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被災地の声

ここでは被災地の教師、信徒の声を中心に掲載していきます。
進行中の震災  

七尾教会 釜土蘭子

 能登半島地震から2ヶ月がたちました。当初は大きな被害がないと思われていましたが、ニュースでとりあげられなくなった現在、深刻な被害があることが徐々に明らかになっています。
 地震があった時、私は教会学校で説教をしておりました。聖書の箇所はちょうど十字架。まだ教会学校にくるようになって間もない子にとっては、初めて聞く十字架の話が驚きだったようで、「なんでイエス様は十字架で死んじゃったの」と思わず声があがりました。その為か、自分としてはいつもより長い説教となってしまいました。いつもの教会学校なら、全部終了している時間だったのですが・・・。
 後から考えればそれが幸いしました。「イエス様はみんなの事を愛しているんだよ」そう話したまさにその時に、地震がおこりました。震度6。それはすごいゆれでした。動くことも、話すこともできずただその場で、心の中で早く揺れがおさまることを祈るのみでした。隣の部屋で本棚がたおれている音がしました。また隣接する台所では茶碗が割れる音がしました。
 揺れがおさまった所で、階下にいた牧師が教会学校の部屋にとびこんできました。指示に従って、隣の部屋に移ると、本があっちこちにとんでいました。この部屋に子供達がいたら、ケガをしただろうと思うとぞっとしました。
 しばらくの停電の後、じっとして過ごし、その後子供達と祈りの時を持ち、親ごさんがお迎えにきて下さった子供達を家に帰しました。
 その後、耐震性のある幼稚園のホールで主日礼拝を守り、共に食事をし、この日は誰もが無事であることを喜び感謝したのでした。 築47年の牧師館と礼拝堂。その時はよく持った、大丈夫だとおもっていたのでした。

 ところが数日後から、牧師館の様子がおかしくなり、土台がずれた?ようになって、少しの風でもゆれるようになりました。建築関係の方に見ていただくと、退去をすすめられるようになりました。
 けれどもまだそこまでは想像の範囲内でした。

 一ヶ月ほどたってからは、礼拝堂の後ろの部分が下がっているような感じになってきました。礼拝堂全体がゆがみはじめ、ヒビが目立つようになってきました。最終的な診断はまだですが、おそらく、建て直しをしなくてはいけないということになると思います。幸い17年前にたてた幼稚園の部分は、外壁のヒビの修理だけですみそうですが、小さな幼稚園には大きな負担となります。教会礼拝堂の再建となると、いったいどのくらいの規模になるのか想像もつきません。今は専門家の診断を待つしかないのです。

 突然の出来事で、私自身は混乱が続いています。けれども、七尾教会の教会員は前向きに再建の為に祈り続けています。それぞれのお家には大なり小なり被害があります。けれど、高齢の信徒の方が「これも神様のご計画やから」とおっしゃいます。(たとえ礼拝堂が一時的に使えなくなっても)「礼拝はどこででもできる」とおっしゃいます。けれど今は一日でも早く再建し、元の姿を取り戻すことができるようにと願わずにはいられません。あの瞬間、神様の愛を伝えていたあの子供達に、「神様の家」をしっかりと受け継いでもらえるように。

 雨が降るたび、風がふくたびにまた建物が傷むのではないかと心配になります。夏に台風がこないこと、冬に大雪がないことを切に祈っています。
 どうか、主にある多く兄弟姉妹がこの事を覚えていただき、祈りをあわせてくださいますよう、お願いいたします。

  ブログ

被災地から  

                             日本基督教団 羽咋教会 一同
                             (羽咋教会)富来伝道所一同
                                牧師 内城 恵

