LOVE IS HERE    AMI VERSION.



 カチカチカチ、と、シャーペンの頭を三回ノックする。小さく折れた芯が、ノート
の上にこぼれた。亜美は少し顔をしかめ、今度は五回ノックした。それでもこぼれ落
ちる芯に、一度ふたを開ける。案の定、シャ−ペンの中の芯は、バラバラになってい
た。砕けた芯を机の端によせ、新しい芯を入れて、ノートを取る作業を再開した。
 いつ、シャーペンの芯が砕けたかは、容易に想像できた。火川神社の石段で、落と
した時だ。
 亜美は、メタリックブルーのシャーペンを見つめた。親指で転がしてみて、初めて、
落とした時についたと思われる、小さな傷に気が付いた。その傷を、指の腹でそっと
さする。
(いけない)
続けられている講義から、気をそらせてしまった自分に気付き、気を取り直して、顔
を上げた。
 それでも、心のどこかで気になっている、あの人。
 あの人の笑顔が、頭から離れない。
 あの、石段に立っていたあの人を、初めて見たあの瞬間の映像が、まるで一枚のポ
ートレートのように、心に残っている。
 あの人の持っていた、一つ一つの映像が、心に、焼きついている。



 いつものことだが、塾が終わると、もうすでに日は落ちていて、辺りは暗くなって
いた。亜美は、テキストやノートの入ったカバンを肩にかけ直すと、いつもと同じ帰
り道を、歩き始めた。
 風が、葉をザワザワと揺らせていた。
 電灯でぼんやりと照らされた道を、まっすぐに歩いていく。
表通りに出ると、土曜の夜ということもあって、街は一段と騒がしかった。人の波の
中を、よけながら歩いていく。
(こんなにたくさん、人はいるのに)
歩く速度を、少し速める。
(あの人は、いない)



「……バカみたい」
自分の考えに、そう呟く。
うつむいて歩きながら、昼間に逢った、彼女のことを思い出した。


 いつもと変わらないはずの日常。どこか物足りなくて、何かに打ち込んでいないと
落ち着かないような、そんな毎日。
 亜美は、木を見上げた。大きな幹。そして、大きく広がる枝と、葉。大きく息を吐
いて、葉ずれの音を聞く。よく、この火川神社には足を運んでいた。神様に祈るわけ
ではなく、ただ素直に、この場所が気にいっていた。街を見下ろせる高台と、お気に
入りの木。亜美は余り人のいない、正午から三時頃を見計らって、ここへ来ていた。
 石段の手前で、ふとした拍子に、胸ポケットに入れていたシャーペンを落とした。
 そのシャーペンを拾い上げたのが、彼女だった。
 合図を送るように軽く掲げた手に、メタリックブルーのシャーペンが、光ったのが
分かった。
「はい。あなたのでしょう?」
そう言って差し出されたシャーペンを受け取り、握り締める。大人びた、それでいて
優しい深緑の瞳に、息が詰まった。
「あの……、ありがとうございました」
ようやく紡ぎだした言葉。作った笑顔がぎこちなさが、自分でも分かる。それでも、
笑い返してくれた、彼女に、今度は自然に笑えた。
 導かれるように、何度か会話を交わす。
「良かったら、……御参りに、付き合ってくれないかな?」
その言葉に、肯定の返事を返した。そんな自分が、少し不思議だった。まだ塾の時間
までには、間がある。断る理由はなかった。
 けれど、頷く理由もなかった。
その場の雰囲気だととか、そんな曖昧なものに、乗せられたような気もしたけれど、
それでも構わなかった。
 「五円玉でいいかなぁ」
ポケットの財布から五円玉を取り出して、さい銭箱に投げ入れる、彼女の様子を、隣
で見ていた。
 チャリンという、小さな音の後に、鈴と、二回手を叩く音が続いた。
「ねえ。ここの神社って、何のご利益があるの?」
「え?」
いきなり話しかけられて、驚く。
「学業とか、縁結びとか。神社って、そういう謂れってあるじゃない?」
「……ごめんなさい。私も知らないんです」
考え込んだ末の答に、思わず吹き出され、どうしていいのか分からなくなる。けれど、
そんな亜美をよそに、彼女は言葉を続ける。
「そっか。そうだよね。あまりそういうことって知らないものだよね」
「ま、いっか」と呟くと、手を合わせた。
 目を閉じて、静かに祈る姿を、ただ見つめていた。
(どんなことを、祈っているんだろう)
想像できなかった。
 亜美は財布から五円玉を取り出すと、さい銭箱にいれた。チャリンと、小さな音が
した。
 そして、隣の彼女と同じ様に、目を閉じて、手を合わせる。

