カンボジア・ベトナム日記


10

  お昼からは、シェムリアップから少し離れたロリュオス遺跡群を訪れることになっていました。
 シェムリアップを少し離れると、とたんに、コンクリートでできた建物がなくなりました。シェムリアップの町は、もともと、景観をそこなわないようにと、アンコール・ワットより背の高いホテルは建ててはいけないという法律があるということでしたが、それでも、シェムリアップには、ホテルの他にも、2階建てのコンクリートの建物がいくつかありました。でも、少し離れると、ぽつんぽつんと立っているのは、高床式の家々でした。
「カンボジアの多くの方はどんなおうちに住んでおられるのですか?」
なんでも聞きたがりの私が以前に尋ねたときに、ソチアさんが
「カンボジアは高床式の建物がほとんどです」と教えてくれたのを思い出しました。
「高床式が便利です。乾期はとても暑いから、下に空気が通るとすずしいです。雨期はたくさん雨が降って、水が溢れたときに、上で眠れば安全です」
 目の前の高床式の建物の屋根は椰子の葉っぱでできていました。椰子の葉っぱの屋根はとても美しいのです。少しずつずらして、屋根を葺いてあって、しっかりした作りになっていました。
「少しお金持ちの人は、トタンで屋根を作ります。椰子の葉だと毎年、屋根をふきかえなおさないといけないのだけれど、トタンだと、何年も持ちます。でも雨の日は、すごい音がして眠れませんから。そしてもっとお金持ちの人は、木の家にすみます。そしてもっともっとお金持ちの人は、コンクリートの家に住みます。高床式の家は何百ドルかでできます。木の家は、何千ドルかかかります。そして、コンクリートの家は何万ドルかかかります」 何百ドルかかかるという家を建てるのは、カンボジアの人にとって、大変なことなのでしょうか?いったい年収はどのくらいなのでしょうか?
 夕方、私たちが街の方へ戻るときに、街からのたくさんの自転車とバイクに出会ったのですが、そのとき、ソチアさんが、彼らは街からの帰りですと教えてくれました。街で働いている人は、月に、1500円から、3千円くらいだと教えてくれました。でも、勉強を一生懸命した人たちは、もっともっとたくさんお金をもらえるし、ホテルで働いている人たちは、英語ができるから、やっぱりたくさん給料をもらってるとも教えてくれました。「僕は今、日本語をたくさん勉強しました。日本語できるガイド少ないのです。だから、月給が200ドル以上になりましたね」とソチアさんは少し誇らしそうにいいました。
 
