ナイチンゲール著『看護覚え書』から学ぶ

宇出津小  尾形正宏
2009/12/12

ナイチンゲール(ウィキペディアより) 2209年2月だったかに紹介したフロレンス・ナイチンゲール著『看護覚え書』(現代社,2000,299ぺ,1700円)という本。本書は1860年に書かれたもので,その目的をナイチンゲールは以下のように述べています。
 この覚え書きは,看護の考え方の法則を述べて看護婦が自分で看護を学べるようにしようとしたものではけっしてないし,ましてや看護婦に看護することを教えるための手引書でもない。これは他人(ひと)について直接責任を負っている女性たちに,考え方のヒントを与えたいという,ただそれだけの目的で書かれたものである。(はじめに,1p)
 本書は,もちろん,看護婦の心構え(あるいは子どもや病人を看護することになるかも知れない女性に対して)書かれているわけですが,教室や学校における教師の心構えとして読んでみても大変示唆に富んだ言葉が出てきます。
 私の気に入った部分を抜き出して紹介してみますので,看護婦を教師におきかえて読んでみてください。
 なお,文頭の番号は,本書の訳者が便宜上つけたものです。検索にも便利なので,そのままにしておきます。


45 この種のことを,「自分の仕事ではないから」といって,患者のために行なうことを拒否するような看護婦がいれば,看護はその人の天職などではない,と私は申し上げたい。私はある外科の「婦長」たちが−この婦人たちは週に二,三ギニーも得られるほどの技術を持つ人びとであった−床を這いまわって磨き洗いをしているのを見たことがあるが,その理由は,このままではとても患者を入れるわけにはいかないから,というものであった。私としては,看護婦たちに床洗いをさせよ,と要求するつもりはさらさらない。それは能力の浪費というものである。しかし,この婦長たちこそ,本当の天職としての看護婦であったのだ,と私は言いたい。すなわち彼女たちは,まず患者のために何をなすべきかを第一に考え,その次に時分の「役目」は何かをひたすら考えている。一方,現に病人が被害を受けているというのに,これをしてくれる女中を待ち,あれをしてくれる雑役婦をあてにしているような女性は,自分の中に看護婦としての≪素質≫を欠いている。  (1喚起と保温) 
 私も子ども達が帰ったあとの教室を掃除することがよくあります。それは朝,子ども達が気持ちよく教室に入ってほしいからです。子どもがいるときには気にならないゴミも子どもがいなくなるとかえって気になるのはなぜなのでしょうかねえ。
「これは私の仕事ではない」ということを言いながら仕事をするようにはなりたくありませんね。
 
12 ところで,これらすべてに気を配るといっても,それは,自分ひとりですべてを実行するという意味ではない。「私はいつも窓という窓を開けておくのですが」と責任者たちはよく弁解する。もしあなた方がそれを実行しているとしたら,それは確かに,まったく実行しないよりは,はるかにましであろう。しかし,あなた方は,自分自身でそれを行なわないときにも確実にそれが行なわれるようにできないものであろうか。あなたがその場を離れたとたんに事態が逆もどりするようなことが,絶対にないようにできないものであろうか。これこそ「責任を持っている」ということの意味なのである。そしてそれは非常に重要な意味を持っている。前者は,たんにあなたが自分自身の手でできることだけが行なわれることを意味しており,後者は,しなけらばならないことが,あなたがいよういまいと,いつも行われているということを意味している。 (2住居の健康) 
 これは管理職の姿勢と考えてもいいですし,子どもたちへの指導と考えてもいいでしょう。あなた自身でやれることは少ない。あなたがやっていることをもっと大勢でやることができれば,とても大きな力になるのです。そのための指導法が大切なのです。

