『Mid Summer Grass In Rain』
                            ひーやん



 ぽつ、ぽつ、ぽつ。
 陽炎の立ち上るアスファルトに雨粒が黒い染みを作っていく。
「みんな、傘の用意はしているのかしら?」
 まだら模様の道路がグレーに統一される頃、亜美はぽつりと呟いて持ってい
た傘を開いた。
 夕立のように激しい降りではなく空も青い。時折強く吹く風と水の匂いは、
この雨が遠くに見える積乱雲の下から運ばれてきたものだと告げていた。
(これならすぐに止みそうね)
 そう判断した亜美は、くるりと傘をひとつまわすと待ち合わせの場所に足を
進めた。
 今日は五人でプールへ泳ぎに行く約束。いつもの癖で約束の時間よりも早く
家を出た亜美だったが、待ち合わせの場所には既にまことの姿があった。
「まこ…」
 声をかけようとした亜美は、しかしその言葉を途中で飲みこんだ。
 まことは雨をさけるように大きな木の幹にもたれかかり、軽く腕組みをして
遠くを見つめている。視線の先には緑の芝生があり、柔らかな雨をうけて鮮や
かなグリーンに輝いている。
 けれどもそれを見つめているまことの瞳は雨に煙るようで、亜美は一瞬彼女
が泣いているのではないかと思った。
「あ、亜美ちゃん」
 やがて視線を移したまことは、そこに亜美がいる事に気付くと一瞬びっくり
したように口を開け、それからにっこりと微笑んで彼女に歩み寄った。
「いつからいたの?」
 そう問いかけるまことに亜美は黙って傘を差し出す。前髪から落ちた水滴が
頬を濡らしているのに気付いたまことは、ありがと、と短く応えると彼女の傘
の中に入った。しばらく間、沈黙の時間が過ぎる。
「どうかした?」
 そう問いかけたまことに、亜美は黙ったまま視線を返した。
 その瞳の中に、幾分の不安と自分の事を気遣ってくれる暖かさを感じたまこ
とは、大した事じゃないよと笑いながら亜美の方に身を寄せた。
「ちょっと……昔の事をね」
 少しばかり傘をずらし、まことは青空から降ってくる雨を見上げる。つられ
て空を見上げた亜美はふと、かつて同じように二人で晴れた空から降る雨を見
上げた事を思い出していた。



