『世界で一番遠い場所』



 彼女が意外と読書家なのは、前から知っていた。
 時々、私が読んでいる本を、覗き込む彼女に気付く。放課後よく図書館へ付き合っ
てくれていたが、只の付き合いではなかったらしく、いつの間にか1、2冊の本を手
にしている。どうしていつもは本を持ち歩かないのか、不思議に思って尋ねてみると、
少し困ったようなはにかんだ笑顔で、
「のめり込んじゃうんだ。中断っていうのがなかなか出来なくって。まぁ、雑誌とか
なら別だけどね」
と、言っていた。
 考えてみれば、彼女が図書館で借りていった本を、人前で読んでいるのを、見たこ
とがない。図書館で私が勉強している間でも、彼女は借りた本をひろげることはなく、
私の参考書をめくってみたり、設置されている雑誌に目を通していた。
 だから、あの時には驚かされた。
 火川神社に行く途中に立ち寄った本屋で買った本を、そのままレイちゃんの部屋で、
まこちゃんが開けた時には。
 パラパラとめくっただけで本を閉じたまこちゃんに、問いかける。
「その話、読んだことがあるの?」
少し見ただけでのめり込めないような本を、購入するとは思えない。まこちゃんは
「うん。」と、微笑んで頷いた。その瞳は本当に嬉しそうで、先輩のことを話す時の
まこちゃんを思い出させられた。
 そしてそれが、私のその本を読むきっかけだった。
 その本の題名は、『月夜の天馬』だった。



            ◆◇◆



 「高瀬・・・智子、さん・・・かぁ・・・」
亜美はひとつため息をつくと、シャーペンを置いた。そして机の隅に置いてある本の
表紙をめくる。そこには著者の写真が載っている。眼鏡をかけた、おとなしそうなお
さげの少女。亜美はもうひとつため息をつくと、本を閉じた。
 先程から感じている、この胸につかえるようなもやもやとしたものの原因を、亜美
は知っていた。久しぶりだと、懐かしいそうに、愛しげに街を見ていた時も、クラウ
ンでずっと黙り込んでいた時も、ただ見ていることしか出来なかった。クラウンで窓
の外を眺めるまことが、決して越えられない壁を作っているようで、見ていることす
ら出来なかった。どんなに手を伸ばしても、届かない。まことが生きてきた、亜美の
知らない十三年間。
 智子とまことがどういう時を過ごしてきたのか、何一つ知らない。こんなもどかし
いような気持ちは、前にも感じたことがある。まことが先輩の話をする時。それから、
篠崎さんと会った、あの日。今はあの時よりも、ずっと切ない気持ちを抱えているよ
うな気がした。先輩の時も篠崎さんの時も、まことは懐かしそうな瞳で話してくれた。
昔話をするように、懐かしげに笑うまことを見ているのは、少し切なさを感じつつも
嬉しかった。けれど今は違う。智子のことを考えているまことに、何も聞けなかった。
 一体、どういう出逢い方をして、どんな時を過ごしていたのだろう。運命に導かれ
て集まり、死と背中合わせの時間も共有してきた私達とは、違う。何の約束もなく、
小さな偶然で出逢い、今、こうしている二人。その関係は何の保証もない、あやふや
なものかもしれない。けれど、それでも途切れることのなかったあの繋がりに、嫉妬
にも似た羨ましさを覚えた。
「・・・まだ、クラウンにいるのかな・・・」
時計を見る。もうクラウンは閉店している時間だ。智子がいた土手から戻ってきたま
ことは、今にも泣きだしそうな瞳をしていた。「帰ろう。」と一言言ったきり、何も
言わなかった。まことは「智子」とあの人のことをごく自然に呼び捨てにしていた。
言葉使いは男まさりなところがあるけれど、呼び捨てで誰かを呼んでいるのは初めて
聞いたような気がした。・・・そんな些細なことが、気にかかった。
(もし私がいなくなったら、)
静かに窓を開けて空を見上げる。
(・・・いなくなったら、まこちゃんはあんなふうに、私を見つけてくれる・・・?)
いつの間にか、星が瞬いていた。



