第三次ハリコフ戦 戦史

遠すぎた街

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Kharkov 1943 :
Une ville trop loin
(遠すぎた街)

Vae Victis #25


By Frédéric GUELTON

1943年初頭、ソ連軍は完全に勝利を得たと思われた。
ドイツ軍第6軍をスターリングラードで包囲・殲滅し、ナチスの不敗神話を打ち砕いたからだ。
スターリンは、非常に野心的な目標と、そして何よりも重要な都市・ハリコフに対して総攻撃を開始した。


Frédéric GUELTON


赤軍の勝利は、およそ50万人の喪失という多大な犠牲を払って得たものである。 それは、この戦いの象徴的かつ戦略的な賭け金としての役割を果たすに足るものであった。
ソ連側に戦争の主導権が移ったからである。
この異例で新しい情勢を認識したスターリンは、完全に潰走したと思われるドイツ軍に対して総反撃を開始できると考えた。

西進する予定の赤軍大部隊は、しかし、3ヶ月以上に渡る連戦で疲れきっていた。 例えば、ウクライナの南西方面軍(バトゥティン)とヴォロネジ方面軍(ゴリコフ)の戦車部隊は、車輌の大部分が破壊されたか故障によって失われており、極端に伸びきった補給線は輸送量が不十分であった。 これら2個方面軍は充分な攻勢能力を作り出せるだけの兵員と装備の補充を実施するために、2ヶ月余りの休養が必要だったのである。
だがスターリンは、その事を気にしなかった。
スターリングラードでの勝利に酔った楽観視は、現実の赤軍の能力からは余りにもかけ離れていた。 彼らは、不十分な賭け金で、余りに多くを得ようと望んだのである。

普段はとても慎重なスタブカ(ソ連軍最高司令部)も同様に、成功に酔いしれていたし、スターリンの意向に反対する勇気も無かった。 スタブカはドイツ軍に対する新たに獲得した心理的影響力を利用し、雪解け前に全戦線で攻勢に転じて、できるだけ広大な領土を得る計画を立てた。 ソ連邦の北から南までの、主要な作戦意図は以下の通りである。

レニングラードの包囲を断ち切る
デミヤンスク と ルジェフ の突出部を削除する
何よりも南方戦線において、ドイツ軍のB軍集団とドン軍集団を罠に掛けて捕らえるために、ハリコフ、ドニエプル川、そして黒海方向へ進撃する

4個方面軍が投入された。54個狙撃兵師団と10個戦車軍団から成るヴォロネジ方面軍(ゴリコフ)と南西方面軍(バトゥティン)が、攻勢の主力としての役目を負った。
まず初めにクルスクとドンバス方面に向けて前進し、続いて南西方向とアゾフ海に向かって攻撃を行い、ロストフを通過してカフカスから到来したドイツ軍部隊の退却を遮断する。後者は、ロストフから進撃する南方面軍(マリノフスキー)によって推進される。

ソ連軍の配置に対峙するドイツ軍は、ミンスクからアゾフ海間での地域に展開する4個軍集団であった。 白ロシアの中央軍集団(クルーゲ)、ヴォロネジ方面軍と南西方面軍とに向き合う B軍集団(ヴァイクス)はハリコフの両側、マンシュタインのドン軍集団(2月13日以降、南方軍集団)は、A軍集団(クライスト)が黒海までのアゾフ海東部の河川をカヴァーしている時分、アゾフ海北部を担当していた。

ベルリンのOKH(ドイツ軍の陸軍総司令部)では、トランスカフカス地方へと広く深入りしている A軍集団が、南方及び南東へ進出すると見られるソ連軍によって背後から襲われはしないかと恐れていた。 故に、B軍集団とドン軍集団に対して、ドネツ川とドン川の間のヴォロネジとロストフを結ぶ軸線上で死守するように命じた。


