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 ボストンについたのはもう真夜中近くでした。日本との時差はバンクーバーまでで6時間、ボストンはさらに3時間と聞いていたので、あわせて9時間時間時計の針を戻すことになりました。
 「ホテルまではタクシーに乗っていくことになるんだけど、全員で乗れるタクシーをさがしてくるから、待ってて」
 小林さんは一人で大きなタクシーを探しに行かれました。いつもの旅なら、観光会社の方がお迎えに来てくれて、そこでバスに乗り込んでホテルに行くことになると思うのですが、今回の旅は飛行機の便以外はみんな小林さんが手配をしてくださってすすんでいくことになっていました。手つくりの旅だからいっそうみんなが楽しめるようにしたいと小林さんが考えてくださったからです。
 しばらくして小林さんが手をおいでというように振って合図するのが見えたので、私たちは5人乗りタクシー乗り場から少し離れたところの待合場所まで移動しました。
「あそこにいる人たちに聞いたらね、大きいバスのタクシーがあるらしい。それに乗っていこう。赤い色のタクシーバスだそうだ」
 私たちは暗い中、ライトをつけているから見えにくいんだけど、赤色のバスがこないかなあとゆきすぎるバスを見ていました。
 「ヒルトン」「ホリディイン」などと書かれた違った色のバスは通るのですが、赤色のタクシーバスはなかなか通りません。やっと一台通ったので、小林さんが運転手さんと話をしたら、そのバスは、乗る人がもう決まっているけれど、携帯電話で他のバスを呼んであげるからここで待っていれば大丈夫だとということでした。
 でもなかなかバスがこなくて、やっと来たと思ったらそれも違うお客さんの予約だったりして、結局一時間ほどして、前のバスの運転手さんが頼んでくださったバスがきました。一時間ほどその場所にいたのだけれど、私たちは小林さんがおられるから大丈夫と思ってるし、もうぜんぜん心配もしていなくて、初めて訪れた街の景色を眺めたり、消火ポンプやポストなどの形もものめずらしく、きょろきょろしていたから少しも退屈していなかったのです。けれど、小林さんがタクシーが来たときに「よかった、よかった」と言ったから、一人で計画して、旅行をすすめていくということは、どんなにか気も使われるし、大変なことだろうと思いました。
 私たちの誰も、小林さんほど英語をお話できる人はいなくて、そして誰もが、小林さんさえいてくれたら、ぜんぜん大丈夫と思っているのでした。
 ボストンの町並みは伝統を感じさせるレンガの建物が多く、ひとつひとつの建物が、それぞれにとても素敵でした。また街路樹が美しかったり、教会があったり、公園がところどころにあったりして、偶然なんだけど、来て見たら、やっぱりイギリスみたいだなあと、早く、町並みを歩いてみたいなあとも思いました。
 アフリカの旅行でも、朝の散歩でいろいろな物を見たり、知ったりすることができたから、この旅行でも、お散歩したいなあと思っていたのですが、大谷さんもレンガの建物を見て、同じ思いだったのだと思います。
「明日の朝、散歩に行くの?」と聞いてくれました。
「うん、行こう、行こう」
「何時に出かける?」と天明さんが聞いてくださったので
「5時か、5時半くらい?」と半分は大谷さんに、半分は天明さんにたずねるように言うと、
「無理かもしれない・・・」時間が少し早かったのでしょう、天明さんが首を振りました。
「でも、明日は朝、サラリーマンが食べるような朝食をとろうと思うから、少し街をあるくと思うよ」小林さんのお話を聞いて、みんなうれしそうでした。
「ホテルに行く前に、コンビニによらなくていい?水を買いたい人はいない?」小林さんの質問に、何人かが手をあげたので、タクシーはホテルの近くのコンビニに停まりました。
