『今夜は帰さない』



『―――夕方6時から9時までの降水確率は60パーセント。夜9時から夜半に
かけては80パーセント。あす日曜日の関東地方は1日中ぐずついた空模様にな
るでしょう。波の高さは―――』
「ほんとに降るのかな?」
 テレビから流れる天気予報の声に、あたしは部屋の窓から少し雲のでてきた
夕焼け空を眺めた。
 昼すぎまではとてもいい天気だったのに、なるほど西の空のむこうにはかな
り重苦しい感じの雲の群が見える。
「ま、いいか」
 どうせ明日は出かける用事もないし…。
 そうひとりごちて、あたしは部屋の中を振り返る。
 部屋の真ん中に置かれたちゃぶ台の上には、食べ散らかしたお菓子の袋やペ
ットボトルが乱雑に散らばっている。
 つい今しがたまでここにはうさぎちゃん達がいて、いつものように亜美ちゃ
んを先生にみんなで勉強会をしていたのだ。もっとも最後の1時間はお菓子と
ジュースと雑談に費やされたのだけど。
「さてっと、これ片づけて夕飯の用意でもするかな」
 みんなが帰った後の片づけって、なんか静かすぎて少し寂しい。と言っても
何も今に始まったことじゃないから別にいいんだけどね。
「よっ……あれ?」
 落ちた菓子くずを拾おうとちゃぶ台を動かす。と、そこには座布団に隠れる
ようにして1冊の参考書が落ちていた。
「亜美ちゃんのかな?」
 参考書を拾い中を見ると、重要なポイントに細かく書き込みがしてある。そ
れに加え至るところに赤、黄、橙それに緑と色分けされたマーカーの跡。
 これは間違いなく亜美ちゃんのだな(^^;
 マーカーはたぶん私たちに教えるときの為のもの。きっと他の参考書をだす
時に床に置いて、そのまましまうのを忘れてしまったんだろう。
 明日は日曜だし、月曜日に学校へもってってあげようかな? それともこれ
を届けるのを口実に、亜美ちゃんの家に遊びに行くのもいいかも…。
 参考書のページをぱらぱらとめくりながら、あたしはそんな事を考えた。
 これまで亜美ちゃんの家には、みんなと一緒に勉強会を開くとき以外にも何
度か行った事がある。
 彼女の部屋はなにか落ち着きがあるっていうのか、あたしには不思議と居心
地がいい。特に何かして過ごすという訳でもないのだけど、いつも時間があっ
という間に過ぎてしまうみたいに感じられる。
 何より自分の部屋ということで落ち着くのか、亜美ちゃんの普段見れない表
情も時たま見れたりするのがいいんだよね(^^)
 ピンポーン。
「あ、はい! おっとと…」
 ドアチャイムの音に、あたしは持っていた参考書を落としそうになった。そ
れをちゃぶ台の上に置いて玄関に向かう。
「あ…!?」
 ドアのレンズ越しに外の様子をうかがうと、そこにはうさぎちゃん達と帰っ
た筈の亜美ちゃんが立っていた。
「どうしたの亜美ちゃん? もしかしたら参考書とりにきたの?」
 ドアを開け亜美ちゃんを招き入れる。
「そう、やっぱり置いてっちゃったのね。何か入れ忘れたような気がして鞄を
調べたら参考書が1冊足りなくて、それで引き返してきたの」
 亜美ちゃんは小さく頷いてそう応えると、照れくさそうにくすっと笑った。
「そんな、電話ででも通信機でも言ってくれたら学校に持ってったのに。それ
ともすぐいるものだったの?」
「そ、そういう訳じゃないけど…」
 不意に亜美ちゃんは口ごもり、口元に手をあてて目線を下げる。
「待ってて。いま持ってくるから」
 そんな亜美ちゃんの様子に少し疑問を感じながらも、あたしは部屋に戻って
ちゃぶ台の上に置いた参考書を手に取った。
 ……これ渡すと亜美ちゃん帰っちゃうんだよな。
 ふとそんな思いが頭の中をよぎる。
「まこちゃん?」
 玄関から亜美ちゃんの声。
「あ、ごめん、今もってくよ」
 いけないいけない。さっきの後片づけの時にちょっと寂しいって感じちゃっ
たせいか、なんかあたし、このまま亜美ちゃんに帰ってほしくないって思って
る。
 でも亜美ちゃん、わざわざ参考書取りに戻ってくるってことは、きっと帰っ
