『ETERNAL WIND』









     とても濃い緑の葉に、雪と同じ真っ白な花が咲くんだ。
     タンポポの綿毛みたいに、風で飛ばされるんだけど、
     それがちょうど羽みたいなんだよ。

     ……見に行こうか、一緒に。







 宮殿の一番南に位置する花園は、もともとはマーキュリーの管理下だったが、いつの間
にかジュピターの管理下に置かれていた。薔薇を中心としたその花園は、宮殿の中心部に
ある色とりどりの花で埋め尽くされた花園とは、また違った雰囲気を持っていた。
「ジュピター」
水撤きを終えて、花の様子を見ていたジュピターは、自分を呼ぶ声のする方へ顔を向けた。
「マーキュリー」
ジュピターは花の間をくぐり抜けるように、マーキュリーの方へ足を進める。
「お茶にしましょう? マーズからおいしいハーブティーを貰ったの」
「うん」
ジュピターはマーキュリーの笑顔につられるように、とびきりの笑顔をみせた。



「ヴィーが黄バラが欲しいって言ってたのだけれど」
「黄バラ……かぁ。今、まだ固い蕾なのが多いんだよな。見てみるよ」
ジュピターは入れて貰ったハーブティーのカップを両手で包み込む様に持ったまま、水面
を揺らした。
「あ、そうだ。スイートピーが咲いたんだ。見ていく?」
「ええ」
もちろん、と言いた気にマーキュリーは微笑んで見せる。
 お茶を飲みながら、この花園の前でする他愛ないお喋りは、二人の日課だった。マーズ
の祈祷、ヴィーナスのクイーンとの公務の打ち合わせ、と、ちょうど時間の空いた二人は、
花園の管理を兼ねて穏やかな時間を過ごす。
「今度は何を読んでるの?」
マーキュリーの持っている本を、ジュピターは覗き込む。その本の題名は『植物録』だっ
た。
「何、マーキュリー。何か育てたい花でもあるの?」
ジュピターの問いに、マーキュリーは少し困った様に微笑む。
「そうじゃないけど。この本に載っているのは伝説の花が殆どなの。実際に存在するかど
うか分からない様な……」
「伝説……ね。あ、この花なら見たことあるな」
「え?」
あるページを指差し、何でもないことのように呟いたジュピターの言葉に、マーキュリー
は、思わず声を大きくした。その反応に驚いて、ジュピターが顔を上げる。
「え? だから『雪翼草』だろ? 見たことあるよ」
「見たことって……いったい何処で?」
「子供の頃にね。父親と薬草を取りに行ったとき、何度か。確かに、人の住めないような
雪原に生える花だから、珍しいことは珍しいんだろうけど。まさか伝説の花になってると
は思わなかったな」
驚きの表情のままのマーキュリーを見て、ジュピターは話を続けた。
「とても濃い緑の葉に、雪と同じ真っ白な花が咲くんだ。タンポポの綿毛みたいに、風で
飛ばされるんだけど、それがちょうど羽みたいなんだよ」
「……『雪翼草』っていうのは、花の形からだけで名付けられた訳じゃないのね」
「……見に行こうか、一緒に」
目を輝かせたマーキュリーに、ジュピターはそう言わずにはいられなかった。マーキュリ
ーは予想した通りに、戸惑いと喜びを混じらせたような顔を見せる。
「私が見たのは、もう随分昔だし、行くのもけっこう大変だけど、それだけの暇ができた
ら、行こうよ」
「……うん」
嬉しそうに微笑んだマーキュリーに、ジュピターも微笑みかえした。



          ◆ ◇ ◆



     プリンセスと巡り会える時代に生まれたとき、
     私の今までの記憶は消えるわ。
     月での記憶だけを残してね。







 まっすぐな目で、彼女は私を見つめていた。私がその視線に気付き、彼女と目を合わせ
た時、彼女はそっと笑って見せた。そして、静かな声で名を呼んだ。
「マーキュリー」と。
 それは私の名前ではなかった。けれど、私には分かっていた。私をそう呼ぶことは、彼
女にとって当たり前のことであると。初めて会うはずの彼女が、私のことをそう呼ぶのは
当たり前のことなのだ。
 凛々しくて、どこか暖かいその微笑みを、私は知っている。彼女の名前は知らない。け
れど、呼ぶべき名を、私は知っていた。
「ヴィーナス……」
彼女は満足気に笑った。
「やっと、会えたわね」
その言葉に、私も頷いた。
 私達は、出会っていた。あの前世と呼ばれている、遠い世界で。



