『Moon Revenge』



 雨が、降っていた。勢いは無いとはいえ、冬の雨は、夏の夕立よりもはるかに
冷たさを感じさせる。地面に描かれる、とぎれることのない水の波紋。ジュピタ
ーは、ふう、と大きく白い息を吐いた。
「こりゃ、待っても止まないな・・・」
小さく独り言を呟き、雨宿りを止めて、駆け出した。パシャ、と水しぶきがあが
る。あまり強くないとはいえ、200mも走ると、ジュピターの少しウエーヴがかっ
た褐色の髪は充分濡れて、頬に雫を落していた。
二日前から泊まっている宿が見えた時、ジュピターの耳に音が飛び込んできた。
規則的な雨音のなかで聞こえた、水音。
「・・・今のは、私のじゃないなぁ・・・」
ジュピターは先程買ってきたばかりの荷物を抱え直し、音がした路地裏へと足を
踏み入れた。雨で冷たくなった壁に手を当てる。そこでその音の正体を知った瞬
間、溜息を付く。
「参ったな・・・」
そこには雨の降りしきる中、倒れ込んでいる少女が居た。ジュピターは荷物を置
くとその少女を抱え起こした。
「大丈夫かい?」
そう言って、ジュピターは少女に声を掛けた。予想通り返事はなかった。やれや
れと思いつつ、フードの付いたハーフコートを身に着けた少女の顔を覗き込む。
(・・・おや)
ジュピターは目を見開いた。サファイヤ・ブルーの髪とプルシャン・ブルーの瞳。
その青が映える肌の色。
(・・・こりゃ、ほっといたら、十分後にはどこかに売り飛ばされるな)
ジュピターは、少女を抱え上げた。口に顔を近付けて呼吸を確かめる。身体は冷
えていたが、落ち着いた呼吸にジュピターは安堵の溜息を付いた。
 雨はその場に取り残された袋を、濡らしていった。

 宿の人間に手伝ってもらい、その少女をバスタオルを敷いたベットに横にさせ
る。宿の主人に手伝ってもらったことと、帰ってくると告げた時間に合わせて部
屋を暖めてくれたことに礼をしたして、部屋の扉を閉めた後、その少女にある程
度の処置をした。
 ジュピターは着替えて、束ねた髪をほどくと、暖炉のそばに椅子を置きそこに
腰を下ろす。一定に続く雨の音と、パチパチという炎の音が、静かに部屋を支配
していた。後から取りに行った買い物袋は雨で、すっかり色が変わっていた。パ
ンはものの見事に水を吸っていて膨らんでいたが、取敢えずカルーアとミルクの
瓶が割れていないことに感謝した。
「一体・・・あの子は・・・」
ジュピターはちらりとベットに横たわる彼女を見てから、壁に掛けた彼女の着て
いたコートに目を向ける。
あのコートの裏ポケットには『マーキュリー=セレスト』と縫い取りが入ってい
た。そして左手首のアクアの石がはめこまれた金のアームレット。そのアームレ
ットには直径3cmほどの紋章が掘られていた。かなりの価値があることが素人目
にも分かる。
「・・・どー・・っかで聞いたことがあるんだよな、『セレスト』・・・って・
・・」
考え込んでみるが、いまいち思い出せない。紋章にも見覚えがある。ジュピター
は、まぁいいか、と考えることを止めた。(多分)マーキュリー(という名の人
物)が目を覚ませば全ては解決するはずだ、と自分に言い聞かせ、カルーアを注
いだコップにミルクを入れた。ジュピターがカルーアミルクを二口ほど飲んだ時、
ドアがノックされた。
「シチュー、出来ましたよ」
その声に、ドアを開ける。この宿は主人と奥さんと、その娘リシティアの三人で
殆どのことを賄っている小さなものだ。シチューを運んでくれたのはリシティア
だった。「有り難う。」と言って、二、三人用の鍋を受け取る。シチューは暖か
な湯気を上げていた。
「さっきの女の人の様子、どうですか?」
「ん、まだ眠ったままだよ。さっきは本当に助かったよ。有り難う」
ジュピターの台詞に、いえいえ、と、あどけなく笑う。
「服、乾いたら持って来ますね」
「ん」
リシティアの笑顔につられるように、ジュピターも微笑んだ。
「・・・ところで、あの人、お知り合いか何かですか?」
急に小声で囁いたリシティアに、ジュピターは少し困った顔をする。まあね、と
でも言ってしまえばいいようなものだが、生憎、ジュピターにとってそういった
嘘は苦手な部類に入ることだった。
「・・・何て言うか、倒れているのを見つけちゃったもんでね。ほっとけなくっ
て。何かあった時の責任はちゃんと取るつもりだよ」
律儀な言葉に、リシティアはまた笑った。
「気にしないでください。ちゃんと信用してます。ただ、ちょっとした好奇心で
すから」
「好奇心?」
「あの人、身分高そうな方だと思って。あの服も立派なシルクだったし・・・。
よく見たわけじゃないですけど、着けていたアームレットも高価な物じゃないん
ですか?」
「随分な観察力だね」
本気で感心したようにジュピターは言った。
「すみません、こういう仕事を幼い頃からしていると・・・ね。中にはやばい物
を持ち込む人とかも居て」
「高貴な人に見えたから、お知り合いかと思って」と彼女は続けた。
「残念ながら、見たこともないよ」
「そうなんですか。・・・でも、ジュピターさんでなくても、拾ってきちゃいた
くなるような可愛い人ですね」
クスクスと笑うリシティアに、ジュピターは半分呆れたように「そうだね」と呟
いた。