てからまたお勉強するんだろうなぁ。
「はい、亜美ちゃん。これで良かったよね」
「えぇ、ありがとうまこちゃん」
 玄関に戻って亜美ちゃんに参考書を手渡す。
 亜美ちゃんは参考書を受け取るとそれを小脇に抱え、持っていた鞄の留め金
をぱちりと開けた。
(それじゃあね)
 次の瞬間にはそう言って亜美ちゃんは帰ってしまう。
「あ、亜美ちゃん。あたしこれから夕食の用意するんだけど…良かったら食べ
てかない?」
 そう思った時には既に、あたしの口はそう言ってしまっていた。とっさの事
だったから、その声は少しうわずっていたかもしれない。
「え?」
 参考書を鞄にしまっていた亜美ちゃんは、案の定ふしぎそうな表情であたし
の顔を見返した。
「ば・ん・ご・は・ん。いっしょにどお?」
 そうだよ、いっしょに食事するくらいならそんなに時間はとらせないじゃな
いか。うんうん。
 そう開き直ると今度は普通に声が出せた。
 でも…外でならともかく、あたしの家で亜美ちゃんと2人っきりで晩御飯を
食べるなんて滅多にない…もしかして初めてかもしれない。
 いつもはみんないるもんなぁ。
 いやいやいや、でも学校から帰るとき亜美ちゃんの塾がない日は大抵いっし
ょに帰ってるし、朝だってうさぎちゃんが寝坊してていない時は、亜美ちゃん
と話をしながら登校する事が当たり前のようになっているんだし、日曜日にい
っしょに出かけたりすることだってあるし、あたしの家で勉強会をする時いつ
も最初に来るのは亜美ちゃんだし…って、なに自分に言い訳してんだろ。
「いいの? もしお邪魔だったら私――――」
「え、あ、いいっていいって。ぜんっぜん構わないからさ」
 今にも断りの言葉を口にしそうな亜美ちゃんに、あたしはぶんぶんと首を横
にふった。
「1人分作るのも2人分作るのも同じだよ。ううん、御飯でも煮物なんかでも
ね、多めに作った方がおいしく仕上がるんだよ。だからいつも多く作るんだけ
ど、1人で食べてると次の日も同じ料理になっちゃってさ」
「そうなの。じゃぁ…ご馳走になっちゃおうかしら」
 口元に手をあて一瞬考えこんだ亜美ちゃんは、けれどもすぐに顔をあげると
そう言って微笑んだ。
「うんっ、そうしなよ」
 あたし今、明らかにほっとしてる。亜美ちゃんが断らなくて良かったって。
 これでもうしばらくは一緒にいられるね。
「でもうさぎちゃん達が知ったら怒るわね。私だけまこちゃんのお料理を食べ
られるなんて」
「! う、うん、そうだね。じゃぁ今日のことはみんなには内緒だよ」
「ふふっ」
 うさぎちゃん達と聞いてあたしは一瞬どきりとした。
 いっしょに御飯を食べるなら、さっきのうちにうさぎちゃん達も誘えば良か
ったのに…とか突っ込まれたら返事に困るところだったよ(^^; 
 もし、今ここにいるのが亜美ちゃんじゃなくて、うさぎちゃんや美奈子ちゃ
ん、レイちゃんだったりしたらあたしは引き留めたかな?
 …そうなんだよなぁ。あたし自分でも気付かなかったけど、いつの間にか亜
美ちゃんといる時間が多くなってるような感じがする。
 ううん、多くなって…る。
 それは勿論、同じ十番中学に通ってるって事もあるし、セーラー戦士として
の仲間だからでもあるんだけど…それだけじゃない気がする。
亜美ちゃんだから誘った…のかな、あたし。
「でも良かった。今日はお母さん遅くなるって言ってたから、夕御飯どうしよ
うか実は迷ってたの」
「ふぅん、相変わらず忙しいんだね。でもそういう事ならなおさら誘って正解
だったかな?」
「えぇ本当に。ありがとうまこちゃん」
「いやぁ、はははは」
 あたしの方が誘ってるのに、お礼なんて言われるとなんか妙に照れくさい。
頬のあたりがこそばゆくなちゃうね(^^)
「よーし、じゃぁちょっと腕によりをかけて作っちゃおうかな。さ、亜美ちゃ
んあがってあがって」
「ええ」
 亜美ちゃんが靴を脱ぐ。
 視界の片隅にその様子を収めながら、あたしは今冷蔵庫にある材料で作れる
最高のレシピを考えていた。