 私たちが市場にも行きたいとお願いしたので、いくつかで降りて、いくつかの遺跡は降りないでいましょうとソチアさんが言いました。
「子供たちがたくさんおみやげを売りに来るから、つかまってしまうと時間がかかってしまうからね」
 本当に、どこの遺跡にも子供たちがおみやげをたくさん抱えて、私たちがバスから降りるのを待っていました。
 ロレイという遺跡に到着しました。女の子たちが、カンボジアシルクのクロマーと呼ばれるマフラー状の布を何十枚も手にして、私たちに「ねーさん、ねーさん」と声をかけるのです。
 私は、他の遺跡で、クローネと見ていて、それをおみやげに買いたいなと思っていたのです。
 子供たちの中で一番小さいのじゃないかと思われた、5,6歳くらいの女の子が、私の手をひっぱって、「安くするよ」と言いました。でも、今から、遺跡を見るために上へあがらなくてはいけません。「あとでね」と言いました。その女の子は、私の顔をじっと見て、手をぎゅっと握って、まだ、本当に小さいのに、日本語を少し使って、「ねーさん、約束よ。この顔よ」とジェスチャー混じりに、言いました。渡辺さんは、草で作った小さい指輪を、女の子が手にはめてくれて、やっぱり「約束」をしたのだと言っていました。
 ロレイを観光し終わって、階段を下りていくと、子供たちは約束した人の顔をきっと覚えていて、「ねーさん、約束よ」と人なつこい笑顔で目当ての人のところにかけてくるのでした。他の子供たちは、約束したお客さんは、きっとその子のお客さんという子供通しの約束のようなものができているのでしょうか?横取りのようなことはしないのでした。
 指10本を二回出して、20枚ほしいと伝えると、アンコール・トムなどと違って、それほど訪れる人の多くないこの遺跡では、お客さんも少ないのかもしれません。周りの子供たちも20枚という数に驚いたように、「よかったね」とその女の子の背中をぽんぽんとたたいていました。そしてその小さい女の子は、腕組みをして、少し考えるようにして、20枚ならいくらいくらにするからと、おまけをしてくれたのでした。でも、おもしろかったのは、少し上の年の子が、「そんな値段にしてはだめだよ」とたぶんその女の子に強い口調で言って、するとその女の子はまた腕組みをして考えなおして、でも、大きな子の言いなりになるとかではなく、自分で考えて、その値段を私に伝えるのです。そうかと思うとその年上の女の子は「でも、私だったら、30枚買ってくれたら、それくらいは負けるよ」みたいなことも言うのが、おもしろかったです。
 小さい女の子が腕組みしながら、値段を決めているのを見ていたら、子供たちはどんなに小さくても、まるで世界一小さいお店の店主さんのようだなと思いました。品物の代金を決めたり、おまけするかどうかを決めるのも、みんなみんな自分でして、それから約束をかわしたり、子供たちは本当にしたたかに、一生懸命生きているのだと思いました。
 その次に行ったのは、私たちのカンボジアでの最後の遺跡観光となったバコンという遺跡でした。私たち以外にほとんど観光客の姿はありませんでした。遺跡のところどころの石の割れ目からは、白やピンクの可憐な花が咲いていました。遺跡は苔むしていて、その上に植物が生えていました。青い空に、遺跡がうかびあがっている様子は「天空の城ラピュタ」のようだと思いました。
 あゆみちゃんって不思議です。私がそう思ったとたん
「あ、ラピュタみたい」って言うのですもの。そんなことが旅行中何度もあったから、なんだかすごくうれしかったのでした。
 ソチアさんがまた「元気な人だけのぼってください」と言いました。私はもちろん元気でした。
 階段をどんどん上っていって、下を見下ろすと、下の回廊の四角に、象が四方を向いて立っているのが見えました。象のおしりが本当に可愛くて、動き出しそうです。もし、どこかの遺跡のお姫様なんかになれるのなら、私はこの遺跡に住んで、4頭の象に守られて、森の小さい小鳥や蝶たちといたいなと思いました。そして、この遺跡がとても好きだなあと思いました。別に比べる必要はないのだけど、どの遺跡も本当に素晴らしかったし、感じたこともいっぱいあって、考えることもいっぱいあって、感動もしたけれど、この小さな、落ち着いた可愛い遺跡がとっても好きだなあと思ったのでした。
 青い空にはトンビが、つばさをひろげ、遺跡の上をゆっくりとまわりながらとんでいました。つい少し前まで戦闘機が舞っていたその空に、そのことを心配もせずにいられるのはなんと幸せなことでしょう。
 この旅行で行けたら行きたいと思っていた場所がありました。けれど、その場所がシェムリアップではない、プノンペンにあって、それからベトナムでもたくさんの予定があったので、行きたいということは伝えられずにいた場所でした。
 そこはトゥール・スレンと呼ばれる博物館でした。もともとは高校の建物だったが、そこで、ポル・ポトの時代に、この建物の中で、2万人もの人が監禁され、残酷な拷問にあい、殺された場所でした。その博物館では、拷問の道具、小計の道具が並び、処刑される直前の人々の写真や、死んだあとの写真などが展示されているのだということでした。もし訪れれば、私たちはやっぱり、それらを見るだけなのに、つらくてつらくて、そこにいられなかったかもしれません。けれど、残酷な虐殺がおこなわれたのは、プノンペンだけではなかったのです。カンボジア全土にそんな光景は見られたということでした。
 ソチアさんはカンボジアは夢がかなう国でもあると話していました。自分が勉強を一生懸命したら、なりたいと望んでいるくらしができるようになると思うと言いました。いつか日本にも行ってみたいときらきらした黒い大きな瞳を輝かせて話してくれました。午前中訪れた小学校の、元気なこどもたちの夢はなんでしょうか?明日のためにおみやげを売って働いている子供たちにも、きっといろいろな夢があることでしょう。
 私はいつもいつも、夢というものは必ずかなうものだと信じてきました。願っていれば、夢はかなうものだと思っていました。その考えは今でも変わりはないけれど、でも、自分の力が及ばないところで、自分たちの国に戦争がおきて、爆弾が落ち、虐殺がおこなわれるようなときも、夢はきっとかなうと信じることができるでしょう。夢を持ち続けることができるでしょうか?
 ソチアさんや、カンボジアのきらきらした目を持つ子供たちが、毎日夢や希望を持つ続けることができる毎日が、ずっとずっと続いてほしいと、心から思いました。そして、やっぱりけっしてどの国でも戦争があってほしくないと思いました。
 