「変わってないわね。青い瞳に、青い髪。あ、でも、あの頃より少し長いかしら?」
彼女の言葉に、私は微笑んだ。彼女も、変わってはいない。
 覚えている。あの、月の世界での出来事を。私は、切なさに似た、懐かしさを感じてい
た。こうして、彼女と再び出会ったと言うことは、彼女も間違いなく、あの世界で生涯を
終えたということだ。
「前の時代ではマーズに会ったわ。私はよくマーズに会うの。もうあれで十二回目だった
かしら」
静かな微笑みのままそう口にした彼女に、私は素直に驚きの表情を見せた。
「どうかした?」
「……いえ……。ヴィーナスは、これが初めての転生ではないのね」
苦笑いになってしまった私の笑顔をものともしないように、彼女は笑って見せた。
「あなたは、何度目の転生か覚えている?」
「いいえ。これが初めてだと……」
そう言った私に、彼女は首を振った。
「少なくとも、二回はしているはずよ。やっぱり覚えていないのね」
「え……?」
「だって、私、転生したマーキュリーに出会ったのは三度目だもの」
私は何も言えなくなった。私は、あの月の世界のことしか覚えていなかった。月の世界の
ことだって、かなりあやふやな部分が多い。
「まぁ、覚えていなくても無理はないわよね。実は前の時代に初めてジュピターに会った
んだけれど、ジュピターったら月での記憶もなかったんだから」
呆れたようにそう言った彼女に、思わず吹き出す。
「今のジュピターも、そうだわ」
「この時代のジュピターに会ったの?」
私は頷いた。
「私達、幼なじみなのよ。彼女は本当に何も思い出さないみたい。私の方は十四になった
頃から思い出し始めたんだけど。……一度ね、言ったことがあるの。『月でのことを思い
出さない?』って。そうしたら、『何のことを言っているのか分からないよ』って言われ
たわ」
「そんなこと言われたにしては、全然辛そうじゃないわね、マーキュリー?」
楽しそうにそう言った彼女に、私も「そうね」と笑う。
「月でのことを思い出したとき、正直なところ、辛かったの。毎晩夢に見たわ。どうして、
彼女は思い出さないんだろうって思っていた。もしかして彼女はジュピターではないんだ
ろうか……って」
何も口にしない彼女の顔をちらりと見てから、私は柔らかく深い息を吐いた。
「でも、覚えていたからって、どうなるわけでもないし」
むしろ、覚えていない方が幸せかもしれない。
 私が飲み込んだ言葉を、彼女は知ってか知らずか、大した反応も見せず、私が出した紅
茶に口を付けた。
「ヴィーナスは、プリンセスにあったことはあるの?」
「いいえ。まだ一度も」
「そう……」
「この時代で会うこともないわ」
そう言った彼女の口調はやけに確信に満ちていた。
「会うことはないって……」
「私の記憶が消えていないからよ」
「消えていない……?」
「いうなれば、護る人のいないこの時代を私達が生きているのは、修行みたいなものなの
よ。プリンセスと巡り会える時代に生まれたとき、私の今までの記憶は消えるわ。月での
記憶だけを残してね」
「そんなこと…って…」
「マーズが教えてくれたの。あの月の時代の戦場で」
視線をそらせた彼女の横顔は、どことなく痛みを感じさせた。
「どうして、私だけなのかは、知らないけれど」




          ◆ ◇ ◆



    「忘れない。たとえどれだけの時が過ぎても、
     どんなことが起ころうともずっと、忘れない」

     ……ジュピターの、遺言よ。






 ―─ どうして、こんなことになったんだろう。

 その言葉は、誰の胸にもあった。けれど、誰も、その言葉を口にはしなかった。
 夢だと思いたい気持ちがない訳じゃない。あれが現実じゃなければ、どんなに救われる
だろう。
 ……けれど。
 けれど、現実以外の何物でもない。目の前で、プリンセスは死んだのだ。自分自身で、
その身体に剣を刺した。
 ……エンディミオンを追って、戦士達を置き去りにして。




