na i ro bi no a me

 少し咳が出ていたのです。それなのにプールにも入ったから、そうだ風邪薬を持ってきたはず…と家から持ってきていた薬をスーツケースから一錠出して飲みました。いつもはなかなか眠れないのに、飛行機に乗ってしばらくするとその風邪薬のためでしょうか?とても眠くなってきました。ふと目をさまして、飛行機の中の薄明かりで時計を見ると1時でした。2時間くらい眠ったんだ…。今、どのあたりを飛んでいるのだろう…。来る時と同じように備え付けられたテレビにはときどき、現在地やあと何時間でつくということなどが表示されていました。地図には英語でスーダンと書かれていたように思いました。スポットの明かりをつけて、また絵を描いたり文章を書いたりしたかったけれど、暗くて静かだったので、きっと起きているのは私だけなのだと思ったので、明かりをつけるのはやめにしました。カイロからケニアに行く飛行機の中で、備え付けのテレビはついていても、客室はお客さんでいっぱいでも、起きているのは一人なのだと感じるとなんだかさびしいような、でも少し愉快のような不思議な感じがしました。日本からカイロへ向う飛行機の中はほとんど日本人だったけれど、今、この飛行機にはさまざまな国の人が乗っていました。私はその時、真ん中の列の左側の端に座っていました。私の左隣の列には頭にターバンを巻いたご主人と、額に宝石をつけた奥さんが眠っていました。小さな女の子もおかあさんと同じように額に宝石をつけていました。(どうやってあの宝石はくっついているのかな?おふろに入ってもとれないのかな?)私はまだそんなことを考えました。その後ろにすわっているのはヨーロッパの国の方でしょうか?小さな女の子が金色の髪を細かく細かく三つ編みをしていました。それから身体も顔も全身を真っ黒の布で覆った女の人も乗っていました。そのスタイルの人のそばに行ってみたときに、目のところだけが透けているのが見えたけれど、最初空港で出会ったときは、とても驚きました。ちょっと旅行に出ただけで、世界にはいろいろな洋服を着て、さまざまな風習の中で生活してる人がいるんだなあということがこんなにしみじみと感じられて、やっぱり旅行っていいよねってそんなことを考えてたのです。と、突然飛行機中の明かりが急にともりました。2時近くでした。どうしたのかなと思ったら、エプロンをつけたスチュワーディスさんが食事のサービスを始められたのです。「お食事の用意ができました」という放送が入って、眠っている人も起こされて「飲み物は何にしましょうか?」と聞かれていました。グループの中には、ナイトクルーズでお夕飯をみんなたくさん食べたからか、眠っていたかったからか、食事をことわっている人もいました。私はまた、スケッチブックに出してもらった食事の絵を描いて、それから少しずついろいろなものをちょっとだけつまみました。しばらくしたらシュチュワーデスさんが食事のトレイ(お盆?)をとりにこられて、また室内の電気が点いたときと同じように突然全部消されました。みんな眠っていたのに、ごはんになって、またもう眠ってくださいみたいに電気を消しちゃうのに少し驚きました。これは何ご飯かな?朝ご飯でも夜ご飯でもない、夜中ご飯かなと思いました。でもきっとどうしてもどこかで食事を出す必要があって、こういうふうにするしか仕方がなかったのでしょう。
 飛行機に乗る前に小林さんから「ケニアについたら、お昼までゆっくりして、それからかばを見にボートサファリに出かけます。前の日がとてもハードだったので、少しゆっくりしてください」と説明があったのです。明日はいよいよ動物たちのいるケニアに行けるんだと…そこへ少しずつ近づいているんだと思ったらまたわくわくして、うれしくてなりませんでした。
