星たちの距離  〜交差・まこと〜


 なんでこうなっちゃったのか、自分でも分からない。朝起きるといつも亜美ちゃんの事
を思い出す。その名前を呟くと胸がきゅっと締めつけられる。あと数時間もすると会える
というのに、それすら待ち遠しくなって時計ばかりみてしまう。
 本当にあたし、どうしちゃったんだろう?

     ☆     ☆     ☆

 窓から差し込む日差しは柔らかく、冬とは思えないほど暖かかった。片づいた部屋。洗
ったばかりの白いテーブルクロス。窓を拭いて、食器も磨いて、花も飾った。いつもより
ちょっとだけ念入りに掃除したサッシの窓には、誇りの色も見当たらない。見慣れた部屋
なのに今日は特別賑やかに見える。ああそうだ、折角だから押し入れに眠っている電気ス
タンドも出しちゃおう。陶製の、女の子を形取った可愛いやつ。でもなんで仕舞ってたん
だっけ?
 ふうっと一息ついて壁の時計に目をやる。みんなが来るのはまだ少し後だ。
『……まこちゃんは何にもしないで待ってて』
 ふと昼間のうさぎちゃんの言葉を思い出して、あたしはちょっと苦笑した。だけど、み
んなを家に招きいれるというのに散らかっているのは嫌だったし、じっとしてるのはあた
しの性分に合わないんだからしょうがない。

 ピンポーン
 呼び鈴がなった。―――って、あれ、もう来ちゃったの?
 あたしは再び時計に目を走らせた。だけどやっぱり予定の時間にはまだ早い。
 あ、もしかして、お祭り好きなうさぎちゃんか美奈子ちゃんあたりがフライングして来
たのかもしれない。
 あたしは急いで手を洗い、玄関に向かった。
 果たしてドアの向こうにいるのはうさぎちゃんか美奈子ちゃんか、或いはレイちゃんか
亜美ちゃんか。
 ドアノブに手をかけて力を加える。でもチェーンロックをかけてあるので、開いたのは
ほんの少し。
「ごめんなさい、突然」
 み、みちるさん! な、なんでここに?
 予想外の姿を見て、あたしは少し驚いた。青天のヘキレキ―――とは言わないかこの場
合。ええっと、何だっけ………虫の知らせ………じゃなくって、弱肉強食、焼肉定食……
…全然違う。
 ともかく、ここにいるのはみちるさんで、でも本当は来る予定じゃなくって。だけど今
日は普通の日じゃなくって―――
 なんて、結論な判るはずもないことで思考をぐるぐる回転させていると、みちるさんは
自分の足元を指さして言った。
「ちょっと、着替えさせてもらえないかしら?」
 あ、ストッキング、伝線。
 あたしは初めてみちるさんを部屋に入れた。