ソ連軍の攻勢

1943年1月13日、ヴォロネジ方面軍と南西方面軍は攻勢に転じた。 4度目の(訳註:一般的には第3次)ハリコフ戦が始まったのだ。
14日、ヴォロネジ方面軍 【ブリアンスク方面軍の第13軍(ポポフ)によって増強されている】 は、B軍集団 【ドイツ軍、ハンガリー軍、それにイタリア軍の30個師団余りを攻撃した、ソ連軍第6軍と対峙している】 を攻撃した。 B軍集団は、奥行き約10㎞に渡る良く組織化された防御陣地を占めていたのだが、それでもゴリコフの激しい攻撃に耐えることができなかった。 戦闘の1週間後、ハンガリー第2軍とイタリア軍アルピニ軍団は、もはや戦闘組織としては存在していなかった。

兵站(補給)の重要な中心地、且つ交通の結節点であるハリコフには危険が迫っていた。 この街は“星作戦”の目標であり、南西方面軍の3個軍から圧迫され、戦車軍団と騎兵部隊が先に到達した。
1月31日、ハウサー将軍の直接指揮下にある ライプシュタンダルテ・アドルフ ヒトラー(LAH)SS師団と ダス・ライヒ SS師団が到着し、ハリコフ東部の戦列に加わった。一方その頃、市街の北東で戦っていた グロス・ドイチュラント(GD)師団は、敵の攻勢に直面して後退せざるを得なかった。
ソ連軍の成功は重なる。ドイツ第6軍は 2月2日にスターリングラードで降伏し、クルスクは 8日に解放され、ハリコフは包囲されたのだ。猛烈な反撃を加えたにも関わらず、ドイツ軍部隊は直ぐに危機的状況となった。
勝利は手に届くところにあるように、スタブカには見えた。

ドン川下流とロストフを放棄、そしてミウス川沿いまで後退する許可をヒトラーから取り付けていたマンシュタインは、弱体化した麾下部隊を早期且つ無用な損耗から避ける為に、自発的に柔軟な防御態勢を採用した。 加えて、冬が終わる前の反撃を準備できるように、フランスからの増援を受け取った。

しかし、ルィバルコの第3戦車軍とカツコフの第69軍によるハリコフの占領(2月15~16日)、それに SS装甲軍団によるハリコフの必然的放棄は、ヒトラーを激昂させた。
ハリコフ死守の命令を出さず、SS 2個師団による南西方向への反撃も命じていないのか!
その上、160㎞もの裂け目が中央軍集団と南方軍集団との間に開いているのだ。

ハリコフ陥落の翌日、激怒したヒトラーは南方軍集団に赴くことを決意。 2月17日、彼は OKW(ドイツ国防軍最高司令部)のヨードル将軍と OKHのツァイツラー将軍と共に、サポロジェにある南方軍集団司令部に到着し、3日間滞在した。

ヒトラーは、ハリコフの奪還とポポフ機動集団に対する正面からの反撃を開始せよ、と マンシュタインに命じた。 ポポフ機動集団 【2月1日に5個軍団(そのうちの4個は戦車軍団)で編成】 は、のちのソ連・大戦車軍の始祖である。
その時マンシュタインは、ソ連軍は疲労していること、出撃基地から遠ざかっていること、そして充分な兵站支援を持っていないことから、第一印象に反して戦況はドイツ軍に有利である旨を ヒトラーに納得させることができた。
次に彼は、流動的な防御方法を採用したのは故意であることを総統に説明した。 この防御方法は、なるほど、結果として広大な空間をソビエト軍に返すことにはなるが、しかし今後、赤軍に対する確実な優位をドイツ軍に与えるのだ。 彼は以下の、攻勢の主な考えを説明して話を終えた。:

・猛烈な勢いを伴うことにより、完全な奇襲の恩恵を得る。;

・ハリコフは奪回するし、放棄した領土はソ連軍が抵抗する暇も無い間に取り戻す。

そして雪解けの到来により、ドイツ国防軍は数週間、おそらく2ヶ月の時間を再編成のために費やせる、とマンシュタインは見なしていた。

ヒトラーが軍集団司令部に到着した同じ日、ソ連軍がパヴログラードを通過してドニエプル川まで30㎞以内の地点に到達しているにも関わらず、マンシュタインは反撃用に指定した部隊の最終的な集結を命じた。 マンシュタインの指揮する輝かしい反撃のために、全ての要素が結合したように思われた。
一体、彼はその後も戦略的な影響力をもたらすことができるのであろうか?


