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 ロッジに帰ってから夕飯まで少し時間があったので、お散歩に出ました。前の晩のように敷地内は広くないのですけれど、いろいろな花がとても美しく咲いていました。日本の軽井沢の夏と同じ位の気候だと本に書いてあったからか、それは日本でよく見かける花々でした。日々草、インパチェンス、松葉菊、松葉ボタン、サルビア…冬の時期がないせいでしょうか、茎が木のようになっていたり、花が大きいように思う花など同じ花だけど、少しずつ違っているのです。きっと日本の花の中にもアフリカ原産のものがたくさんあるのだろうと思います。
 この空気はさっきいたカバやキリンの吸っている空気とすぐそこでつながっていると思うと、ずっと外にいたいような気持ちでした。
 花壇の向こうの木のふもとに横井さんが目を閉じ、手をひざの上においてあぐらをかいて座っていました。ちょうど近くにこられた小林さんが「瞑想しているのじゃないかな?」と言いました。レストランの入り口には夕顔に似た下向きの大きくて美しい花がたくさん咲いていました。「あれはトランペットという花によく似ているよ。マリファナみたいな作用の花じゃなかったかな?ペルーに行った時に見かけたんだけど」ホテルの方がおっしゃるには、それはここでも「トランペット」と呼ばれているのだそうです。横井さんは瞑想を終わられて、いつのまにか少林寺拳法をしていました。
 「山もっちゃん今度教えてあげるよ」私は力もないのに、空手や拳法の構えをまねするのが小さいときから好きでした。「きっと教えてくださいね」と言いました。そろそろロッジにも夕闇が迫ってきていました。
 夕飯を食べにレストランに行くとコックさんが「お豆料理にしますか?チキンとじゃがいもにしますか?」と注文を聞いてまわっていました。ナイバシャ湖で見た漁の風景を思い出し、さっきの人たちが捕っていた魚かもしれないからと魚料理を選びました。魚は白身のスズキのような魚でした。食事を終えて、セルフサービスになっているコーヒーを取りに行ったときにジュマさんと一緒になりました。
「疲れはないですか?」ジュマさんとほとんどお話したことがなかった私は、ジュマさんが聞いてくださったとたんに別にその時でなくてもよかったのに、アフリカに行く前からずっと聞いてみたことを尋ねようと思ったのです。それはアフリカの学校のことで、障害を持った人たちはどうしているのかということでした。「ジュマさん、私,ハンデイキャプを持つ子供たちの学校の教員をしているんです」ジュマさんは顔をあげて私にとってとてもびっくりすることを言いました。
「それは心と心を通じ合わせる大事な仕事ですね」
 「養護学校に勤めています」と言うとたいていの方は「お世話が大変ですね」とか「えらいですね」とか言われます。きっと養護学校について、誤解がとても多いからなのだと思うのです。「大変っていうことないです。とっても毎日楽しいですよ」って本当にそうなので、お答えするのです、それから毎日本当に楽しいので、「えらいね」なんて言われると、本当に申し訳ない気持ちになります。他のお仕事で、大変なお仕事を毎日されてる方がたくさんおられるのでしょうに…って。(あ、養護学校の教師が毎日楽しいことばかりの仕事なんて書いてしまってはダメですよね。一生懸命いつもいつもがんばっておられる方で、他のお仕事と同じように大変という方だってもちろんおられるでしょうしね)それから、もう少しお話が長くなると「どんな訓練をするのですか?」「勉強というよりお世話ばかりでしょう?」って言われることが多いです。でも訓練とか、お世話とかいうのは私の気持ちと少し違うように思うのです。私は子供たちと気持ちの伝え合いをしたいなあといつも思うのです。そしてもし子供たちがたとえばハンディを持っていることで、何か困っていることがあったら、一緒にどうしたらいいか考えたいのです。だからジュマさんが「心と心を伝え合う仕事です」って言ったことにとっても驚きました。ジュマさんとその日あったばかりなのに、「いい人でよかった」「素晴らしい人だね」ってみんなが話していたから、ツアーの人の誰もが、きっとなんて誠実でまっすぐな人なのでしょうという感想を持ったと思うのです。ジュマさんのそういうお人柄だからそんなふうに言われたのか、それともケニアという国の人々が、ハンディキャップを持った人との関係をみんながそういうふうに捉えているのかそれはわからなかったけれど、突然ジュマさんの口から出た「心と心の伝え合い」という言葉に、最初心の中で用意していた質問をなくしたほどでした。
