セーラームーンS:Special Story
      改訂版『でも恋なんかじゃない!惑いのまこちゃん』



 突然降り出した強い雨の中、まことは去りゆく少年の後姿を呆然と眺めていた。
「・・・・・・・・どうして?」
 そう呟いた彼女の目は、あたかも決壊寸前のダムのごとく涙に滲んでいた。
 あまりにも突然切り出された別れの言葉。昨日までは冗談で笑いあっていた公園。
楽しかった日々----------。
 だが、今となっては、そのどれもがまことには遠い日の出来事のごとく思えた。

 ダダダダダダッ・・・・・ますます強くなる雨の連弾。
 それでもまことは立ちすくんでいた。
 いや、今の彼女にはそんなことはどうでも良かった。ただ、このままどこかへ消
え入ってしまうような感情だけが、その心の中を支配していた。

(----------?)
 不意にまことを叩きつけていた雨が、何かによって遮られた。
 まことが見上げると、そこには見知った顔があった。
(・・・・・・・・篠崎君?)
 そっと、まことに傘をさし出していたのは、幼な馴染みの篠崎だった。
 その瞳には、やさしい光があふれていた。それは、我が子を見守る母親のような
慈愛に満ちた光だった。
 まことは、まだ潤んだ目で篠崎を見つめると、そのまま、その胸の中へと崩れ落
ちるように飛び込んでいった。
 だが、手をのばせば届くような距離であるにも関わらず、彼女の手は決して篠崎
には触れられなかった。
 いや、それどころか、逆に少しづつ遠ざかっていくような感じさえした。
(・・・・・・・・待って)
 まことは必死になって手をのばした。だが、篠崎の姿は少しづつ遠ざかっていく。
 それでも彼女は、篠崎のそばへと近づこうとした。しかし、その姿は、思いとは
うらはらに、どんどん小さくなっていく。
 やがて、篠崎の姿がぼんやりとしていき----------


 PiPiPiPi--------------------------
 鳴り出したベルの音で、まことは目を覚ました。
 カーテンの隙間からふんわりとした朝の光が差し込んでいた。
(・・・・・・・・夢か。)
 まことは、起きがけのぼんやりした頭で今見たばかりの夢の事を考えていた。
 その夢は、彼女がまだ十番中学へ転校する前の思い出だった。

 PiPiPiPi--------------------------
 いまだ鳴り止まぬベルを止めようともせず、まことはどんよりとした瞳でベッド
の脇に飾ってある鉢植えを眺めていた。だが、その焦点は、まるっきり定まっては
いなかった。
(それにしても、こんな夢を見てしまうという事は、あの事がきっと・・・・・・・・)

 夢がその人の心理を映す鏡であるならば、今のまことの心の中は、とても明るい
ものとは言えなかった。それは例えていうなら、今にも雨が降りそうな灰色の雲が
いっぱいに広がった空。そんな感じだった。

 PiPiPiPi---------------------------
 ベルはまだ鳴っていた。
 その音を止める事すら忘れて、まことは更にしばらくの間、ぼーっとしていた。

 ----------どれくらいの時間が経ったのだろう。
 やがて、彼女はふと時計へ視線を移し・・・・・・・・
 ・・・・え?
 その目が、大きく見開かれた。
「あああっ、もうこんな時間っ! 大変、遅刻するっ!!」
 ほとんど叫びに近い声を上げると、まことはあたふたとベッドから這い出した。

          ☆   ☆   ☆

 午前の授業は、いつもと変わりばえのしない退屈さだった。

「えー、それでは次の英文の訳を誰かにしてもらいましょう。」
 静かな教室の中に、英語教師の春菜の声が響き渡る。
「・・・・・・・・では、木野さん。お願いしますね。」
 春菜の指名したのは、まことの名前だった。
 だが、彼女はまるで聞こえてないかのごとく、ぼうっと黒板の方を眺めていた。
「聞いてますか、木野さん?」
 諭すように言う春菜の声。
 まことのうしろの席に座っている生徒が、彼女の背中をちょんちょんっとつつく。
 この時になって、ようやくまことは、ハッ我にかえったような表情になり教科書
に目を移した。
「木野さん。」
「・・・・は、はい。」
 まことは慌てて身を縮めたが、既に遅かった。
「何をぼうっとしていたのですか?」
 咎めるように言った春菜の声には、明らかに怒りがこもっていた。
「では、この英文を訳して・・・・。」
 春菜が、そう言いかけた時、