 マーキュリーが意識を取り戻したのは、朝の七時を過ぎた頃だった。
 冬、独特のつんとした空気に溶け込むように、柔らかな日差しが部屋には入り
込んでいた。
 マーキュリーはまだはっきりしない意識を持ったまま、起き上がろうとした。
「・・・え?」
起き上がった瞬間、思考が一瞬止まった。見覚えのない部屋と、もちろん見覚え
のないベット。そして自分の隣には見覚えのない人物が居た。静かな寝息を立て
るその人物を覗き込む。柔らかそうな前髪が顔を少し隠す。その瞳は伏せられて
いたが、長めの睫が影を落とす肌は見とれる程に綺麗だった。そして耳にはロー
ズ・ピンクの薔薇のピアス。
(・・・この人は・・・)
マーキュリーは、寒さのためにもう一度ベットの中へ潜り込んだ。あの雨の中、
記憶がない。多分ここはこの隣に居る人物の泊まっている宿だろう、と予測する。
ちら、と見ただけではあったが、住んでいるというには物が少なすぎた。
 この人だ、と心の中で呟く。一目見たときに分かった。息が触れそうな程近く
にいる存在に、泣きたいような気持になった。マーキュリーはゆっくりと目を伏
せて、身体の奥からやって来る睡魔にもう一度眠りに落ちた。