 まだ明け方暗いうちに飛行機はケニア空港に到着しました。空を見上げるとケニアの空に大きな三日月が見えました。ケニアの空はとても澄んでいました。私にとって、ケニアの三日月はやはり特別なものでした。この月は本当にいつも見上げるなつかしい月と同じなのだろうかと日本を離れてたった二日しかたっていないのに、日本のことを思い出したのでした。「アフリカに行ったらアフリカ旅行記を書いてきます」私の声に「いい原稿を楽しみにしていますからね」とやさしく電話で言ってくださった出版社の社長さんの声が頭にうかびました。社長さんはときどきさびしそうな顔をして三日月を見上げます。いいえ、実際には一緒に月を見上げたこともなく、そんな様子を目にしたことはないのです。ただそう思うだけなのです。最近始められた携帯からのメールで、「酒を飲んで外に出たらきれいな三日月が見えました」「今日もいい夜です。きれいな月を見ていますよ」と時々お月様のことを教えてくださるから…
 カイロの空港につくとそこには黒い肌の人が、空港の警備の人だったり、誘導する人だったりしていっぱいでした。どうしてそれだけのことで私の心の中に怖いという気持ちがそのときに生まれたのでしょう?私は自分の心の動きにとまどっていました。ケニアはエジプトとはまったく様子が変わっていました。イスラムの洋服を着た人はほとんどいなくなりました。言葉も宗教も、そして民族もみなエジプトの人とはまったく違った人たちでした。黒い肌の人たちが空港の入り口で笑い会ったり、話をしている中、建物の入り口へと進むときにも私の心の中の何かを「怖い」という気持ちは消えず、私はとても緊張していました。その時「ね、山もっちゃん?」と愛美ちゃんが話かけてくれました。「いつも入国審査のときにむつかしい顔をした人も山もっちゃんだったらどうしてだか笑うから、私もやってみる。こんにちははジャンボ、ありがとうはアサンテだよ」今までの入国審査の人が、おそらくは偶然私のときに笑ってくれたということが、どうしてだったか私にはわからなかったけれど、でも愛美ちゃんの言葉を聞いたとたん、私の緊張が少し薄れていくようでした。
 入国審査の行列は2列になっていて、小林さんご一家と私は違う列でした。愛美ちゃんたちの番になって愛美ちゃんがたぶん、ジャンボ、アサンテと挨拶をしたのだと思います。審査官は白い歯を見せて、にっこり3人に笑いかけていました。大谷さんがそれを見て、入国審査の人が笑ってるなんて珍しいよねと私に言いました。「笑うもん。いつも笑ってくれるもん」と言うと「うそつけ」と大谷さんが微笑みながら言いました。「本当だもの…愛美ちゃんやあいこさんも見ていてくれてそうさっき、言ったよ。大谷さんはいつも私の前に入国審査済んでいたから知らないだけだもん」「笑うかい…そんなもの」やっぱり普段は審査官の方はあんまり笑わないものらしいです。私の番がきました。「ジャンボ」おじぎをするとめがねを少しずらして下から見上げるように、年配の審査官が私の顔を見ました。そしてうなづいて、顔をかたげてパスポートを返してくれました。「アサンテ」とお礼を言うと、「アサンテ」とサという言葉を大きく言って口をつむんだままにーと笑いました。私はアを大きくしたから違うよと教えてくれたのかな?審査官の笑顔はやっぱりとてもうれしかったです。そして緊張していたことがちょっとばかみたいだったと思いました。
 審査を終えて、その部屋を出て少し歩くと、空港の中のそこここに、たくさんのお土産屋さんがありました。私の背より大きなキリン、わらぶきの家を模した小さな可愛い小屋の置物、色とりどりのビーズでできた装飾品、本。さっとみかけただけで、とても楽しくうれしくて、気持ちが膨らんでいくのがわかりました。
 スーツケースが出てくるのを待って、扉の外に出ると、そこでは小林さんは見知らぬ日本の女の人と話をしていました。その人は関口のりこさんという現地で仕事をしている交通会社の方でした。小林さんは午前中の予定について関口さんと話をしていました。今年は4年ぶりにフラミンゴがたくさんやってきて、その数は九十何年ぶりくらいにすごい数だということ…だから行く予定に入っていなかったナクル湖国立公園に、一人50ドルかかってしまうけど寄ってみてはどうかと関口さんはすすめていたのでした。