ドイツ軍の反撃

反撃の実施にあたって、マンシュタインは 7個装甲師団とSSヴィーキング自動車化歩兵師団、それに 4個歩兵師団を集めた。 彼の配置の北翼は、ポルタワ ~ クラスノグラード間の地域に集結した。
主として SS装甲軍団とケンプフ集団によって構成された北翼部隊は、ハリコフとベルゴロドの奪回のために東方向へ、加えてソ連軍の攻撃体制を壊滅するためにペレシェピノ、ノウォモスコフスク、パヴログラード方面の南東方向へ攻勢を掛けることになっていた。
南部では、第4装甲軍をドニエプロペトロフスク地域に、そして第1装甲軍をもっと東のスタリノ ~ クラスノアルメスコイエ間に配置した。

2つの装甲軍は、西のノウォモスコフスクから東のクラスノアルメスコイエに渡る地域おいて北方へ、全体としてはハリコフの方向へ攻撃を実施し、南方へ機動する SS装甲軍団とできるだけ早く再結合させて、魚梁(やな:鰻やエビを獲る円錐形の籠)の中に捕らえたソ連軍部隊を包囲・殲滅する。

マンシュタインが反撃を開始した 2月20日の時点というのは、逆説的には、ドニエプル川の東に存在するウクライナのドイツ軍を追い払う野心を抱くスタブカが、バトゥティンに対して西方への攻勢を再開するように命じた 2日目でもあった。 成功に酔いしれる意識は、依然としてソ連軍の司令部中に蔓延っていたが、しかし勢力バランス自体は局部的に、そして彼らの知らない間に逆転していたのである。

バトゥティンの戦力は次第に減少していた。
理論上は4個軍団、2個戦車旅団、1個歩兵師団、そして3個スキー旅団の戦力である彼の機動集団は、もはや1万3千人の兵卒と、50輌の戦車を数えるのみとなっていたのだ。
戦線は600㎞以上にまで伸びているのに、兵站の橋頭堡はまだ 100㎞以上ハリコフの後方までしか到達していなかったのである・・・・・。 その 2月20日、依然として機動戦において優秀なドイツ軍に対して、バトゥティンは決然と、そして何も知らずに突進した。

攻撃命令が発せられてから直ぐに、ダス・ライヒ師団と トーテンコプフ師団で構成される SS装甲軍団は、南西方面軍の第6軍を側面から攻撃した。 その間、第40装甲軍団はスラビアンスク南方のクラスノアルメスコイエ地区内で、ポポフ機動集団の残余を攻撃。 日暮れには、ダス・ライヒ師団がバトゥティンの第6軍の北側面を30㎞以上も突破した。
しかしバトゥティンは受領した命令に従い、初期の作戦意図に固執し、ドイツ軍による大掛かりな攻勢をまともに受けてしまうことを理解しようとしなかった。 彼は自身の方面軍が4日後に遭うことになる極度の危険に気付かなかったのだ。 その頃、ほぼ完全に包囲されていた第6軍は窒息の瀬戸際にあり、ポポフ機動集団はまさに壊滅寸前で、燃料不足の為、戦車軍団が丸ごとガス欠状態となり、連絡線の後方100㎞の地点にいた。

バトゥティンは危険な状況の自軍右翼を守るために精力的に対処した。 しかし、彼が講じたあらゆる処置も要請したあらゆる救援も、達するのが遅すぎたのだ。ソ連軍の第6軍は消滅した。