 最後の遺跡をみたあと、私たちのバスは市場へと向かいました。
 私は、その日、ちょっと、たくらみがあったのです。というのは、このツアーの事務局をされて、私たちのいろいろなお世話をしてくださったり、優しく私たちのことを気遣ってくださっているあいこさん(小林さんの奥様)のお誕生日が明日だったのです。
 みんなでお祝いができたらいいなあと思っていました。内緒にして、あいこさんをびっくりさせようとも思っていたのです。だから、市場に行くと決まったときに、一人一人にこっそりお話して、「明日あいこさんにみんなでプレゼントをするのはどうでしょう?」とおたずねしたら、みんなが「それはいい考え!!賛成!」とか「もちろん!」とか言ってくださって、そうすることになったのでした。
 市場では、45分間、お買い物をすることになりました。
「人混みの中は、治安が悪いです。鞄はたすきにかけて、わきでしっかり押さえてください。リュックもおなかの方へもって注意をしてください」
 緊張しながら、バスから降りました。市場の手前にはカンボジア特有のシルクや服、民芸品のお店がたちならび、奥へ行くと、現地の人たちが、買い物に利用している野菜や果物、お魚、ひものなどがものすごい量で並べられているお店が、集まっていました。
 渡辺さん、藤尾さん親子が、カンボジアシルクや民芸品ののお店でお買い物をしているのが見えました。
「何買ってるの? 」
「ほら、かっこさんみて、可愛い物いっぱい。このお箸のセット見て」
「布地もいっぱい売ってるね」
「ねえ、あいこさんに何がいい?このカンボジアの民族衣装はいくらくらいするんだろう」「あ、これきっとあいこさんに似合うよ。値段聞いてみよ」
 カンボジアのドレスは、巻きスカートと、ブラウスに別れていました。お店の女の人はその衣装を着ていて、とても似合っていました。
「15ドルだって」あゆみちゃんが英語で聞いてくれました。
値段を聞いて、私もほしいなあという気持ちになりました。学校へ持っていって、いつかカンボジアのお話をさせてもらうことがあったら、この服を見せることができるからと思いました。
 私もほしいなあと言うと、あゆみちゃんも買おうかなと言いました。じゃあ、3つだったらいくらにしてくれる?藤尾さんが聞いてくださって、3つだったら、1着10ドルにしてくださるというのです。
 「もしかしたら、あいこさん袖のないのは着ないかもしれないよ」大谷さんや、渡辺さんともわいわいいいながら、あいこさんにはそでのあるブラウススーツを選びました。私とともちゃんは袖のないドレスにしました。象の刺繍が織り込んである光る布のドレスでした。
 きっとあいこさんに似合うと思ったらとてもうれしくてワクワクしてくるのでした。
 次のお店をのぞこうとしたときに、誰かが、私の体をとんとんとたたくのです。振り返ってみると、4歳くらいの、小さな男の子が、赤ん坊を背負って、手にはからっぽのほ乳瓶を持っていました。赤ちゃんはやせこけて、ほそい手をしていました。そしてお腹が栄養失調のためにふくれているのがわかりました。この赤ちゃんはいったい何ヶ月なのでしょう。もう、8,9ヶ月にはなると思うのに、首のすわりが悪いようでした。栄養がいかないと、体が弱いだけでなく、首の座りが悪くなったり、歩けなかったり、知的にも遅れがみられたりします。この赤ちゃんはこんなに細い手をして、大丈夫なのでしょうか?
 妹にミルクをと、そんなに小さい男の子が、私の顔を見て、悲しくすがるような目で手をあわすのです。
 1ドル渡せば、ミルクが買えるのでしょうか?思わずお財布から1ドル札を渡しました。そのとたん、どこにいたのか、他の小さい子供たちが、私にもちょうだい、僕にもちょうだいと小さい手を出しました。「ガッコウ、ガッコウ」とか「ホン」とか言っている子供たちもいました。学校に行きたいからお金をちょうだい、教科書を買いたいからお金をちょうだいと言っているのだと思います。
「全部に渡せないんだから、あげちゃダメやったんや」「収拾がつかなくなってしまうよ」大谷さんが、少しだけ強い調子で言い「行こう」と言いました。野菜の市場、日用品の市場、どこを歩いてても、一人の男の子がついてくるのです。「ほら、考えなしにあげるから・・」
 私も下を向きながら、足を速めました。見ると、あいこさんの近くにも、子供たちがたくさんいるのが見えました。
「ひとりの子供さんに渡すと、みんな僕にも私にも・・って言うの、一度もらった赤ちゃんを背負った子供が、僕はもらっていないなんて、言うのよ。でもね、みんな本当に生きるのが大変なのね」とあとであいこさんが話してくれました。世界のいろいろなところを見てこられている添乗員の岩澤さんが、
「あんなに一生懸命に、お金をもらおうとしている子供の近くで、親が、何もせずに寝ころんでいることもあるんですよ。それから、子供たちがたくさんお金をもらってくればくるほど、親は働かなくなるから、お金を渡すことが子供のためにならないこともあるんですよね」とも話してくださいました。
 子供たちをとりまくいろんなことがあるのだと思います。ただ言えるのは、とてもとても子供たちが貧しい生活をしていることは間違いないことだと思いました。
 あの赤ちゃんは、まだ小さいけれどやさしい強いおにいちゃんがいるから、きっときっと大丈夫だけれど、でも、栄養失調のために命を落とす子供たちも、ちょっと前までは、カンボジアにもいっぱいいたのだと思います。いえ、もしかしたら、まだいるかもしれません。
大ちゃんは「トットちゃんとトットちゃんたち」の本を見てこんな詩を作っています。