 私も、いつも水だけを飲むということはないのだけれど、コンビニもどんなものを売っているのかなってみたくてしょうがなくて、バスを降りました。ジュースとガムを買って、レジのところに行って、「ハロー」とレジの方にあいさつをしたら、その方がわたしに「どこから来たの?」とたぶん聞いてくれました。たぶん・・なんていわなくてはいけないのが、ちょっと悲しいのだけれど、「フロム ジャパン」というと、黒い肌にとてもよく似合う、真っ白の歯をさわやかに見せて、やさしく笑って、「アイム フロム モラッコ」とおっしゃいました。私の耳にはそう聞こえて、モラッコっていったいどこだろう?アメリカのどこかなのかなあと思いながら、とてもやさしい店員さんともう少しお話したかったけれど、それしかお話ができませんでした。
 そばにいたあいこさんが「あの方、モロッコから来られたっておっしゃったみたい」
「モロッコ?あ、モラッコって聞こえちゃって、わかんなかった・・・。モロッコってどこかなあ?」ああ、やっぱり地名が苦手です。
「アフリカだよね、確か」
「ええ!?アフリカ?あーあ、アフリカだったら、去年行ったんですってお話できたのに、残念」
「あ、本当ね。山もっちゃんがそう言ったら、あの方も喜ばれたかもしれないものね」
 本当に残念でした。だって、ハローって言っただけで、お話してくれて、あんなにやさしいお顔で笑ってくれて、なのに、英語ができなくて、地図もわからないせいで、もっとお話できるかもしれないチャンスをのがしちゃったのだもの・・・ケニアに行って、動物たちが素敵だったとか、アフリカが大好きになったとか、言いたかったなあ・・もうしかたがないのだけど、すごく後悔しました。もっといろんな国の言葉をお話できるようになりたいなあ・・むつかしいけれど地図も覚えたいなあ・・・本当に、もし時間があって、許されるなら、コンビニに戻ってお話したいほど残念と、バスの中で思ったのでした。
 ホテルについたら、小林さんが明日の朝についての確認がもう一度ありました。
「明日は9時半に山もっちゃんを講演会に呼んでくれた三澤さんが迎えにきてくれるので、朝食はこのあたりの、ファーストフードのお店でとろうと思います。ゆっくり眠っていたい方はホテルでとっていただいてもいいです。明日、ボストンのお友達に会うとか、何かの用事で別行動をとられたい方おられますか?」
 誰もいなかったので、明日はみんなで行動することになり、モーニングコールを頼む人はたのんで、お部屋へ解散となりました。
 お部屋に入ってから、小林さんが「時差が9時間あるから、今は本当はお昼の3時くらいだから、眠くない人もいるかもしれないね」といっていたことを思い出しました。あんなにみんな飛行機の中で眠っていたから、もう眠れないとかじゃなくて、時差で今がお昼にあたるから眠れないってことだと思うのですが、そのときはまだ時差が体にどんなふうな影響をおよぼすのかは、実感していませんでした。
 お部屋の向かいには緑の多いなか、大きなモスク(イスラム教の教会?)のような建物が見えました。私はベッドのなかで、また海の上に映っていた三日月のことを考えていました。波に映った月はキラキラ輝き、時には消え、また現れて、まるで海にうかんでいるようでした。私はその波に心をうかべているような気持ちになり、少し眠ったり、夢をみたり、また目覚めたりしながら、朝がきたのでした。

 朝、お散歩に行く約束をしていたから、5時に大谷さんのお部屋に電話をしました。5時半にロビーでと約束して、5時20分くらいに、お部屋を出たら、あれ?カギがかかりません。自動ロックだから、ドアを閉じたら、閉まるはずなのです。でも何度しても閉まりません。困ったなあ・・・私はよくドアのことで苦労します。アフリカに行ったときも、どうしても、カギがあけたり閉めたりできなくて、泣きそうになっちゃったし、ああ、今もそう・・・困ったな。でもこのままじゃ、お散歩に行くのは心配です。今は私以外には誰もいないから、なんとかホテルの方に誰にも頼らずにカギが閉まらないとお話しないといけません。