         ☆         ☆         ☆

「ごちそうさま。とってもおいしかった」
「どういたしまして」
 湯呑みに入れたほうじ茶を亜美ちゃんにすすめながら、あたしは心の中でほ
っと胸をなでおろす。
 腕によりをかけ、とは言っても元々ありあわせの材料しかなかったから大し
たものは作れなかったけれど、まぁ一応は気にいってもらえたみたいだな。
「…はふ。食後はやっぱ日本茶だよね」
「ふふ、そうね」
 自分の分のお茶を入れて一息つく。ちらっと時計に目をやると時刻は7時少
しばかりまわったところ。
 うん、まだまだ時間はあるよな。
「土曜の夜っていいよね。次の日が休みだから思いっきり夜更かしできるし」
「まこちゃんはいつも夜は何をしてるの?」
「そうだなぁ。テレビ見たりとかラジオ聞いたりとかかな。本読んだりお風呂
入ってすぐ寝ちゃう時もあるけどね。亜美ちゃんは?」
「私も本を読んだりとか、あとはその日の授業の復習とか次の日の予習とか…」
 …さすがに。まぁ、亜美ちゃんらしいと言えばらしい(^^;
「…やっぱりつまらないと思う?」
 あたしの表情をどう読んだのか、亜美ちゃんがそう聞き返す。
「そんなことないと思うよ。どう過ごすかは人それぞれだし、他の人と較べて
みたって意味ないんじゃないの」
「そうかしら?」
「そうだよ」
 湯呑みのお茶をこくりとひと口。亜美ちゃんの様子を伺う。
 彼女は口元に手をあてて、いつもの考えるポーズ。
「…みんなは今頃なにしてるかしら?」
「そうだなぁ…」
 みんなは今頃はまだ夕食の途中かな? 食事しながら今日あった事とか色々
話してたりするんだろうな。
 食事の後はテレビでも見ているのかな? 土曜の7時くらいと言ったら、レ
イちゃんなら絶対アニメ見てそうだなぁ(^^)
 それでうさぎちゃんや美奈子ちゃんあたりだと「いつまでもテレビばかり見
てないで勉強しなさい」とか言われてるんじゃないかな。
 あたしのそんな想像に、亜美ちゃんはくすくすと笑う。
「そんな感じがするわね(^^)」
「だろ?」
「…………私ね」
「うん?」
「あ、ううん、ごめんなさい、なんでもないの。ね、まこちゃん、今日は何か
面白い番組ってあるの?」
「ええっと、土曜はバラエティ系が多いけど────」
 亜美ちゃんが何を言いたかったのか気にはなったけど、あたしはそれを聞き
返そうとは思わなかった。
 それに触れないでいた方が、少しでも長く彼女がこの部屋にいてくれるよう
な、何故かそんな気がしたから。