 キーンコーン・・・・・・・・
 授業の終了をつげるベルがなった。

「じゃあ、この問題は、次回にしてもらうとして、今日はこれでおしまい。」
 春菜は、ふうっとため息をつくと、教科書をかたずけた。

          ☆   ☆   ☆

 昼休み。それは一日の学校生活の中で、もっとも貴重な時間。
 ここ麻布十番中学校でもそれは例外ではなく、先ほどから仲の良い生徒同士が、
それぞれにグループを作って楽しそうにお弁当を食べていた。
 運動場では、いつの間に弁当を食べ終えたのか、気の早い男子生徒がサッカーに
興じていた。

「おっひるだ、お昼だ!おなかのラッパがぷぷぷのぷー。」
 中庭では、ノーテンキな歌とともに、今にもスキップしてしまいそうな軽い足取
りの少女が一人。もちろん、十番中学の爆弾元気娘、月野うさぎである。
 彼女の振り回すその手には、兎の絵の刺繍がほどこされた、弁当入りの巾着が握
られていた。
 暑さのためか、夏の間はあまり外へは出なかったうさぎであったが、ここ最近は
めっきり秋らしくなってきた事もあり、しばらく前から彼女はまことと共に中庭で
お弁当を食べることにしていた。

 うさぎがいつもの場所に来た時、既にまことはそこに居た。後姿ではあるが、他
の人と制服が違うので一目で彼女と判る。
「ま〜こちゃん。」
 うさぎは、まことの後ろからそろりと近づくと、静かな口調で声をかけた。
 しかし、まことは振り向かなかった。
(あれ、聞こえなかったのかなぁ?)
「まこちゃ〜ん。」
 うさぎは、先程よりもやや大きな声で呼びかけてみたが、やはり反応はなかった。
 怪訝な表情を浮かべながらも、うさぎはまことの横にまわりこんで、すううっと
大きく息を吸いこみ、
「まこちゃああああああああああああああん。」
「わあああっ、びっくりしたぁ!!」
 ふいに目の前数センチのところに現れたうさぎの顔を見て、まことは一瞬後ろへ
のけぞった。
「なんだ、うさぎちゃんかぁ。驚かすなよ。」
「驚かしてなんかいないよお。さっきから、ずっと呼びかけていたのにぃ。」
「・・・・・・・・え、そう? 全然聞こえなかったなあ。」
 言って、まことは頭をぽりぽりと掻いた。
「どうしたの、まこちゃん。ぼーっとしちゃってぇ。」
 ようやく我に返ったまことを見て、うさぎはその隣へ腰を降ろす。
「え、あたしが・・・・・・・・ぼーっとしてた? やだなあ、うさぎちゃん。」
 いつも通りの笑顔を浮かべつつ、あっさりと否定するまこと。
 しかし、あまりにも彼女らしくないその物言いに、うさぎは何か言いようのない
違和感を感じた。

 とりあえず巾着袋からお弁当を取り出しながら、うさぎは横目でまことの表情を
盗み見る。
「ふぅ。」
 まことは、軽いため息をつくとそのまま空を見上げた。その表情には、いつもの
精彩さはひとかけらもなかった。
「まこちゃん。」
「・・・・ん、何?」
「何か悩みごとでもあるんじゃないの?」
 ついつい問いかけてしまう、うさぎ。
「悩み・・・・・・・・?」
 まことは、一瞬戸惑った様な表情を浮かべ、
「あはははは、や、やだなあうさぎちゃん。そんなもんないよ。----------ほら、
この通り元気、元気!」
 そう言いながら、まことはラジオ体操でもするがごとく、両手をブンブンと振り
回す。
「まこちゃん・・・・・・・・?」
 うさぎは、まことの顔をまじまじとみつめた。
 確かにまことも人間である以上、始終にこにこしていられる訳ではない。泣いた
り、笑ったり、時には怒ったりすることもあるだろう。だが、何かに悩んだ時に、
それを必死に隠そうとす彼女というのは、少なくともうさぎの知る限りにおいては、
これまでに無い事だった。