 大事なものを持ってロビーに行くと、ロビーには年配のホテルの方が、立っていて「モーニング」と声をかけてくれました。あの人にお願いしてみよう・・・
「グッドモーニング、ソーリー。アイ キャナット ロック ザ ルーム」
この英語違ってる?その方が英語で何かたくさん返事してくれたのです。とてもゆっくり言ってくださってるのに、私にはよくわかりませんでした。
「ソーリー」とおじぎをして、その人の手を握って、お部屋の方を指差して、手をひっぱったら、その人は笑いながら、一緒にきてくれました。考えたらお部屋のカギについている番号を見せたら、何もお部屋までその方の手をつないでひっぱっていかなくてもよかったのだけれど、そんなことはその時は思いもつかなかったのです。なんとかしなくちゃって思ったら、手をひっぱることしか思いつきませんでした。私のお部屋の前に来て、ドアをひっぱって「あいちゃうんです」というと、その方はやっぱりやさしく笑って、ドアをドーンと閉めました。そしたら、不思議なことに今度はあきませんでした。どうやら、力が足りなかったみたいです。
「サンキューベリーマッチ」お礼をいうと、その方は、またにっこり笑って戻っていかれました。
 ロビーにはもう大谷さんが来ていて、すぐにお散歩に出かけました。外はどんよりと黒い雲が空を覆っていて、朝の空気は肌寒く感じられました。
 ホテルのすぐ裏は古い建物がたくさん並んでいました。その建物は、玄関はひとつだけどアパートのように、たくさんのお部屋がある集合住宅のように見えるのです。でもどの建物にも玄関に大きく番地がひとつだけ書かれていて、そして玄関へとあがっていく階段のところに、ナイロン袋に入れられた新聞がひとつ無造作におかれていました。
 置かれていた新聞がひとつだったから、こんなに大きな建物にはひとつの家族だけが住んでいるのかなとびっくりしたのと、雨が降りそうだから新聞がナイロン袋に入れられていたのだと思うのだけど、こんなふうに、無造作に階段のところに放ってあるのに驚きました。
 よくテレビのアニメーションか何かで、新聞配達の少年が、自転車から降りないで新聞を投げるようにして配達しているのを見たことがあるのだけど、私は、あの少年はすごいコントロールの持ち主で、新聞受けにまるで魔法のように新聞を入れているのだと思っていたから、そっか、本当はこういう配達の仕方だったんだな・・・なるほどって思いました。
 ところで新聞と言えば、街角にいろんな色の大きなゴミ箱のようなものが並んでいたから、私たちは夜、タクシーバスの中からそれを見て、あれはきっとゴミ箱で、ゴミの仕分けがすごくきちんとされているのかなあと話していたのですけれど、朝、歩いて見てみたら、それはゴミ箱じゃなくて、いろんな新聞が売られている自販機みたいなものでした。
 新聞ひとつにしても、場所によっていろいろと違うのですね。やっぱり私はお散歩が好きです。どこかへ行く目的で、歩くのじゃなくて、何かを感じるために、お散歩ってある気がするのです。観光地を回っていたり、車の中から見ていただけでは知ることができないものをお散歩ではたくさん見つけることができますもの。
 建物にそって歩いていくと公園に出ました。
「あ、イヌ、イヌ・・・」
私たちが行く前を男の方と犬がお散歩をしているのが、見えたのです。
 うれしい!!お散歩に出たら、犬に会えるかなあ・・・犬をお散歩させている人に会えるかなあ・・・そんな期待があったのです。私は犬が大好きです。猫も好きだけど、でもでも犬が好き。私の家にはいちじくという名前の犬がいます。小林さんのおうちにも、それから大谷さんのおうちにも犬がいます。みんな犬が大好きだから、会うと犬の話をよくします。今回の旅でもそうでした。
 犬を見つけたら、もうたまらなくて、そばに行ってしまいます。その犬はすべすべの肌の、足も体も細い、顔の長い犬でした。どこかで見たことがあるような犬です。もしかしたら前の年の旅行のエジプトでよく見かけた種類の犬じゃないでしょうか?