27 病院においても家庭においても,責任者は誰も,次の簡単な自問を頭に入れておこう。それは(どうしたら自分のなすべきことを自分でできるか,という自問では≪なく≫),なすべきことがいつも行われているようにするために,自分はどのような対策を講じることができるか,という自問である。 
33 「責任を持っている」ということは,たんに自分自身が適切な処置を行うだけでなく,ほかの誰もがそうするように手筈を整える,という意味である。すなわち,誰かが,故意にせよ過失にせよ,その処置を妨害したり中止したりしないように手筈を整えることなのである。それは,すべてを自分で切り回すことでもなければ,多勢(おおぜい)の人間に職務を分担させることでもなく,各人が自分に定められた職務を確実に果たせるようにすることを意味している。以上が(とくに)病人に対して「責任を持つ」という言葉が持っている意味なのであって,それは病人が集団であっても個人であっても変わらない。 (3小管理) 
 「なすべきことがなされていない」としたら,それは「自分の対策が悪かった」と考えることができないと,指導者として十分ではないと思います。なかなかいい言葉ですね。

23 急かされること,騒々しくかきまわされることはすべて,病人に特別な苦痛を与える。患者が自分からただ楽しみで何かをしているときはともかく,患者がほかから依頼された義務的な仕事にかかわっているようなときに急かされたのでは,患者は二重の苦痛を負わされることになってしまう。患者が用件を話している間じゅう立ったままでそわそわしている家族,患者の側に座り込んでくどくどと応対している友人,−前者は患者にあまり喋らせないようにという考えから,また後者は患者を慰めようという考えのもとにそうするのであろうが,−いずれも思慮に欠けた振舞いである。病人があなたに何か用事を話しているときは必ず腰を下ろすこと。けっして急いでいるようなそぶりを見せず,注意力を集中し,助言を求められれば真剣に考えて答えること。そして話がすんだら,すぐに患者のそばを離れることである。 (4物音) 
 子どもを急かさない。じっくり待ってやる−こういう教師の姿勢は必要です。子どもたちにとって,学校でのほとんどのことは教師から与えられた「義務的な仕事」をやっていることになりますから。
 また,子どもに話しかけられた時,いくら忙しくても「私は今忙しいから…」などという態度を見せるのではなく,ちょっとだけ目線を子どもに合わせて,深呼吸してお話を聞いてあげられる教師になりたいものです。

29 病人が,その職業柄,多くの思考を要する仕事を続けざるをえないようなばあいは,その害は倍になる。精神錯乱や意識不明の状態にある患者にものを食べさせるばあい,急に食物を与えると患者を窒息死させることがある。しかし,まずスプーンで患者の口唇(くちびる)をそっと撫でて彼の注意をひき起こしておいてから食物を含ませれば,彼は無意識のうちに,しかもまったく安全にそれを嚥(の)みくだすであろう。脳についても同じことがいえる。脳に急に思考を強いることは,それもとくに決断を要するようなことを不意打ちで考えさせることは,まさしく空想上などではなく,実際の害を与えることになる。病人に突然話しかけるようなことは絶対にしてはならない。また同時に患者に,じりじりと待たされるような,そんな思いをさせてもならない。 (4物音) 
まさに言い得て妙とはこのことだ。
 私たちの,子どもたちへの日常的な「指導」が,「病人にいきなり食物を与えるようなこと」になっていないのか反省してみる必要があるようです。また逆に,行政や管理職から,いきなり食べ物を与えられて右往左往している現状も見えてくるような気がします。するどいですねえ,ナイチンゲールは。

30 実際のところこの原則は,病人に当てはまるとまったく同様に,健康人にも当てはまる。何年にもわたって絶え間なく思考の中断を強いられてきたひとで,それによって思考能力が鈍ってこなかったというひとに,私はお目にかかったことがない。健康人のばあいは,思考が中断されても何の苦痛も生じないであろう。しかし病人の場合は苦痛が生じ,それが被害の警告となる。 (4物音) 
 学校でも思考の中断をさせることが度々あるような気がします。今でもキッチンタイマーで「あと3分ね」などと言って思考を中断させる授業をしていますが,もっとスムーズに次に移る方法はないのでしょうか。「時間内にうまくまとめられなかった人は,友だちの意見を聞きながら考えていこうね」などという呼びかけが必要ですね。十分な答えが出なくても「3分間考えたのだ」という事実を大切にしてあげたいです。仮説実験授業では,全員が予想を立てるまで待ってあげるのが原則です。そして,友だちのノーミソも活用して思考を広げ続けて,実験を待つのです。