 ヴィーナスが森に辿り着き、そこで見たものは、そこにあった砦を微かに面影に残す瓦
礫だった。   
「そん……な」
額に手をあて、半ば朦朧とした眼で周りを見渡す。この事態を予測してなかったわけでは
なかった。ブレインであるマーキュリーが言ったように、この森でさえ無事である可能性
は低い、と。自分でも、そう思っていたはずなのに。
 小さな溜め息をつき、ヴィーナスは瓦礫の中へと足を進めた。固い地面の感触が靴の底
から、気持ちが悪い程ストレートに伝わってくる。クイーンと四守護神、ルナ、アルテミ
ス、この砦の指揮官の僅か八人しか知らない、砦の奥の隠し扉。その扉を捜す。もし生き
ているのなら、あそこにいるはず、と、心の中で呟く。その扉を見つけたとき、ヴィーナ
スは祈りにも似た気持ちで、開閉のキーワードを打ち込んだ。カチン、と小さな音がして、
鍵がはずれたのが分かった。開閉機能が無事だったことに、ヴィーナスはほっとする。
(ここに、いてくれなくてもいい)
静かな、それでいて素早い動きで、扉の中へ身体を滑り込ませ、鍵を閉めた。
(すでに、ほかの場所へ行っていても、何か痕跡を残しておいてくれれば)
何らかの道標が欲しかった。ただ、それだけだった。
 扉のすぐそばに置かれているはずのランプは、そこにはなかった。
「……マーキュリー。マーズ」
囁くような声は、それでも響き、暗闇の中へ吸い込まれていく。
「クイーン。アルテミス。ルナ」
一通りの名を呼び終えても、返事はなかった。ヴィーナスは深い溜め息をつくと、額のテ
ィアラに手を当てた。疲れ果てているとはいえ、灯りの代わりぐらいになるパワーは残っ
ている。
「ヴィーナスパ……」
ティアラの宝石から光を発せさせようと出した声を、ヴィーナスは途中で止めた。扉は、
ひとつの部屋と、森のはずれの洞窟に通じている地下道の入口。その部屋の扉から、一筋
の灯りが漏れていた。誰かがランプを灯していたのだ。ヴィーナスはその部屋へ駆け寄っ
た。そしてその扉を開ける。
 そこにいたのは、マーキュリーだった。ヴィーナスの姿に気付いて、顔を上げる。
「ヴィー……?」
吐息のように呟かれた声に、思わずヴィーナスは嬉しそうに目を細める。
「……マーキュリー!」
ヴィーナスは扉を閉めると、壁にもたれかかって腰掛けているマーキュリーのそばへと、
足を進めた。マーキュリーの目の前で、ヴィーナスはくす、と笑う。
「……私、そんなに強くないわね。……ほっとしてるわ、あなたがいてくれて」
その言葉にマーキュリーも微笑んだ。この場所で起こった戦いが、マーキュリー達がここ
に辿り着いてからだということが容易に分かった。薄暗いこの部屋でも、マーキュリーの
決して浅くない傷が認められる。ヴィーナスは、わざとその事に触れずに会話を続けた。
「他の人は……?」
「クイーンは、地下道を抜けたわ。アルテミスとルナを、連れて」
「……抜けて、何処へ?」
「逆戻り、よ。洞窟から、折を見て、宮殿へ」
そう、とヴィーナスは無表情のままうなずく。もうすでに、逃げられる場所はない。
「マーズは?」
その人の名を聞いて、マーキュリーの瞳の陰りが増した。
「……死んだわ」
予想していた言葉に、ヴィーナスは微動だにせずに続きの言葉を待った。
「この隠し扉が、敵に見つかったものだから、マーズがその敵を追いかけていったの。し
ばらくしてから私が外に出て……敵と、マーズの亡骸を見つけたわ」
「……そう」
マーキュリーは、そっとうずくまるように、うつむいた。そしてそれに反応するように、
ヴィーナスはマーキュリーの身体を抱き締めた。パワーを取り戻そうとしているのか、そ
れとも、戦闘コスチュームを維持するだけのパワーすら残っていないのか、マーキュリー
はすでに変身を解いていた。そのマーキュリーにすがりつくように、ヴィーナスは力を込
めた。
「……行きましょう、マーキュリー……。クイーンを守りに……」
それは、意志でも何でもない、ただ唯一残された道標だった。
「ヴィーナス……」
マーキュリーは静かに首を振った。
「……私は、行かないわ」
その言葉に、ヴィーナスは顔を上げる。                
「ここが、敵に見つかった可能性は高いの。私は……、あなたが行った後、ここを爆破す
る」
「……マーキュリー」
「地下道が見つかったら、困るでしょう?」
穏やかな微笑みに、ヴィーナスは何も言えなくなる。ヴィーナスはマーキュリーの瞳を真
正面から見つめた。
「……マーキュリー。よく、聞いて」
マーキュリーの腕をつかむヴィーナスの手がかすかに震えたと同時に、マーキュリーの身
体がビク、と、強張る。
「『忘れない。たとえどれだけの時が過ぎても、どんなことが起ころうともずっと、忘れ
ない』」
マーキュリーの心に、小さな痛みが起こる。
「……ジュピターの、遺言よ」
「……」
「地雷を踏んで……」
「ヴィー」
マーキュリーはヴィーナスの言葉を遮った。
「……聞いて。ジュピターは地雷を踏んだことに気付いて」
マーキュリーは首を振る。
「……わかるわ。ジュピターが地雷を踏んだのなら、そこで別行動になったのでしょう?」
ヴィーナスのうなづきに、マーキュリーは笑顔を作る。
「私には、よく理解できないけれど、ジュピターはそう言っていたから。協力はするし、
助け合いもするけど、足の引っ張りあいをするぐらいなら、見捨てるって。……不思議ね。
そう聞いた時には、冷たいなんて思ったけれど、今は羨ましいぐらい」
「……」
「そのジュピターの言葉を伝えてくれる事が、あなたにとって、ジュピターへの、最大の
優しさなのね」
ヴィーナスは軽く溜め息をついた。
「……私が、あなたにしてあげられる事は、これだけね」
そう呟いて、ヴィーナスはゆっくりと立ち上がった。
「……行くわ」
このまま、この森に置き去りにする事が、マーキュリーへの、最後の救い。
 マーキュリーの微かな頷きを見届けると、ヴィーナスはふっと笑みを見せて、背を向け
た。




