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加州清光の短刀
加州清光の歴史

加州清光は京都の来国俊の弟子である越前藤島の住人友重が文安の頃(1444年〜1449年)加州泉村(現在の金沢市泉付近)に移り住みました。
この友重を祖とし、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代へと続き、江戸時代の苦難の時には非人小屋(救済小屋)で刀を作り、廃刀令が発せられた明治まで続いた刀鍛冶の一派です。
現在の子孫の方も金沢の寺へお盆にはお墓参りに来ており、長久の縁起の良い一派だと思います。


寺1 墓



加州清光の短刀 加州清光の短刀



加州清光の短刀

加州清光の鑑定書


箱書きには加賀藩前田侯御差し料(加州住藤原清光)と記載されています。
箱書き表 箱書き裏


刀工清光記念碑

刀工清光記念碑


金沢市笠舞には刀工清光記念碑があります。清光を顕彰する記念碑の天辺には、ずんぐりとした可愛らしい形をした鋳物の刀身が刃を上にして乗っています。金沢市の金工家・板坂辰治氏(金沢美術工芸大学名誉教授)の作品です。
碑文には次の様に書かれています。
この地はもと笠舞村といい、寛文十年藩主前田綱紀(つなのり)がここに小屋を建てて領内の困窮者数千人を養った。これを御小屋または非人小屋と呼んだ。
刀鍛冶長兵衛藤原清光は名利の道に疎く窮乏の末延宝年間ここに移った。彼は清光の六代目であり歴代の中でも名工であり、藩主はその技倆を惜しみ鍛刀を命ぜられたが彼もまた、 貧中礼節を忘れず貞享四に没するまで造刀に専念した。
七代長右衛門も此の地で鍛刀し、享保八年に没し八代長兵衛は金沢城下に移り業を継ぎ子孫は明治に及んだ。
ここに笠舞町第四土地区画整理の完成を記念しこの地の歴史と清光の名を永世に伝える。
昭和四十年三月 日 日本美術刀剣保存協会金沢支部支部長 上埜剣峰撰
東京国立博物館工芸課長文学博士 佐藤寒山書




地蔵1 地蔵2

刀工清光記念碑の近所には多くの地蔵尊が祭られています。 笠舞地蔵尊由来には次の様に書かれています。
寛文九年(1669)この年は天候がすこぶる不調で、秋には豪雨が続き各地で河川が氾濫して洪水が頻発しました。このため耕地が奪われ、五穀の収穫もなく食を失い家屋も奪われ難民が金沢城下に流れ込んできました。五代藩主前田綱紀侯はそれらの難民を救済するために笠舞に地に収容所をお作りになり保護したのが、寛文十年六月のことでした。 収容所の中には自領民のみならず他国他領の者、旅行中発病した者まで収容され保護されました。
収容所の中で老幼や疾病の為亡くなっても、頼る者も弔ってくれる人もいない方々の霊を供養するために村人達は、ここにお地蔵さんを安置して冥福をお祈りしたのです。 先人達のお互いに慈しみあい、助け合う互助の精神が村の安穏を守ってきました。
爾来今日までのお地蔵さんの十徳を念じながら、また、地域住民の除災徐病をお守りくだされたご恩に報いるために毎年八月二十四日と二十五日の地蔵盆には地域住民あげて大祭が催されます。 この度地蔵尊奉賛会役員ならびに町会長はじめ地域住民が一つになって地蔵堂建立を発願しその運びとなりました。
平成十年十一月十五日
笠舞地蔵尊奉賛会世話人一同



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