hu ta tabi no na i ro bi


 ナイロビのホテルはインターコンチネンタルナイロビというとても大きなホテルでした。
「ホテルについたら大急ぎで荷物をおいて戻ってきてください。すぐに大きなショッピングセンターにでかけて、その足でナイロビの街の中のレストランに食事に行きます」
 大急ぎということで、ポーターさんを待たないで、いそいで荷物をお部屋に運びました。何もかも急いだつもりなのに、ホテルの部屋から来た方向と反対に曲がってしまったらしく、エレベータがみつかりません。ぐるぐるまわってようやく下へ降りたら、もうみんなそこで待っていてくださいました。いつもこんなふうで本当に申し訳ないのです。
 街はもう真っ暗でした。私たちはまたキュリさんのバスに乗り込みました。
街の真ん中の人通りの多いところにバスは停まり、そのまま路上停車しました。
「降りたら絶対に動かないで」キュリさんが私たちに言いました。
「先に入っていましょう」
「でもわからなくならないかしら?」不安そうな声が聞こえたけれど、キュリさんはめずらしく、はっきりと
「いや、中へ入っていましょう。僕が外にいて待っているから…」
 お店は大きなスーパーマーケットでした。食料品や日用品がたくさん並んでいて、あふれんばかりに商品がならんでいました。
「ほら、可愛いお菓子…」
「どこでも一人で行かないで!!」大谷さんが少しきつい調子で言いました。
「はぁい」また迷子になっちゃうからかな?と思って少ししゅんとしていると、小林さんやジュマさんや他の人たちも中へ入ってこられました。
「お店はケニアシリングか、カードしか使えません。ドルは使えないです。自由に買い物をしていただいていいですが、外へは出ないでください」とキュリさんが言いました。
「みんなここで、お菓子やおお土産の残りを買って、それから買い物が終わったらレジのところにいてください。あ、山もっちゃん一人で行かないでね。ほら、大谷さん一緒にいてあげて…」
小林さんの声やキュリさんの言葉のなんだか緊迫したものを感じましたが、でもそれも商品をみているうちにだんだん忘れていました。
 「僕の父は紅茶の農場を経営していました。この紅茶はおいしいです。ケニアではコーヒーが有名だけど、でもケニアの人はあまりコーヒーを飲みません。紅茶やチャイをよく飲みます。それから重いけれどケニアのお米はおいしいですよ。ぜひ買って帰ってたべてみてほしいですね」ジュマさんはおすすめの紅茶はこれだと手にとって教えてくれました。
 動物柄のノートや消しゴムなど日常でつかうようなものにも動物がたくさんプリントされていました。時間がなかったから、あまりよくみなかったのですけれど、韓国や台湾を旅したときのようにいったいこれは何につかうのだろうというようなものを見つけることはできませんでした。街中のお店屋さんだからということもあるのかもしれません。
 日用雑貨のところで、なつかしいセルロイドの目をあけたり閉じたりするお人形をふたつ買いました。アフリカのお人形さんではなくて、金髪の青い目お人形さんでした。それからインスタントプリンを2個買いました。ケニアのロッジで食べたプリンがとてもおいしかったのと、旅行前に読んだ本にエジプトのインスタントプリンはとてもおいしいと書かれてあって、お店で売っていたのはアラビア語が書いてあったから、どうもエジプト製らしいと思ったからです。それは30シリングでした。
 みんなとても楽しそうにしておられたのですけれど、私は私のせいで、キュリさんや他の運転手さんのおうちへ帰る時間が遅くなってしまっていたのではないかということが気がかりでした。キュリさんは今日の日をこんなに楽しみにしておられたのですもの。
「楽しいわね」「安いよね」と他の方が口々に言っておられたので、自分のわがままで寄っていただいたのだという罪悪感が少しうすれるようだったけれど、でもお買い物をしながら大谷さんが
「コースまで変えてもらうなんてどうかと思うよ」と怒った調子なので、もっともだなあと思いながら、でも私はちょっとだけもし時間があったらって思っただけなの、こんなふうにみんなでなんて思わなかったし、やっぱりあきらめようと思っていたのと、言い訳を心で思っていたのだと思います。でもナイロビのホテルに夜についた時点で「やっぱりいいです」というべきだったのだと思います。
 ぐるりと回ってそれからレジの順番をつきました。もうすぐ私たちの番だというときに、あいこさんがそばを通りかかりました。