 結局、テレビはずっとつけっぱなしだったけど、あたし達はほとんど見ては
いなかった。それよりもいつものおしゃべりの続きの方がずっと楽しかったの
だから。
「寝る前だからノンカフェインのハーブティーにしたよ」
 喋りすぎてなんだか喉が乾いたのでお茶にする。
 考えてみれば亜美ちゃんとこんなに話しこんだのは久しぶりだ。時計の針も
いつの間にかかなり進んでしまっていたけど、あたしは気にしない事にした。
「カモミールはね、気分をリラックスさせる効果があるんだ」
「いい香りね。……まこちゃん、いつも夜は早いの?」
 リンゴのような香りのお茶をひと口。そして亜美ちゃんはあたしを見た。
「日によるけどね。どうして?」
 そういえば亜美ちゃんは勉強でいつも遅いんだっけ。それでなおかつ早起き
なんだから、それでよく体が保つよなぁ。
「うん…まこちゃんが寝る時間なら、そろそろ帰らないといけないかなと思っ
て」
「え?」
 カップを口に運びかけていたあたしは、少し驚いて手を止めた。
「まだ早いじゃない。あたしなら平気だから、もっとゆっくりしていきなよ。
なんなら泊まってってもいいんだよ(^^)」
「…………」
 あれ? え!?
 軽いつもりで言った言葉、の筈なのに、亜美ちゃんは不意に黙り込んで口元
に手をあてた。
 これって…もしかして、脈あり?
「あ、明日休みだしさ…その…ほんとに泊まってかない?」
 今度は本気で聞いてみる。
「……でも、まこちゃんに迷わ────」
「迷惑なんかこれっぽちっもないよ。他に誰かいるって訳じゃないし、どうせ
あたし1人なんだからさ」
 そう、迷惑を考えるならあたしの方こそ亜美ちゃんに迷惑にかけようとして
いるのかもしれない。亜美ちゃんにだって予定はあるだろうし、ここまで長居
させただけで十分迷惑かけてるかもしれないのに…。
「だめ……かな?」
 それでも…それが分かっててもやっぱり、あたしはこのまま亜美ちゃんが居
てくれたらいいななんて思ってる。
「…うん。やっぱり中学生が外泊って、あまりいい事だとは……」
 亜美ちゃんはそう言ってうつむいた。
 みんなでレイちゃんの家に泊まった事ならあるのに。それに夏のキャンプや
冬のスキーの時だって…。
 やっぱり…亜美ちゃん迷惑に思ってんのかな。
「…………………………………でも」
「でも?」
「…………………………………………………………………………………………」
 亜美ちゃん、何か言いたそうにあたしを見ている。
 言いたいことがあるならハッキリ言ってくれればいいのに。
 ……そうか、亜美ちゃん優しいからきっと自分では言い出せないんだね。
「ごめん、引き留めるようなこと言って。亜美ちゃんのこと考えてなかったね。
こんな時間までつきあってくれてありがとう。今日は楽しかったよ」
「そんな、私は……」
「もう遅いから、帰り道気をつけてね」
「……うん。……私も今日は楽しかったわ」
 まだ何か言い足りないようなそんな表情のまま、けれども亜美ちゃんは傍ら
に置いてあった鞄を取るとゆっくりと立ち上がった。
「おやすみ。月曜にまた学校でね」
 玄関口まで亜美ちゃんを見送る。
「……ええ。それじゃあおやすみなさい」
 バタン。
 あたしの目の前でドアが音をたてて閉じた。
「はぁ…」
 行っちゃった…なんか寂しいなぁ。亜美ちゃん、今日はずっといてくれそう
な雰囲気だったのに。
 部屋に戻って2人分のティーカップを片づける。
 寝る前だから、なんて言わなきゃもう少しは居てくれたかもしれないなぁ。
 …ま、がっかりしててもしょうがないよね。どうせ月曜になれば学校で会え
るんだし。
「うーん、月曜かぁー」
 そう叫んであたしはベッドの上に身を投げ出した。
 たった2日先のことが随分と後のように感じる。こんなこと、今までは感じ
なかったのに。やっぱ2人っきりでいたせいなのかな。
 あーぁ、亜美ちゃんが参考書忘れたのに気付かなければ、明日会いに行く良
い口実になったのになぁ。いっそショッピングにでも誘おうかな?
 でもあの亜美ちゃんがすぐに行くって言うかな? こーいう時、うさぎちゃ
んなら積極的かつ強引(^^;に連れ出すんだろうけど……!
 その時あたしはある事に気がついてがばっと身を起こした。
 口実。
 …いや、そんなまさか。そんなことはないよね。
 亜美ちゃんが、わざと参考書を忘れていったなんて事は…。
 でも、そう考えれば亜美ちゃんが時々見せた何か言いたそうな表情も、辻褄
があわなくもない…ような気が…しないでもない。
 考えてみればレイちゃんの家にみんなで泊まった時もその他の時も、亜美ち
ゃん最初は反対してたのに、うさぎちゃん達に押し切られちゃったんだよな。
 …さっき、ほんとは引き留めてほしかったのかな?
 ううん、やっぱそれはあたしの考えすぎだよ。
 …でも、本当はどうなんだろう?
「行こう!」
 うだうだ考えるのはあたしの性じゃない。
 今から追いかけても遅いとは思ったけど、あたしは手早く身支度を整えると
外に出るために玄関のドアを開けた。
「きゃっ!」
「わっっ! …………亜美ちゃん!?」
 玄関の外には帰った筈の亜美ちゃんが、いきなりドアを開けたあたしに驚い
て立ちつくしていた。
「あ、あの、その、外は、あ、雨が降っていたから」
 亜美ちゃんが珍しくしどろもどろになりながら応える。そういえば天気予報
で夜から雨が降るって言ってたっけ。
「そ、それで傘を借りようと思って戻ってきたの」
 ごくり、あたしは唾をのみこんだ。
「傘……ないんだ。この前折っちゃって」
「そう…なの」
 嘘。
「やっぱ泊まっていきなよ」
「ううん。それじゃ近くのコンビニエンスストアまで走っていって、そこで傘
を買うことにするから」
「だめ」
 あたしはそう言うと、なるべく力を入れないようにして亜美ちゃんの肩に手
を置いた。
「濡れると風邪ひいちゃうよ」
 集まれ、あたしの勇気。集まってそして力を貸して。ここが肝心なんだから。
「だから……今夜は…帰さない」
「…………うん」
 亜美ちゃんはびっくりしたようにあたしを見つめ、それから小さく頷いた。
「うん……。今日は…帰らない」