(・・・・・・・・あれ?)
 いつもと様子の違うまことの姿を、戸惑いながら見つめていたうさぎは、やがて
ひとつの異変に気がついた。
「まこちゃん。」
「ん?」
「そのお弁当。」
「え?・・・・・・・・ああ、これかぁ。いやあ、今朝はちょっと寝坊しちゃってね。作る
時間が無かったんだ。」
 そう言ったまことの手には、パンと牛乳が握られていた。
「だけど、こういうのもたまにはいいかなぁ、なんてね。あははははぁ。」
 てれを隠すように笑うまことを見ながら、それでもうさぎは、何か釈然としない
ものを感じていた。
 理由はどうあれ弁当を自分で作ってこないまことというのは、初めてのことだっ
たからである。

           ☆   ☆   ☆

「・・・・と、いう訳なのよ。」
 うさぎは、レイ、亜美、美奈子の三人に、昼間の出来事を話し終えると、目の前
にあるお茶を一口すすった。
 放課後の火川神社では、いつもの通り勉強会が開かれようとしていた。
 しかし、もうすぐいつもの集合時間だというのに、そこにはまことの姿はまだ無
かった。

「ようするに、まこちゃんが変って事なんでしょ?」
 レイは、手に持ったシャープペンシルの先で、目の前にあるノートをトントンっ
とつつきながら言った。
「そうなのよ、なんだかぼーーーっとしちゃってさぁ。何を聞いてもうわの空って
感じでね。」
 うさぎは、レイの顔を見上げるようにして言った。
「またいつもの病気なんじゃないの?」
「病気って、あの『誰でも好きになる』とかいう奴?」
 さも面白そうに、口を挟む美奈子。
「うーん、とてもそんな感じには見えなかったんだけどなぁ。」
 釈然としないといった雰囲気で肩をすくめるうさぎ。
「でも、まこちゃんが『なんでもない』っていうのなら、本当に大した事ないのか
もしれないわよ。」
 美奈子は、あくまでも楽観的に考えているらしかった。
「ま、何にしても、こうしてなんだかんだと言ってるよりは、まこちゃんに聞くの
が一番いいんじゃないのかしら?」
 レイが至極もっともな意見を述べた。
「う〜ん、それはそうなんだけどねぇ。」
 言って、うさぎは苦い笑いを浮かべた。
 今のまことがそう簡単に話してくれるとは、思えなかったからである。

「・・・・あ、そういえば--------。」
 不意に何かを思い出したように、亜美が口を開いた。
「ん、亜美ちゃん、何か知ってるの?」
 思わず、机に身を乗り出すうさぎ。
「・・・・いえ、知ってるって訳じゃないわ。ただちょっと気になる事があるだけ。」
「気になる事?」
「ええ、実は昨日・・・・。」
 亜美はそう言いかけて・・・・・・・・そのまま言葉を飲み込んだ。
「・・・・ん、どうしたの?」
 うさぎの問には答えず、亜美はしばらく何か考えごとでもするように、こくんっ
と首を傾け、
「・・・・・・あ、ごめんなさい。今のは気にしないで。これはあたしの思い過ごしかも
しれないから・・・・。」
 言って、亜美はこの話題を打ち切るかのように、手をぱたぱたと振った。
 さすがのうさぎも、こういう風に言われてしまうと、それ以上の追求はできない
と思ったのか、一度座り直して、
「うーん、やっぱりレイちゃんの言うように、本人に聞くべきなのかなぁ。」
 呟くように言った。
「そうねぇ。それがいいんじゃないかしら?」
 美奈子は相槌を打ち、
「ほら、昔から『案ずるよりも産むが易し』っていうものね。」
 人指し指をぴっと立てた。
 と、同時にうさぎとレイは、二人そろって亜美の方に視線を集中させた。
 つられて亜美は、慌てて美奈子の顔をのぞき込みながら、
「美奈子ちゃん。それを言うなら、『案ずるよりも・・・』」
 諭すような口調で言いかけて、そのまま黙りこむ。

 ----------しばしの沈黙。

「あ、合っていたわ。ごめんなさい。」
「えええっ!!」
 一斉に驚愕の叫びをあげるうさぎとレイ。
「美奈子ちゃんが、諺を正しく言えたっ!!」
「まさかっ! とても信じられないわっ!!」
 二人は、心底驚いたように声をはりあげた。
「あ、あんたらねぇ。」
 美奈子は、思わず拳をフルフルと震わせた。