 でもやっとのことで「ケニアでは子供たちはどうしていますか?」と聞くことができました。ケニアにも養護学校があるそうです。そしてジュマさんは、「ほとんどの場合おうちから通っている子が多いですよ。なぜって、ハンディキャップを持った子供はなおさら、親にとって大切ですから」と言いました。その言葉にいっそう胸があつくなりました。
 私には教えてもらいたいことがまだまだたくさんありました。広いケニアのいろいろなところに障害を持った子供たちが通えるようになっているのかな?それとも地域の学校に通ってるのかな?学校に行きたくても行けない子供たちが多いとキュリさんに聞いたけれど、障害を持った子供たちは行けなかったりはしないのかな?…けれど、約束の自己紹介の時間がせまってきていました。
 「今まで時間を取りたい取りたいと思っていたけれど、なかなか取れなかったです。それで今からみんなで自己紹介をしあって、少しでも分かり合って旅がおくれるようにしましょう」と小林さんの掛け声で、ジュマさんを含めて、みんなで椅子を持ち寄って輪を作りました。そして順に自己紹介をすることになりました。
 夕飯の時にスープがおいしいと言っておられた伊藤さんは「僕は小林さんとは以前ペルーの旅行でご一緒しました。レストランを経営しているので、旅行中出してもらう食事にとても興味があります。新しい店作りをめざしています」と言われました。菊地さんという女の方は「化粧品の会社に勤めています。精神世界の方の講演会を聞く機会があって、みんなつながっているなあと感じています。いろんな人が旅に出ることをすすめてくれたので」杉本さんという女の方は「『みんな大好き』の講演録を読んで、ツアーにはどんな人が来るのかということもだいたいわかっていて、妹もとても来たがったのだけど、今回はこれなかったので、話してあげられます」と、それから藤尾さんという女の方は「福祉関係の仕事をしています。はじめての海外旅行がアフリカで、周りの人も自分もとてもびっくりしたけれど、新鮮でとても楽しい」と言われました。横井さんという男の方は「青年会議所が去年、アフリカなどの国に文房具をプレゼントしようとたくさんのノートとクレヨンを用意したのだけれど重すぎて、飛行機に乗せられなかった分がたくさん会社においてあったのです。せっかくの機会だから、本当に必要としている子供たちにプレゼントしたいと思って、荷物の半分にクレヨンとノートを入れて持ってきました。今からみなさんに2セットづつプレゼントしますから、機会があったら子供たちに渡してください」と言いました。奥泉さんという女の方は「小学校の教員をしています。東京での山元さんの講演会に行きましたよ」奥村さんは「保母をしています。ガイヤシンフォニーや他にもこの人はと思う人の講演会を開いています」とそれから堀さんご夫婦は「奥村さんと一緒にいろんな活動をしています」と話していました。碓井さんという男の方は小林さんと同じ経営事務所のお仕事をされているそうで、「こどもが二人いて、その次の子供が生まれたら3つ子だったです」と大谷さんは「養護学校の教員をしています」という短い自己紹介だったので、小林さんが「作品展で子供たちの作品に額をつくったり、山もっちゃんの本のもとになる冊子を作っていたり、近いところでの講演会の力になってあげている」と付け加えてくださいました。私は「山元です。アフリカにすごく行きたくて、だからすごくうれしいです。貯金箱を見たらいけそうだったので、それもうれしかったです。感謝しています」と言いました。愛美ちゃんは「お父さんとお母さんの愛の結晶です」あいこさんは「愛美の母です。昨年は身体の調子が悪くなって大変だったけれど今年は元気でとてもうれしいです」と言いました。小林さんは「昨年アフリカに行って、その旅行がとても素晴らしかったと山もっちゃんに言ったら、山もっちゃんもいつか行って見たいと思ってるというので、それではと、このツアーを企画しました。僕は山もっちゃんが旅行中元気でいるかどうかということが気になっています。ここで山もっちゃんが病気か事故に遭うようなことになると、出版社の星山さんや後路さんに、おまえ何してたんやと言われるので、」と冗談交じりに話しました。私は小林さんにこんなにも迷惑と心配をかけてしまっていることが、あらためて本当に申し訳なくて、それからこんなにもよくしていただいてと感謝の気持ちでいっぱいでした。それから他の方々がいろいろなご縁でこうして旅行に参加されて、一緒に旅行ができるということも、とても不思議だったり、これからずっとお友達になっていただけるといいなあと考えたりしていました。