 地下道を走りながら、ヴィーナスは何度もかけ戻りたい衝動に駆られた。けれどそれを
振りきって走り続ける。
 すでに、何の為に戦おうとしているのか分からなかった。
 もう国は滅んだも同然だ。クイーンが生きているからといって、国民がいない国が存在
できるはずもない。
(……もしも、あの人が生きていたら)
 もしも、今生き残っているのがクイーンではなく、あの人だったのなら、迷いなど生じ
なかった。
 国よりも、何よりも、あの人がすべてだった。
   ……何の為に。
けれど、ヴィーナスの心には、その答を出すだけのものは残っていなかった。
 あの人ープリンセスを失った時に、その殆どを、失ってしまったのだから。




 ヴィーナスが、ようやく辿り着いた宮殿で、クンツァイトを前にした時、これが最後の
戦いだと感じた。剣を抜き、その剣を交合わせたことは、覚えている。その後、記憶に残
っているのは、すべてを包み込む眩しい光だった。
 もう動くことのない身体で、その光の眩しさだけを、ほんの一瞬、感じた気がした。

 それが、シルバーニレニアムの、終結だった。





          ◆ ◇ ◆




     ……これから、あなたは、どこに行くの?









 ティーカップに入れた紅茶を一杯飲み終わると、彼女は、ふうと大きく息をついた。
「そろそろ行くわ。ごちそうさま」
「もう? もう少ししたらジュピターが帰って……」
そう言った私に、ふっと笑顔を見せる。その笑顔になんとなく何も言えなくなった。
 もう一度「ごちそうさま」と言って立ち上がった彼女に合わせて、私も立ち上がった。
「……これから、あなたは、どこに行くの?」
― プリンセスはいないとわかっている、この世界のなかで。
「この時代のマーズに、まだ逢ってないのよ」
彼女は軽くウインクしてみせる。
「東の国に腕のいい占い師がいるって噂を耳にしたの。東に向かってみるわ」
「……マーズかどうかもわからないのに?」
「かまわないわよ、そんなこと」
そう言った彼女の笑顔が、やけに自信ありげに見えた。まるで、噂の相手がマーズだと確
信しているかのように。それとも、噂に関係なく、マーズといつか出逢えることを知って
いるのか。
「じゃあ、またね」
「ええ」
すっと目の前に手が出された。
「一応言っておくわ。『ジュピターによろしく』」
「ええ」
私は微笑んで、彼女の手を握り返した。






