平成12年度神社庁祭式指導者養成研修会(於 伊勢)

平成12年8月5日13:39〜 指養研会場(於皇學館大學 祭式教室)
 長谷先生御講義 (T6お生れ)
(マイクをお持ちになり...)うしろ聞こえますか?
過去四回の変遷。概説について講義します。
昨年は通則と行事。今年は作法篇で、これで一応講義は終了。
この本(新沿革史)持っていただければ、ノートすることありません。
居眠りして良いということではないで。お話しすることは全部、書いてある。
話を聞いてくださいよ。祭式の法令は幸いに全部残っている。他のは無いのね。

 作法ですけど、M40の行事作法というのは他と(分類・組立て)が違い、対照表で
示せない。だから、別に書いてある。
 国家の宗祠になるまでは、それぞれの神社でバラバラの祭祀だった。
M40に統一。
但し、三祭(さんさい:春日・鴨・石清水)だけは喧しく、法令によらず、祭祀を続けた。
神社祭祀はT3以降は内務省令 官国幣社以下神社祭式 勅令で規定。
遙拝と大祓は神社に於ける恒例式なので、内務省の訓令で示した。

 終戦後は全て規程。しかし、上記の如く、元の勅令と訓令は同等ではない。

M40(最初の)制定は大変だったと思う。いろいろあった。一体どういう条文で定めるか。条文と言うのは短い文章。これでどう取入れ、制定するかについて、当時は相当な苦労を成されたはず。我々は、その先達者の想いを知るべし。
 その内容は、
 第一が、行事
 第二編が、作法
 第三編が、雑載

作法は廿六種示されているが、何によって(基準)残されたかは記録が残っていない。
わかりませんわ。制定した人んとこ行って聞かなならん。みな故人です。若いうちに聞いてください。どう見てもむちゃくちゃや。整然としておらん。

(板書)
座・・・場所を表す。
坐・・・動作を表す。

進退に対して、膝行は不統一。
起立とは起床のこと。

S17 神祇院改正。
 典故・故実(伝統・慣例)を調べて、神社作法(同)行事作法の改正。
「祭式の改正」といわぬように。
(同)の字を用ゐること

(以下、資料に印をした通り)
・祗候 規定に示していなかった。場所も、作法も。で、ばらばら。
 此を考えるには、祗候の任務(二つ)を考えなければならない。
 そこで、「正笏」して「祗候」となる。

起拝は、双手(?)をもっておこなうのであるから
居拝は略拝とでもいうべき 説が流布した。そこで神座の前庭で天皇を拝したとき、これは起拝。老人女性は、跪居が不自由だとして起拝が不要とされたが、これは丁寧とか言うものではない、祭場によって行うと改正したのが神祇院改正である。

 拜揖。それまでは、開扉の後、閉扉の前に宮司が再拝拍手二をしていた。
 御幣奉奠の時も前後に同様。祝詞も前後に、と、再拝拍手二とは「神を拝む作法」であるから、検討の結果、深揖では軽すぎる。拜では面白くない(重すぎる)。
拜揖とした。其の外、神饌献撤・神殿出入、拝礼後の一拝(非公式には「餘拜」)なども拜揖にした。

 着列(列とは立礼に限る)に限る。著列も著座という教案があったが(私の教案?)、間違いや。規程を良く読んで下さい。(→後に質問)

前行〜 神幸祭でいるからね。神様を案内せなならん。先導はなし。
前導 神様を
先導 人間を 案内する。ボクは神様を案内しとる。
 ※宮司も人間ではありますが、ここでは「先導」とはいわないよ、との意。

警蹕の声(ワ行のヲでなく) ア行のオ。青戸説?

置笏 一旦左膝に移していたのを、(解釈が違う)「寄せる」という故実はあったとして
「移し」てないとして改正。

など、大体、神祇院改正を継承している...が、

占領後、太刀・鉾・槍は、威儀を正すものだが、GHQは「武器」と見なすだろう
と予測。削除(S46改正で復活)(扇法なども追加)

また、執事執持は難しい。扱方を追加。
なんかないか? に、質問。(暫く手を挙げました)
「ここいら(胡床に坐られようとされて)こっちや(云々)」見ていただけない
とうとう鴨角さんに手を引張られて(後で挙げたらと言うことだったそうです。私は「諦めなさい」かと思いました)一旦降ろす。が、めげずに再び挙手。安江先生、三木先生の方も振返りながら。やっと気づいていただけました。
(質問)
著列の対語が欲しいから、起座を使いたいのです。儀註を作るときに困った経験から。
坐・・・動きを表す字。すわる。坐礼のみ。
座・・・席を指す字。本座など。坐礼でも立礼でも使う。
起床 と 著床
起座 と 著座
では、次の括弧は?
( ) と 著列
例えば胡床を用いた場合に「祭員は起床し、小揖、( 同上 )、所定の座に向ひ」など。
長谷先生「長屋さんの質問はわからへん。後で。」
(後で某受講者から「お名前をご存じでしたね。学生の頃は「落第」の証拠だったのに」と言われてドキッ!)