「虹を見たいですって? プリンセス、また思いつきでマーキュリーを困らせ
る気ですか」
 四守護神達のくつろぐサロン。そこへにこにこ顔でやってきたプリンセス・
セレニティの言葉に、マーズは呆れたように肩をすくめた。
「思いつきじゃないもん。明日は地球国からエンディミオン様がお見えになら
れるでしょう。この前薔薇の花束を頂いたお返しに、空に虹をかけてお迎えし
たいの」
「そういうのを思いつきって言うんですっ」
「まぁまぁ、マーズもそれくらいにしてあげなよ。どうなのマーキュリー。そ
ういう事ってできるの?」
 プリンセスにお茶を出しがてらマーズとの間に割って入ったジュピターは、
側で笑みを浮かべて話を聞いていたマーキュリーを振り返った。クイーン・セ
レニティの傍らで政務を補佐する一方、マーキュリーはこの都市を維持管理す
る任も負っており、当然気象の管理も彼女の管轄であった。
「そうね…プリンセス、ちょっと空を見ててもらえませんか?」
「うんっ」
 セレニティは大きく頷くと、裾を踏みつけないようにドレスを少しつまみあ
げ、ばたばたとバルコニーへと駆けだして行く。
「エンディミオン様には見せられない姿ね」
「ヴィーナス、人の事は言えなくてよ」
 自らも駆け出したくてうずうずしているヴィーナスに苦笑しつつマーズはゆ
っくり席をたつ。ジュピターとマーキュリーも三人に続いてバルコニーへと向
かった。
 後の世でマーレセレニタスと呼ばれる平原を不可視なエナジーフィールドで
覆ったシルバーミレニアムの空はこの時刻、地球での夕暮れを模して茜色から
藍色へと滑らかなグラデーションを見せていた。
「こんな感じで如何でしょう?」
 わくわく顔のセレニティの視線を受けながら、マーキュリーはクリスタルパ
レスのコンピューターとリンクさせた自らの端末を操作する。最後にポンとキ
ーを押すとの同時にバルコニーの正面の空にきれいな弧を描いた虹が浮かび上
がった。
「わぁ」「綺麗だね」
 ヴィーナスとジュピターが歓声をあげる。ところが肝心のセレニティといえ
ば、少しがっかりしたように顔を曇らせた。
「お気に召さないようですね」
 いち早くそれを察したマーズが問うとセレニティは、綺麗なんだけど…とマ
ーキュリーの方を見ながら言葉を濁らせた。
「どうぞ何でもおっしゃってください」
「うん…あのね、映像じゃなくて、地球の空に見えるような本当の虹が見たい
の」
「それは…」
 マーキュリーは言葉を詰まらせた。
 普段は誰も気にしない事だが、東の空で瞬きはじめた星もゆっくりと流れて
いく雲も、全ては作り出された映像にすぎなかった。無論それはドームの外と
内とでの環境が違いすぎるための措置だったが、嵐どころか雨すらこの世界に
は存在しない。
 かつて銀水晶の力がまだ大きかった頃は月の全土をフィールドで覆い、雨や
風といった自然現象すらもコントロールし得たのが、妖魔七人衆の封印にその
力を割いてより後はこのわずかな世界を維持するのが精一杯となっていた。
「ごめんねマーキュリー。もし出来るならって思ったんだけど…」
 無論その事は月の民であれば誰でも知っている事であり、セレニティもすぐ
に笑顔に戻ると空にかかる虹を見上げた。
「うん、とっても綺麗だよ。ほら、みんなも喜んでる」
 パレス前の広場に目を移すとそこには家路を急ぐ人々が足を止め、珍しい景
色に空を見上げている。その姿にセレニティは満足気に頷いた。
「明日もこんな感じでお願いねマーキュリー。みんなも明日はパーティーに参
加してね。特にマーズ。最近火星宮に籠もりっきりだそうじゃない。たまには
地球国の方々の相手をしてさしあげてよね」
「…御意に。プリンセス」
 マーズは幾分強ばった面もちを隠すかのように頭を垂れた。
「それじゃあ私、そろそろお母さまの所に戻るわ。ごきげんよう」
「おやすみなさいませ、プリンセス」
 笑顔で手を振って去るセレニティを、四人は内心複雑な面もちで見送った。