「山もっちゃん、ケニアシリングたくさんある?あのね、カードと現金のレジは違う列らしいのよ。山もっちゃんのついているところは現金のレジなの」えー…どうしましょう。手持ちのケニアシリングはもう少ししかありませんでした。大谷さんは怒っていたみたいなのに、自分のゾウの模様のビールを返してくるからいいよと言って、残りのケニアシリングをみんな私にくれました。
「いいの、私がプリンをやめるから…」けれど大谷さんは行ってしまって、私の番になりました。「お金が足りなかったから商品を返してきます」なんてレジをしてしまったあとでそんなこととても伝えることできそうにないし、すぐに足し算できないしどうしようとドキドキしたけれど、レジは計算された分があたらしく足されて表示されるようになっていたので、もし手持ちより多くなったら、「プリーズ ストップ」って言えばいいわって思って、少しほっとしました。
 そしてお金はまだビールが買える分だけ残っていました。
「ビール買ってくるね」
「いいよ。レジも混んでるからね」
申し訳ないことが多すぎて、本当に悪かったです。
 レジの向こうにジュマさんが待っていてくれました。
「外に出ないで、じっとしていてくださいね」
どうしてジュマさんは繰り返しそんなことを言うのだろうと思ったときに、スーパーの入り口に銃を持った警備員さんが立っているのが目に入りました。中へは入れない人たちがいるのか、そうでなければ、もし中で犯罪が起きると、外にいる警備員の人につかまってしまうから、犯罪の防止になるということなのかもしれません。
 ナイロビはとても治安が悪いと聞いていたけれど、実際にはなかなか実感できずにいました。ジュマさんは誰も危ない目にあわないように一生懸命私たちを守ろうとしていてくださったのだとはっきりとわかりました。小林さんや大谷さんが「ひとりでいないで」と言ったのもこういうことだったのです。
 いろいろなことを知りたいと思ったり、日用品をのぞいてみたいと思ったのは本当のことだけれど、だからといって、ジュマさんにこんなに苦労をかけるのはいけないことだったなあと後悔しました。そしてどうして私はいつもこんなに考えなしなのかなと悲しくなりました。
 小林さんやあいこさんに「ごめんなさい。食事が遅くなってしまって。危ないところだからみんなに苦労をかけてしまって」というと
「あら、大丈夫。お父さんはこういうところが一番大好きなのよ。」「そう、お父さん、こういうお買い物が好き」とあいこさんと愛美ちゃんが言ってくれるのです。
「いいんですよ。山もっちゃんが喜べば僕はなんだっていいんですよ」なんて小林さんもそんなふうに言うのです
元気がなくなった私を見て大谷さんも
「まあ、みんな喜んでるんだし、いいんじゃない?」とみんなみんなの優しさが心に染みました。
 横井さんはとても身体が大きくて、少林寺拳法の心得もあるし、強いので、お買い物が終わった後少しお外に出ていたようでした。
「あのね、外にいたらさ、キュリちゃんがね、自転車を買っててね、子供のおみやげにするんだってすごくうれしそうにお店から出てきたのね。僕らさ、あんなふうに、子供に何か買ってあげることがすごくうれしいなんていう気持ちを忘れてるんじゃないやろうかと思ったね」
 バスに乗ってから
「キュリさん、おうちに帰るのが遅くなってしまう。ごめんなさい」と言うと、
「いつもこんな時間になかなかスーパーに寄れないから、うれしい。少し買い物をしました」と言っていたのはそのことだったのですね。
 バスの窓には子供たちや子供連れが
「おなかがすいて、お金がないからもらえないか」とガラスをたたいていました。今までおみやげを買ってほしいということはあったけれど、お金をほしい言う子供たちには会わなかったのだけれど、それはやっぱり街中を歩いていなかったからだろうと思いました。
 レストランは中華料理のお店でした。大きなテーブルにみんなが腰掛けると、スープが運ばれてきました。私にとってはすごく辛いスープだったけれど、レストランや結婚式場を経営している伊藤さんは
「すごくおいしいスープですね。いや,本当においしい」と何度もおかわりをしていました。
 私たちはそこでも素敵な方と出会って楽しいお話をうかがうことができました。愛美ちゃんのことをまだ小さい子供さんと勘違いしたようで、何度も愛美ちゃんに話しかけていた男の人は
「僕は奥さんが二人いて、ライオンを二頭たおしたけれど、二頭目のライオンと闘ったときに、前足で頭の後ろをくじかれて頭の肉が取れかけた」と頭の後ろの傷を見せてくれました。   
 小林さんが「最後の晩餐ですね。最後のディナー。うちあげになります。楽しく食事をしながらひとことずつ感想なんかも言ってもらおうと思います」と言いました。