(腰掛けられて(私が話しごと折ったのでしょうか))
わしはね。24からやっとる。これはエライこった。
いろいろ人によって意見がある。本格的に(法令によって)やらなあかん。
だれかが纏めねばならん。その為には法令の根拠を調べらなあかん。ただ、漠然としたものではシロウトです。だからここんとこの学問が一番大事やと思うんです。一般には軽視しとる。無視しとる。だから法令違反しとる。どんだけボロボロに言われても、言わしときゃええんや。すぐ、挫折してしまうんや。誰がなんというても、自分が正しいと思うたら、つらぬくべきや。先に正中作法をやって、次に左右列左右面の作法は上下の区別を決めんと。神祇院は正中の作法を但書にした。

正中作法について(九条流の人は正中で起拝をしとった訳や)→懐中のものが落ちにくい作法である説明。

それでよしとしといたらええんや。神職は、ところがまた質問してね。
「なら、正中以外でなら落してええんか」
 そんなこと言うとらへんわ!!
「落してええ」なんか言えるかぁ。決めた奴んとこ行って聞いてこい! お墓や!! 死んどるでね。

「一旦、海へ出て川へのぼる魚は海魚か川魚か?」「魚に聞け!」言うてな(笑)。
野鳥・水鳥の別は「水掻」(の有無)や。ハサミで水掻を切ったら別やけど。

 若い時は困ったね。「撃退法」言うのをしらんからね。みんな一回り以上、年や。
子供が親おしえとるようなもんや。なめられたら大変や。一番悪い指導法やったろなぁ。受講生をいかに早く疲れさせるか。二三十(分?)膝進膝退やると悲鳴上げてくるわ。それをこっちは待っとる訳や。悲鳴あげたらな、「そんなんで神職勤まるかぁ〜」言うてな(笑)、帰ってけ〜言うてな。帰るやつおらへんわ。講師になったら自分の力でやらなならん。自分で解決せなならん。そして六十年。大変や。そういうことです。

休憩から第二時限開始直前
長谷先生「あんたのさっきの質問なぁ」
「はい」
「あれは、歩行や」
私も、規程するかという視点からでは「下位に進むには下位の足を一歩進め、折。上位へ進むには下位の足より二歩進み折」などであまり内容がなく、指導で十分(指導するのを忘れると大変ですが)と思っていました。しかし著列は立礼用でも、起座・著座は(規程からは確かに坐礼。但し規程では何でもかんでも「座」の字...)「座」からは立礼でもと思い(座後列拝とは聞くが、列後列拝とは言はない。尤も宮司は一人)、先の括弧を補完したかったと教案に書いたつもりだったので、
「規程からは解りますが、儀註に記すのに適当な言葉がないでしょうか」
長谷先生「進む、やな」←即答(嬉しかったですね)
(私、心中祈念、「退く」も)「わかりました」
解説は坐礼で書かれているが、参考となる語句が無いこともない。

二時限目 指導法
 まあ聞いとってくださいよ。私の体験で正しいと思われるものです。押しつけはせん。参考にしてください。

 研修のあり方です。よく考えてみますと、我々神職の会話の中で
「祭祀の厳修は神職の使命」であると。

 その通りですわ。その使命を達成せんが為に研修をしよるわけです。いろんな研修がある。その体験から割出して話しよる。受講者も大変真面目。高く評価せなならん。

 しからばその神職が本当に思っておるんであれば、もっと厳修しとるはずです。ところが世間見とると、大半は厳修しとらん。現行不一致や。私に言わせると。

 そしたら、お前、全国の祭り見とるかと。みとらんわ。けど、全国で研修しとる。51の春からここで教えた正階や明階の研修や。ここで、でたらめやっとる人はおらんです。ところが(各地で)でたらめやっとるんや。そしたら、厳修されとらん。唱い文句に過ぎない!

それを改めるにはどうするかと考えると、それ、全国の神職さんの心構えが悪い!