13 病人というものは,脚の骨折のときに他人の手を借りないかぎり脚を動かせないのと同じように,外から変化が与えられないかぎり,自分で自分の気持ちを変えることができない。まったくのところ,これこそ病気についてまわるひとつの大きな苦痛なのである。それはちょうど,骨折した四肢にとって一定の肢位を保っていることが最大の苦痛であると同じである。 (5変化) 
 外からの働きかけこそ,教育の本道ですよね。教育とは「教えて育てる」ことですから。確かに「子どもが内面に持っている力を伸ばすのだ」という言葉はとても聞こえはいいのだけれども,「支援する」なんていって失敗したのが前学習指導要領でした。子どもは自分で何でも一生懸命考えればできるようになる,のではないでしょう。自然や社会から働きかけられないと思考も深まらないと思います。その子どもにあったいい教材を教師が準備してやることで,頭も動くし思考も深まるのだと思います。

20 非常に些細なことであるが,ひとつ注意を与えておこう。患者のカップの受け皿にものをこぼさないこと。言い換えれば,カップの底は,いつもきれいに拭いておくこと。これを怠ると,患者はカップを口へ持っていくたびに受け皿を添えなければならず,そうしなければ雫がたれて,シーツやガウン,あるいは起きている患者であれば着衣(きもの)を汚してしまう。このちょっとした注意のあるなしが,患者の安らぎに,ひいては患者の食事を摂ろうとする意欲に大きな相違をもたらすのであるが,なかなか人びとは気づかない。(6食事)
 子どもへの対応におけるちょっとしたこと…それはなんでしょう。
 さまざまな場面でのちょっとした「手だて」を考えてみてください。その「手だて」を怠ったことで,今後,「学習しようという意欲に大きな相違をもたらす」ことがあるというのです。些細なことだけど大切なこと。それは,ちょっとした気配りだったり,教師の一言だったりするのかも知れません。平生は,そこまで考えて指導にあたっていませんが,こういう文章を読んだときに,フト,我が身を振り返ることができるのです。

13 患者に何を食べさせるかを決める立場のひとの職務とは,あくまでも患者の意見に耳を傾けることであって,「食品分析表」を読むことなどではない。まわりの人間が気を配って患者に与えるべきものとしては,食物は呼吸する空気に次いで重要なものである。 (7食物の選択)
 教科書に載っているから教える−しかし,それを受け付けない子は,その子が喜ぶことを教えてあげるべきでしょう。が,もともと教科書というのは単なる「食品分析表」なのかもしれません。食品分析表も大切ですが,それが患者にどんな意味があるのかを考えないと拒否反応を起こすことだってあるのです。

51 なんとも不思議なことであるが,ろくに観察もしないで,あるいはまったく観察ぬきで,あるいは少しでも世間の経験と突き合わせてみればとっくの昔に嘘とわかっているはずの≪ことわざ≫や≪格言≫の類などに頼って,人びとは判断を下しているのである。 (13 病人の観察)
 教育界も≪ことわざ≫≪格言≫に満ちています。「課題は易から難へ」「身近なことからだんだん広がっていく」「子供が見つけた課題が一番いい。子供の自主性を伸ばしているのだ」「自由に考えさせるためには自由にしなければならない」「勉強がつまらないのは問題が難しいからだ」などなど…。
 これって本当ですか?
 少なくとも仮説実験授業の世界では,これらのどれもが本当ではなく「教育界の間違った常識」であることを証明してしまいました。
 それでも,こういうものに囚われている人たちのなんと多いことか!

