「介護保険問題のいくつかの要素」(1998.10.13.)



(I氏の質問に答えて)

 2000年4月からの介護保険法施行に向けて、高齢者の医療・保健・福祉現場では、様々な議論が展開されていますけれども、介護保険問題のいくつかの要素を分けないで議論しているため、議論がかみあわない、あるいは無用の不安を増強させるといったトラブルも見受けられるように思います。そこで、本稿では、介護保険問題の要素として、ケアマネジメントの問題、広域化の問題、市場化の問題、保険原理の問題を個別的・例示的に採り上げ、市町村社会福祉協議会の進むべき方向等に対象を絞って私見を申し述べたいと思います。

 まず、ケアマネジメントの問題ですが、そもそもケアマネジメントと介護保険は、必ずしも不可分一体のものではありません。ケアマネジメントないしケースマネジメントが生成発展したイギリスやアメリカには介護保険という制度はありませんし、介護保険制度を持つドイツにはケアマネジメントの理論も実践もありません。厚生省などの政策サイドは、介護保険とケアマネジメントは不可分一体であるかのような宣伝を行い、一見して利用者のために導入が望ましいと思われるケアマネジメントの仕組みの導入には反対しにくいという心理を巧みに利用して法案成立を図った観があります。しかし、不可分一体という感覚はむしろ国際的な常識から見れば不自然だと考えるべきです。なぜならば、ケアマネジメントは、縦割りの制度から人間を見るこれまでのサービス提供の在り方を反省し、人から制度を見、人を中心に統合されたサービスを提供する事が必要だという認識から始まったものだからです。介護保険という一つの制度にケアマネジメントを閉じこめて規定するのは、論理矛盾以外の何者でもありません。介護保険法によるサービス以外のサービスを利用する人々(児童や青壮年障害者の方など)にもケアマネジメントは必要であると厚生省自身も言っているのですから、介護保険法によるケアマネジメントと法によらないケアマネジメントを制度として分けるよりも、介護保険法にはケアマネジメントに関する規定を設けず、すべてのケアマネジメントに共通する定義とすべてのケアマネージャーに共通する権利義務を定めた法律を別個に制定する方が制度のあり方として合理的だったのではないかと考えます。ややこしいと思われるかも知れませんが、私は、介護保険には反対ですが、ケアマネジメントの導入には賛成の立場です。
 もっとも、ケアマネジメントの先進地のイギリスでは、公務員であるソーシャルワーカーがケアマネージャーとなるのが専らなのですが、どちらかというと利用者中心のサービス提供ではなく、予算切り詰めのための費用管理に陥っているとの批判が見られます。また、アメリカでは、ケアマネージャーは公務員ではなく、またソーシャルワーカーの資格もない場合がありますが、利用者のアドボカシーではなく、サービス提供者と保険者のためのアドボカシーに熱心であるとの声もよく耳にします。日本では、ケアマネジメントの理想論ばかりが紹介されて海外の現場の実態が故意に隠されている疑いがあります。日本のケアマネージャーは、身分保障がないという意味ではアメリカに近いと思います。人件費の都合上、純粋な公務員ではない人の割合が多くなると思いますので、あからさまな財政支出切り下げのモチベーションはイギリスよりも低くなるかも知れませんが、その反面、サービス提供者への利益誘導行為に対する歯止めが効かないという欠点もありそうです。ケアマネジメントの利用者にとってのプラス面を伸ばし、マイナス面の出現を抑える努力が求められるものと思われます。その意味では、市町村社会福祉協議会のソーシャルワーカーなどは、純粋な公務員ではないですし、民間営利企業の従業員でもありませんので、公務員である場合の弊害からも営利企業従業員である場合の弊害からもフリーの立場になり得る存在と言えます。社会福祉協議会自体が営利企業の尻馬に乗っているようでは仕方がありませんが、地域の福祉に責任を負うという立場から、ケアマネージャーの倫理の一つである「社会正義 social justice」(イギリスでもアメリカでもケアマネージャーに当然求められる職業倫理とされているのに、何故か日本では強調されない嫌いのある言葉です)を前面に掲げ、民間営利企業のケアマネージャーといえどもその地域でケアマネジメントを行う際には社協の掲げる職業倫理を無視できないというところまで影響力を持つ事が、利用者たる地域住民の利益の観点から望ましいものと思われます。

