連研二回めは大豆秋も大詰めの夕刻から

十月二十五日安川の浄念寺で、受講者三十名と僧侶十八名が参加し、十八時三十分より行われました。

司会の常称寺住職永森文夫氏の開会挨拶に続き、勤行(重誓偈)、提案説明、四班に別れての分散会と全体会、その他仏事作法の講話や質疑応答が行われました。

テーマ  お浄土とはどんなところなのでしょうか。

提案者  専龍寺 麻生 修善

提案 宗教とは、超人間的存在や、その力・意思を拠り所に、平安を得ようとして求める信仰。

浄土真宗で超人間的存在な意思とは、大無量寿経にある四十八願にあたる。

浄土真宗は、交通安全・商売繁盛・合格祈願といった除災招福の宗教とは異なり、「今ここに生きている私自身を問題とし、現実の私を見つめ問う事である。」生きる道を教える宗教である。

分散会   テーマの範囲に留まらず、お寺・仏壇から数珠にお西お東があるかなど様々な事が語られた。

 

全体会   初めての研修、互いに感ずるものがあり、回を重ねると実りあるものになるのではないかと話が出た。

又、天国と極楽は同じか違うか。弔辞の文言に宗教宗派の配慮が必要かなどについて話された。

一言コーナー

天国と地獄(全体会の質問から)

極楽は天国と同じか、天国とはなにか?

キリスト教では神は絶対的存在で,人間は神になることはできない。仏教では人は仏になる可能性があるとされる。

 

葬儀と弔辞について

浄土真宗では年忌法要は故人をしのぶとともに、自らも仏法を聴聞し、仏恩に感謝する行事として行われるものです。

親鸞聖人自身「親鸞は父母の孝養のためにとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだ候はず。」『歎異抄より』と、亡き人への追善、追福の供養のために念仏をとなえたことはないと述べておられます。縁ある命を真実世界へと導くためには、まずもってこの私が仏となる道が肝要です。その意味で、仏事は、阿弥陀仏のお慈悲を仰ぎ、仏法を聴聞する縁として望むべきものであります。

葬儀も、亡き人に永遠の別れを告げるための儀礼ではなく、阿弥陀如来の願力によって再び浄土で会えるという思いを確かめあう法会であります。その思いを持って行う弔辞にあたっては、浄土真宗の門信徒である私たちは、やはり不適当な言葉には注意したいものです。

不適当な言葉の例 「草葉の陰で」・「永眠した」・「天国」・「地下の故人」

適当な例     「往生をとげられました」・「お浄土」・「故人」

                   双葉社「うちのお寺は浄土真宗」より