「……本当にごめんなさいね。こんな不躾なことで―――」
 みちるさんは、少し恐縮しているようだった。
「いえ、そんな気になさらないでください」
 おもわず口をついて出る丁寧語。あたしも少し困惑していた。まずいな、なに話そうか。
 考えてみれば、あたしはこれまでみちるさんと落ち着いて話をした事がない。だから、
つい他人行儀になってしまったのだ。でもまあ、まったく知らない相手でもないので、ま
るっきり無視するってわけにもいかない。
 それはそれとして―――どうも気になるのは、みちるさんの手からぶら下げられたコン
ビニの袋だ。
 そりゃまあ、みちるさんがコンビニに行っちゃダメなんて法律があるわけじゃないんだ
から不思議ではないのかもしれないけれど、なんだかみちるさんのイメージにそぐわない。
それにストッキングだったらコンビニなんかじゃなくて、その辺のブティックへ行けば着
替えだってできるのに………
「これは当てつけのつもりだったから―――」
 あたしの疑問に、みちるさんはそう説明してくれた。
「あなたの言う通り最初はブティックへ行ったの。でも、そこの店員の態度が嫌な感じだ
ったから、親切心で注意したら言い合いになってしまって。あまりにも頭に来たからその
前にあった店で買っちゃったの。要するにはらいせ、ただの自己満足ね」
「へえ、みちるさんでも、そういう事するんですね」
 ちょっと意外だった。でもそのおかげか、ちょっとだけ親近感が沸いた。見かけより話
しやすい人なのかもしれない。
「あら、パーティ?」
 テーブルに並んだお皿(でも料理はのってない)を見ざとく見つけて、みちるさんは言
った。
「今日、あたし誕生日なんだ。それでみんなが料理を作りに来てくれることになってて」
「誕生日?」
「はい」
 あたしが頷くと、みちるさんは、ほほ笑んだ。
「おめでとう木野さん」
「ありがとうございます」
 なんだかむず痒かった。誕生日を祝ってもらうのって、嬉しいんだけれどちょっと照れ
臭い。
「じゃあ、こちらでどうぞ」
 無理に話をそらすように、みちるさんに部屋を提供すると、あたしはキッチンに立って
二人分のコーヒーを用意する。
「そんな気を使わなくてもいいわよ。着替えたらすぐ出ていくから」
 みちるさんはそう言ったけれど、何もしないっていうのもなんだかだったし、それにス
トッキングを履き替えている所をじっと見ているわけにもいかないし。
 コンビニの袋がガサガサ音を立てるのを背中で聞きながら、棚からティーカップをとり
出して流し台の上に並べる。それほど時間があるわけでもないけれど、片手鍋くらいの分
量ならすぐにお湯も沸くはず。
 冷蔵庫から水の入ったペットボトルをとり出すと鍋にあける。実はこれ、コーヒーの成
分が化学反応を起こさないようにするために、カルシウムや鉄分を押さえた特別な水だっ
たりする。凝り性って言われるかもしれないけれど、美味しいって喜んでもらいたいから
常備しているのだ。
 お湯が沸くまでの間に、コーヒーや砂糖等の細かな物も手早くそろえる。
 そして、完成。