主の御名を讃美いたします。
去る3月25日(日)の能登半島地震により被災した羽咋教会と富来伝道所は、 この度の震度6強の地震により、身も心も大きく揺さぶられるような、 大きな体験をいたしました。
この事を覚えて、全国の諸教会の皆様にお祈りいただき、 励ましと慰めのお言葉を賜りましたことを、ここに改めて感謝申し上げます。
3月25日(日)朝9時42分。 この日、まさか石川県に起こると思っていなかった大きな規模の地震が、 石川県で最も小さな町々、能登半島を襲いました。
能登半島は、風光明媚な自然、田舎町でも時間の止まったようなゆったりとした雰囲気を持ち、 心安らげる観光地として多くの人々に愛され、守られてきた地域です。 しかし一方で、過疎化の進む田舎町。 老齢化も避けがたい課題です。
そのような私達の町を襲った地震は、弱いところにますます弱さを 痛感させられるような、大きな出来事でした。
能登を襲った地震は、私達の大切に守ってきた教会や関連施設を無惨にも 少しずつ「余震」という形で襲い、大きなダメージを与えました。
羽咋教会が会堂として使用しているゆりっこ児童クラブの建物(鉄筋コンクリート造)は、 大きな亀裂が何カ所にも渡り、内壁に入りました。 その亀裂が、余震によって日に日に大きくのびており、 壁に入るひび割れの箇所も、毎日増えていきました。 関連施設である羽咋白百合幼稚園(鉄骨造)も、内壁と外壁の煉瓦等に 大きな亀裂や損傷が起こりました。
鉄筋コンクリート造は、修復するのが大変に技術がいることを知らされ、 このままでは羽咋教会としての堅牢な「神の宮」が倒れてしまうのではないか、と 不安を抱いたのは言うまでもありません。
長きにわたる能登伝道の歴史の中途で、明るい将来を築くための「伝道計画」が 閉ざされたというような思いがいたします。 神様の御旨を日々問いながら、祈りのなかで、 「主によって私達に託されている使命は何であるのか。」考える毎日です。 闇のような将来への不安と闘いながら、今の現状を維持しています。 是非とも闇のようなこの現状を、神様によって修復し、復興していかなければと願い、祈っています。
富来伝道所は、羽咋教会の出張伝道所として、牧会の責任を任されています。 これまで長きにわたり、能登圏委員会が財政的な支援を全面的に行い、 礼拝が守り続けられてきました。 現在も、能登圏からの支援は続いています。 戦後まもなくして建てられた会堂は、 一人の信徒によって献げられた木造の古い民家です。
礼拝は、毎週4〜5人で守っています。 時には1人のこともあります。 賛美の声は小さくとも、祈りの声が少なくとも、主は必ず聞き入れて下さる。 ・・・・そう信じて守り続けてきた礼拝です。
そこに、突如として襲った能登半島地震。
当日、教会員は危険なので、牧師夫婦のみで礼拝を守りました。 案の定、礼拝中にも余震が何度も起こりました。 台所は食器棚が倒れ、食器類はほとんど壊れてしまいました。 電気の傘が落ちて壊れ、壁も崩れ落ち、屋根瓦が数十枚落ち、危険な状態でした。 畳の床がずれ、柱がゆがみ、床が中央に向かって沈下しています。 果たして、富来伝道所の10年後、50年後はあるだろうか。そのような思いが頭をよぎります。
私達が大切に守り続けてきた、主に託されてきた伝道の使命を、 私達はこれからも果たし続けてまいりたいのです。
どうか、能登半島を襲った地震のために被災した教会・伝道所・関連施設のために 祈り、助けて下さい。
主にある兄弟姉妹が、私達と傷みと祈りを共にできると信じています。
どうぞ、今後もご支援をいただきたく、御願い申し上げます。

今も続く心の余震  
勇 文人(当時輪島教会、現・若草教会牧師)