「昨日、あんまりハードだったし、その前の晩が遅くだったし、夜は飛行機の中だったし、予定にもなかったからどうするかはみんなと相談して決めます」15人が入り口から出てきてそろったところで、小林さんはいつもの「番号!!」という集合をかけました。「予定になかったことだから、事務局から一人20ドル応援しようと思うのだけど、そのサファリゲームに参加するかどうしますか?」関口さんが「いつもだったらそのナショナルパークは動物もそれほど数はいないのと、他でも見れる動物ばかりなのでお勧めしていないのですけど、今年はなんと言ってもすごい数のフラミンゴが到来しているので、これはみなくちゃ損と思います。いつもはお客さんの方から行くと言われても、わずかのフラミンゴで、申し訳なく思うくらいなのですけど。え?私ですか?私はまだ見に行っていないのですよ。日本から添乗員として、こちらへ来ていたときは、サファリにしょっちゅう行けたのですが、ケニアの会社に来てからは、まだ3度しか出かけられずにいるのです。日本にいたときの方が行けたなんて皮肉なんですけど…でも絶対に今年は行ってみたいと思っているのです」関口さんの説明にみんなが、せっかくだから行きたいと手を上げました。「では、つくのに時間がかかるから、朝ご飯を空港内で調達してきてください。中に少し食べ物のお店があるらしいから。それからケニアポンドに少しお金を換えてきてください。関口さんどれくらいがいいかな?」「30ドルあればとりあえず足りると思います。ドルも使えるけれど、奥へ行けばいくほど、ケニアのお金しか使えませんから」
 みんなが集まったいたすぐ後ろにちょうど銀行がありました。私たちは順に30ドル分ケニアのお金の買えてもらいました。替えてもらったお札はエジプトのときと同じようにやっぱりもうずいぶんいろんな人の手に渡ってきたようで、擦り切れていたり、よれよれだったり、少しやぶれていたり、黒ずんでいたりしました。それから食べ物やさんを探すことにしました。通りに見えたのはお土産屋さんばかりで、本屋さんにポテトチップスが置いてあるのが見えたから、それを買おうかどうしようかとみんなで言っていたところに小林さんが「あっちに食べるところがあったから」と呼びに来てくれました。そこはサンドイッチや菓子パンや飲み物を順番をついて買ったあと、そこに座って食べることができるお店のようでした。英語で注文するのかな?エジプトではほとんど英語を話さなかったのです。私の英語通じるのかな?
 前の人が買い物をしている間、売っているものを眺めていました。スプライト、ミリンダ、ファンタ、コカコーラなど日本でも売られている飲み物がずらっと並んでいました。ふと横を見ると、もう伊藤さんが席に座ってサンドイッチを食べていました。「もうサンドイッチはあと一個だけだよ。なかなかおいしいよ。コーヒーもおいしい」私は夜中ご飯を少しだけだけどつまんでいたので、おなかは空いていなくて、でも手のひらの半分くらいの菓子パンを手でとって、レジの女の人に見せようとドキドキしていました。大谷さんが「何がいいの?」と聞いてくれたので、「あのパイナップルジュースにしようと思うの」と言うと大谷さんはすぐにとても上手な英語で、パンとジュースを買ってくれました。英語で頼まなくてすんでほっとしたので、大谷さんに「サンキュー」とお礼を言うと、「この人は日本人ばかりに英語を使う」と言って笑うから私もその通りだと思ったらおかしくてたまらず笑ってばかりいました。
 私たちはそれぞれ買ったものを手にして、また入り口に集まりました。そこにはとてもきれいなまっすぐな目をした青年が関口さんと一緒に私たちを待っていてくれました。彼がジュマさんでした。
 「頼んでいたガイドさんが実は病気でこれなくなってしまって、それで彼が来てくれました。これからずっと彼がみなさんを案内してくれます。彼はミスター・ジュマといいます」「関口さんは一緒ではないのですか?」小林さんの質問に「残念ながら私は一緒に行けないのです。でも彼はとても日本語が上手だから安心してください」と関口さんがにこやかに言いました、でも私たちは少し不安でした。ケニアでは日本人のガイドさんがきてくれるとそう聞いていたのです。でもその背の高い精悍な感じのする青年は「ジュマです。よろしくお願いします。楽しい旅にしましょうね」とびっくりするほど滑らかな日本語で言いました。そして彼の、一目会っただけで誠実そうな人だなあと感じさせる雰囲気が私たちをほっとさせてくれたのでした。