 次にマーキュリーが目を開けたとき、隣で眠っていたはずの人物はすでに着替
えを済まして、「おはよう」と声を掛けてきた。
「・・・おはようございます」
マーキュリーは身体を起こし、ゆっくりと返事を返した。さっき目を覚ました時
よりも、頭は随分とすっきりしている。身体から毛布を離した途端、寒さが纏わ
り付いた。それを見透かしたようにその人物は、マーキュリーに「これでも被っ
て」と毛糸地の上着を手渡す。マーキュリーは着ていた薄手のシャツの上から素
直に袖を通した。
「カフェオレ飲まない? 甘いのは平気?」
「あ・・、平気です」
マーキュリーがそう言うと、「良かった」と笑ってクリーム色のマグカップを差
し出した。そのカフェオレは、甘い割にあっさりとした感じで、マーキュリーの
身体を暖めた。一息ついた後、マーキュリーは目の前の人物に話し掛けた。
「あの・・・私は一体、どうしたのでしょうか・・・」
「うん、路地裏で倒れていたから、私の泊まっている宿まで運んできたって訳。
随分疲れていたみたいだね。二十時間近くずっと寝ていたよ」
時計はもうすでに十一時半を指していた。
「・・・七時頃に一度目を覚ましたのですが、また眠ってしまったみたいです。
その時は貴女が・・・」
「隣で寝ていた?私が起きたのは七時半頃だったから」
「・・・はい」
「初めは床で寝てしまおうかとも思ったんだけど、さすがに寒くてね」
「ごめんね」と、付け加えるように言う。マーキュリーはその言葉に首を振った。
「ところでさ、どうしてあんなところで倒れていたんだい? 下手したらあの世
行きだよ?」
「道に迷ってしまって・・・。寒くて宿を探さないと、と思ったところまでは覚
えているんですが」
どことなくぼんやりとしたマーキュリーに、その人物は「よく無事だったもんだ」
と半ば呆れぎみに笑って見せた。
「あの・・・、一つお聞きしたいのですが、貴女が・・・」
「ジュピターだよ」
「はい、ジュピターさんが、着替えさせて・・・?」
「あー・・・、うん。それから身体が冷え切ってたから、風呂に入れて。そのシ
ャツ、私のだから大きいとは思ったんだけど。もしかしてまずかったかな。貴女
の・・・」
「マーキュリー、です」
「うん、マーキュリーの着ていたコートはそこだし、服は乾かしてもらうように
宿の主人に頼んでおいたから、もうすぐしたら持ってきてくれるよ」
「お心使いは嬉しいのですが、そういうことではなくて・・・」
頬を赤く染めて俯くマーキュリーに、ジュピターは頭をかく。
「えー・・・と。もしかして夫か同性の家族にしか肌を見せちゃいけないとかい
うお国柄?もしそうだったら、謝るしかないな。一応放っておいたら風邪ひくと
いう事態だったんだけど」
とジュピターは困った顔をした。
「あの、そうではないんですが、こういったシチュエーションの場合・・・」
顔を真っ赤にしているマーキュリーの言おうとしている意味をやっと理解し、ジ
ュピターも顔を赤くさせた。確かに上にシャツを着せたとはいえ、逆に言えば前
ボタンのシャツ一枚しか着せていない。
「・・・まぁ、その上着、簡単に脱がせられるしな・・・」
考え無しに呟いたジュピターの言葉に、マーキュリーはますます顔を赤くした。
それを見て、ジュピターも自分の言った言葉に気が付いて慌てた。
「なにもしてないから。言っておくけど、私、女だし」
「それは分かっていますが、世の中にはそういう方々もおられると・・・」
「それはそうかもしれないけど・・・どっちにしても、気を失っている人間にそ
んな真似はしないよ」
ジュピターの気さくな笑顔に、マーキュリーは安心感を覚えて、表情を和らげた。
そして一呼吸置いてからしっかりとした口調で「改めまして、」と言葉を繋げる。
「ヘルメス国のマーキュリー=セレストです。本当に、有り難うございました」
凛とした態度に、ふいにジュピターの心で糸が繋った。
「ヘルメス国! そのアームレットの紋章、ヘルメスか。『セレスト』と言えば
あのヘルメスの名門家じゃないか。国王直属の賢者の・・・」
「ええ。よくご存知ですね」
マーキュリーは左手首のアームレットを右手で触れた。
(そうか、『セレスト』って何処かで聞いたことがあると思っていたけれど・・
・)
 ヘルメスと言えば、小さな国がひしめきあうこの世界で三世紀も前から続いて
いるといわれる、世界一、二を争う大国。そのヘルメスの賢者といえば世界屈指
の頭脳の持ち主である印のようなものだ。参ったな、という顔をしているジュピ
ターとは裏腹に、マーキュリーは落ち着いたものだった。
「このアームレットは賢者の印です」
「私は旅をしている分、色んな話を聞くけど、その賢者のなかに貴女みたいな若
い人がいるなんて初耳だよ。もしかしてセレスト家では珍しくないのかい?」
「いいえ。賢者に年令も家柄も関係ありません。ただ、私の家系は多いというだ
けで・・・。もちろん賢者にならなかった方も沢山居ます。私は最年少だと聞き
ましたが・・・、若くして賢者になった方も沢山います」
「・・・ふうん」
どっちにしてもとんでもないな、と思いつつ、ジュピターはベットの側に椅子を
置いて、腰を降ろした。
「ジュピターさんは旅をしておられるのですね。何か目的が?」
「ジュピターでいいよ。私は修行を兼ねての、ただの気の向くままの旅だよ」
「修行、ですか?武術とか・・・?」
「まあね。でも本当は何でもいいんだ、強くなれさえすれば」
「・・・強く?」
マーキュリーは丁寧にジュピターの言葉を繰り返す。
「強くなりたいんだ。うまく言えないけど、腕力とかそういうことだけじゃなく
て、精神的にも、強くなりたいんだ。何よりも大切なものを、守れる力が欲しい
んだ」
そう言ってジュピターは照れくさそうに笑った。
「なんてね。おかしいかな?」
マーキュリーは首を降る。
「素敵だと思います。・・・ユピテル軍の精神ですね」
「・・・え?」
「ご存知ありませんか? 守る為だけに戦うといわれる最強の・・・」
「いや、知っているけど・・・ユピテルなんてヘルメスに比べたら塵みたいな国
だろう?」
「そんな・・・! ユピテル国といえば、竜の眠る国とも、楽園の国とも言われ
る伝説のような国で・・・もしかして、行かれたことがあるんですか?」
「これ、何か分かるかい?」
ジュピターはそう言いながら、胸ポケットから一枚のカードを抜いた。そのカー
ドを見てマーキュリーは目を見開いた。
「その紋章はユピテル国の・・・! ユピテル国の方だったんですか!?」
ジュピターはうなずく。
「もっともここ半世紀余り、攻め込んでくる国も、大きな災害もなくて穏やかな
ものだよ。・・・最も、それ以上に素晴らしいことはないけどね」
ジュピターの言葉にマーキュリーは同意するようにうなずいた。ジュピターはカ
ードを胸ポケットに戻しながら言葉を続ける。
「今でも昔のユピテル軍の精神は生きているかも知れないけれど、あの強さが生
きているかどうかはまた別だよ」
「・・・そうでしょうか?」
マーキュリーが少し沈んだ顔を見せた。それを見てジュピターは苦笑いをする。
「人間の力だけで戦うなら何処にも負けやしないだろうけど、今はそうじゃない
だろう? 人間どころか・・・下手をすると自然さえ勝てない武器が他の国には
存在している」
「・・・戦争になれば、ユピテル国さえ、負けてしまうのでしょうか・・・?」
「・・・・・」
二人の間に、一寸した沈黙が流れた。