「グッドモーニング?」声をかけると、犬をつれていた男の人も、すぐの笑顔で「グッドモーニング」と答えてくれました。
 もう挨拶をしてしまったのに
「なんていったらいい?写真とってもいいですか?って聞いていい?」
大谷さんに言うと
「メイ アイ テイク ア ピクチャー?」って大谷さんが聞いてくれました。
それからたぶん大谷さんは「この犬の名前は何ですか?」とか「種類はなんですか?」と聞いてくれていたのだと思います。そしてやっぱりこの犬はサルーンという種類のエジプトの犬でした。
 その男の人は、私が犬と仲良しになったり、写真をとってもらったりしたあと、「どこから来たの?」「いい旅をしてね」と言ってくださいました。
 「あの犬、可愛かったね」そう言うと、すぐにまた向こうに犬が見えました。、
「あ、イヌ、イヌ」今度は女の人が大きな白い犬を連れて歩いていました。
そばに行くと、今度は女の人のほうから「モーニング?」と私たちに声をかけてくれました。
 「ねえ、『モーニング』って言うと、みんな『モーニング』って笑顔をかえしてくれるし、目が合うだけで笑いかけてくれる気がする・・・」
「本当だね。日本ではそんなふうにする?しないよね」
「うん、ここでは、みんなただ、すれ違ってるだけなのに、笑顔をかえしてくれるんだよ。どうしてかな」とても不思議でした。近所にいて、お顔を知っているとかじゃないのです。ぜんぜん知らない違う国に来ている旅人にも、ボストンの人はみんな親切でした。そのあとにも、私たちに質問をしたり、いい旅をしてねと、声をかけてくれました。
どこから来たの?楽しい旅?これからどこへ行くの?犬が好きなの?って。こちらが心さえ開いていれば、みんなが友達になってくれるように私には思えました。 
 雨がポツポツ降ってきて、今にも大粒の雨が降ってきそうだったけれど、気分はとても晴れやかでした。
 コンビニにもまた入ってみました。家へ絵葉書を出したかったのです。中をぐるぐる周って探してみても、みつかりません。お店の人が「何を探しているの?」と声をかけてくれました。大谷さんがはがきだと答えていたら、「はがきはここには残念ながら売ってないよ。グリーンカードやバースディカードはあそこに売ってるよ」と教えてくれたあと、一人の人を指差しました。その人が
「僕は日本にいました。日本語も少しだけ話せます。あなたはどこから来たの?東京?京都?札幌?」などと聞いてくれました。
 他のお店の人も、集まってきてくれて、「いい旅をね」なんて言ってくださるので、やっぱり私はとてもうれしく、そして誰もがこんなにはじめての私たちにやさしくしてくださるのが不思議な気がしていました。
 雨が強くなったので、一度ホテルに戻って、傘をとってきて、もう一度外に出て、今度はホテルの前の方を歩きました。
 とおりにはボストン交響楽団の店という楽器やさんがありました。うわあ・・・すごい!!大学の時に大学のフィルハーモニーにいました。演奏はすごく下手だけど、聞くのは好きでした。だから、ボストン交響楽団と聞いただけで、ドキドキしてしまいます。小沢征爾さんもここにこられるのかななんてショーウインドウの中をのぞいていたら、突然、大谷さんが
「小林さんだ!!」と言いました。小林さんにそっくりな人が歩いているという意味かなと思ったら、本当に小林さんが一人で向こうからやってこられて、朝ごはんをみんなで食べるところを探しているのだと言うのです。
 私たちが楽しく旅行を続けられるように、小林さんは見えないところでいろんなことをしてくださってるのですね。

 

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