「うさぎちゃん、レイちゃん。今はそんな事を言ってる場合じゃないでしょ。」
 話がそれかけた所を再び元へ戻したのは、亜美だった。
「確かに、レイちゃんの言った通り、何があったかは、まこちゃんに聞くのが一番
いいと思うわ・・・・それでね--------。」
 そう言って、亜美は一端言葉を切り、
「この事は私にまかせてもらえないかしら? やっぱり、気になる事があるから。」
 そう言って、同意を求めるように、うさぎ達三人の顔をゆっくりと見回した。
「亜美ちゃんがそういうのなら・・・・・・。」
 レイが何かを言いかけた時、

「やあ、ごめんごめん、遅くなっちゃって。」
 突然、まことの声がして、部屋の襖が開け放たれた。
 そこには、いつもと何ら変わらぬ表情のまことの姿があった。
「遅かったわねぇ。」
 誰からともなく、声がかかる。
「あ、悪い悪い。ちょっとクッキーを焼いて来たんだ。ほら、勉強ばっかりじゃ息
がつまるだろ。だから休憩の時にでも皆で食べようかと思って。」
 まことは、大きなクッキー缶を鞄から取り出すと、掲げるように皆に見せた。
「わあ、まこちゃんのクッキー久しぶり。今すぐ食べようよ。」
 うさぎは、よだれでも垂らさんばかりに叫んで、目をらんらんと輝かせた。心は
既に勉強などそっちのけといった感じである。
「そんなに慌てないでも、クッキーは逃げてかないよ。」
 やれやれといった風に、苦笑するまこと。
 そんな二人のやりとりを見ながら、美奈子はレイの袖口を引っ張った。
「ねぇねぇ、レイちゃん。まこちゃんって、全然いつもの通りじゃない?」
「そうね。あんまり心配することないかもよ。」
 そう言ったレイもまた、安堵の表情を浮かべていた。
 ただ一人、亜美だけは、何も言わずにじっとまことの目を見つめていた。

           ☆   ☆   ☆

 その日の帰り道。まことは亜美と並んで歩いていた。
 しばらくの間、二人は特に話をするでもなく、もくもくと歩を進めていた。
 ----------どれくらい歩いたろうか?
 やがて、意を決したかのように亜美は口を開いた。
「まこちゃん。」
「・・・・・・ん。何だい?」
「まこちゃん、何か悩みでもあるの?」
 亜美は、まことの顔をじっとのぞき込むと、単刀直入に用件を切り出した。
「え? 悩み?」
 一瞬、まことの顔に戸惑いの色が浮かんだ。
「そんなもの無いよ。」
 あっさりと否定するまこと。
 だが、亜美はそんな答えをまるで聞いていなかったかのように言葉を続けた。
「・・・・・・今日のまこちゃん、時々寂しそうな瞳をしてた。」
 やさしい眼差しで、まことを見つめる亜美。
「だけど、なんて言うのかな、無理に明るく振る舞おうとしてるみたいだった。」
「・・・・・・・・・・。」
 まことは、静かに亜美を見つめ返した。
 亜美は少し照れたような顔でうつむくと、
「・・・・・・ふふっ、なんだか今日のまこちゃんって、一昔前の私みたい。人に心配さ
れるのが恐くて、それでまわりの人に迷惑をかけないようにと思って、平気だって
顔して----------。」
 やや自嘲気味に笑って、亜美は軽く目を閉じた。
「だけど、大丈夫だ、大丈夫だって言っているうちに周りの人もそうとしか思わな
くなって、そうしてどんどん自分の中に閉じこもって・・・・・・。」
 彼女の言葉の最後の方は、少しずつ小さくなっていった。
「・・・・・・亜美ちゃん。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」

 亜美は、一瞬の躊躇の後、再びまことの顔をのぞき込んだ。
「まこちゃん・・・・・・。篠崎君と何かあったの?」
「えっ!?」
 亜美の口から突然出てきた名前に、まことは驚きの声をあげた。
「昨日、まこちゃんが篠崎君と一緒に歩いている所を見ちゃったの。まこちゃんが、
何を悩んでるのかは知らないけれど、関係のあることじゃないかと思って・・・・・・。
 あ、気に障ったようなら、ごめんなさい。」
 亜美はそう言って、地面に視線を落とした。