 宿の主人がマーキュリーの服を持ってきてくれたのは、十二時を過ぎた頃だっ
た。主人の昼食ができましたよ、という言葉に、二人で食堂に向かった。
「マーキュリー、これからどうするんだい?」
パンを千切って口に運びながら聞いたジュピターの問に、マーキュリーは答える。
「取敢えずどこかで宿を取ってもう一泊します。休暇を貰っての旅なので、特に
これといった用事は無いんです。ジュピターは?」
「うん、二日後に武術大会があるから、それに出ようと思ってるんだ。だからそ
れまではここでのんびりするつもり」
ジュピターはかちん、とスプーンを置いた。
「・・・あのさ、良かったら・・・、もう少し一緒にいない?」

 二人で眠る、二度目の夜が来た。
 夕食の後で、入浴を済ませ、ふたりは部屋のテーブルでワインをグラスにあけ
た。日が暮れた頃にまた降り出した雨が、十一時を過ぎてもしとしとと続いてい
た。
「・・・変な話だけど、『強くなりたい』って・・・『強くならなきゃ』って、
まるで、追い詰められるような気持で思うんだ。私には守るべき人と、同じ使命
を持った仲間が、この世界の何処かにいると、物心付いた頃から感じていた。・
・・マーキュリー、分かるかな? そういう気持って・・・。」
マーキュリーは静かに笑っただけだった。そんなマーキュリーに、ジュピターは
照れくさそうに笑って言葉を続ける。
「こんなこと話したのは初めてだよ。国のこともだけど。・・・よく分からない
けど、マーキュリーは特別な感じがする。・・・私の・・・」
「・・・仲間?」
「・・・だったら、いいな」
ジュピターはまるで子供のようなあどけない表情で笑った。その感覚はまるで既
視感。こうして二人でたたずむこの空間の感覚に、ジュピターは懐かしさにも似
た安心感を覚えた。

 
 その行為はどちらからともなく始まった。触れるだけの優しいキス。重ねた手
が熱い。込みあげてくる愛しさに、唇を近付ける。二人分の飲みかけのワインは
テーブルの上に取り残された。