 みんないろいろな感想を言い合いました。思いついたことをなんでもお互いにお話したから、率直な感想や、ふと思ったことなどなんでもいろいろ言い合いました。
「マサイの家がとても狭いから、自分の家はすごく広いなあと思った」
「日本がたくさん援助をしているのだけど、まずアフリカに広い横断道路をつけるべきだと思うな」
「いえ、そんなふうにしたらどんどん観光客が増えて、アフリカの動物が困ったり、自然が失われたりするのじゃないかな」
など意見を出し合ったり、
「幸せな旅行だった、小林さんありがとう。また一緒に旅をしたいです」
「素晴らしかった」
「お腹をこわしてつらかったけれど、でもそのおかげで、そんなに食べなくていいんだと思えたし、今の自分の生活を振り返るきっかけにもなった」などいろんな感想がありました。
 私ももう本当にこんなに楽しかった旅行も終わっちゃうんだなと思うと胸がいっぱいでただただお礼をいうばかりだったのですが、でもみなさんのお話を聞きながらいろいろなことを考えました。
 マサイの集落にはハエがいっぱいいました。ウンチの壁のおうちなんて不潔なのではないかという感想もここを訪れた人の中にはあるかもしれません。
 でも私はマサイの人たちやケニアの人たちが、食べることも飲むことも、そしてウンチをすることも、そのウンチ自体も、とてもとても大切な動物たちの営みなのだということを肌で感じているから、いつか土に変わるウンチを汚いというようにはけっして思っていないのだと感じました。そしてそういうふうに物を大切にし、自然に帰るものだけを使って生きていることを誇りにさえ思っているのだと感じました。
 私にジャンプを教えてくれたボーイさんも、途中でほおの傷のお話をしてくれた男の人も「アイム マサイ」と胸を張って言いました。自分があの誇り高いマサイの一族だということが彼らにとってとても大切なことなのです。
 キュリさんがにっこりと「私はルオー族です」と言いました。ビンセントさんもやっぱり胸を張って「アイム キクユ」と言いました。ケニアの人も、そしてエジプトのハッサンさんもみんな自分自身に誇りを持って生きているのだと知ったときに、私たちは「自分が自分である」ということに同じように胸がはれるだろうかと思ったのです。けれどそれはけっしてもっと多くのりっぱなことをするべきだとか、もっといろんなことをして社会に貢献するべきだとかそういうことではないのですね。
 動物や植物や、それからアフリカの人や、日本の人やあらゆる生き物が、ひとつひとつみんなが大切な地球の乗組員だということなのだと思います。みんながありのままでもうそれだけで大切な存在なのだということを私はこの旅であらためて深く知ることができたように思います。湖畔を埋め尽くしていた美しいピンクのフラミンゴや優しい目をしたゾウ、カバ、イボイノシシ、ガゼル、ライオン、キリン…そして人間たち。草原で生きる動物たちが食物連鎖の中でお互いを生かしあっているように、私たちも地球でお互いに網の目のような係わり合いでお互いを生かしあっているのに違いない、みんな大切だから、みんな胸をはって、「私は私です」と言ったらいいのだと思いました。
 今、日本がアフリカやアジアにどういう形で援助を行うべきかということがときどき話題になります。その日もそういう話題が出ました。
 私はアフリカに来て、どんなこともけっして自分の価値判断では何も測れないし測るべきではなんだということを感じました。だからたとえば、ウンチで壁をつくるのはやめて、コンクリートを混ぜたらどうだろうなどと誰かが考えて、それを援助としようとしたらそれはとてもおかしなことです。ウンチだからこそ、また土に返り、森や林をそこに作っていけるのですもの。
 「日本はどうしたらいいと思う?」大谷さんがみんなとの会話のあと、私に聞きました。どういうふうに日本がしたらいいか…
 私はキュリさんにナイバシャのロッジでお話したことを思い出しました。
「私は学校の子供たちといるときに、子供たちがもし生きていく上で困ったことがあったら、一緒に考えていきたいと思ってるのです。たとえば、手が思うように動かないためにテレビのチャンネルが変えられくて困ると子供たちが言えば、リモコンのボタンをすごく大きくしてみたり、手にスイッチを押せるようなものをつける工夫をしたいの。お買い物が大好きだけど、お金の読みかたがわからなくて困ってると子供たちが言えば、おさいふを首からさげて『ここからとってください』とお店の人に言うのはどうだろうと練習したいの」