「ごめんなさいジュピター。こんな時間に呼び出したりして」
 その夜。明かりの落ちたサロンの片隅で、マーキュリーは申し訳なさそうに
ジュピターに謝った。
「いいっていいって。それで、あの空に本物の虹をかける為にあたしは何をす
ればいいんだい?」
「え? 私まだ…」
 何も用件を言わないうちから鷹揚に頷くジュピターに、マーキュリーは目を
ぱちくりさせる。
「言わなくったって分かるよ。プリンセスに本物の虹を見せてあげたいんだろ」
 驚くマーキュリーに、してやったりとばかりにジュピターが微笑む。あの時
見せた笑顔の裏で、実のところセレニティがかなり残念がっていたのを見抜け
ない四守護神ではなかった。そしてまた、マーキュリーがそうと知りつつ無視
できる性格でない事もジュピターは熟知していた。
「でも…いいのかい。こんな時に」
 だが、ジュピターには一つだけ気がかりな事があった。
「ええ、こんな時だからこそプリンセスには心から笑っていてもらいたいの」
 そう答えるマーキュリーの瞳がかすかにふるえる。
 今、シルバーミレニアムと地球国はセレニティの思いとは裏腹にかなりの緊
張状態にあった。かつてないほどの太陽黒点の異常増殖。それに呼応するかの
ように地球国の各地で沸き起こったシルバーミレニアムに対する怨嗟の声。そ
してマーズの得た予知。
 滅びの時が間近にせまっている。
 こんな時期に地球国の王子や高官を招くのも、それを阻止する為の策の1つ
なのだが、その事をプリンセスは知らない。
「本当はこんな事をしている場合じゃないのは分かっているわ。クイーンも、
ヴィーナスやマーズもこの国の未来の為に心を砕いているのに…」
「ああ」
(マーキュリーもね)
 ジュピターは言葉にする代わりにマーキュリーの体をそっと抱きしめた。
 最初の予知以来、四守護神達は持てる全ての力で滅びを回避すべく努力を重
ねてきた。だが日ごとに憔悴の色を濃くしていくマーズの様子を見ていれば、
彼女がどのような未来視を得ているかは口にせずとも明らかだった。
 そしてマーキュリーも。
 たとえわずかであっても望みは捨てていない。だが可能性を信じひたすら前
に向かうジュピターと違い、ブレインとしてのマーキュリーは予想される最悪
の結果からも目をそらす訳にはいかなかった。
「あたしで良ければいつでも協力するから。マーキュリーは自分の思った通り
にすればいいんだよ」
「ありがとう、ジュピター」
 抱きしめられた腕の中でマーキュリーは目尻にたまった涙をぬぐい顔をあげ
る。その顔に浮かんだ心のつかえが取れたような微笑に、ジュピターも暖かな
笑顔を返した。
(そうやって心から笑ってほしい。プリンセスにも、あなたにも)
 いつしか抱きしめる腕に力がこめられていた。ジュピターの瞳の中に彼女の
想いを見てとったマーキュリーの頬が赤みがさす。
 そして。
「…コホン。えー、お取り込み中のところ悪いんだけど」
「二人で抜け駆けはずるいんじゃなくて?」
「ヴィーナス、マーズ!」
 柱の陰から現れた二人の守護神の姿に、マーキュリーとジュピターは弾ける
ような勢いで体を離した。
「水くさいんじゃない? こういう事に誘わないなんて」
「そうそう。それもプリンセスの笑顔がかかってるってのにねー」
「ふ、二人とも聞いてたのかい?」
 わなわなと震えるジュピターの指先が、ヴィーナスとマーズの間を行き来す
る。
「お邪魔しちゃ悪いかなー、とは思ったんだけど」
「マーキュリーもジュピターに『だけ』声をかけるなんて。随分と積極的じゃ
なぁーい」
「そそそ、それはその…」
「ふふっ。まぁ、細かい事は抜きにして作業を始めましょ。急がないと朝まで
時間はないわよ。で、何からやればいいの?」
 耳まで赤くなったマーキュリーに、ヴィーナスはくすくす笑いながら指示を
請うた。