 冬の朝は遅い。ようやく空が白み出した頃、まだ眠り続けているジュピターの
腕の中から、マーキュリーはゆっくりと身体を起こした。規則的な寝息を立てて
いるジュピターをしばらくの間、見つめてから、かすかに前髪に触れた。柔らか
な、髪。そして、ジュピターの髪に触れた手で自分の前髪に触れた。胸の奥がト
クンと音をたてる。マーキュリーは昨夜のことを思い出して、顔を赤らめた。落
ち着こうとするほど、思い出さされて心臓がうるさいほどに高鳴っていく。マー
キュリーはジュピターを起こさないように、そっとベットから抜け出した。脱ぎ
捨てられた床の上着を拾い、被る。外はもう随分と寒いはずだが、部屋のなかは
火を絶やさなかったおかげである程度の気温が保たれていた。
「・・・また、置き去りにするの?」
静かな声に、マーキュリーは振り返った。ジュピターは少しけだるそうに、前髪
をかきあげ、そしてはぐらかすように笑って見せた。
「・・・『また』?」
マーキュリーがジュピターの言葉をなぞる。ジュピターは小さな声で、ごめん、
と呟いた。
「なんとなく、そんな気がしたんだ。前にも・・・前にもこんなことがあったよ
うで」
ジュピターは毛布を身体にまとって起き上がった。マーキュリーはベットに戻っ
て、すぐ側に腰掛けた。
「側で、眠っていたのに、目が覚めたときには居ないんだ。置き去りにされて・
・・」
「・・・いつの話?」
ジュピターは首を振った。
「分からない。遠すぎて。もしかしたら、只の夢で、そんなことはなかったのか
もしれない。ただ・・・感じる様に心に残っているんだ。愛しているといってく
れたあの人が、私を花園に置き去りにして行ってしまって・・・。そのことを思
い出すたびに」
「・・・『たびに』?」
「・・・切なくて、苦しくて・・・、まぶたの辺りが痛むんだ。そしてその痛み
を感じるたびに、あの人を追いかけてもいいような気になる。誰を探しているの
か分からない。その人が私の本当の主人なのかと思ったけれど・・・」
マーキュリーはそっとジュピターのまぶたに手をやった。心地よい冷たさが、熱
いまぶたに感じられた。
「・・・違うんだ。主人を求めるときの気持とは違う・・・」
マーキュリーのまぶたへの口付けに、ジュピターは言葉を鈍らせる。
「・・・多分、只の夢なんだ・・・」
「夢じゃ、無いわ・・・」
「え・・・?」
マーキュリーはジュピターから手を離す。その手を、今度はジュピターが引き寄
せた。マーキュリーは切なさを全面に出していた瞳を和らげた。その瞳にジュピ
ターは、はぐらかされたような気分になった。
「・・・ジュピター、もし私が貴女を好きだと言ったら、信じてくれる・・・?」
ジュピターは少し悪戯気に笑う。
「・・・信じさせて・・・くれる・・・?」
ジュピターの唇が、マーキュリーの唇に触れた。求めるわけではなく、ただ存在
を確かめるような無邪気なキスをそっと送る。
「大好き・・・」
耳元で、静かなマーキュリーの告白がジュピターの元に届いた。