          ◆ ◇ ◆



     約束、した。いつかあの花を見に行こう、と。

     この戦いが、終わったら。
     終わったら、あの花を見に行こう。








 そこは悲しい程の、廃墟だった。確かに数日前までは賑やかな街だったのに、今では1
km 先まで楽に見渡せる。その光景をみて、ジュピターが何も言わないように、ヴィーナ
スも何も言わなかった。
 ふぅ、とジュピターが息を付く。疲れで、ぼやけかけた頭を目覚めさせようと、首を降
る。まともに話すことさえ億劫になっていた。疲れていたのはヴィーナスも同じだった。
二人は囮として敵陣を駆け抜け、ここまでやって来たのだ。もちろん無傷ではいられなか
ったが、治療が必要な程の怪我もなかったのは、嬉しい誤算に他ならない。
「指揮をしてた奴を倒せなかったのはちょっと失敗だったな」
「それは仕方ないわ。これからのことを考えましょう」
そう言いながら先へ進もうとしたヴィーナスの足が止まった。ジュピターが動こうとしな
い。
「ジュピター?」
「……先に、行っていてくれ」
突然の言葉にヴィーナスは顔をしかめる。ジュピターは今迄走って来た方角の方に身体を
向けたまま、ピクリとも動こうとしない。
「ジュピター?」
もう一度ヴィーナスがジュピターの名を呼ぶ。さっきの疑問だけとは違う、苛立ちの混ざ
った声。
「……地雷を踏んだらしい」
ジュピターはそう言って、左足を動かさないようにしゃがみ込む。そして左足の回りの土
を削り取った。そこには鈍い光を持つ、爆発物が現われた。地球国の埋めつけた地雷が、
まだ残っていたらしい。
「とんだヘマだな。ここから先は一緒には行けない」
ジュピターは立ち上がる。ヴィーナスは「そうね」と小さく呟いた。
「逃れられそう?」
「分からないな。ジャンプしてー…、運が良ければ生きていられるかも、ってところかな」
苦笑いをするジュピターに、ヴィーナスは同じ様に笑って見せた。
 きっと彼女は来ない。
それは確信だった。“近い憶測”とさえ決して言えない、確信。そしてその事実を取り乱
すことなく受け止められる自分が存る。それは驚くことでも何でもなかった。二人を繋い
でいたのは、そういった絆。だからこそジュピターは ― もちろんヴィーナスも ― 戦い
のパートナーとして、互いを選んだ。
「……何か、伝えたいことはある?」
不意に出た、遺言を聞き出す自分の言葉に、ヴィーナスは少し驚きを覚える。それはジュ
ピターも同じだった。素直に驚きを表情に出した。
「……何だ? 随分、優しいじゃないか」
それは皮肉でも何でもない。もしここにマーキュリーやプリンセスがいたなら怒り出した
に違いない。けれど、ヴィーナスは眉をしかめると「只の気まぐれよ」と、呟いて見せた。
ジュピターはその言葉に微笑んだ。
(もう、あの人はいないのだから)
「……じゃあ……」
不意にジュピターの目が遠くを見る。穏やかな、声。
「……『忘れないで』って……。『ずっと、忘れないで』……って」
「……」
「……あ。……そんなこと言わなくても、忘れないか」
クス、とジュピターは笑った。そっとかきあげた前髪の下の瞳は、戦士としての光を和ら
げていた。まだ平和だった頃、宮殿の中で見せていた穏やかな優しい瞳。
「……ヴィー、こう伝えて。『忘れない』…って。『たとえどれだけの時が過ぎても、ど
んなことが起ころうともずっと、忘れない』」
「……うん」
ヴィーナスは背を向けた。
「ここは必ずくい止める。……後は、頼んだよ」
「分かったわ」
ヴィーナスは、北東に向かって走り出した。




 ……静かだ。
 身体の奥から、トクン、トクンという規則的な、自分の鼓動が聞こえる。風が騒ぎ始め
たのが分かった。敵がやって来たと、何かが告げる。ジュピターはすっと剣を構えた。廃
墟となった街の向こうに、土煙が見え出した。
(ー来た)
自分の鼓動が大きくなる。
(よくー考えろ)
自分に言い聞かす。ジュピターの瞳には、戦士としての冷たいまでの輝きが戻る。土煙が
人の形を浮き出すのに、そう時間はかからなかった。
「ジュピターだ<」
ジュピターはキュッと口をつぐんだ。左足の感覚を確かめる。その場を動かない相手に飛
び掛かってきた最初の一人を、ジュピターは上半身だけの素早い動きで切り捨てた。次々
と襲い掛ってくる狂気を含んだ兵士を、ただ切り捨てていく。
(ーまだだ)
返り血を全身に浴びながら、ジュピターは自分のなかで問答を繰り返す。
(こいつらを率いている奴をー)
周りに、いくつの死体が転がった頃だろうか、ジュピターの視界に、一人の男の姿が飛び
込んできた。
(ーあいつだ<)
自分のなかの戦士としての心が叫ぶ。
(来い!)
ウェーブのかかった茶色い髪。
「……ネフライト」
ジュピターはそっと、その人物の名を呟く。
「……スパークリング・ワイド…プレッシャー!!」
左足を止めたまま、右手にためた力で纏わり付く兵士を散らす。
(ー来い< ……もう少し、あと少しだ!)
「……貴様!」
ネフライトの声が届く。苛立ちや憎悪や、やり切れ無さが、そのたった一言に込めらてい
た。ネフライトが瞳を光らせれば光らせるほど、ジュピターの心は落ち着いていった。
「……死んで貰うよ。ネフライト」
ジュピターは穏やかに微笑むと、剣を捨てた。足元にカランと乾いた音を立て剣はそこ
に横たわった。
「……?」
まるで時間が止まっているようだ、と思う。困惑したネフライトの姿がやけに非現実的に
見える。
(……マーキュリー……)
ジュピターは真直に前を見詰める。
「……約束、守れなかったら、ごめん……」
……あの日。あの日に交わした小さな約束。
「ずっと……愛してる」
今までも。今、この時も。
 ジュピターの左足が、ゆっくりと、地面から離れた。