  この人の願いが、叶いますように

 それは、気まぐれにも思える、祈りの言葉だった。
 けれど、思ってしまった。この人の願いが、叶えばいい、と。
 目を開けた時にも、同じ様に、彼女は、静かに祈っていた。その姿を見て、亜美は
顔をまっすぐ前に向ける。視界の端で彼女を見ながら、神様のいる方を、まっすぐに
向いていた。



 しばらくして、彼女が目を開けたことに気付いて、そちらを向く。目が合った瞬間、
妙な照れくささと嬉しさが重なって、なんとなく笑った。
「この辺、初めてなんですか?」
「うん、初めて」
彼女の答に、何と答えていいのか分からずに、視線を泳がせる。
(話してもいいかな)
昔、父親に聞いたおまじないの話を、言いたくなった。笑われないかな、と、いう思
いが、頭をかすめる。嘘か本当かも分からない、子供だましだとは、思うけれど。そ
んなことを考えていると、
「何?」
何か言いたそうだね、と、顔をのぞき込まれた。驚いて、思わず肩をすくめる。顔が
赤くなってしまったのが分かる。ドキドキする心臓の音を耳にしながら、言葉を絞り
出した。
「えっと……、たいした話じゃないんですけど」
「うん?」
「この神社にある木に、おまじないがあるんです」
「おまじない? 何? どんなやつ?」
彼女の明るい表情に、ほっとして、一本の木を指さす。
 二人でその木の下まで歩いていく。彼女がそっと手を伸ばして、木の幹に触れる様
子を、見つめていた。
優しい瞳が、木に触れた自分の手を見つめている。
「この木の葉を手と手の間にはさんで、この木に向かって祈ると願い事が叶う……っ
ていう話なんです。子供だましみたいなものですけど」
「この、木の葉?」
彼女は木を見あげた。ポニーテールの髪が、波のように揺れた。
「やったこと、あるの?」
そう言われて、首を横に振った。
「……やってみる?」
「え?」
「葉っぱ取るなら、登らないとだめなのかなぁ」



まるで子供のような瞳をして、そう呟いた彼女が、本当に登り出しそうに思えて、慌
てて止めた。
「あっ…危ないですよ」
思わず腕をつかむと、彼女は、そっと微笑んで、幹に触れていた手を下ろした。
「……秋になったら、やろうね」
思いも寄らなかった言葉に、亜美は少し驚く。
「落ち葉でも、効力あるよね?」と、小さく舌を出して笑って見せた彼女に、亜美も
笑った。
 そんな優しい時間は、小さな電子音が終わりを告げた。電子音は、塾に間に合うよ
うに、セットしておいた、腕時計のアラームだった。
 別れ際の彼女の笑顔と声は、優しかった。
「頑張ってね」
その言葉に、「はい」と答えて、走り出した。


 家までテキストを取りに帰った。走ってきたことによって乱れた息が、肩を上下さ
せる。ドクンドクンと、心臓の音が低く響く。走る必要なんてなかったのに、訳も無
く走ってしまった。
 口元に手をあてると、熱い息がかかる。
 冷蔵庫から、オレンジジュースを取り出して、コップに注ぐ。コップの中で、緩や
かに波打つオレンジの色を、不思議な気分で見つめていた。
 ジュースを一口、口に含むと、息がようやく落ち着いた。
 耳元で、静かに続く鼓動と、熱い頬。
 気が付くと、あの人のことを思い出していた。


 湯舟の中で手を動かすと、ゆっくりと波ができて、パシャンと、音がした。入浴剤
の、ハーブの香りが、頭をぼんやりとさせる。
「……名前ぐらい、聞いておけば良かった」
かすれるような独り言は、湯気の中へと飲み込まれてゆく。
「やっぱり、年上なのかな……」
 高校生。……もしかしたら、大学生かもしれない。
 大人びた、シャープな優しさを持っていた、顔立ち。
 大きめの綺麗な手や、ウエーブがかった髪。
「もっと、ちゃんと聞いておけば良かった」
 あの瞳が、頭から離れない。
 もう、二度と、逢えないかもしれない。
 そう思うと、胸が痛んだ。
 もう、この街にさえ、いないかもしれない。
 亜美は静かに目を閉じた。そうして、思い出す。
 凛しさと、優しさを同時に持つ、深い緑の瞳。
 落ち着いた、ほっとするような、優しい声。
 あの人の笑顔が、頭から離れない。
「もう、二度と……逢えないかもしれない」
小さく呟いて、ため息をつく。

 「……秋になったら、やろうね」

「……うん」
秋になったら、できると、いい。心の底から、そう思った。
 もう一度、逢いたい。
 あの笑顔を見せてほしかった。
 あの声を聞かせてほしかった。
 ……もう、二度と、逢えないかもしれない。
 滲んだ涙を、ごまかすように、濡れたタオルを顔に押し当てた。

 もう一度、逢いたい。
 ただ、それだけだった。


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