 ジュマさんもご自分の番になると「今まで何度もツアーのガイドをしてきたけれど、こんなにも長い自己紹介の会は初めてでびっくりしました。分かり合えて素晴らしいと思います」と言ってくださいました。私も、ジュマさんじゃない方が本当は来られることになっていて、でもその方が病気になられてジュマさんが来られたわけだけど、ジュマさんじゃない方だって素敵な方だったかもしれないけれど、今こうしてジュマさんと旅行ができることがとてもとてもうれしかったです。
 知らない間に時間が過ぎて、もう9時半をまわっていました。お部屋へ帰ってから、風気味だったので、洗面台で頭だけ洗いました。ドライアーを使って乾かそうとしたら、どこを探してもコンセントがないのです。(ああ、どうしよう。こんなことだったら髪を洗うのじゃなかったな)と思っても後の祭です。前髪にゆるくパーマがかかっていて、ドライアーで伸ばさなかったら、私の前髪はラーメンみたいにくねくねとウエーブがついたままになってしまうから…
 でもどうしようもなくてそのままベッドに入りました。そのときに、身体が熱いのがわかりました。熱が出てしまったようでした。でも風邪のせいではたぶんないのです。小さいときからすごくうれしいことがあったり、運動会や発表会が終わると私は必ずと言っていいほど熱を出しました。「明日熱が出ると思う」そんなことを友達に言ってびっくりさせたことがあるくらいほとんど熱が出ました。そんなときはそれほどつらいわけではなく、おふとんの中で、現実か夢かわからないようなことをぼんやり考えながらうつらうつらしているのが好きでした。
 関西空港を出てからたった二日間だけど、いろんなことがあったもの…。もう一度ベッドから置きあがって、病院からもらってきた熱さましと用心の風邪薬を飲んだらすぐに眠くなりました。小さい時と同じように夢をみました。私はキリンのそばに立っていました。空を見上げると虹がこの世のものとは思えないくらい(夢だからこの世のものではないけど)美しく、どこもかけることもなく大地から大地へ半月を描いてかかっていました。心地よい風とアカシアの葉のにおいを私はそこで本当に体験しているようにリアルに感じていました。
 こんなに深く眠ったのは久しぶりだなあと思いました。朝になっても熱は下がってはいなかったけれど、私はとても元気でした。起きてくちゃくちゃの前髪のことを思い出して、ちょっと困ったなあ、はずかしいなと思ったけれど、帽子をかぶっていたらわからないから大丈夫と荷物をまとめて、前の晩に小林さんに言われていた通り荷物を部屋の外へ出して、レストランへ行きました。
 朝食のときに堀さんの奥さんが来ておられませんでした。「お腹を壊してしまったので、彼女は朝ご飯は食べないそうです」と奥村さんが教えてくれました。お水にあたったのでしょうか?野菜にあたったのでしょうか?でもそんなにはひどくないということでとりあえずほっとしました。
 大谷さんが今朝はジュマさんと同じものを食べてみようと思う、きっとおいしいものを知ってるからといって、ジュマさんが選んだものを選んでいました。それは何種類かのフレークの中に置かれていたもので、見た感じが冷凍のハンバーグに似ているものでした。「何かなあ」「とりあえず食べてみよう」私もまねをしてそれを一つとって、ジュマさんと同じように上からミルクをかけました。椅子に座って食べてみるとそれはフレークの一種でした。歯ごたえがよく、食べやすかったです。大谷さんはそれが気にいったようで、そのあと、他のロッジでもそのフレークを見つけると必ず食べていました。「日本にも売っていたらいいのにね」と何度も言うのを聞いたから、相当に気に入ったのだと思います。
 コックさんが「卵はオムレツにしますか?スクランブルエッグにしますか?」と聞いて下さったので、私はオムレツにしたのですが、出てきたオムレツにびっくりしました。なぜって黄色にきまってると思っていたオムレツが真っ白だったのですもの。ケニアのオムレツには黄身を入れないの?黄身はどうしてしまったの?小林さんに私の不思議をお話していたら、小林さんは私が知りたくて知りたくてしかたがなくなるのだとわかってくださったのでしょう。コックさんに聞いてくださいました。「日本とオムレツの作り方が違うのかもしれない。ケニアでは割った卵をそのまままぜてオムレツをつくるから…」「それじゃあ日本のオムレツと同じ…黄身はどこに行ってしまったの?」コックさんは私の言ってることがよくわからないようでした。「え?日本と違うの?白い?」結局どうして白いのかということはわかりませんでした。味も白身だけを焼いたような淡白な味と舌触りでした。
