「加賀正宗」兼若一門の来歴については、日本全国的に言われている説と(財)日本美術刀剣保存協会石川県支部発行の加州新刀大鑑に書かれている説とが有ります。
全国的に言われている説は尾張国犬山に住んだ志津三郎兼氏の流れを汲む刀工が前田藩へ来往したと言う説です。
(財)日本美術刀剣保存協会石川県支部加州新刀大鑑に書かれている説では、鉄砲鍛冶の江州(滋賀県)国友家の一人である「四方之助」が刀工を志望して濃州(岐阜県)関へ行き関鍛冶に師事し、技術を身に付けました。
元々尾張武士である前田家の知人の紹介を受けてその子「甚六」が慶長十年頃に金沢入りしました。
美しく刀の切れ味にも優れ、「加賀正宗」として名声を博した名匠となりました。金沢では、「兼若を持つ者には禄が低くても嫁にやる」という話もあったと言います。
初代兼若「甚六」は功績が認められ、越中の守受領後は「越中守藤原高平」と銘を切っています。
「甚六」三男「又助」は兼若を継ぎ二代目となり、「又助」長男、「四郎右衛門」は三代目となり、共に銘を「賀州住兼若」と切っています。
四代目は、「甚太夫」と言い、三代目長男で「賀州金沢住藤原兼若」と切るものが多いです。兼の字体が二代目、三代目と異なり、容易に区別できます。しかし、戦の無い時代となり、新しい刀剣需要も少なく作品が少ないです。
五代目は、「助太夫」と言い、四代目の長男です。しかし、更に需要が少なく、系図では三十七才の頃他業に転じています。