 ----------しばらくの間、二人の歩く足音だけが、辺りに響き渡る。

「・・・・・・かなわないなぁ、亜美ちゃんには----------。」
 やがて、まことは亜美の瞳を覗きこみながら、照れたように笑った。
「いいよ、話すよ。だけど、本当に悩みとか、そういうものじゃないんだ。」
 そう言って、彼女は話し始めた。

           ☆   ☆   ☆

 話は、前日に遡る。

 キーンコーン・・・・・・・・
 終業のベルの音が鳴り終わるや否や、先程まで静まりかえっていた学校内にも、
都会のラッシュアワーのような喧騒が戻ってきた。
 それは、授業を終えてクラブ活動へ行く生徒であったり、或いは街へ遊びに行く
相談をしている親しい友達同士の会話であったり・・・・。
 そんなどこでも見られるような光景の中、まことはクラスの生徒たちと挨拶を交
わした後、一路帰途についた。

 通い慣れた道の途中には、一軒の小さな花屋がある。
(----------あれ?)
 いつもと同じように、その前を通りかかったまことは、その店先にしゃがみこむ
篠崎の姿を発見した。どうやら彼は品定めをしているようだが、花に対してあまり
知識がないらしく、自分の欲しい花を決めかねている様子だった。
「篠崎君。」
「え、・・・・・・あ、まこちゃん。」
 呼びかけられて振り向いた篠崎はそこにまことの姿を確認すると、その場で立ち
上がった。
「珍しいね、篠崎君がこんな所にいるなんて。一体何してたんだ?」
「ちょっと、お見舞いに持っていく花を買おうと思ったんだけど・・・・・・。」
「お見舞い?」
「そう、僕のクラスに事故にあった子がいてね。だけど、どれにしたらいいのか、
迷っちゃって・・・・・・。」
 篠崎は苦笑を浮かべた。
「なんだ、そんな事か。じゃ、あたしが選んであげるよ。」
 まことは篠崎の手を引っ張ると、そのまま店内へと入って行った。

 店の中には、夏を終えてやや秋色に染まりかけた花がきれいに並んでいた。夏の
強い日差しの中に漂う甘酸っぱい密の香りとは少し違った、ほのかな香りが心地よ
かった。
「お見舞い用の花だったら、これとこれと、あ、こんな組合わせでもいいな。でも
これは少し香りがキツイし・・・・・・。」
 まことが、喜々として花を選び始めた時、
「いらっしゃいませ。何かお求めでしょうか?」
 横合いから現れたこの店の店主が、彼女に声をかけた。
「じゃ、これとこれと、それから・・・・・・。」
 まことは数種類の花を指さすと、それを束にしてくれるように頼んだ。
「少々お待ち下さい。」
 そう言って、店主は一旦店の奥へと戻っていった。

 まことの手際の良さを見て、篠崎は心底関心したように言った。
「へぇー、まこちゃん詳しいんだね。」
「まあね。こう見えても花については、ちょっとはうるさいんだ。」
 まことは、得意満面な笑みを浮かべ、
「・・・・・・だけど、その入院している子ってどんな子なの?」
 何気なく思い付いた疑問を口にした。
 篠崎は、ほんの少し嬉しそうな顔をして、
「・・・・・・大切な人。」
「えっ!?」
 篠崎の言葉の意味するものが解らず、まことは一瞬言葉を失った。
「それって、もしかして----------彼女?」
 その問いかけに、篠崎は黙って頷いた。

「お待たせしました。」
 ちょうどその時、手ごろな大きさになった花束を持って戻ってきた店主が、二人
に声をかけた。
 篠崎は、代金を支払うとまことと共に花屋を後にした。