 人と人はいつもお互い様で生きているのですよね。私は子供たちと一緒にいることで、とても楽しかったり、いろいろ大切なことを知ることができました。子供たちは私といることで、少しは困ったなと思ったことを解決できたかもしれません。国と国だってもしかしたら同じことかなと私は思ったのです。子供たちが必要としていないことを押し付けることが間違っているように、国どうしでも、必要としていないことを無理におしつけちゃってもだめだし、それから勝手な価値判断で考えちゃダメなんですよね。相手の国の人がこういうことが困ってるんだ、なんとかしたいんだと思ってることを一緒にどうしたらいいか悩んで考えていくことができたらいいなあと思ったのです。そして自分が持ってる知識や技術やたとえばお金があれば、困ったことの解決に役立てることができるのであれば。
そんなにうれしいことはないなあと思いました。
 もう10時をまわっていました。
「きゅりさんの子供たちもう眠ってしまってるね」
「本当だね」
「あのね、明日私たちを5時にホテルへ迎えにきて、そのまま運転手さんたちはまたサファリへ行くのですって」あいこさんが教えてくれました。キュリさんはあんなにおうちに帰るのを楽しみにしていたのに、子供たちが眠ったあと帰って、ほとんど眠らずに子供たちの起きない前にまた私たちを迎えにきて、そのまままた旅に出てしまうのです。
「キュリさん遅くなってしまったね」バスに乗ってキュリさんに言うと,キュリさんは
「アクナマタタ」と笑いました。私たちは何度この温かい優しい言葉を聞いたことでしょう。そして何度うれしい気持ちでいっぱいになったことでしょう。
 ホテルについたらジュマさんが
「明日の朝は関口さんがここへ来ます。僕はここでお別れです」と言いました。いつかこの時がくるとわかっていたけれど、その言葉は私たちが恐れていたさびしい言葉でした。
「ジュマさん、日本の本は読まれますか?ここではなかなか手に入らないでしょう?日本から途中で読もうと持ってきた本があるの」
「すごくうれしいです。家に日本語の辞書もあるから、読みたいです」
「お部屋にあるの」
「待っています」
私はさっきみたいに間違えないように、間違えてジュマさんを待たせてしまわないように、慎重にでもいそいで、お部屋に帰りました。泣きそうだったけれどいそいで、スーツケースをあけて、大槻ケンヂさんの「オーケンののほほんと熱い国へ行く」そしてドナ・ウイリアムズさんの「自閉症だったわたしへ」を選びました。ロビーへもどってくると、一人一人がジュマさんと思い思いのお別れをしているところでした。横井さんがジュマさんが抱き合っていました。
「グッバーイ」「サンキュウ」
それからジュマさんは手をあげて大谷さんの手に自分の手をぶつけるみたいにして握手をしていました。仲のよいお友達が分かれを言い合うように…
 私もジュマさんに本をわたすことができました。
「小林さんからもらった3冊の本をずっと大事に持っていて、いつも山元さんを思い出せるようにしていますよ、突然いつか電話がかかるかもしれません。『キュリですよ。今日本に来ていますよ。どこかへ案内してくれますか』ってね。手紙を書きます」まっすぐな目をしてキュリさんは握手をしながら肩をポンポンとたたいてくれました。
あいこさんが目に涙をいっぱいためて握手をしていました。そしてお礼ですと言って、さりげなくいくらかのお金を渡しておられました。
「ありがとう」
「いえいえ、心ばかりの気持ちなの。こんなによくしてもらって」
 あいこさんも小林さんもアフリカの方にもそれから私たちにも本当にいつもいろいろなことをしてくださるのに、たったの一度も「こういうことをしてあげたのに」とか「こうしてあげている」なんておっしゃらないのです。けっして一度だっておっしゃらないのです。そんなこと心の中でも考えてもおられないのかもしれません。誰にもできないことだといつも思うのです。
 「明日の朝食は、ホテルで作ってもらったお弁当になります。それをここで積み込んで、空港で食べます。起きることが難しい人はモーニングコールを頼むから言ってください」小林さんはまたみんなのために働いてくださってるのでした。
 その晩は久しぶりのお風呂でした。ケニアのロッジではバスタブに浸かるということがなかったので、いつもシャワーだったのです。お風呂の後に荷物を全部スーツケースにまとめたらいつのまにか上にのっからないと締まらないほどに荷物が増えていました。明日朝、ケニアを出てエジプトのカイロに行ったら、そのまま日本へ帰るんだ…日本には大好きな人がいっぱいいるけれど、でもアフリカから明日帰っちゃうんだなと思うのはやっぱりとてもさびしかったです。

 

ahurika he