 小林さんがご飯の後,その日の配車の発表をしてくれました。「今日は2号車に菊地さんと藤尾さんと杉本さんが乗ってください。それから英語ができる人が乗っていたほうがいいから大谷さんも乗ってね。山もっちゃんは聞きたいことが多いだろうから。今日はマウントケニアナショナルパークへ行きます。そのナショナルパークの中にあるマウントロッジに泊まります。本当はアバーディアナショナルパークにある、ツリートップスホテルという木の上の有名なホテルい泊まりたかったのだけど、そこはいっぱいだったので、別のホテルになりました。別のところだけどとてもいいところだと聞いています」
 小林さんは奥泉さんが日本に電話をかけられたいと言っていたのを知っていて、「日本にかかった?」と聞いていました。「なかなかつながらなかったけれど、なんとかつながりましたよ」「へえ、それはよかった。でも僕はナイロビになかなかつながらない」小林さんはその次の次の日にお会いできることになっているダフニーさんに電話をかけていたのでした。ダフニーさんはガイアシンフィニーのTで密猟で母親を失った小象エレナを育てた人で、そこへ出かけるのは今回の旅の大きな目的のひとつになっていました。
 マイクロバスが到着しました。キュリさんに「どこへ泊まったのですか?」と大谷さんが尋ねると「近くの町に別に泊まる所があるから…」ということでした。このロッジはあまり大きくなくて、一緒に泊まるのがむつかしかったのかしれません。
 マイクロバスが出発しました。「まわりにみえるのはパパイアです」キュリさんが説明をしてくれたところは、たくさんのパパイアが生えていました。「日本でもパパイアを食べた後、種を植えたらパパイアは簡単に芽が出てきてすごいスピードで大きくなるけれど、寒さに弱くて日本では枯れてしまう」大谷さんがみんなに通訳をしてくれました。「私もキュリさんに聞いてみていいかな?」「うん聞いたらいいよ、自分でも聞いた方がいいよ」私はまだオムレツがどうして白いのか気になっていたのです。
「イン ケニア イズ オムレツ ホワイト?」大谷さんが大笑いして「だめだよ、そんなふうに突然聞いちゃ。今いいですか?とかキュリさん?って呼びかけるとか、ホテルで食べたらオムレツが白かったけれど、日本では黄色いのだけど、どうして違うの?っていうふうに聞かないとキュリさんびっくりしちゃうよ」そうですよね、私緊張しちゃって突然こんなふうに聞いてしまったけれど、これじゃあダメですよね。日本語で聞くときでもこんなじゃダメですよね」キュリさんも大谷さんが言ったとおりよくわからなかったみたいで「彼女は何を聞きたいの?」と聞いてくれました。大谷さんの通訳のあと、キュリさんは運転しながら後をむいて説明してくれました。「チーズを入れるからかな、たまねぎをいれるからかな?」キュリさんはいろいろと考えてくれたのだけどやっぱり謎はとけませんでした。
 それまでほとんどおしゃべりしたことのない杉本さんと藤尾さんと菊地さんと今日は一緒のバスということで、仲良くなりたいなあと思いながらも、すぐに人見知りをしてしまうので少し緊張していて座っていたけれど、オムレツの質問をいっしょに笑ってきいてくれていたので、一度で距離が近づいたみたいな気がしました。もっと仲良くなりたくて、後に座っていた菊地さんに私がときどき開いて描いていたスケッチブックを差し出して「エジプトで描いたの。下手だけど描くのおもしろいから」と言うと。「わあ、いいですか?うれしい、見たいと思っていたから」なんて喜んでくださるのです。そして3人でスケッチブックを回してみてくれました。 
 後ろの席に座っていた藤尾さんがかきやまをまわしてくれました。おしょうゆがたっぷりついた堅かきやまがもう本当においしくて、「わ、おいしい!!」と思わず叫んでしまうほどでした。「キュリさんにもまわしてください」と言われたので、大谷さんやキュリさんの方へも回しました。キュリさんは何も言わなかったけれど、日本の味はどうだったでしょう。おしょうゆの味って大好きです。日本の誇るすごい発明だと思います。それは日本で食べてもきっととてもとてもおいしいかきやまに違いないけれど、たった二日か三日日本から離れていただけでもそこで食べることができない味だと思うことがもっとかきやまをおいしくさせたのかもしれません。ふだんの生活ではほとんど食べない塩昆布や梅干を海外旅行へは持っていくという人をたくさん知っています。藤尾さんがもう一度回してくださったので、またうれしくて「おいしい!!おいしい!!」と何度も口にしてしまったら、藤尾さんが「山元さんとても気に入ってくれはったから、残り全部あげるわ」と残りの袋をまたまわしてくれました。「だめだめ、ここでは買えない大事なかきやまだから…」「いいのいいの、食べて。よろこんでくれたらうれしいから。食べて」って…もうとてもうれしくて、大事に大事に残りのいくつかを食べました。ありがとう。