 コーヒーを差し出しつつ、あたしは言う。
「………せっかくだから、みちるさんもパーティに出ませんか? きっと楽しいと思いま
すよ」
「遠慮するわ。はるかと約束があるから」
 みちるさんは「ありがとう」と言ってテーブルについた。
「それじゃはるかさんも一緒に」
「そうしたいのもやまやまだけど……リサイタルなのよ」
「リサイタル?」
「笠木由希。知り合いのバイオリニストなの。才能ある娘よ。木野さんくらいの年の娘な
らあまり興味はないかもしれないけれど」
 笠木……由希?
 最近どこかで聞いた名前だった。それも本当にごく最近。
 あたしは少し、記憶の糸をたぐる。―――って、
「ああっ!」
「ど、どうしたの?」
「あたし知ってますその人」
「え、本当?」
 あたしは机の脇にかけてあった学生カバンを手にすると中からCDを取り出す。
「ほらね」
 シックなデザインのジャケットには『笠木由希ヴァイオリン曲集』の文字が踊っていた。
「って言ってもこれ、亜美ちゃんから貸してもらったんだ。凄く良いからって薦められて」
 種明かしを聞いて、みちるさんは「うふふ」と笑った。あれ、なんだか知らないけれど
凄く嬉しそう。
「そういえば、水野さんは元気かしら? 最近プールでも見かけないけれど」
 プール?
 そういえば二人は同じスポーツクラブに通ってるんだっけ。確か亜美ちゃん、みちるさ
んと競争した事もあるって言ってたな。
「時間が合わなかっただけじゃないですか? ここのところ試験とか行事とかあって、終
業時間も変則だったし………」
「―――そう」
 みちるさんはコーヒーをひとくち、口に含んだ。
 優雅だ。どことなく気品を感じさせる。
「でも水野さん、変わったわよね。前は周りに気を使ってばかりで、自分に自信のない感
じだったのに………今じゃプールで会っても闘志むき出しなのよ。ちょっと負けそう」
「あははは」
 正直言って、闘志満々で戦いを挑む亜美ちゃんというのは全然想像できなかったけれど、
それを話すみちるさんも楽しそうだったから、思わず笑ってしまった。
「でも、亜美ちゃんてそんなに変わりました? 確かに前よりは積極的になったと思うけ
ど、それほど大きく変化しているとは………」
「それはあなたが毎日逢ってるから気がつきにくいだけ。あたしには分かるわ。彼女、最
近特にいい女になってる」
 亜美ちゃんが褒められるのは嬉しかった。自然に頬が緩んだ。でも、あたしには分から
ない亜美ちゃんの一面を見ているみちるさんが、ちょっとだけうらやましいとも思った。
「きっかけは、いろいろあったと思うけれど」
 みちるさんは言った。
「あれだけ変わるって事は、周囲の環境に大きな変化があった証拠よね………彼氏でもで
きたとか」
「―――!」
 あたしは思わずブっとコーヒーを吹いてしまった。
「あら、きたない」
「みちるさんが変なこと言うからですよ」
 あたしは照れ笑いしながら誤魔化すと、テーブルの上を拭く。
「え、変だったかしら、水野さんくらいの娘だったら彼氏のひとりやふたり、居たって別
に不思議はなくてよ」
「それはそうなんだけど………」
 ふと不安を感じた。
 あたしの知らない男の人と楽しそうに歩いている亜美ちゃん。
 寄り添いあって、他の誰にも見せたことのない特別な笑顔を浮かべる亜美ちゃん。
 見つめあって愛の言葉を囁く亜美ちゃん。
 ああああ、そんなの考えたくもない!
「ねえ、木野さん。あなたも誰か好きな人はいるの?」
 みちるさん、急に真顔になって、とんでもない質問をしてきた。
「そ、そんなこと、どうでもいいじゃないですか」
「あら、聞いてはいけない事なの?」
「そうじゃないけど………あたしそういう話、嫌いなんです」
「どうして」
「どうしても」
「ふーん」
 みちるさんは、首をこくっとひねって黙り込んだ。
 うーん、気取られちゃったかな?
 できるだけ冷静を装うとしたけれど、鼓動の高鳴りは押さえられない。
「じゃあ、好きな人の有無についてはこれ以上聞かない」
 その言葉に、あたしは心でほっと一息をつく。
 ―――が、
「で、相手はどんな人? 年上とか、妻子持ちとか?」
 みちるさんは小悪魔だった。
 こっちがおろおろするのを知ってて、からかっているんだ。
「世話好きそうだから、年下の方が似合いそうね。あるいは同い年とか」
 あたしがどぎまぎしていると、みちるさんは突然核心に触れた。
「もしかして、水野さん?」
「ちょ、ちょっと何言ってるんですか。亜美ちゃんは女ですよ」
 慌てて否定するあたし。でも顔から血の気が引いていくのが分かった。
「あら意外に古風なのね。そんなこと関係なくてよ。誰かを好きになるっていうのは、年
齢とか性別とかそんな事を超越した素晴らしいことなの。相手の人を愛しているからいつ