            ◆◇◆



 まことの部屋の明かりは、消えていた。
(まだ・・・帰ってないのかな・・・)
もう眠ってしまったのだろうかと一瞬思ったが、まだ眠る時間には早すぎるような気
がした。家を出たときは八時半を過ぎた頃だったから、まだ九時にもなっていないは
ずだ。
 暗い窓を見ながら、また胸が締めつけられる。家でじっとしていることがいたたま
れなくなって、思わず来てしまった。けれど、何のためにここへ来たかは、良く分か
らなかった。彼女の為に何か出来ることがあればと、思って来たのか、それともただ
自分が助けを求めに来たのか。それでも、彼女の為にしてあげられることなど、思い
つかなかった。自分がどう助けてほしいのかも分からなかった。
(会いたかっただけなのかもしれない)
多分それは本当の答だ。そして期待していた。何かを、期待していた。
 「・・・あれ?亜美ちゃん?」
突然聞こえた声に、亜美は思わずビクッと肩を上げた。声のした方を向くと、そこに
はまことが立っていた。
「どうしたんだい?」
軽くかけ足で目の前まで来ると、優しい笑顔で笑う。いつもと同じ、亜美の知ってい
る柔らかな笑顔。何か届かないものではなく、亜美自身に向けられた、笑顔。その笑
顔にふいに涙がこぼれた。自分の涙に驚いて両手で口を押さえた亜美よりも、まこと
はずっと驚いた顔を見せた。
「あっ、亜美ちゃん?」
慌てたように亜美の顔を覗き込む。思わず視線に身動きが取れなくなって、顔が赤く
なっていくのが何となく分かった。そのことにますます顔が熱くなる。
「ど・・・どうしたの?」
亜美はどう答えて言いのか分からなくて、ただ「ごめんなさい。」と呟いた。普通に
話したつもりだったが、殆ど声にならなくて、まことには聞こえなかったかもしれな
い。まことは「亜美ちゃん?」と、もう一度名を呼んだ。まことの右手が、口を押さ
えていた亜美の両手をゆっくりと包み込んだ。少し強引な、それでいて優しい力。
「・・・亜美・・ちゃん?」
囁く様なその声に、何かがせき切れた様に、涙があふれてくる。涙を拭おうと亜美が
手を動かすと、まことの手に力が込められてそのまま、まことの元へと引き寄せられ
た。左手でそっと涙をすくわれて、軽く目を伏せる。暖かい手に導かれる様に、亜美
は口を開いた。
「・・・まこちゃん・・・。もし私が・・・、あんなふうにいなくなったら・・・」
「・・・え?」
「いなくなったら・・・すぐに、見つけ出してくれる・・・?」
先程、心の中で唱えた言葉を、投げかける。子供みたいだ、と思いつつ、止められな
い自分がいる。
「あんなふうに・・・って・・・、智子みたいに?」
まことの言葉に頷く。それを見てまことが、小さなため息をついたのが分かった。本
当に我がままな子供みたいだ、と急に恥ずかしさが込み上げた。呆れられたかもしれ
ない、とまことの次の反応が怖くなる。けれど、まことが次の瞬間くれたものは照れ
くさそうな、笑顔だった。
「私のところへは、来てくれないの?」
「え・・・」
予想外の言葉に、亜美はきょとんとした。
「何か悩みがある時に、きっと亜美ちゃんはプールに行くんだろうなって、思う」
まことが言った答えは当たっている。亜美がもし逃げるとしたら、間違いなく水の中
へ行くだろう。自分自身でも信じられない程、水は亜美に、守るような安らぎを与え
てくれる。
「でも、いつも不安だよ。亜美ちゃんが水の中へ行く度、溶けていってしまいそうで」
まことは照れくさそうに笑って、言葉を続ける。
「悩んで、逃げ出したくなったら、私のところへ来てよ。・・・って、格好良いこと
も言いたいけど、私はそんな存在には・・・なれないんだろうなって・・・思う」
「・・・まこちゃん・・・」
「でも、信じていていいんだろ?水の中へ行った亜美が、きっとまた、戻ってきてく
れるって」
その言葉に肩にもたれかかった。だめかな、と呟く声が耳元で聞こえた。
「・・・まこちゃ・・んっ・・・」
胸の詰まるような思いに、名を呟くことしか出来なかった。まことの両腕が、亜美の
身体を包み込む。亜美は自由になった両腕でまことの身体を抱き締めた。
 どこへ行こうと、何をしようと。決して届かないところへ行ってしまったとしても、
帰ってくる場所はここだけなのだと。
 皆がいて、私がいて、あなたがいる。ここが唯一の、帰ってくる場所なのだと。
「・・・あ、でも、迎えにいってもいい?」
照れ隠しのように、笑ってそう付け足したまことに、亜美も笑った。
 「ただいま」と、まことの小さな声が、聞こえたような気がした。