 なぜかというと、こういうことです。みな、プロですよ、専門家ですよ! ところが神職は専門家とは、学者・講師であって、「わたしは学者でも講師でもない」と思っとるわ。それが一番の原因です。この道に入ってからの指導歴もっとる。

 そら、講師は実地で指導歴をもっとるが、ボクはね。質問をうけるときは、よく考えて答をするんですわ。「先生、これ解りません。しろうとやから」いうやつには「教えたらん」「辞め〜いや」。しかし、「私は神職です。使命がありますので、知らない処を教えてください」いうのには、徹底的に教えたる! しかし、さっきのには教える必要ない。やめるべきや。なにがシロウトや! 全て専門家である。

 そしたらね、専門家と非専門家ね。プロとアマの違いはどこかというと、どんな道に於ても、基本のない道はない!
祭式にしたって雅楽にしたって全て「道」ですわ。全部基本がある。それをどれだけマスターしとるか、勉強して正しく身につけとるか。疎かにして専門家といえるか? 言えないっ!!  この道では、基本とは「作法」です。だから基本動作と言って喧しく指導しとる。ところが現任神職の言葉はどうや。

「われわれはもう何年もやっとる。今更笏が角度がといわれる筋合はない」
これが大きな間違いや。厳格に守るべきや。老齢やからいうなという考えをもった神職が非常に多い。老齢ならこそ基本を厳格に守れ! これですわ。

 ところが一社の故実とかお祭によってありますわ。それはエエ。時所位によるというのは、あくまでも応用動作。基本を身につけてあって初めて、応用動作。でんぽう(?伝統?)は応用動作ですわ。基本をしっかり知った上でのです。そうでなければ祭祀は厳修されない!  ボクは荒さがしにいっとるわけやない。悪いのはどこか? 基本が狂っとる。それほど大事なものです。ところが講習会に行くと変な顔する。いまさら学生でもあるまいし、て。これは基本を忘れとるから矯正せなならん。それを「シロウトあつかいする」と言いよる。プロとは基本を厳格に守る。正しいものを身につけておく。

 プロは間違いは許されん。人間やから気をつけておってもミスもありますわ。けど「ミスはゆるされん!」という心がけでお祭に奉仕せなだめですよ。それをしょっちゅう頭に入れて奉仕せなならん。わかったぁ?

 祭祀を厳修するための要件 これは三つある。ボクの体験から。

一つ、現任神職はすべて専門家であるのだから、平時に於いて充分研鑽をしておく。
 祭典になったら解る。そして事前に確認をしておく。平素心がけておっても、任務の分担がある。遂行というか、完璧・万全を期する心構えです。

二番目は 奉仕中は、誠心誠意、神様に奉仕するということです。

三番目は、これはよっぽどの人だけ。自分が奉仕した反省をするということ。
 人のことを批判するということではない。間違ったのをあの人のせいにしたらいかん。深く反省をせないかん。恐らく居らんと思う。なぜかというと、此の頃は空調(クーラーや暖房)があるから、終ったら「あー」いうて(部屋に戻って)なんにも反省せんで、終っとるやないか! そんなことでは駄目です。そやから毎年おんなしことや。
 今年と去年を較べて、毎年進歩しとらないかんわ。それは宮司以下の反省が足らんわ。わたしが居った頃は別に呼びつけて注意はせんかったけど、おかしかったら必ず機会を持って、

説経する訳ではないけどね、「教える」んやわ。

頭から雷落しても駄目よ、そら。「教えて育む」そういう心構えが大切です。
 そしたら具体的な話。
 練習練習いうても口先ではだめ。どういう方法で祭典を開始するか。「勘」ではだめ。いろいろあるけどね。先づ清掃でせうねぇ。全部を、です。ところが最後に責任者が必ず点検をするというのが大事ですね。
 その次は、斎戒を厳重にするという事が必要です。地方に行くとね、斎戒場と書いたって、中、見たら物置になっとる。疑わしくなるわ!!
 祭典にあたっては、所役を明確に。任務の分担をはっきりしとらな、な。出仕や助勤者がお宮におる。それが宮司に質問に来るわけです。「本日はなにを?」ところが宮司は「ああ、例年のことや。いつも通りや」いうて聞かされた方は、も、いっぺん問いたださなあかん。「私は今年からですが...」言うてな。
 そんなんで、然るべくしてできんわ! な〜にが厳修や。宮司さんとこ聞きに来るものおらんわ。(いなくなる)

 外部のものの多いお祭ね。そういうのは必ず儀註をつくって、習礼を厳重にしとく。でないと厳修はできませんよ。
 事前に打ち合せしとかないかん事は、研究しとく。例えば手長の候する位置を確認しとかなならん。事前に祭場で確認をしとかなならん。おろおろおろおろするんや。犬がクルクルやっとるのと一緒や。決っとれば、そこ行くだけや。座後列拝では確実ですよ。ぴしぃ〜っと。ところがウロウロしとる。何しに出てきた! そんなら出てくるな。いうことです。
 事前にちゃっと打ち合せをする。でなければ厳修は出来ない。