 「号外、号外!」
武術大会の朝、大会の始まりとは違った騒がしさが街を包んだ。
「ヘルメス国が、ユピテル国に攻め込むぞ!」



その知らせを聞いてジュピターは食事も途中のまま、号外をまいている若者を捕
まえた。
「どういうことだ!?」
若者はいきなり噛み付くような剣幕で怒鳴り出したジュピターに怪訝そうな顔を
した。
「だからヘルメスがユピテルに向かって出兵したんだ!」
そういって手に抱えている号外を一部ジュピターに突き出した。ジュピターは混
乱し続ける頭を落ち着かせようとしながらその号外に目を向けた。そして一緒に
食事をしていたマーキュリーに目を向ける。マーキュリーはその場に腰掛けたま
まだった。悲しいまでに落ち着いた、冷静な瞳。ジュピターはマーキュリーの前
に立った。
「・・・知って・・・いたのか? ヘルメスが、ユピテルに攻め込むって・・・
!」
マーキュリーは静かにうなずく。
「知っていて、・・・私がユピテルの者だということも知っていて、何も言わな
かったのか!?」
ジュピターは怒鳴りつけるようにそういうと、肩を震わせた。
「・・・ジュピター・・・」
マーキュリーの呼び掛けにジュピターは何も答えなかった。すっと目をそらすと
身を翻し、宿の部屋のほうへ足を進めた。
 マーキュリーが後を追って部屋にたどり着いたとき、ジュピターは少ない荷物
をまとめていた。ジュピターの瞳はこの数日間、見せたことのない戦士の輝きを
持っていた。多分、今日出るはずだった武術大会でも余程の相手がいなけれは現
われなかったはずの、光。
「ジュピター・・・」
ジュピターはマーキュリーの方に顔を向ける。切れそうな瞳が不意に緩められて、
マーキュリーを見つめた。
「ユピテル国に、戻るの・・・?」
ジュピターはそっとうなずいた。
「・・・守らなくちゃ・・・。私の、国だもの」
「・・・負けると、分かっていても?」
ジュピターは何も答えなかった。マーキュリーは数歩ジュピターのそばに近付く。
「・・・ユピテル国に、貴重な鉱山が或る可能性が高いの。つい最近、分かった
ことなんだけれど・・・、その鉱物がヘルメス国は欲していて・・・だから・・
・」
ジュピターはマーキュリーの言葉を遮った。
「・・・聞きたいのはそんなことじゃないよ、マーキュリー」
マーキュリーは唇をきゅっと噛む。
「私が、その鉱山を見付けたの。・・・私が・・・」
「聞きたいのはそんなことじゃない」
ジュピターはもう一度そう繰り返した。
「マーキュリー・・・。私が、好き・・・?」
ジュピターの口から発せられた言葉は、マーキュリーを驚かせた。
「マーキュリー、聞かせて。私が、好き?」
「・・・ええ。ジュピターが、・・・好き・・・」
マーキュリーの答えに、ジュピターは満足そうに微笑んで見せた。
「私も好きだよ、マーキュリー」
そう囁くように言って、マーキュリーを抱き寄せた。昨日となにも変わらない感
覚。
「・・・私が、置き去りにしたの。眠っている貴女に、キスだけを残して」
「え・・・?」
マーキュリーの突然の言葉にジュピターは口をつぐんだ。マーキュリーのその言
葉は、懺悔にも似た響きを持っていた。
「夢じゃ、無いの。・・・遠い昔、私達は月で逢っていたの。貴女の探す主人は
『プリンセスセレニティ』で、私は貴女と同じ使命を持つ仲間だったの。それか
ら『ヴィーナス』、『マーズ』」
「・・・それは、前世の話かい・・・?」
そう自分で言いながら、頭は混乱していく一方だった。馬鹿な、と思いながら、
心の奥で認めている。そんな自分が一番信じられなかった。
「・・・マーキュリーは私を置き去りにしたの?・・・前世で、私を」
「貴女に、想いを告げた夜に、貴女を置き去りにして・・・。そしてもう二度と
逢わなかった」
少し俯いたマーキュリーを、ジュピターは半ば強引に抱き寄せた。胸の奥が痛み
に襲われる。
「貴女は、怒らないのね」
少し冷めたような、声。ジュピターは知っていた。マーキュリーはいつもこうだ。
こんなふうに、悔しいまでに冷たい声を出すとき、マーキュリーの心は何よりも
熱い。懐かしいと感じた、あの気持は錯覚ではなかった。
「何に怒ればいいのか分からないよ」
前世での出来事は、思い出せなかった。ただ、自分のなかで、心だけが引き戻さ
れていく。
「私は、マーキュリーを追いかけてきた。・・・そして、逢えた。それだけで、
いい」
ジュピターの抱き締める力が強くなった。
「・・・ジュピター・・・」
マーキュリーの瞳から涙がこぼれ落ちた。
 あの日、あの月の王国で、好きだと言ってくれたジュピター。
「でも今度は私が、マーキュリーを、置いて行くんだね」
マーキュリーはそのまま、ジュピターの胸へと崩れ落ちるようにつかまった。
「もう・・・約束のキスは・・・しない」
「・・・マーキュリー?」
「私はあの時、もう一度会いたくて・・・貴女に追いかけてきてほしくて・・・。
・・・でも・・・。でも、それは私の・・我侭だから・・・」
ジュピターは困ったように微笑んで、マーキュリーの髪を軽くなぜた。
 ・・・覚えている。何かを思い出しそうになるたびに、痛みをともなって熱く
なったまぶた。
「・・・やっぱり、してよ。約束の、キス。」
ジュピターはそっとマーキュリーから少し身体を離した。濡れたマーキュリーの
瞳が見える。
「・・・ね?」
包み込むようにマーキュリーの頬に添えた両手から、暖かさが伝わる。
「何度でも置き去りにしていいよ。けれどそのたびにキスを残して。そのキスが
ある限り、私は追いかけて行くから。必ず見つけ出すから」
「ジュピター・・・?」
「それが私の、我侭なんだよ・・・?」
そっと腕をまげて抱き締めるようにキスをした。

 たとえこの約束が、永遠の呪縛になっても。
 それは呪縛に守られた、何よりもの望みだから。

「・・・マーキュリーがくれる痛みなら、どんなに辛くても、いいよ」
ジュピターはそっと微笑んだ。なにも変わらない、優しい笑顔で。
「今度会えたら、仲間を捜そう?それから、守るべき、プリンセスを」

 ・・・たとえそれが、この時代ではなかったとしても。

マーキュリーは小さくうなずいた。
「今度は・・・私も貴女を、追いかけるから」


                              END.


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