63 患者に勧めて食事を摂らせるときほど,これが顕著に現れることはない。ある看護婦のもとで,ある患者が食事を受けつけないために衰弱しているとしよう。それを別の看護婦にまわしてみると,彼はたちまち食べるようになる。これはどうしたことか? 「彼女は患者をあやつる力を持っている!」と人びとは言う。しかし,それは人間をあやつる力などではない。食事の与え方の問題であり,あるいはまた,患者が楽に嚥みみ込めるように枕を当てがう方法の問題なのである。ある患者は窓を開けると食が進む。別の患者は顔と手を洗うとよく,またほかの患者は首のうしろを濡れタオルで拭くだけで食べられるようになる。自殺につながるほど気のふさいでいるような患者には,食べる気を起こさせるためのちょっとした元気づけが必要である。看護婦は彼の思いに変化を与えて,気晴らしをさせる。私は自分が重い病気だったときに,ほかの誰かが食べさせてくれても嚥み込めないようなときでも,ある看護婦が口にスプーンを運んでくれると嚥み込めたことを思い出す。(13 病人の観察)
 子どもを「操る」のがうまい教師がいます。
 しかし,それは「操る力など」ではなく,教材や課題の選び方の問題であり,子どもが飲み込めるような授業運営を身につけているかどうかの問題なのでしょう。どうすれば子どもが乗ってくるのかが分かってくると,教師のカンも冴えてくるはずです。

71 われわれは皆,看護婦や病人の家族などが,あるいは医師である家族までもが,「Aはそんなに悪いんですか。Bは亡くなったんですね。その前の日に私は彼に会いましたが,とても具合がよいように見えました。そんなに容態が急変(?)するとは,ちっとも思えませんでしたね」などと話しているのを,五十ぺんも聞いてきている。しかしこれは,本来であれば,「私がよく注意していさえすれば,必ず察知できたはずの≪何かの≫徴候があったに≪違いありません≫。あのとき患者がどんなだったかを,私は思い出してみます。そうすれば次のときにはその観察もできるでしょう」と言うべきなのであるが,誰かがこう言うのを,私は耳にしたことはない。世の人びとはそうは言わない。彼らはずうずうじく,何も観察するようなことはなかったと断言し,また自分の観察が失敗だったとは認めない。 (13 病人の観察)
72 病気や死を観察すべき立場にあるひとたちは,病気の再発や発作あるいは死などが起こるに先立ってどのような様子が見られたかを思い起こし,それを自分の観察体験として心に銘記しておくようにしてもらいたい。そして,何にも徴候はなかったとか,≪確かなもの≫はまったく見られなかった,などと断言しないようにしてもらいたい。 (13 病人の観察)
 これもまた,耳の痛い言葉です。
 マスコミには「イジメに気がつかなかった」「そんなに悩んでいる風には見えなかった」というようなことを云う教師がよく登場します。これって本当なんだろうか…と思います。少なくとも学級担任であれば,「この子,今日は元気がないな」「最近いやに浮かれているな」「帰る子がいつもと違うな」ということに気づくはずです。だからといってすぐに子どもに「どうしたの?」「大丈夫か?」と問いただす必要もありませんが…「気づくこと」はできるはず。そんな教師になりたいし,保護者も,そんな担任に受け持ってほしいと思っていると思います。