「・・・・・・ところで、篠崎君の彼女って一体どういう子なの?」
 まことは、興味津々といった顔で尋ねた。やはり彼女とて女の子。この手の話に
興味があるのは当然の事といえよう。
「どういう子ってその・・・・・・。」
「ほら、ぐずぐずせずに、さっさと言いなさいよぉ。」
 まことは、言い淀む篠崎を肘でグリグリつつく。
「だけど、その・・・・・・・・。」
 歯切れの悪い言葉とは裏腹に、篠崎はまんざらでもない表情を浮かべた。
「ほら、ほらぁ。」
 なおも篠崎をつつくまこと。
 そんな彼女の攻撃に、さすがに篠崎も観念したのか、照れたように頭の後ろに手
をやると、
「とっても・・・・・・可愛い子。」
「おっ。言ったなっ・・・・・・・・こーのこのっ。」
 まことは更に篠崎にじゃれついた。
「へへへへへぇ。」
 嬉しそうに笑いながらも次第に真っ赤になっていく篠崎。
 だが、そんな彼を見ていたまことは、不意に自分でも何故だか分からない淋しい
気持ちを胸に覚えた。
「そ、それじゃ、あたし今日はこれから、行く所があるから。
 ・・・・・・・・じゃあね。彼女をしっかりつかまえておくんだよっ。」
 少しうわずった声でまくしたてると、まことはその場から駆け出していた。

           ☆   ☆   ☆

「------あたしと篠崎君は小さい頃からずっと一緒にいたから、お互いの事はなん
でも知っていると思っていたんだ。
 だから、篠崎君があたしの知らない所で、他の人とつき合っているって知った時、
本当にびっくりしたんだ。」
 そう言ってまことはぴたりと歩みを止めた。それに合わせて、亜美もまた立ち止
まる。
 夜道を照らす街灯の明かりが、二人を照らしていた。
「だけど、勘違いしないでくれよ。別に篠崎君の事が好きだったとか、そういうん
じゃないんだ。ただ・・・・。」
「ただ?」
「ただ、なんていうのかな。篠崎君がいつの間にかあたしの手の届かない所へ行っ
てしまったような気がして----------。」
 まことの言葉の後半は、やや途切れがちになっていた。
「まこちゃん・・・・・。」
 亜美は何かを言いかけて言葉をのみこんだ。

 全ては、まことの気持ちの整理がつくまでの時間が解決する問題。彼女自身にも、
それが解っているのだろう。だからこそ、まことは周りの人に心配をかけないよう
にと、無理に明るく振る舞っていたのだ。
 しかし、そんな彼女の思いが解るだけに亜美はどうする事もできず、そしてまた、
自分から相談にのると言っておきながら、まことに対して何も言葉をかけてあげら
れない自分に、もどかしさを感じていた。

「--------だけど、なんだか亜美ちゃんに話したら、少しすっきりしたよ。」
 呟くように言って、まことは微笑を浮かべた。
 その瞳は、さっきまでのどんよりとした色とは少し違っていた。
「じゃ、今日はもう遅いから帰るよ。それじゃあ、また明日学校でね。」
 亜美に話して急に照れくさくなったのか、まことはくるりと背を向けると脱兎の
ごとく駆けていった。
(--------きっと大丈夫。)
 何故かは解らないが、走り去るまことを見ていた亜美は、ふとそんな気がした。

           ☆   ☆   ☆

 一人暮らしの真っ暗な部屋に、明かりが灯った。

 まことは、手に持った勉強道具をドサッと机に置くと、そのまま体をぶつけるよ
うに、鏡台の前にある椅子に座った。
「ふぅっ。」
 軽いため息をひとつついた後、おもむろに髪をほどいた。まるで、風に舞う木の
葉のように、ふわりと髪が降ろされる。
 少しだけ開けられた部屋の窓からは、秋の虫達の鳴き声が聞こえてくる。
 まことには、一人で居たいような、それでいて、誰かにそばにいて貰いたいよう
な、そんな複雑な思いの夜だった。

 トゥルルルル----------トゥルルルル----------

 まことが櫛を手にして髪をとき始めた時、電話のベルが鳴った。
「はい、木野です。」
『あ、まこちゃん?』
「なんだ・・・・・・・・・・うさぎちゃんかぁ。」
『なんだは、無いでしょ。なんだは。』
 言葉とはうらはらに、うさぎの声は楽しそうだった。
「あ、ごめん、ごめん。で、何かあったの?」
『いやあそのお、まこちゃん、さっきレイちゃんちにクッキーの入れ物を忘れてっ
たでしょ。あれ、結構きれいな缶だから、レイちゃんがどうしようかって困ってた
しぃ・・・・・・』