も胸が苦しいとか、相手の人の事を考えて涙ぐんでしまったりとか、相手の人がいてくれ
れば他に何もいらないって思ったりとか、そうして悩んで苦しんで一緒に過ごす至福の時
間と隣り合わせのつらさを味わって。
 結末はその時々だけど、それは相手がどうとかじゃないの。誰かを好きになるっていう
のは、それだけで尊い事なの。そうじゃなくて?」
 あたしは返事ができなかった。
 それは自分がずっと思い悩んでいた事だったから。
 人を好きになれば幸せなはずなのに、心の隅にはなぜか後ろめたい気持ちがどこかにあ
って。
 切なさを伴ういとしさが嵐のように吹き荒れている。
 だけど、あたしは、みちるさんに言われた事がちょっとショックで………ううん、ショ
ックというのとは違うかもしれないけれど、素直に認めるのが嫌で、そしてちょっとだけ
悔しかった。
 だから、あたしは抵抗を試みた。
「みちるさんも好きな人いるんですか、例えばはるかさんとか?」
「………そうよ」
 あっさり撃沈。
「でも、勘違いしないでちょうだい。私もこうなるまでは結構悩んだものよ」
「信じられないなあ」
「あら、どうして?」
「だって、みちるさんて何やってもスマートにこなすから。綺麗だし、美人だし。それに
ヴァイオリニストとして社会にも認められてるし」
「うふふ、ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞なんかじゃないです」
「そう? でもね。私だってずっと順風満帆ってわけじゃないのよ。私も木野さんと同じ
年のころなんて、本当にいろんなことで悩んだりしたんだから。もちろん、今だって不安
なことや悩んでいることなんて星の数ほどあるわよ」
「例えば、はるかさんが突然いなくなったらどうしようとか?」
 と、これはあたしの事か。
 結局のところ、あたしは恐れているのだ。亜美ちゃんに自分の思いを話してその関係が
ダメになったらどうしようって。
「そうね。考えなくもないけれど………でも私ははるかにとっての演歌だから」
「………演歌?」
「そう、演歌。本当はこれ、はるかに口止めされてるんだけど………」
 みちるさんは声を潜めて言った。部屋には二人しかいないんだからその必要はないのだ
けれど、こういう時はやっぱり小さな声になるようだ。
「はるかって、演歌が好きなの。例えば、私とロックのコンサートへ行くでしょ。そうす
ると帰ってから数日はロックばかり聴くんだけれど、気がついたらいつの間にか演歌にな
ってるの。その後は、クラシックを聴きに行ってもジャズを聞きに行っても、どういう訳
か最後は演歌に行き着いてしまう。
 だから私は演歌。はるかが何をしていても、最後には必ず戻ってきてくれる」
「自信………あるんですね」
「一朝一夕にできた関係じゃないから」
 強いな。みちるさんの目には曇りがない。互いの絆の深さが見てとれるようだ。
 あたしもなれるだろうか。
 心から相手を信じあえる、そんな関係になれるだろうか。
「あら大変、もうこんな時間」
 みちるさん、まるで思い出したかのように呟いた。
 だけど言葉とは裏腹に全然大変そうには見えなくて、あたしは一瞬また何かのひっかけ
かと警戒したけれど、その心配は希有に終わった。
「ごちそうさま、楽しかったわ」
 みちるさんは残りのコーヒーを飲み干して、立ち上がった。
 時刻はいつの間にか、そろそろ亜美ちゃんたちが来てもおかしくない時間になっていた。
 それにしてもこのみちるさんのおっとり加減。良くいえば落ち着きはらっているってこ
となんだけれど、ただ時間にルーズなだけだったりして………なんて考えてしまったり
「そうだわ。お礼と言っては何だけど―――」
 そう言って、みちるさんはハンドバッグから何かのチケットを取り出す。
「私も近いうちにリサイタルをやるわ。今はあいにく二枚しかないけれど、よろしければ
おいでなさい。木野さんの好きな誰かさんと一緒に」
 あたしは思わず顔を赤くしてしまった。
「大切なのは、立ち止まらない事。そして一歩前に踏み出すことよ」
 耳元でささやくように言って、みちるさんは去って行った。
 ―――前に踏み出すこと………か。
 それは新しい自分への旅立ち。そして新しい自分への誕生。
 そうだ、亜美ちゃんが貸してくれた笠木由希、聴いて見ようかな。

 みんなの到着を告げる呼び鈴が鳴ったのは、それからまもなくの事だった。

Fin


あとがき


感想などありましたらこちらまで MAIL to heyan@po2.nsknet.or.jp

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