 「車割りをします」と小林さんはテキパキと3台ある車に乗る人を決めました。私は二号車になりました。二号車は私と大谷さんと小林さんご家族でした。「明日からはまた配車を変えますね。みんなと仲良くなれるように…」小林さんの心配りは本当にとても細かく、温かで、私たちが何の心配もなく旅を続けられたのはひとえに小林さんの心配りのおかげだと言えると思います。
 このままサファリに行くことになったので、私は2号車のマイクロバスの運転手さんのキュリさんにお願いして、スーツケースを出してもらって、中に入れてあった一眼レフと300ミリのレンズ、そしてまた風邪薬を一錠出しました。重くて大きなスーツケースを一度入れていただいていたのをまた出していただいたことが申し訳なくて、「ソーリーアンドサンキュー」と習いたての子供たちが使うような英語しか出てこないので仕方がなくその英語でキュリさんに話しかけると、キュリさんは「ノープロブレム。アクナマタタ」と言いました。"アクナマタタ"…ディズニーの映画「ライオンキング」の中でイボイノシシとミーアーキャットが何度も歌の中で繰り返す言葉がその"アクナマタタ"です。大丈夫、心配しないでというやさしい言葉をジュマさんもそしてキュリさんも旅の途中、何度私たちに言ってくれたことでしょうか?
 マイクロバスに乗りこむ前から雨がポツポツ降り始めていました。「晴れるでしょうか?」小林さんが関口さんに尋ねました。「おそらく昼までにはあがるでしょう。あまりたくさんはいつも降りませんから。では私はここで失礼します。お帰りのときに、ナイロビのホテルでまたお会いしましょう」
 車が動き出しても雨はなかなかやみませんでした。「ラッシュかな?去年はこんなに混んでいなかったのにね」小林さんの話しを聞いて、大谷さんが「トラフィックアクシデント?」とキュリさんに尋ねていました。「ノー。トラフィックジャム」
 「ね、何て言ったの?何って聞いたの?」大谷さんが何か尋ねるたびに私は知りたくてたまらず聞くのでした。「あのね、交通事故かな?って聞いたらそうじゃなくて渋滞だよって教えてくれたんだよ」「あ、そうなの」今度はキュリさんが「彼女は何を聞いているの?」と時々大谷さんに尋ねていました。大谷さんが「さっきの英語は何かって彼女は聞いていた」ときっと説明してくれていました。
 びっくりして、最初とても怖かったことがありました。キュリさんは大谷さんや小林さんが話しかけると運転をしながら、首を120度くらい曲げて、質問をした人の顔を見て答えようとするのです。それも時には100キロ以上のスピードを出しながら、やっぱり同じように振り向いて答えられるのです。あとでそれは運転に対する彼の自信とそして何より誠実な彼の人柄のためだとわかってきました。そして本当にすばらしい彼の運転で、みんな怖い気持ちがどんどんなくなっていったのですが、キュリさんの真後ろにいる私に話すときにもくるりと後ろを向いて話しをしてくれたときにはさすがに驚きました。大谷さんが「エキサイティングなドライブだ」と言うとキュリさんはアハハハハとうれしそうに笑って「イッツ マイ ジョブ」と言いました。キュリさんの仕事に対する自信はそのあといろいろなところでも感じられ、私たちはキュリさんに感心したり感動したり、胸が熱くなったりして、彼のことが大好きになりました。