 少し小高いところをバスは走って行きました。緑の帯、薄緑の帯、白い花の帯、ずっと広がったその最後は地平線です。本当になんと広くそして美しい景色でしょう。日本にいて、石川県にいて、ほとんど地平線というものを私は見たことがないのです。ケニアではそんな風景を何度も何度も目にしました。
 マイクロバスは大きい滝のある,お土産やさんがずらりと並んだところへトイレ休憩のために停まりました。そこのトイレは壁の外側がシマウマ模様になっていて、ケニア式ででも溝のないトイレの作りでした。トイレから出るとみんなは大きな滝が見えるところに集まっていました。そこには枝に2匹のカメレオンをのせてる男の人がいて、一緒に写真を撮らないかとすすめていました。それはカメレオンと写真をとらせてあげて2ドルとか5ドルとかのお金を払ってもらうというお仕事なのでした。カメレオンは手のひらくらいの大きさであざやかな黄緑色をしていて大きな目をギョロリギョロリと動かして手をのばしたり引っ込めたりしていました。車を降りるときに、トイレを撮ろうとカメラは持ったけど他はお財布も何も持たずにおりてしまっていました。それに、キュリさんは私たちがバスから降りるたびに、安心なようにと車のドアに鍵をかけてくださっていたので、キュリさんにたのんで車をあけてもらってお財布を取りにいくのも申し訳なかったので、だから「写真はいいんです」と言いました。でもカメレオンのギョロギョロと動かす目はとても可愛かったです。
 滝を見ているとお土産やさんの女の人が手をかけてくれました。「私のお土産やさんにこないか?」と言うのです。「ソーリー アイ ハブ ノー パス。 アンド ノー マネー ナウ」でも女の人は私の手を引いてお店の中へ入っていきました。困ったなあ…お金持ってないから買えないのに・・でも女の人は「見るだけ見るだけ」と言いました。お店はバナナの葉っぱの屋根の可愛いきれいなお店でした。中には木彫りの動物や石でできた置物がおかけれてありました。とても素敵なものばかりだったけれど、とても重そうなものばかりでした。私は買うこともできないくせに「ゼー アー ビューティフル バッド ヘビー」とつい言ってしまったのです。彼女は絵葉書を指差して「これはとっても軽いよ」みたいなことをたぶん言いました。
 大変。私はこんなこと言ってはいけなかったのです。「ソーリー、アイ マストノット セイ ソー。ビコーズ アイ ハブ ノー マネー。ソーリー」もうめちゃめちゃな英語ですごく恥ずかしいです。彼女は大きく口を開けてハッハッハと笑って「オーケー、オーケー アクナマタタ」と言いました。そしてゆっくりと私にわかりやすいように「私の住所を渡すから私の写真を撮って送ってくれないか?私は自分の写真が欲しい」とたぶん言いました。私の感じた通りであっているかどうか心配になって、「私はあなたの写真を撮って、あなたの住所に送ればいいの?」と聞きました。「そう」そうして彼女は小さいレジみたいなところにあったメモ帳に住所を書いて渡してくれました。外で写真を撮って「アイ ウィル センド ユア ピクチャー」と言うと、彼女は「きっとね」と手を出してくれて、私も「アイ プロミス ユウ」とまたあっているかわからない英語で彼女の手をぎゅっとにぎりました。お買い物をする前にたくさんのお土産やさんが「あなた ともだち」「あなた ともだち」を日本語で繰り返していたけれど、彼女が最後に私の手をぎゅっとにぎって「ユー アー マイ フレンド。マイ フーァスト ジャパニーズ フレンド」と言ってくれたとき、私もはじめてアフリカにお友達ができたとうれしかったです。車に乗ってからも彼女はずっと私に手を振ってくれていました。あってちょっとだけ、本当にトイレ休憩の間だけなのにお友達って変かもしれないけど、そんなことだってきっとあるのだと思うのです。日本に帰ってから現像してみたら少しだけピンボケだったけれど彼女のふくよかで優しい笑顔がちゃんと撮れていたので、さっそく写真と日本のものを何か一緒に送ろうと思います。