 次に、広域化の問題ですが、行政の広域化というテーマ自体は、なにも介護保険法が出てきて初めて問題になったものではなく、古くは太平洋戦争遂行体制整備・中央集権的基盤の強化・合理化を目的として、政策サイドが都道府県を再編しようとした事に端を発します。戦後、地方自治の価値が憲法上も明記され、地域に暮らしている人達が自らの地域を創造・変革していく事の価値は何人も認めるところとなりましたが、その後も行政の合理化・効率化を名目として行政単位の広域化を画策する動きが絶えず、住民自治ないし地方自治の理念からその動きに反対する立場との間で対立が続いてきました。介護保険との関わりで広域化問題を考える際には、このような歴史的背景を踏まえた上で考察する視点が重要と思われます。また、広域化と言ってもどの部分を広域化する話なのかを個別的に分けて考えないと、議論が混乱する元になります。少なくとも、サービス供給を広域化するという次元の問題であれば、需要ディマンズのあるところには行政が配慮するとしないとに拘わらず、事業主は利潤追求を目的として広域展開するでしょう。問題なのは、必要ニーズはあるけれども需要ディマンズがない(サービスは必要だけどお金がない)場合です。国立病院統廃合で過疎地域の医療が危殆に瀕しているのと同じ性質の問題が、介護保険法によって新たに生み出される恐れがあります。市場性のない地域であっても必要なサービスを確保する手だてを考える必要があります。それがなければ、「地域で安心して暮らしていける」どころか、介護移民を引き起こす事となります。それはサービスを必要とする人にとって不幸な事ですし、地域のためにもなりません。市町村社会福祉協議会は、コミュニティ・オーガナイゼーションないしコミュニティ・ワークを担う代表的な社会資源供給機関です。地域住民とともにこの問題を考え、地域住民とともに問題解決を図るという取り組みが求められます。ボランティアネットワークづくりやNPO支援なども対応策として検討に値するものと思われます。また、不採算部門に責任を負うかわりに採算部門のシェアを市町村に認めさせるという方向もあり得ると思います。
 広域化の問題は、苦情処理の広域化という側面からも問題となります。ただでさえ国保連合会に苦情処理の能力があるのか疑わしいのに、広域化によって市町村の苦情処理責任が印象的にますます希薄化するのは問題です。アメリカでは、丁度市町村社会福祉協議会のような、民間非営利で組織的に信頼のおける団体が、福祉オンブズマンを組織して、ナーシングホームなどへのきめの細かい訪問活動を展開しています。 地域の医療・保健・福祉サービスが利用者のために適切に運営されているかを監視する、しかも行政からも相対的に独立した立場から保険者である行政自体をも監視対象にするというポジションは、市町村社会福祉協議会が最も適任のように見受けられます(但し、既に市町村の下請け社協に堕しているところでは、望むべくもありませんが)。