「プリンセスーっ。そろそろお召し替えをしないと風邪をひきますよーっ!」
 庭園の入り口でヴィーナスが叫んでいる。雨に打たれるのも構わずに空に浮
かんだ虹を眺めていたセレニティは、ややあってその声に応えると側にいたマ
ーキュリーに抱きついた。
「ありがとうマーキュリー。私すっごく嬉しい」
「あ、いえ、そんな」
「じゃあヴィーナスが呼んでるから、また後でねー」
 抱きついた時同様の勢いでマーキュリーから離れると、セレニティは大きく
手を振ってヴィーナスの方に駆けていった。 
「良かったねマーキュリー。プリンセスが喜んでくれて」
 セレニティの突然の行為にまだ目を白黒させているマーキュリーにジュピタ
ーが笑いかける。
「ええ。でもこれはみんなのおかげだわ」
「ううん、あたし達の方こそ。マーズが久しぶりに楽しかったって言ってたよ。
勿論あたしもね」
「そういえばマーズは?」
 そう言ってからマーキュリーは、はっと気付いて口に手を当てた。この時間、
マーズは朝の託宣を受けに火星宮に戻ったのだろう。そしてそこで得られる未
来視はこれまで通り明るいものでは無い筈。
 滅びの足音がすぐそこに聞こえるような気がして、マーキュリーはぶるっと
体を震わせた。
「寒い?」
 ジュピターは防水用のケープを翻すと、マーキュリーを体ごとすっぽり包み
込んだ。
「こんなことが出来るのも、これが最後かもしれないわ…」
「さすがに環境システムを変更したりしちゃ、クイーンもいい顔はしないよね」
 マーキュリーの不安には気付かずに、ジュピターは空を見上げた。雨のない
シルバーミレニアムのドームの空には雨雲の画像など用意されていなかった為、
結果的に雨は青空からしとしと降っているように見える。
「でも雨っていいよね。ほらご覧よマーキュリー」
 ジュピターの指さす方向に目を向けたマーキュリーは、そこに広がる光景に
息をのんだ。庭園の花々、そしてその外に広がる緑の芝生や木々が雨のしずく
を受けてキラキラと輝きいていた。
「きれい…」
 まるで夢の中のような景色に、瞬間全ての不安を忘れてマーキュリーは呟い
た。地上と上空の温度差から普段の環境プログラム下では起こるはずのない風
が、二人と花々の間を駆け抜けてざわざわと木々の梢を揺らす。
「いつか……こんな世界に住んでみたいな。自然に雨が降り、風が吹き、陽の
光に緑が輝くような世界に…マーキュリーと」
「そうね……いつか、きっと」
 マーキュリーはジュピターに身を預けるようにして空を見上げた。つられて
顔をあげたジュピターは、夢よ届けと祈りをこめて空に向かって掌をかざした。
 雨を眺める二人に耳に、やがて風に乗ってエンディミオン達の来訪を告げる
鐘の音が聞こえてきた。



「晴れた空から降る雨を見ると、時々あの時の事を思い出すんだ。
マーキュリーと一緒にいた最後の時間を」
「うん」
 まことの呟きに亜美が頷く。
 あの時を最後にジュピターとマーキュリーが二人きりの時間を過ごす事は無
かった。シルバーミレニアムが崩壊し、世界に沈黙が訪れたのはその日の夜の
こと。 
「あの時の未来にいるのね、私たち」
 一陣の風が二人の間を駆け抜ける。つかの間の雨は峠を越えて既に止みかけ
ていた。雲間から姿を覗かせた太陽が、再びじりじりと世界を照りつけだして
いる。
「そうだね」
 まことは空から地上に視線を戻した。まるであの日を再現したかのように、
水を含んだ木々や芝生が緑に輝いている。
「ね、亜美ちゃん。抱きしめていい?」
「……」
 何も答えないのを肯定と受け止めたまことは、傘を持ったままの亜美を体ご
と抱きしめた。
「届いたのかな…」
 あの日、青空に祈った想い。はるかな時を経て、いま亜美と二人でこうして
いられることにまことは不思議な感動を覚えた。
「?」
 まことの言葉に亜美が首をかしげる。
「ずっとね、こうしたかった」
 抱きしめる腕に力がこもる。まことを見つめる亜美の頬が薔薇色に染まり、
彼女の手からはらりと傘が落ちた。
 そして。
「あ、亜美ちゃーん、まこちゃーん!」
「う、うさぎちゃんっっ!」
「お待たせぇ」「二人ともはっやいわねぇ」
「レイちゃん、美奈子ちゃんも!」「いったいいつから……」
 突然の声に弾けるような勢いで体を離した二人は一瞬お互いの顔を見つめ、
やがてどちらからともなく声をあげて笑い出した。




                            END.

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