 遠くで爆発音が鳴響いた。
 ヴィーナスは振り返ることも、立ち止まることもなく、ただ、走り続けた。





 「……っ」
左足と左肩の付け根が熱かった。目の前に広がる空が、やけに近く、透き通って見えた。
「……生きて、るのかな……?」
誰に問うわけでもなく、そう呟いてみる。焦げ臭い火薬の臭いがする。どうやらまだ天国
にいるわけではないらしい、と、自嘲気味にジュピターは笑った。地雷に吹き飛ばされた
にしては運がいい。
(……マーキュリー)
ジュピターは静かに目を閉じた。
(会いたいな)
 約束、した。いつかあの花を見に行こう、と。
「もうちょっと……、動けそうに、ないなぁ……」
全身が怠さを訴えている。右腕を動かそうとしたが、上手く身体がいうことをきかず、一
瞬の痙攣のように、指が動いただけだった。
(今、敵が来たら、一発でやられるなぁ)
ジュピターは、微かに笑った。
(……少し休んだら、向かうから)
 あの森へ。……マーキュリー達が待つ、あの森の砦へ。
 この戦いが、終わったら。
 終わったら、あの花を見に行こう。
 あの森が、焼けていないと、いいけれど。
「……約束、したんだ……」
地を這う風の音が、耳に届く。次第に、意識が遠ざかっていくのが、自分自身でもわかっ
た。ジュピターは、眠りに誘われているかのように目を閉じた。




          ◆ ◇ ◆



     そばに、いて。









 「……どうかした?」
心配そうに、リーフはそっと私の額に手の平を当てた。私は苦笑いをしてその手を離す。
「何だか変だよ、今日のセイラ。……何かあった?」
その言葉に、私は首を振る。
「ほんとに?」
「うん。何でもない」
「ならいいけど……」
そう言いつつも心配気なリーフに、思わず微笑んだ。
 心配症なところは、ジュピターと同じ。
 柔らかいウエーブを描く髪も、その色も。深いグリーンの瞳も、「ジュピター」と呼ば
れていたあの時代と何も変わっていないけれど。
「……セイラ?」
ふいにリーフが不安げに手を伸ばしてきた。その時、初めて自分が泣いていることに気付
いた。
「……」
滴がぽたぽたと床に落ちていく。
「セイラ?」
涙は止まらなかった。うろたえたリーフが自分の服の袖口を掴んで、私の頬を包み込む。
「セイラ」
優しい声が、ますます私を記憶の海に沈めていった。
「……リーフ……」
本当は、「ジュピター」と呼びたかった。けれど、私の中の何かがそれを拒んでいた。
「マーキュリー」と呼ばれたいと思いながら、今「セイラ」と呼ばれることに暖かい安心
感を感じている。
 多分、私は怖がっていた。今、こうして生まれて来たことを、プリンセスに出逢い、戦
士に戻る為の途中経過にしてしまうことを。
 ジュピターに、逢いたいと願いながら。
「リーフ……」
「……何?」
「……そばに、いて……」
リーフはきょとんとした顔を見せたが、すぐに笑って頷いた。
「うん……。ずっと、そばにいるよ」
そっと目元に優しいキスを受けて、私は目を閉じた。


















     遠い記憶。遠い約束。

     ……たとえあなたが覚えていなくても。





感想などありましたらこちらまで heyan@po2.nsknet.or.jp

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