 菊地さんがバスに乗ってきたとたとき「これ買ってきたのよ」とでんでん太鼓を見せてくれました。日本のものとまったく同じ作りで同じ位の大きさでした。日本の古いものとアフリカの古くからの太鼓がまったく同じ作りなのは興味深いです。「ふたつで20ドルだったの。少し高かったけれど私はそれだけ渡したかったの」と菊地さんがあとで言っていました。きっと菊地さんもアフリカにお友達ができたのだろうと私は思いました。
 また少し走るとアフリカの形が描かれた看板があって、そこでキュリさんがちょっと車を停めました。看板には"イクウオーター"と書かれていました。「何、イクウオーター?え、赤道?」何だかびっくりです。初めて地球儀で赤道を勉強した時のように海や地面の上に赤い線がひいてあるのかなんて思っていたわけではもちろんないけど、でもこんなのどかな風景の田舎道のわきにたてられている看板が「ここが赤道です」と言っても信じられない思いがしました。たぶん赤道の線が通っているよところは深いジャングルの中か何かで、そうかんたんに人を寄せ付けたりしないと思い込んでいたのだと思います。
 今、私は北半球から赤道を越えて南半球にはじめて踏み込んだのだというのはそれでも特別な感慨がありました。「あとでゆっくり赤道の所で停まるから」とキュリさんは言ってそこをすぐに出発しました。
 道のわきには線路がとおっていました。バッテンの印に作ってある木の板が今線路を越えたということを教えてくれていたけれど、踏み切りはないので、そこが線路だとはすぐには気がつかないくらいでした。線路は人がよく歩いていました。あるところで、牛の絵に×がつけられた看板があったので、私は線路は人は通っていいけど牛や羊はウンチをしちゃったして、それが事故につながるからダメだというそういう看板かなあと思いました。そしてそうだとしたら人は通っていいっていうことになるからすごいなあと勝手に思ったのでした。
 むこうの方にまた赤道の看板が見えてきました。そこにもお土産やさんやトイレがありました。そこでは赤道の実験をしてお金をもらう仕事の人がいました。その人はお料理に使うボウルのような入れ物のそこに穴が開いているものと広口ビンと小さなわらくずを持っていました。どんな実験かというと、最初赤道の看板から20メートルくらい離れたところで、ボールに水を入れ、水は穴からじゃーと下へ落ちていくんだけど、それを広口びんの上に置いて、ボウルの中へはわらくずを入れるのです。水が下へ落ちて行くにしたがってわらくずは時計回りに回りました「北半球にいるとわらくずは右回りに回るんだよ」と男の人が説明したので、私たちはみんなしてそれを見て「ハー」と感心しました。次にまた赤道の看板を20メートルくらい越えたところで同じ子とをしたらわらくずは半時計回りに回りました。「南半球にいるとわらくずは左回りに回るよ」私たちはまたみんなで「ハー」と言いました。最後に今度は赤道の看板の横にきて、また同じことをしました。「わらくずはどうなるでしょうか?とまったままのはずですよ」その男の人が言うとおり、真ん中の穴から水は下へ落ちていったけれど、見事にわらくずは回らずとまったままでした。今度は「オー」と言って拍手が起こりました。
 ケニアのこのあたりに住んでいたら、お茶碗に穴をあけたものと水とわらくずを持って歩いていたらたとえ迷子になっても、赤道の南側にいるか北側にいるかわかって便利だなあと思ったけれど、誰もそんなふうに迷子になるなんてわからないのに、水やボウルを持ち歩くなって重くてめんどうかもしれないなとも思いました。それからもうひとつ、私たちは日本にいて、たとえばロートでおしょうゆを入れたりするようなときやお風呂からお湯をぬくときや洗濯機から水を抜くときに、その水が右回りに落ちているかどうかなんて考えもしないけど、知らない間にそういうことが起きているんだな、みんな理由があるんだなあと思いました。私たちは確かに地球という物の上に乗っていて、地球の自転や公転や磁場やいろいろなものの影響をしらないで受けているのだなあと妙に納得したのでした。
 身体の調子をくずしておられた堀さんは元気になられたかなと思ってお顔を見たらまだ青い顔でした。
 「一時頃にマウントケニアロッジに着きます。お昼はそこで食べますから辛抱してくださいね。みなさん元気ですか?大丈夫ですか?」とジュマさんが二号車を覗いて言いました。
 
 

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