 第三に、市場化の問題ですが、効率化を追求しないと民間営利企業に負けてつぶされるという議論があり、現場の混乱の元になっていますが、過剰な反応は却ってサービス水準の低下を促進する恐れがあります。もともと戦後日本の社会福祉は、サービス整備の公的責任を民間事業者に押しつけるという安上がり政策をとって来ました。 それがいわゆる「措置制度」です。今でこそ措置制度はむだ遣い制度のように言われていますが、当時は公的責任転嫁の代名詞のようにこの言葉は使われていました。もともと安上がり福祉を目指していた措置制度ですので、そこで保障される公費支出の水準ははなはだ低劣であり、民間非営利の社会福祉事業者は理想と現実のギャップに随分悩まされてきましたし、現場福祉労働者は劣悪な労働条件の中で必死になって福祉の底辺を支えてきたわけです。一部の悪徳事業者による蓄財や一部の福祉労働者の横柄な勤務態度をとらえて措置制度そのものの弊害と断ずるのは論理の飛躍というものです。現に、スウェーデンなどの福祉先進国は、ある意味では措置制度を採用している国家ですが、上述のような事件が明らかになっても、それが措置制度の問題であるという結び付け方はしません。また、スウェーデンでも福祉の効率化の観点からウェルフェアミックス(公共部門と民間市場部門の混合福祉体制)を採用してはいますが、民間部門は3割程度に過ぎず、どちらかというと公共部門の健全化のために民間営利企業を当て馬に使っている観があります。あくまでミックスであって公共部門の消滅・完全市場化を目指すものではない点で日本と異なります)。措置制度下といえども収入は国民、市町村民の税金が主ですので、むだ遣いは許されません。健全な事業主であれば、言われなくても効率化に努めてきたはずです(社会福祉援助技術としての運営管理は論として理論化され、実践されてもきました)。もともと低い水準の措置費の中でつましく経営してきたわけですので、経営努力と言っても常勤職員削減などによる人件費の削減、労働強化、業務分析による労働時間管理の強化、事務管理の合理化、経営の多角化などの選択しかありません。もともとが人件費7割見当の事業ですので、収益性などはじめからないのです。社会福祉の歴史そのものが、市場原理から取り残された人々への施策として生成発展してきた事を思えば、そこに再度市場原理を投入する事自体に根本的な矛盾があるというべきです。経団連などは、既に介護保険法案成立前からその市場性に疑問を提示し、雨後の竹の子のように発生した参入企業の内の多くが数年で市場を撤退すると予測しているのは、正当な判断と思われます。むしろ、介護保険法のもたらす真の市場は損害保険市場であるという視点を忘れては行けません。実際に要介護状態になる人の割合に比して、不十分な公的保障に不安を感じ、民間保険商品を購入する人の数は図り知れません。今回の市場化の真の目的が、利用者のための効率的なサービス提供ではなく、アメリカ資本の圧力による日本の損害保険市場の自由化であると仮定すれば、お金を持たない若い障害者を対象からはずして購買力のある高齢者に限った保険制度にした真の動機が推し量られますし、今後営利企業が損をするような公的介護保険制度の給付水準の引き上げは抑制される恐れがある事も予見できます。そのような中で、これまでの措置制度下で培われた地域の福祉水準を低下させないために、市場からはみ出した人々へのサービス提供を確保するとともに、市場原理そのものを超克する新しい福祉の体系を模索する 必要があります。コミュニティは、市場経済の売買契約関係によって成り立つ人間関係とは異なり、そこで生まれ、生き、死ぬ市場以前の人間存在同士の関係です。人間はいかに生きるべきか、自分たちはどんな地域で暮らしていたいか、市場という枠を越えた環境、生命、倫理といったキーワードから、手がかりを見つけられるかも知れません。

 最後に保険原理の問題ですが、保険原理特有の問題として、要保障事故をどうとらえるか、どのような行為に対していくらの報酬を認めるかという設定の仕方によっては、必要な費用が回収できない、正直者が馬鹿をみる制度となってしまうという問題があります。このことは、薬漬け医療で大金持ちになる医者がいる一方で赤髭診療所がどんどん潰れていく様をみれば明らかです。本当に必要な事に適正な報酬を保障するというシステムにならなければ、保険原理は直ちに腐敗の温床になるものと思われます。また、今般の介護保険法は、保険者を原則市町村としたわけですが、立法論的にはアメリカ的に保険者を民間営利事業者にしてしまう、その意味でも市場化してしまう事ができなくもないわけですので、これ以上市場化が進行しないように市場化の弊害を訴えていく必要があるものと思われます。また、事業型社協の場合は、報酬設定が福祉労働者の生活と健康を保障する水準となるよう、またサービス利用者にとって選択の幅が保障される水準となるよう(たとえば男性ヘルパーを求める人があれば男性ヘルパーを雇用できる報酬が保障されないとその選択の幅が狭まる等)、そして適正な事業展開を行っている事業主が馬鹿をみる事のないような水準となるよう訴えていく、さらに、必要であるにも拘わらず報酬として認められない行為がある場合は報酬化を訴えていくといった行動が必要になるものと思われます。

 介護保険とケアマネジメントとは直接的な関わりがないと言いましたが、同様に広域化、市場化も、社会保険原理と直接的に結びつく性質の問題ではないと思います。ひとくくりに「介護保険」の問題として議論して混乱するのではなく、各要素ごとに批判的な吟味を行い、あらためて総合的に考えていくという作業が有益ではないかと思います。

 以上、はなはだ不十分ではありますが、私見を申し述べました。(1998.10.13.) 




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