 少し郊外にさしかかっても雨の中をたくさんの人が歩いていました。見えないくらい遠いところからも畑や草原を通ってたくさんの人が歩いていました。ほとんどの人が傘をささず、そしてたまに傘をさしている人はゴルフのときに使うような大きな緑と白と赤に色分けされた傘をさしていました。「すごくたくさんの人が歩いてるよ。お仕事行くのかな?傘ささないのかな?」不思議だなと思ったら、自分でキュリさんに聞けばいいのに、英語が話せないから聞けなくて、でも聞いてと小林さんや大谷さんにもお願いしづらくて、「ね、どうしてかな?」とお二人に聞くように言うと、お二人がキュリさんに英語で質問してくれました。「雨が少ないからアフリカの人は雨が好きなんだって…アフリカの人はたくさん歩くって…車を持っている人は少ないからって…」街の中にはときどき学校らしい建物がありました。運動場に子供たちが同じ洋服を着て集まっているのです。「学校だよ。ほら学校」私は子供たちと仲良くなりたいなあと学校を車の中から眺めながら思っていました。でもふれあうことなんてきっと難しいだろうなあとあきらめてもいました。ビルやレンガで造った家が少なくなり、畑が多くなりました。ところどころに子供がひとりで立っています。「何をしているのかしら?学校は行かないのかな?」「一人で遊んでるんだって…学校は義務制じゃないんだって…お金がいっぱいかかるから、なかなか行けない子供たちがいっぱいいるんだって」たぶん同じように英語を習ってきた大谷さんがこんなにもキュリさんと話しができて、私はそのうちのどの言葉もわからないでいるのはどこに違いがあったのでしょうか?「私もお話したいな」「すればいいのに…」「でもわからないもん。もし聞けても、何て言ってくださったか少しもわからないから申し訳ないんだもん」大谷さんとのやりとりを聞いて「山もっちゃんはお話できなくてもいいよ。大丈夫」小林さんはどこまでもやさしくそんなことを言ってくれるけれど、私はやっぱりできることならお話ができるようになりたいです。子供たちと気持ちを通わせたいと願うとき、子供たちが自分の気持ちを知ってほしいととても真剣な目で私をみつめてくれたとき、ふたりで一緒に伝え合う方法をなんとか考えたいといつも思うように、私はやはりお国の違う人ともわかりあいたいです。私の頭の中はなかなか地理のことと語学のことが、短期間になんとか覚えられたとしても、どうやら頭の中にとどまることが難しくできているみたいなのです。でも子供たちともそうなように、もっと一緒にいたら、私も少しづつきっとわかるようになったり、昔習ったことを思い出すことができるようになるかもしれないとそんなことも考えたりもするのでした。
 遠くの方になんだか大掛かりな不思議な鉄でできたパイプのようなものが波をうった形にありました。「あれ何かな?」やっぱりつぶやていばかりの私です。「イギリスの資本で作られた農場の水をまく機械です」キュリさんの返事に「アフリカの人はイギリス人が嫌いですか?」と大谷さんが尋ねていました。キュリさんの答えは「サムタイムズ イエス でもサムタイムズ ノー」。ケニアは独立前にイギリスの支配化にあったのです。文化をもたらしてくれたのはイギリスで、そしていろいろなことが便利になったり、生活が豊かになったのもイギリス人のおかげだけど、でも支配化にあったことで、つらいこともいっぱいあったということなのでしょうか?そう言えば、エジプトの車は左ハンドルだったけど、ケニアの車は日本と同じ右ハンドルです。あとでわかったのだけれど、ドライアーなどの電気製品を使うときにコンセントやプラグの形もエジプトケニアでは違っていました。エジプトは昔フランスの植民地だったので、左ハンドルで、プラグもフランスと同じです。ケニアはイギリスの植民地だったからイギリスと同じなのです。そのことは自分たちの大切な生活の大きな部分の文化を他の国の事情で決められているというようなこともあるし、それでも文化をもたらせてくれた国の事情にあっているのは当然というか仕方がないことでもあるのだなあと考えさせられました。
 雨はまだポツポツ降っていました。草原の中、牛や羊をつれている赤いマントのようなものを着ている人がいました。「マサイです。乾期になったので、マサイは牛や馬を移動させている途中」とキュリさんが教えてくれました。

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