2月18日、危険なほどに露出したヴォロネジ方面軍の側面が、今度はイジューム近辺のドネツ川に到達したばかりのドイツ軍第40装甲軍団によって脅かされた。 スタブカは対処に努め、バトゥティンの力を借りて、ルィバルコ将軍の第3戦車軍を派遣しようとした。だが補給状態の悪化により、たった30輌の戦車しか使用できず、3月3日まで攻撃することができなかった。 その一方で、彼らは 3月2日から早くも LAH師団の先遣部隊に襲われていたのだ。
ルィバルコの2個軍団はSS装甲軍団と第48装甲軍団によって素早く包囲された。 彼らは少しでも部隊の統一性と、ハリコフ方向への退却を何としてでも維持しようと試みた。
3月12日、SS装甲軍団は第3戦車軍の残余を仮借無く包囲・撃滅した後、ハリコフ市の郊外に到達した。 その時ハウサーは、麾下の2個師団を困難な市街戦に投入するという大変な誤りを犯している。
ルィバルコは配下の残存部隊をドネツ川の向こう側へ後退させる決定を下したものの、15日になってようやくハリコフは陥落したのである。

バトゥティンとゴリコフは、増援と例年より早い雪解けの助けを得て、残存部隊をドネツ川に向けて集結させ、3月末には戦線を安定させることに成功した。

マンシュタインにとって、まず防御、そして攻勢という2度の機動は結果として成功した。彼は、ドイツ国防軍が赤軍に対して手酷い一撃を加える力を未だ保有しており、さらに戦術上の著しい成功を勝ち取ることができることを証明したのだ。

彼は1942年の夏に占領した陣地の一部を1ヶ月以内にドイツ軍に取り戻すことを可能ならしめたのだが、全ての人が待ち望む、あるいは酷く恐れる、例の雪解けが、時期尚早にも不意に訪れる。 マンシュタインは、その直ぐ後に続けて 《クルスク突出部》 を削除することができなかったのだ・・・・・・。
1943年初春の戦略状況は、ドイツ国防軍とその同盟国にとって思わしいものではなかった。 レニングラードの包囲は破られ、ルジェフ - ヴィヤジマ や デミヤンスクといった重要な橋頭堡も放棄したのだ。 パウルスの第6軍は壊滅し、ドイツ軍の第4装甲軍とハンガリー第2軍、ルーマニア第3・第4軍、それにイタリア第8軍は手酷く殴られ、130万人の枢軸国兵士が戦力外となった。

けれどもベルリンでは、パウルスの降伏に付きまとう落胆の後、一時的な歓喜が起き、OKHは既に夏期攻勢を計画していた。
マンシュタインの側では、もっと控えめではあったが、独ソ戦の変転に関しては同様に、わりあい楽天的な見解のままであった。 彼は 《賢明にも効果的に、東部戦線を“勝負なし”へと帰着させる》 ことを尚も望んでいたのである。

ソ連軍としては、戦術上の失敗は明白であった。
ヴォロネジ方面軍と南西方面軍が受けた容赦のない敗北は、むしろ勝利を得た防衛軍と、攻勢を大規模に導くことができる軍との間に隔たりが存在することを良く示している。
方面軍、軍、軍団、師団の各ソ連軍参謀部は、機動戦とその組織上の要求に関して、限られた経験しか持たなかった。 彼らはドイツ軍の能力を過小評価した故に、疲労した兵士、使い古しの装備、適応しない兵站から構成された部隊を西方へ向かわせたのである。

弱体化した先端部隊がマンシュタインの仕掛けた罠にはまった後、ソ連軍は粘り強く抵抗した。 そして、1942年12月18日にスターリンとスタブカが望んだ冬期作戦は 1943年3月末に終わり、先月(2月)の失敗にも関わらず、総括は肯定的なままであった。 戦略的主導権は、もはや赤軍のものであり、広大な領土も解放されたのだ。

激戦の賭け金たるハリコフは、暫くの間、再びドイツ軍の重要な兵站基地となった。
8月には、この街をめぐる最後の戦い(第4次ハリコフ戦)がソ連軍の夏期攻勢で起こり、最終的に赤軍によって奪回されるのである。


Fin




この記事の翻訳は、Vae Victis 編集部の許可を得て公開しています。

 


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