           ◆◇◆



 まことの部屋で、コップを受け取る。冷たいアイスティーが喉に心地良かった。ま
ことの手の中でコップが氷と重なってカランと音をたてる。テーブルの上には雑誌と
一緒に、ハードガバーの本が一冊置かれていた。亜美はその本を手に取る。その本の
著者には聞き覚えがあったが、題名には聞き覚えがなかった。
まことは、座っている亜美の前にテーブルをはさんで腰掛けた。
「その本、読んだことある?」
まことの言葉に亜美は首を振る。「私もこれからなんだけどね」と、まことは笑った。
「今日、読むつもりだったの?」
「そうだね。時間があったら」
亜美はその本をまことの方に向けて置いた。まことはその本を手に取ると、表紙を少
し見て、テーブルの隅に置いた。
「・・・帰った方がいい?」
「え? どうして?」
亜美の言葉に、まことはきょとんとする。
「・・・私がいると、読めないんじゃないかと思って・・・」
亜美は自分の言葉に何となく苦しくなる。
「それはそうだけど」
素直な肯定の言葉に、また胸が痛んだ。
(私はまこちゃんにとって、何の気がねもいらないような安心できる存在じゃない)
「でも、本を読んでいるより、こうやって一緒にいられるほうがいいよ」
「え?」
「もったいないじゃないか。せっかく亜美ちゃんと一緒にいられるのに、本しか見て
ないなんて、さ」
まことがそう言った後で、顔を赤くしたのは、気のせいではない。思わずつられるよ
うに顔が熱くなったことに気付いて、亜美はうつむいた。
「亜美ちゃん」
「・・・何?」
「もしかして、やきもち、焼いてた?」
その言葉に、思わず硬直する。きっと真っ赤になっていたに違いない。
「そんな・・・やきもちなんて・・・」
亜美は何とか取り繕うとしたが、深みにはまってしまったような気もした。・・・実
際、はまっている。
「焼いてない?」
冷静なまことの表情が、亜美を追いつめる。
「・・・焼いて・・・る」
口に出してしまうことが、自分でも良く分からなかった気持ちが、亜美の中ではっき
りと形づけられた。
全身が心臓になってしまったように、鼓動が耳元で聞こえる。
「智子に、だよね?」
亜美は何の反応も返せなかった。まことが困ったように少し頭をかいた。
「参ったなぁ・・・」
そっぽを向いたまことを、亜美は震えながら自分の前髪越しに見ていた。
「智子は・・・何て言うか・・・友達って言うか・・・、でも、皆とはちょっと違う
し・・・」
亜美は相槌を打つように頷いた。まことの”困った顔”に、胸のあたりがチクチクと
痛む。
「だから、亜美ちゃんとは比べようのないことなんだけど・・・」
丁寧な口調でそこまで言うと、まことはもう一度、参ったな、と呟いた。
「ごめん」
突然謝られて驚く。謝るのはどちらかといえばこっちのほうなのに。
「私、やきもち焼いてもらって、喜んでる」
「・・・え?」
まことは苦笑いをした。
「だって、亜美ちゃんがやきもち焼いてくれるなんて、さ。嬉しい」
「まこちゃん」
「ね。抱き締めて、いい?」
照れくさそうに笑ってそう言った。そう言われても困るんだけど、と亜美は心の中で
呟く。まことは立ち上がって亜美の隣に来ると、ゆっくりとした動作で、肩を抱き寄
せた。亜美は相変わらず真っ赤になったまま、まことを見ていた。ポン、と勢いをつ
けてまことに抱き寄せられる。心臓の音が直接伝わってしまいそうで、少し心配にな
る。
「亜美ちゃん」
耳元で囁かれる声が、まるで夢の中のようにぼんやりとして聞こえた。
「大好きだよ。・・・大好き」
「・・・うん」
亜美はそっとまことの背中に腕を回した。まことの手が置かれた肩が、熱く感じる。
 ふふ、とまことが笑った。
「きっと、私が思い切り抱き締めたりしたら、亜美ちゃん、壊れちゃうね」
「・・・そうね」
亜美は苦笑混じりにそう返した。
「いいわよ、壊しても」
「え?」
「壊しても、いいよ。まこちゃんだったら」
「・・・無茶言うなぁ」
今度はまことが苦笑混じりにそう言う。そんな様子に、亜美は笑った。
「ちゃんと、治る程度にね」
「そんな手加減、できませんね」
冗談めかしてそう言ったまことに、亜美はまた笑う。少しだけ、まことの腕に力が込
められた。けれど、まるでどこか遠慮がちな、優しい力。髪が絨緞に触れた時、大好
きだよ、と呟く声に、亜美は何も返せないまま、唇をふさがれた。

 「今度、総合病院に行こうか」
突然の言葉に、驚かされる。
「総合病院って・・・」
「うん、あの麻布の」
お母さんが週一で行っている病院のことだ、と亜美は心の中で呟く。
「そこ、私が生まれた病院なんだ」
「もちろん、覚えているわけじゃないけどね。」とまことは笑う。
「その後、亜美ちゃんの生まれた病院に行こう。ね?」
「・・・ん」
少しの間、秘密にしておこう、と思った。同じ病院で生まれたというその事を、少し
の間だけ、独り占めしようと思った。
「・・・それぐらい、いいわよね」
「え?」
いつもの距離なら聞こえない独り言を、まことは受け止めて聞き返す。
「な、何が?」
亜美は悪戯気に笑って見せた。
「・・・秘密」
「なー・・んか、亜美ちゃん、秘密ばっか。・・・考えてみれば、私、亜美ちゃんの
昔って良く知らないんだよね」
「え?」
その言葉を聞いて、出会う前の自分のことを殆ど話していないことに気付く。そして
そのことに笑いたくなった。
「そのうち・・・ゆっくりでいいから、教えてね」
「・・・ん」
すぐそばの笑顔にくすぐったいような気持ちになって、微笑んだ。亜美は少しだけ身
体を持ち上げて、唇を近付けた。

 知らないことが多すぎて。
 けれど、今、傍にいてくれるだけでいいと言うには、不安定すぎて。
 切なくなることも多いけれど、それはすべて、あなたがくれるものだから。
 あなたが好きなのだということを、教えてくれる、切なさ。

 この想いを失いたくない、と、まことの腕の中で、呟くように思った。

                                =END=


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