 電話の向こう側では、少し困ったようなうさぎの声がした。だがクッキー缶の事
など、うさぎには単なる口実にすぎなかった。昼間のまことの事がやはり気になっ
て電話をかけた。それだけのことだった。
 しかし、いつもの事ならばそんなうさぎの暖かい心配りも、今のまことにはうっ
としいだけだった。
「あー、分かってるよっ。明日もどうせまたレイちゃんとこへ行くんだから、その
時にでも、引き取るよっ。」
 吐き捨てるように言うと、彼女はそのまま一方的に電話を切った。

 静けさが、また部屋の中に広がっていった。

「・・・・・・・・・・ばっかみたい。」
 しばらくして、まことはまるで誰かを責めるような口調で、そう呟いた。

『人に心配されるのが恐くて、平気だって顔して・・・・。
 だけど、大丈夫だ大丈夫だって言っていると周りの人もそうとしか思わなくなっ
て・・・・・・。』
 まことには亜美の言葉が今更のように思い出された。

 実際のところ、まことの性格ほど損な性分は無いのかもしれない。
 情熱的で包容力がある反面、その実いつも必ずどこかにもう一人のまことがいて、
自分の気持ちを素直に表す事にブレーキをかける。
 一見すると人あたりの良いまことの性格は、人とのつき合い方に対する臆病な心
の裏返しなのかもしれない。

 ----------そういえば、自分の気持ちを誰かに本気でぶつけたのは、初めてのよ
うな気がする。

 ふと、まことはそう思った。その瞬間、何故か急に彼女は今まで悩んでいた自分
が滑稽に思えてきた。
「本当・・・・・・・・ばかだね。」
 まことは再び呟いて、泣き笑いした。

           ☆   ☆   ☆

 ----------翌朝。

「まこちゃああん。」
 いつもの時刻、いつもの道を歩いて学校へ向かうまことを、後ろから呼びかける
声が一つ。
 まことはその声に立ち止まり、後ろを振り向いた。そこには、少し遠くから駆け
てくるうさぎの姿があった。

 さすがに、昨晩あんな事があったばかりで、まことは一瞬その場から逃げ出した
い衝動にかられた。
「おはよっ、まこちゃん。」
 だが、うさぎはまるっきりいつもと変わらぬ様子で、声を張り上げた。
「あのね、まこちゃん。3丁目にね、今度新しいアイスクリーム屋さんができるん
だって。」
 いかにも、自分が一番先に見つけたかのようにはしゃぐうさぎ。
 もちろん、彼女とて傷つかなかった訳では無い。いつも遅刻寸前に学校へ来る筈
のうさぎが、こんな時間に来ていることでもそれは解る。
 だからこそ逆に、まことにとっては、彼女が昨日の事を蒸し返さない気遣いが、
何よりも嬉しかった。
「うさぎちゃん・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・ん?」
 まことの呟きに、うさぎが怪訝な表情を浮かべた時、
「おはよう。まこちゃん。それにうさぎちゃんも。」
 後ろから、亜美の声があがった。
「あ、亜美ちゃん。おはよう!!」
 元気な声をかけるうさぎと、微笑みを返す亜美。二人ともいつもと変わらぬ笑顔
だった。
「ねぇねぇ、聞いてよ亜美ちゃん。3丁目にさぁ・・・・・・。」
 早口でまくしたてるうさぎ。
 亜美はそれを聞きながら、ちらりとまことの顔をのぞきこんだ。
 その瞳には、昨日までの鈍い光は既になく、透き通った輝きが戻って来ていた。
『良かった。まこちゃんが元気になってる。』
 亜美の目は、まるでそう告げているようだった。

「それでぇ、そのアイスクリーム屋さんなんだけどぉ・・・・・・・・。」
 上機嫌で話し続けるうさぎを見ているうちに、まことは何故か力が涌いてくるよ
うな気がした。

(--------もう逃げてなんかいらんないよね。)
 まことは自分自身を励ますように、心の中で呼びかけた。

「だから、開店日には、みんなで一緒にぃ--------ってまこちゃん。聞いてる?」
 突然無口になったまことを見てうさぎが尋ねた。
「ああ、ごめんごめん。」
 そう言って、まことは微笑んだ。それは、彼女が久しぶりに見せた心からの笑顔
だった。

                               Fin

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