出しました。
 そこで、アメリカは今度は、北ベトナムにたくさん爆弾を落としたのだそうです。これが「北爆」です。また南ベトナムのゲリラとたたかうために、オーストラリアやフィリピン、タイ、韓国などの軍隊も参加して、森にひそんでいるゲリラを殺そうとしました。日本の沖縄の基地からも、たくさんの飛行機がベトナムへ飛んで行きました。アメリカよりも沖縄はずっとベトナムに近いから、沖縄の基地がアメリカには便利だったのです。そのとき沖縄もまた戦場のひとつのようだったそうです。
 この戦争には化学兵器がたくさん使われました。ガソリンでできた焼夷弾で、広い範囲が焼き払われる恐ろしいナパーム弾、いろいろなガス弾、そして、枯葉剤という薬品も使いました。日本のいくつかの企業が、この化学薬品を製造していたということでした。
 この枯葉剤は、農薬の除草剤の一種で、木や草を枯らしてしまう薬品です。アメリカは森にひそむゲリラをおそれて、森を無くそうと考えて、あちこちにある森に、枯葉剤を牧続けたのです。
 森は枯れ、森に住む人々、そしてたくさんの動物や鳥もころされました。枯葉剤にはダイオキシンという、猛毒が含まれています。
 その毒性がどんなに強いかというと、1984年のニューヨークの保健センターの発表では、85グラムのダイオキシンは、ニューヨークの市民1200万人を殺してしまうほどだということです。
 けれど、ダイオキシンが恐ろしいのはそれだけではないのです。毒をおびた本人だけに、被害がとどまらないで、子供たちにも、それが伝わってしまったり、またその毒は遺伝子もこわしてしまうという性質があるということです。
 ダイオキシンは体に入ると、外に出ないで、体の中にたまります。土や水や食物や魚に含まれているダイオキシンを口にすると、それがまた体の中へたまっていって、直接枯葉剤をあびていなくても、体が弱って死んでしまうこともあります。
 枯葉剤で、たくさんの人が死に、そして、たくさんの体に異常を持った子供たちが生まれました。そして、今も生まれ続けています。
 ベトナムはこんなふうに、長い間、戦いの中にいました。ゲリラと言われる人たちはねばり強く抵抗し、アメリカ軍やサイゴン政府軍の兵士はつぎつぎに死んでいき、アメリカはとても不利な状態になっていったのだそうです。世界中から、それからアメリカの中からも、アメリカのやりかたに避難する声が大きくなっていきました。
 1973年、アメリカは北ベトナムとパリ協定を結んで、ベトナムから軍隊をひきあげました。サイゴン政府軍はそれでも戦いを続けていましたが、もう戦う意欲を失っていました。そして、同じベトナムの人たちは、戦い続ける必要があるんだろうかとも思っていたのだそうです。たたかう意欲を失ったサイゴン政府軍はアメリカの期待を裏切って、負け、1975年に、ホー・チ・ミンを主席とする解放戦線によって、北ベトナムは占領することとなって、ベトナム戦争が終わったということです。
 ベトナムの戦争の歴史を調べながら、私は本当に自分が何もしらないですごしてしまっていたことに驚きました。
 ひとつには、教科書に書かれていたことがあまり公平な立場での書き方では、なかったからではないかと思うのです。たとえば、「日本軍が東南アジアへ進出をはたしました」という書き方で教科書が終わっていたとき、中学生や高校生だった私は、兵隊さんがぞろぞろと島へ上陸した様子を想像しただけで、そこで日本の軍隊が、島の人たちを虐殺をしていたり、強制労働していたり、それから、実は、植民地のように支配をしていたということを想像することができなかったのです。本当はその言葉だけで、わかる人もいるのかもしれませんが、さらりとした書き方だけでは、少しもわからなかったのです。
 それから、やっぱり私には、人が傷ついたり、悲しんでいたり、苦しんでいたりすることから、自分を遠ざけようとしていたということがあるのだと思います。あまりにも戦争のことを考えないでいよう、知らないでいようとして大きくなってきました。
 実は、戦争というものが、ほとんどの場合、その国自身の思いで戦っているのではなくて、その国じゃない、他の国の勝手な思いで起こっているのだということに気がつかないでいました。本当にあまりにのんきで、知らなさすぎることを、今更こうして書くのは本当に恥ずかしいのです。
 けれど、私は今こうして、カンボジア・ベトナム日記を書いていて、どの国が悪いんだと責めたいというのでは決してないです。もちろん自分の国、日本が戦争に大きく関わっていたのだということを知って、そして、そのことをちゃんと考えていたいという思いはあるのだけど、それと一緒に、たとえば、ベトナム戦争を起こしたアメリカを責めたいのではなく、もっと人間のことを考えたいと思いました。
 小林さんは旅行を終えてから、こんなふうに私に言いました。
「人間はとてもとても素晴らしいものだけど、それと同時に、とてもとても愚かでどうしようもない存在でもあるんだなあ、繰り返し戦争を起こし、何度も間違いを起こし、今でも起こしている」
 私はそのことを書くことで感じていきたいと思っています。



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