         ☆         ☆         ☆

「おやすみ」「おやすみなさい」
 亜美ちゃんと過ごす時間はやっぱり早い。
 あの後亜美ちゃんは家に電話を入れ(亜美ちゃんのお母さんはまだ帰ってき
てなかった)雨で帰れないからと説明をしていた。それからまた2人でお茶を
飲みながら話をして、気が付けば日付はとっくに変わっていた。
 親戚が訪ねてくる時以外にはまず使わないお客さま用の布団とパジャマを亜
美ちゃんに薦め、いつもはベッドのあたしも亜美ちゃんの隣に布団を敷く。
 だって、亜美ちゃんが下で寝てるのに、あたしだけベッドに寝る訳にもいか
ないだろ?
「ね、亜美ちゃん」
 布団の中から天井を見上げたまま、隣の亜美ちゃんに呼びかける。
 明かりを消した部屋の中は、外が雨のせいもあって真っ暗に近い。
「なに?」
 姿は見えなくてもとても近くから聞こえる声に、あたしはなんだか安心する。
「考えてみたんだけどさ、タクシー呼べば濡れずに帰れたね」
「…そうね」
「今から呼ぶ?」
「……ううん。そんなこと、あの時は思いつかなかったもの」
「ふふふ」
 1度泊まると決めた以上はちゃんと泊まってくみたいだ。それもなんだか亜
美ちゃんらしくてあたしは小さく笑う。
「参考書に感謝しなくちゃね。亜美ちゃんがあれを忘れていかなかったら、今
のこの時間はなかったんだから」
「…うん。私もそう思うわ。いつもはすぐにしまうんだけど、あの時は他の本
を出して…放っておけば後でしまい忘れるような気がしたんだけど…それでも
いいかなって」
「わざとじゃないんだ?」
「どうかしら? 本当はあのまま帰るのが少し寂しかったの。…迷惑だった?」
「とんでもない! そうだ、今度は亜美ちゃんの家に泊まりに行っていい?」
「いいわよ。いつでも言って。楽しみにしてるから」
「うん、あたしも楽しみだな」
 亜美ちゃんと一緒にいられる時間。あたしはこの時、昼と同じ数の夜という
時間を手に入れたんだという気がした。
「……ね、まこちゃん、まだ起きてる?」
「起きてるよ」
 夜はまだまだ長い。でも亜美ちゃんといれば朝はすぐにやってくる。
 そうしてあたしたちは、ほとんど眠らずに朝を迎えた。

                               END.


解説を読む


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