 3月25日は私にとって輪島での最後の礼拝でした。その日の朝9時42分、教会学校の分級の最中に震度6強という想像を絶する地震に襲われたのです。
 ただ、地震直後は、教会員も教会学校の生徒も命が支えられたこと、それだけでよいと思いました。確かに、火傷や裂傷や打撲など軽傷を負った人たちがいましたが、皆無事でした。しかし、教会から一歩外に出てみると、一瞬にして倒壊した家もありましたし、傾いた家を何軒もみることができました。手分けをして地震発生時に教会にいた教会学校の生徒を自宅に送り届けたりしながら、その日の朝の礼拝は中止とすることにし、祈った上で皆が家に帰っていきました。それでもその日の朝は、家の中の片付けをそこそこに礼拝に来た人など次々に17人が教会に来て、祈ってから自宅へと帰って行きました。
 高齢の方も、教会員の家族も、家も大きな被害はなかったことも間もなく確認できました。47年たってかなり古くなっている会堂も牧師館も無傷のように思えました。こんな大きな地震でも、被害は最小限に済んで、ほんとによかった、とそのときは思ったのです。
とはいっても、教会の台所は鍋がひっくり返っていましたし、棚から書記が飛び出て破損していました。牧師館の中も、私の書斎は固定していなかった棚が倒れ飛び、本や書類が散乱していました。1時間前に妻がいた台所は、食器が戸棚のガラス扉ごと吹き飛んで粉々になっていましたし、ポットやオーブントースターが飛ばされて変形していました。二階の寝室は、4時間遅ければ息子が昼寝をしていたはずの布団の上にタンスが倒れていました。それは、どの家でもそうだったのです。一歩間違えれば命の危険があったのに、「助けられた」と、誰もが思ったのです。
停電が解消した昼過ぎから、安否を問う電話がかかってくるようになりました。教会の中の片付けは、家の片付けの合間に駆けつけてくれる教会員に任せて、私は牧師館の中の片付けを始め、その合間に必要な情報の発信を行い始めました。「私たち家族も、教会員も皆無事です。教会も牧師館も大丈夫です」と。
夕拝には、15人の方々が集まりました。崖崩れで寸断された道を迂回しながら往復3時間の道を朝晩2往復した一家もいました。私たち家族の送別会はなかったものの、礼拝後はお菓子や果物を食べながら、歓談の時を持ち、無事を喜び合ったのです。
私たち家族は、その二日後27日に予定通り輪島を離任しました。ひっきりなしにかかってくる電話や訪問者に応対しながら、教会の方々に励まされながら片付けと荷造りをし、どうにか荷物を積み込んで金沢へと向かいました。そして金沢でも、「私たち家族も、教会員も皆無事でした。教会も牧師館も大丈夫です」と、伝えたのです。
ところが、大丈夫ではなかったのでした。金沢にいて余震を感じることは少なかったものの、ニュース速報では日に何度も能登地方に地震があったことが伝えられました。私もその後能登を訪ねるたびに、最初は無傷と思われた家が傾き始め、次に訪ねたときには更地になっているということを発見することになるのです。
 輪島教会の隣の洋服屋さんは、余震のたびごとに傾いて立ち入り禁止になりましたが、今改修工事が行われて、教会への危険は少なくなるのかもしれません。一方で牧師館の南側にある空き家が今傾き始めています。何よりも、牧師館は、できるだけ早い時期の建て替えが必要になってきました。しっかりと建っていると折り紙の付けられた会堂も無数の亀裂の補修が必要ですし、壊れた窓枠の取り替えなどの補修が必要になっています。
 七尾教会の牧師館と会堂及び幼稚園、富来伝道所、羽咋教会と羽咋白百合幼稚園など、魚津教会も含めて、今回の能登半島地震は、「皆無事です。教会も牧師館も大丈夫です」という言葉がむなしく思えるほどの深刻な爪痕を残しました。
震度7だったならば、「助けて!」とすぐに言えたのかもしれません。しかし震度6強という揺れと余震は、大きく、そして少しずつそこに住む人々の心と生活を揺さぶり、建物にダメージを与える揺れだったのです。
 地震から一月余り後に輪島を訪ねたときに、「今でも船に乗っているようだ」とある姉妹は言っていました。余震は小さく少なくなっているものの、まだ心の中の余震は当分消えることがないのかもしれません。
だから、教会のために兄弟姉妹のために、どうか祈ってください。捧げてください。