 それからね。鋪設を厳重にやると言うことです。みんなしてやるんや。そやけどボクに言わせると、なんでもかんでも、点検点検。しないと駄目。そんな心構えでは駄目。「よしっ」というところまでせな駄目。祭典中に探しとる。押入れ開けとる。そんなでは駄目!
 大きな複雑なお祭では、典儀を設けますわ。どういう任務をて、決りはないけど、全体を充分知っておる、把握しとる人を典儀にするんですわ。ただ、声が大きいとかではあかんのや。タイミングが大事やでね。あかんのです。
 風が吹いて、なんやら倒れる、扉が閉ることがあるでしょ? そんなもんワシは知らんわいてほったらかしたら厳修できんでしょ。なるべく目障りにならんように臨機応変、目立たぬようにして、(三方の胴を挟み持って案上で進める手つきで)すっと、ちゃっ。できな駄目や。大きな祭に行くと、その下に賛者がおる。典儀がただ起立着席、順番をいうだけでは駄目よ。考えな。
 典儀が宮司一拝という。典儀の命令で動いとる。神饌献撤ていう。出ていく。祝詞て。典儀の命令で宣言したらイカン。宮司が作法を開始してから、始めてから、必要があれば「ご起立下さい」。説明になるでしょう? 宮司とどっちが偉いかわからん。タイミングが大事ですよ。

 祭典が終了したら、必ず記録を、これがこうやって、来年のも書くわね。お祭が良くなってきます。そういうなことですわ。装束も著装も大事です。そういうのが厳修の要件で、満たさなならん。でないと出来るわけがない。私はそう思います。

 祭式の指導について、学習にしても、「こうこう」言うのはありません。が、漠然とやっとったらあきません。たいていは、ぼくらもよく言うんですが、「しっかりやっとるか?」「心配ありませんわ」いうて、実は出たとこ勝負やて、あきませんわ。学習て、いろいろありますわ。私は故実をいろいろ調べて、なにも言いませんわ。そうするとしらんわ。警蹕ならどこからでも集めればええんですわ。カードですわ。資料にしとく。しとくだけでなしに、持っとるだけでなしに、頭に整理しとく。講習会に引出して、ぱっと、解る。講師が本を見ながら、こーですわ、あーですわいうとったら、受講者が見抜くわ!
 先づ講師はボサッとしとったら駄目ですわ。多くを想う。此が大事。カメラマンでもなんでも、景色を見たってものを見たって、此を写真に、どんな光線で、作品にて注意しとるでしょ? ボサッとしとっては駄目ですよ。もっと凄い教え方はないんか?て考えとったら、ひらめきというのがある。

 いろんな本を読みなさい。なんでもええ。あ〜こうこう、あ〜ああ、いうて糧にしたら宜しい。家族みたいや。

 三番目(は?)は、一回(いちかい)でも多く、祭式講師として多く出向する、体験するということです。今日は、あーたがたへの研修でもあるけれども、われわれ講師のための研究会でもあると、言い聞かせるのです。だから受講者だけが勉強すると、講師は偉そうな事だけ言うと、では駄目です。

 人間一生涯これ勉強です。そして知っとることは全部教える。
秘伝とかありません、この道は。そのかわり、教えたことには責任を持ちなさいと。いい加減なことはおしえられん。勉強せなならん。
 そん次は、優秀な後継者を育成せよ。職人気質というのがあって、自分さえよければというのがある。教えたれ!盗め!いうても、盗めん。教えたれぇ。そら、教えろ〜いうたら(笑) ともかく、教えたれ。

 こら(ここは)皇學館大學。私がやめたら「ただの山(注:倉田山)」いうたら困るからね。あとの先生を育成する。人間ですから。自分さえよければでは駄目。
 出版せい!書物をかけ!自分の自慢やない!! 将来わからんようになる。これは大事ですよ。たかが大した本ではないけれども、纏めると。将来の人に読んでもらって、「ああ(なるほど)」いうてもらって、一応の理解は出来るわね。

 やまだよしおいう偉い人に、26〜7のとき辞令をもらった時、「将来に名を残すのは本や。キミは若い、誰しも最初から立派なものはできん。初めはメモ的なものでよい。段々立派なものになるさ」
 その頃のボクのは幼稚なもんですわ。これが(新沿革史)神社本庁から出た。六十年積重ねですわ。後悔はない。もっとああこう、いうのんはあるけどね。もっと勉強をいうのはあるけど、

わが人生失敗いうのんは無いですわ。

(正坐・礼を終って)
 「わかったか? なんでもだいじなんやわな! 長いことないです。よう勉強して、考えてくださいよ。祭祀の厳修を守るんです。エエな。よろしい」
(ご講義終了)

閉講式御挨拶の最後に長谷先生よりのお言葉。
「四回以上の方も、続けてご参加してください」