98 何のために観察をするのかという問題に立ち返ろう。ある人たちは,観察そのものが自分の目的であり,自分の務めは何かを発見することであって,ひとを癒すことではないと思っているようである。それどころか,最近のある有名な裁判によると,三人の医師が,患者は中毒であろうと推定しながら赤痢に対する処方を出しておいて,患者を毒物から遠ざけようとはしなかったと陳述したということである。これは極端な例である。しかし,もっと小さな規模ではあるが,われわれは,それと気づかずに,これと同じようなことをしでかしている。往々にして病人に付いている人たちは,こんな空気では,こんな部屋では,あるいはこんな環境のもとでは,病人が回復できるはずはないとよくよく知りながら,依然として病人には薬を服(の)ませるだけで,自分でも病人を殺すものだと知っている有毒物を病人から取り除く努力もしなければ,有毒物から病人を遠ざけようともしないでいることがある。そればかりか,きちんと筋を通して,すなわちこれに関して手が打てる唯一の人に対して,自分の確信を述べようとさえしないこともある。 (13 病人の観察)
 学級の子どもたちが「学ぶことが楽しくない」「こんなことを学んで何になるの」「自分自身に自信が持てない」と訴えているのを十分知っていながら,学習指導要領の枠だけに囚われ,ひたすら教科書を終えることだけを考えている教師たちのなんと多いことか。
 子どもたちが本当に必要としていることが別にあり,そのための処方箋もちゃんと開発されているのに,それを使わずに毒薬?を与え続けている教師たちの罪は大きいと言わざるを得ません。授業書をやってあげましょう。 
理科っていうのは不思議がいっぱいで空気や水のじっけんをしていくうちに空気と水のかかわりがすごくわかってきました。楽しかったです(≪空気と水≫の感想より)

1 この本は,看護という仕事が持つ詩的な趣をすべてとり去ってしまい,およそ人間の仕事のうちで最も無味乾燥でつまらないものにしてしまった,と人びとは言うであろう。わが愛する姉妹よ,教育の仕事はおそらく例外であろうが,この世の中に看護ほど無味乾燥どころかその正反対のもの,すなわち,自分自身はけっして感じたことのない他人の感情のただなかへ自己を投入する能力を,これほど必要とする仕事はほかに存在しないのである。−そして,もしあなたがこの能力を全然持っていないのであれば,あなたは看護から身を退(ひ)いたほうがよいであろう。−後略− (15 看護婦とは何か)
 この文章で「教育の仕事はおそらく例外であろうが」といっていますが,これは要するに,教育の世界は看護の世界以上に「自分自身はけっして感じたことのない他人の感情のただなかへ自己を投入する能力を必要とする仕事」なのだと言っているといえるでしょう。私たち教師が「子どもたちの感情のただなかへ自己を投入する能力」を持っているでしょうか。ナイチンゲールに言わせれば,教育の世界では,それが当然ですが…と言いたいところなのでしょうか,教育現場を見るとそうとも言いきれない部が多々あるように思います。
 だから,「この能力を全然持っていないのであれば」私たち教師も身を引くべきだとナイチンゲールは言っているわけです。

34 私がこう言うと,あなた方はおそらく「いったいどうしろというのです。子供に食べ物を与え過ぎてもいけないし,やらなさ過ぎてもいけない。部屋を閉め切ってもいけないし,吹き抜け風を入れてもいけない。子供を退屈させてもいけないし,あまりかまい過ぎてもいけない。これでは困ってしまいます」と言われることでしょう。可愛い小さな看護婦さん,あなた方は自分で≪工夫≫することを覚えなければならないのです。世の中には自分で工夫することを覚えようとしない人たちもいます。私はこういった難しいことを,実際に体験しているのです。あなたが赤ん坊のお守りを上手にできるように勉強するということは,私の本を読むことではなく,ほかの優れた看護婦たち(そして,もしあなたがそうしたいと思うなら私の本)があなたに話して聞かせることを,自分でどうすればうまくできるか実地に応用してみることなのです。 (16 付録・赤ん坊の世話)
 教師も,自分の勝手な(思いこみ的な)判断ではなく,充分,学習した上で判断を下す必要があります。子どもにとって,何がいいのか悪いのか,どれくらいならベストなのかベターなのか…それらは,何度もやってみて気づいていくことだと思います。
 いくつかの選択肢をもってものごとにあたると,自分の予想どおりだったときにはもちろんのこと,仮に予想と違う結果になったとしても,自分にとって得るものは必ずあるはずです。
 そして,この選択肢を立てるときに大切なのが,先行実践から学ぶことだと思います。先行実践は,間違いや失敗例も含めて,先輩教師がたくさん持っているし,本にも書いてあります。
 それらを手に入れる手っ取り早い方法が「サークルに来る」ってことでしょうかね。


ホームに戻る  レポートの目次に戻る