食べものがなくて
割りばしのように
なった足の赤ちゃんが
今はもう死んでしまうんや
僕はこんなに
大きいのにや

 バスに乗り込む仲間の人たちに、「あいこさんのプレゼントはカンボジアのドレスにしたの。きっとすごく似合う」とそっと耳打ちしました。私が言い出して、お願いしたことだけど、みんな「あ、ありがとう」とか「お世話さま」って、みんなもやっぱり同じように喜んでくださって、にこにこ笑って言ってくれるのでした。
 バスにもどって来られた諸河さんが、「お金を盗られてしまったのよ」とそれほど大変なことでもなさそうに、いつもの笑顔でおっしゃいました。
「え!!」みんなびっくりして尋ねると、
「いえね、すぐに取り出せるように、鞄の口の方にお財布を置いておいたの。それでちゃんとファスナーもしめてあったのだけどね、なんだか私のこと見てる人がいて、おかしいなあと思ってたの。いえ、大丈夫なのよ。そんなに大きなお金じゃないし、まだ持ってますから・・でも、不思議ね」と諸河さんはやっぱり「心配しないでね」と言いながら、話してくれました。
 ああ、私、気をつけなくちゃって思ってたけど、でもそんなふうなことがあるなんて、実感がわかなかったなあと、本当にびっくりしました。
 夕食はカンボジアのダンスを見ながら食事をとるというレストランに出かけました。
「アプサラ(女神)の踊りは手がやわらかくないとできません」ソチアさんが、教えてくれたとおり、踊り子の女の人たちは、金の小さいアンコール・ワットの塔が乗っている
冠をかぶり、手首をぎゅっと内側に曲げて、美しい踊りをおどってくれました。それから農民や、漁民のかっこうをして、踊る、とてもキュートな踊りも見せてくれました。
 輝くような笑顔は、本当に魅力的で、誇らしく見えました。
 本には、ポル・ポトの時代に、踊り子や踊り子の先生の90%の人たちが処刑されて、振り付けが書かれた書物も、ほとんど焼かれてしまったと書かれていました。今、踊られているアプサラの踊りは、生き残った、数人の先生によって復活したということでした。
 
 「僕も踊りを練習したことがあります。女の人はアプサラの踊り、でも男は猿の踊りばかり」ソチアさんは少しおどけてお猿の踊りをちょっとだけしてみせてくれました。
 諸河さんが、「稲を作っている農民の踊りはみんな、やさしくてさわやかなのよ。日本でもそうなの」と熱心に踊りをみておられました。
「あのね、私、ゆかたを持ってきましたのよ。ほら、学校や孤児院をまわるでしょう?そのときに、もし、お役にたてるなら、少し踊ってもいいなと思って、それから、ドラえもん音頭のテープも持ってきていて、みんなで踊ってもいいかなと思って。時間もありますから、もし、お役に立てるならって思って」
「わ、うれしい・・ありがとうございます。子供たちは着物を知らないかもしれないから、きっと大喜び。お願いします」
 私たちが、カンボジアの踊りがこんなにうれしいように、きっと子供たちも浴衣での踊りはうれしくいだろうなあと思うのでした。
帰りのバスの中で、ソチアさんが、「僕のガイドは今日でおしまいです。明日は空港まで送らせていただきます、本当に名残おしいです。みなさん、ソチアのこと忘れないでくださいね。明日は朝、お別れに日本の歌を歌いますから」
 ソチアさんのことを私たちが忘れずはずなんてありません。いつもいつも笑って、いろんなことを教えてくださって、そして私たちに感じさせてくださったソチアさん。
「明日は泣く?」大谷さんはそんなことを聞くのです。もしかしたら、大谷さんもまた、ソチアさんとの別れがとてもつらいのかもしれません。
 



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